読書の記録(2024年3月)

デュポール 奏法と練習曲
「読む」というよりは「弾く」の比重が大きいが。
なかなかに過酷な練習曲。だが、音楽的であるので、取り組む意欲が保てる。また、指番号初めとして楽譜としての校訂が演奏・研究の専門家によってなされているので、迷うことなく安心して練習取り組むことができる。
楽観的に見ると、左手(左腕・左肩を含めたシステム)が改善され、普段弾く他の曲でも「小指が離れているために遅れる」症状が改善されつつあるように感じる。

ステパンチコヴォ村とその住人たち ドストエフスキー
ドストエフスキー比較的初期の作品。ロシアのウクライナ侵攻以来、ロシアものを読む気になれなかっていたが、以前買ったものとて読む。
この書は確かに色濃くドストエフスキーである。道化だったものが居直って傲慢極まりない人間、高潔であるのに優柔不断な人間、卑屈を装う人間などなど。
なかなか面白かった。読んでよかった。凡百の結論にしないところがドストエフスキーらしくあるだろう。
話者の立場上、ナースチェンカをあまり描写できないのは仕方がないのだが、登場人物のバランスとしては少々物足りない(アンナ・カレーニナのキチイよりは人間らしさもあるけれど)。
(戦争と重ね合わせて考えると、こうした有象無象を「母なるロシア」が昇華してくれるというような甘ったれた理想主義がアカン政治をのさばらせる、とも思われてくる。他国のことを言えた義理でもないし、この一国限りのことでもないのが、さらに悲しくあるのだが)。
読み始めた時、あれこんな小説だっけと思ったが、それはゴーゴリのディカーニカ近郊夜話と勘違いしていた。これを読み始めた頃、ウクライナ侵攻があり、以降読まずにいたのだった。

銀河英雄伝説 第1巻 田中芳樹
アニメと並行して読んでみた。アニメは原作を概ねよくなぞっている。表現の粗密あるいは言及する時間配分なども含めて、そのように感じる。
文章はよくこなれており、さらに、経過が速い。細かな描写をあまりしない。そういう意味では「重厚な文学」より「軽い小説(ライトノベル)」に近いのかも知れない。登場人物も多少類型的である、その意味では「ライト」と感じる。
一方、描こうとしている世界の大きさ・深さ・複雑さはどうやら重量級でありそうだ。
アジモフの「ファウンデーション」においても、登場人物が複雑精妙であるかというと、類型に近いが、それに近い視野・解像度であると感じる。
ただし、アジモフのように「SF(科学を基盤に置いた小説)」ではなく、スペース・オペラに近いものと思う。これを「オペラ」と感じないのは、描こうとしている世界の大きさ等によってそう感じる。
私なりに(1巻しか読まずに)この小説を短く表現すると、『未来の宇宙を舞台として、群れとしての人間の愚かさを描く小説』である。
現在の国内外の政治状況とも重ね合わせて考えたくなるような、たいへん興味深い小説であるが、私の趣味「遠くへ行くこと」にはそぐわないため、一旦ここで打ち切りとする。と言っては見るが、読みやすくもあり、他の読みたい本が切れた時のバックアップとしては非常に貴重である。

捜査・浴槽で発見された手記 スタニスワフ・レム
まずは「捜査」から読み始める。早川文庫で一度読んでいるが、この作品はなかなか面白いのだ。
そもそも、ポーランドのSF作家がなぜスコットランドヤードを舞台に推理小説(風のもの)を書かねばならなかったのか。

以下、例に寄って、言葉遣いについて考えさせられたもの。
 p-29 湿気が飽満した → 湿気が充満した の方が一般的な表現か?

 p-31 「連れのいない、赤い鍔付き帽を被った女性が、蝋のような微笑みを浮かべながら舞踏会用ドレスを披露している、マネキン人形たちを眺めていた。」は悪文だと思う。「女性が・・・眺めていた」という主述関係が非常に読み取りにくい。「披露している、マネキン人形」と「、」で切っているのも良くない。「女性が・・微笑みを浮かべながら」という解釈を一旦してしまう。
「蝋のような微笑みを浮かべながら舞踏会用ドレスを披露しているマネキン人形たちを、赤い鍔付き帽を被った女性がひとりで眺めていた。」くらいが普通の表現ではないか。
あるいは、「マネキン人形たちが蝋のような微笑みを浮かべて舞踏会用ドレスを披露しているのを、赤い鍔付き帽を被った女性がひとりで眺めていた。」など。
「ひとりで」ではなく「連れがいない」としたいならば、「赤い鍔付き帽を被った女性が連れもなく眺めていた。」とするのも一案。
レム自身の作文がいささか冗長で難解なのはそのとおりだが、ここまで読みにくい日本語にすることはないと、私は思う。

p-35 「もう着いたか。それはよかった。ついてきてください」
 丁寧語と常体が並ぶと、日本人読者としては奇異に感じる。突然違う相手に向かって話しかけているか、あるいは、聞き手との関係が突然変化したか(変装を解く二十面相とか)。

青年茂吉 北杜夫
読み始めた。北杜夫にとって最初に憧れた文学者が父斉藤茂吉であったとは。彼は長く、トーマス・マンへのあこがれを語っており、そのことに嘘はないと思うが、同じように父へのあこがれもあったのだろう。親族であったからとて良い伝記・評伝が描けるとは限らないが、長く文学に携わってきた北杜夫ならではの視点もあり、面白く読めている。

鉄道ピクトリアル オハ35系特集
戦前・戦後に渡って製造された客車。様々な形態・様々な改造がなされており、興味深い。
客車列車を見に、大井川鐵道に訪れたいものである。

●雑感

林臥園漂舟という号を見かける。
フィリピンのリンガエンと縁がありそうに思うが、昭和3年=1928年(以前)から名乗っているようなので、まだこの地域と日本の縁は薄いように思われる。てっきり、太平洋戦争中リンガエン湾で乗っていた船を沈められ、小舟で漂流した・・・と想像したのだが、年代が合わない。

チェルシー終売の噂。
明治(製菓)が販売している飴チェルシー。だが、私は英国産だったことを覚えている。「バタースカッチ」は本当に油っこくてベタベタしていた。とても普通には食べられないほどくどかった(でも美味しかった)。
明治製菓が売るようになった時、「こんなさっぱりしちまった」と思った。まあ、不味くなったということではないが、当たり前の丸い味になったのは少々残念だった。 一方、ダイジェスティヴビスケットを明治が売るようになった時は、「不味い」と思った。 なんとなう、同じ材料を揃えられないのに、形式的に同じレシピを適用してしまった体であるように感じた。確かに、全粒粉に塩を入れたクッキーにチョコレートをかければこんな味になるが、本物はもっと一体感があったよな、何考えているんだ明治製菓、試作品食べたのか明治製菓、と思った。
明治(製菓)のチョコレートは本当に上質で美味しいと思うが、ビスケットなどの相手とどうするか、はまた別問題なのかと思った。
そういう点では、チョコレートそのものは大したことないが、マシュマロとの合体で印象を残す森永エンゼルパイの方が完成度がずっと高い。(でも、エゼルパイも一時はマシュマロ抜きになったりして、不味くなったことがある。試作品食べたのか森永・・・)。

ホットプレートにチーズ(融けないやつ)を載せて焼くと、おいしい。
上はとろとろ、下はかりかりになるまで我慢する。
フランスパンで受けても、茹でじゃがいもと食べてもその他モロモロなんでもよろしい。
焼肉のついでに隅っこで試せば楽しいであろう。

先日、電車を降りる時、ドア窓に写った女性の足がとても小さく見えた。
思わず振り返って見てしまった。
座っているママさんの膝に娘さんが頭を寄せて寝ていた。お二人の上着が同色だったので、お子さんの小さい足が、お母さんの足と見えていたのだった。
(急に振り返ってごめんなさい)。

先般、ある大きな駅で、外国の方にコインロッカーの在処を尋ねられた。その場にあった案内板を見て、「あっち」とお知らせしたけれど、工事の多い駅とて本当にあったかどうか確信がない。わからんちんは人にものを教えてはイカン、と反省。

先日、停車中の電車内で、何かモーターが回るような音が聞こえてきた。
昔の電車は、空気圧縮機が運転とは関係なく突然周りだし、突然止まったりしたので、そういうものかと思ったが、電車が発車した後も止まるようすがない。
次の駅で乗降があり、音源の位置が私の正面から右前に移動したことが判った。その方向を見るに、坊やを抱いたパパさんのリュックが音源である。
パパさんにそれを申し上げると、いささか思い当たる節がなさそうであったが、ママさんが「プラレール!」と言ってリュックを開き、走行しようと足掻いている新幹線を取り出し、スイッチを切った。
一件落着。御礼まで言って頂いたけれど、私は音源が判っただけで十分嬉しかった。
(こんなことは迷惑のうちに入らないので、ママさんパパさんは一切気にする必要はありません)。

電車の中で、ずっと携帯電話を耳に当てているご婦人あり。結局三十分以上、降車するまでそうしていた。
うるさくもあり、謎でもあり、気になった。ひとこと言うべきか考えてしまうのも煩わしかった。
かすかに聞こえる音声から「意味」を汲み取ろうと脳が空転するとイライラしますな。
あーゆーのはアカン。無神経な行動に慣れてしまった方なのであろう。

National Arab Orchestra の演奏
https://www.youtube.com/watch?v=piNFUb2Suv4
どうやら、聴衆みなが知っている曲を弾いているらしい。なんとなうテレビドラマの主題歌や流行した歌ではないかと思ったりする。そしてまた、多くは西洋楽器だが、アラブ楽器も相応数入っている。我々の「歌謡曲」「演歌」と同じように、民族性と商業性から成り立った音楽なのだろうか。
西洋楽器の人たちは、どういう音楽教育を受けているのだろう。アラブ音楽の教本があるのなら(読める文字で書かれているなら)読みたい。や、GoogleLenzで翻訳までしてくれる世の中なのだから、「読める文字」の範囲は広げて考えてもよいのか?云々

Nagoya Shostakovich Orchestra なるものを発見。
名古屋ブルックナー管弦楽団もあり、名古屋マーラー音楽祭で、アマチュア・オーケストラが分担して全交響曲演奏をしたり、名古屋の音楽家は熱い!
非常に野暮なことを言うと、日本で数少ない儲かっている企業であるトヨタ自動車(と系列企業)が存在するがゆえに、多くの人々が愛知県に集まっており、その中にオーケストラで音楽ができる人間が相応数いる、ということであろう。トヨタが儲かれば、系列も儲かり、周辺の金融・保険、不動産、建築、食品、流通販売なども潤う。そこにもオーケストラで音楽ができる人間が相応数集まっている。ということであろう。
さらに付け加えるべきなのは、徳川宗春以来の芸事奨励に起源を持つのか、名古屋は芸事が盛んであり、鈴木ヴァイオリン(製造および教育)の拠点でもあって、ヴァイオリン奏者の層が厚いこともあるだろう。 さらに突き詰めると、愛知県あたりはアルコール分解酵素の能力が低いらしく、それ故、酒など飲まず、お茶・お花その他芸事に真面目に取り組む気風がある、というのも付け加えたい。

ついでに、愛知県立岡崎高校が学業優秀である、というのもトヨタが儲かっており、それによって、社員・関連会社・取引先に優秀な人材が集まり、その子弟の進学先になっているからだと、私は解釈している(教員がさほど優秀ということではないだろう、と解釈している)。

偶々、「ファイアーストーム」について興味がありWikipediaを覗いた。
「火災旋風」は恐ろしいが「ストーム(学生生活)」は北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」で見たやつで、こちらに興味がある。
一橋・津田塾のそれは有名だが、少なくとも近年まで門を飛び越えていたとは懐古主義者としては欣快至極である。
https://pg.tsuda.ac.jp/visiting/hitotsudashi.html

『Big Two-hearted River』
ヘミングウェイの短編。川原にテントを張り、鱒を釣り、釣った鱒をフライパンで焼いて食べる。その程度のお話で何の事件もないけれど、空漠とした主人公の心情がそこはかとなく知れ、心に残る作品である。
「心がふたつある」のか、「心臓がふたつある」のか、翻訳には大変悩ましいであろう。おそらくは両義的であり、固有名詞でもあるらしいのでさらに。
ともあれ、「ふたつある心」とは何か、大変気になるが、それらしい描写は作品中になかったと記憶する。

おしもん・おしもち 「おしもん」は、米粉を熱湯で練って型にはめ、取り出したものに色粉をつけて彩る、桃の節句のお雛様に供えられる郷土菓子である。
(農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oshimon_aichi.html)
小学校に上がるか上がらぬかの頃、友人宅で、「おしもち」作りを手伝わせてもらった。練った米粉を型にはめ、紅と緑を塗る。蒸した後に、少し炙って砂糖醤油を塗って食べさせてもらったような記憶がある。
思えば、地域のことを何も知らない私達家族を慮って、そうした風習や行事を教えて下さったのだと思う。こうした暖かい人々に囲まれて、私の鳴海生活は本当に楽しかった。

蕎麦
蕎麦は食べて当たり前で、好きとか嫌いというものではない。この点、米の飯と同じだと思ってきた。
とは言え、名古屋で長く暮らし、うどん屋はあっても蕎麦屋は乏しい。両親はうどん屋で蕎麦を頼み続け、挙句はうどん屋が「そばつゆを東京風に寄せてみたのですが、食べて頂けますか」と言わしめるほど、鞏固な蕎麦派であった。うどんは風邪を引いた時、鍋物の〆に食べることはあっても、日常の食べ物ではない。それが両親の信念であった。
私は、このうどん屋さんで、うどんを食べるようになったのだが、両親とともに訪れてうどんを頼むと、母は「本当にうどんで良いの」「本当にうどんを食べるの」と三度問い、私がうどんを食べていると「本当にうどんを食べるのね」と感嘆していた。
徹底した蕎麦食い、であった。
私も週に一度・二度蕎麦を食べないと落ち着かない。だが、蕎麦好きか、と言われるとそうも思わない。食べ習わしているだけである。それに、両親もそうであったけれど、高級蕎麦店を探して行こうという気があまりない。東京の下町にある町の蕎麦屋で「冷やしたぬき蕎麦」なんかを食べるのが良く 、目くじら立てて至高の蕎麦を求めるというのは性に合わないのである。

コンピュータの値段は大層上がった。
貧しくなりつつある日本において、今後、さらに中古PCの利用が進むのだろうなあ、と予想。
昨年久しぶりにUbuntu再インストールをしたが、以前使っていたHPマシンが壊れたためである。もう10年近く使っていたPCなので、誠に仕方がない。
動作しなくなる直前、画面表示が崩れるようになった。デジタルで崩れる感じである。その後、全く起動しなくなった。箱を開けると、コンデンサーがひとつ爆ぜていた。失われて困るのはHDDにあるデータであり、それ以外は壊れても仕方がないと思っているので、コンデンサーが壊れるだけで済ませたPCには感謝しかない。
これからはOS代・ソフト代をケチってUbuntu(Linux)という人が増えるかもしれない。

まつや とり野菜みそ
https://www.toriyasaimiso.jp/special/
漫画家東山アキ子氏が宮崎県出身でありながら、金沢の鍋用調味料「とり野菜みそ」に取り憑かれた経緯と、奇な縁に基づいて宣伝に関わるようになったかの、楽しいお話。
ネタバレはよろしくないが、水に材料を入れて、水から煮る、というのは盲点であった。説明書をよく読まねば。

雪崩からの生還
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6513988.html
貴重な証言。10人中9人までが雪崩に埋まりつつも、よくぞ全員ご無事であった。また、生々しくも貴重な証言を残して下さった。
私は山に登らないし、まして雪山には行かない。とは言え、人間いつなにがあるかわからぬものだ。こういうものは心して読んでおこう。

自由民主党の皆さん、悪質にしてグダグダだね。(野党が素晴らしいとも言っていない)。
この悪質かつグダグダな様子を見ていると、次なるテロリズムが生じないか心配になる。
議員の皆さんは政局だけしか考えていないようなので、そういう世間の雰囲気なりに触れ、世間のことを考える能力・習慣は失って久しいのであろう。
私はほとんど中小企業にしか居たことがないけれど、小さい会社の良いところは「内輪揉めしている場合ではない」ことが身に沁みて判っている人が多いことだろう。大きくなるにつれ、安穏として「会社は潰れない」前提でものを考える人が増える。まあ、近年の「経営者目線でものを考えよ」と現場に無理無体押し付けるのもどうかと思うが、自民党(に限らずあらゆる政党)の皆さんは、なぜ政治家という商売があるのかよく考えるべきではないかな。

Culture eats strategy for breakfast.文化の前に戦略など無力だ。そしてまた、「鯛は頭から腐る」。
「国」もまさしくそのとおりで、現在の与党諸氏は、裏金文化が蔓延る不道理・不道徳の社会を勢力的に作ろうとしているようにしか見えない。
それは与党周辺の局部最適にはなるかもしれないが、全体不最適なのは間違いないし、負ける戦争をするような国、戦争をして負ける国になってしまう可能性がある。

魚魚子(ななこ)
彫金の方法だそうだ。魚卵型なので、さかなの子という語を用いるらしい。
魚魚子について調べていたらNIWAKAという高級ブランドのページに行き当たった。どの商品も素晴らしい意匠であるが、お値段の方も素晴らしい。こんな高価なものを誰が買うのだろう、と不思議極まりない。私など、数千円ばかりのネクタイピンを買うかどうかで随分逡巡したけれど、庶民たる者はかくの如し。
(後で思い出したこと。ユダヤ人は常に逃げることを考えねばならず、そのため、持って逃げられる小さい高価なものを持つようにしている、という巷説。私の如きチェロ弾きから見ると、ユダヤ人はヴァイオリニストが主で、チェリストがわずかなのもこれで無意味に説明できる)。

昔、「乱流モデル」を学んで思ったこと
乱流モデルというからには、乱流の計算ができると思ったら、違ってた。乱流を考慮した計算ができるということだった。
つまり、乱流(渦)がどのように流れているかが分かるのではなく、乱流がどの程度できているかの計算ができるのだった。
極端な例を出すと、空気粒子をひと粒ひと粒すべて計算できる場合、「温度」は考えてなくて良い。
「温度」は、空気塊の中でランダムに動く粒子の平均的な速度(エネルギー)の指標であるから、全粒子の運動が判っているなら、温度のような雑な指標は全粒子の運動からちょいと計算すれば良く、わざわざそんなマクロ指標を入れる必要はない。
で、ここで言っている「乱流」は、実は計算モデルの格子では表現できないミクロな現象だが、観測される「温度」に比べるとマクロな現象であって、それまでのモデルでは表現されていなかったもの、である。
なので、温度項と同じ用に、乱流項がひとつ増え、流れから乱流、乱流から温度という段階でエネルギーが流れてゆくのを経験式で表現するてふものなのである。
(ただしい理解であるか知らんけど。それに当時読んだ教科書のこの辺りの表現が非常にわかりにくかったので、長い間考えた結果がこれである。まあ、乱流に関係する数値計算をしたこともないし、金輪際することもないだろう。一応気になるので書いておく)。

ベリーダンスを漢語で「肚皮舞」というらしい。
ベリーがお腹であり、皮膚を晒して踊るのだから、ということか。
この字面、肝が冷える気がする(感じ方は人それぞれ)。

富士通のパーソナルコンピュターの宣伝。
「神PC」などと言って、外国の人々を使っているが、なんだかセンス悪い。
『神の名を濫りに称ふるべからず』という心持ちはないのだろうか。あるいは、宗教的なもの言いは、人によっては大きな不快感を与えることを知らないのだろうか。
貧すれば鈍すというか、何か形振り構わずものを売ろうとして却って客が逃げるようなことをしていないか。
まあ、今の若い衆と老いた私で考え方・感じ方は同じではなかろうから、あくまでも、老インテリの戯れ言にしか過ぎないのであえろう。

昔(昭和60年以前)、英語の「Congratulations」はおおむね「おめでとう」を意味するが、結婚する女性に使ってはいけない、男性には良い、と習った。
女性に対しては「うまいことやったね」と言うからだというが、「うまいこと」をやって何が悪いのやらとか、女性にそういう含意が不味いのに、男性には不味くないのはなぜか、よく分からなかったし、今も分からない。
まあ、近年ではどの性に使っても良いらしいので、英語も改良されたということであろう。

クァルテット・オチェーアノを聴きにゆく。
モーツァルト、ボッケリーニ、ライネッケの弦楽四重奏。
「アマチュアにはメンデルスゾーンは難しいかもしれないが、ライネッケならなんとかなるのでは」(大意)というご発言があり、私は前半には同意しますが、後半はあまり賛同できません。アマチュア奏者といっても、演奏能力に大きな幅があるので、「非常に腕の立つアマチュア奏者なら」と限定するのであれば、渋々賛同いたします(莞爾)。
ボッケリーニとライネッケは初めて聞くので面白かった。普段親しんでいるベートヴェンなどと違って、も少しラフに書かれているので、なんとなう(演奏能力の高い)高校生が午後の音楽室で一生懸命弾いていると面白いな、と思った。
モーツァルトを聴いていると、自分がアルバン・ベルクSQの演奏を基盤にしていることに気づいた。若い頃、最初に買ったCDがABQで、以来(大変失礼ながら)さほど好みとも思わず聴き続けているので、まあそういうものなのだが。古楽方面のモーツァルトのCDを聴き直そう、と強く思った。
以前、モザイクSQのCDを探したが、随分と値が高かったので、諦めた記憶がある。

で、知人の演奏会で、ハイドン Op.20-4、ベートーヴェン Op.18-3、メンデルスゾーンの弦楽四重奏を聴く。
3団体による3曲の演奏(奏者の一部は2曲乗り)。それぞれの団体の個性があって面白かった。「私がそうするか」というのとは隔たりがあるが、他人がそれをしてくれるのは大変よろしい。そうしたことも含めて楽しめた。

さらに知人の演奏会。キュイ、ピアソラ(ブエノスアイレスの四季)、ヴィヴァルディの冬・春。
変わった変奏の曲。どうしてもフルート、ヴァイオリン、ピアノ(鍵盤楽器)がいるのを見ると、チェロを入れてトリオ・ソナタができるやん、と思ってしまう。トリオ・ソナタは通奏低音が1人でも2人でも3人でも「1声部」扱いなので、3声部で「トリオ」。

こんにゃく座「神々の首都」
こんにゃく座のいわば「日本シリーズ」(私がそう言っているだけだが)。「遠野物語」もそうだったけれど、日本精神史とでも言うべきもの(日本製紳士と変化しては欲しくなかった)。
今回は、ラフカディオ・ハーンの個人史に寄っていたように思う。しかし、個人個人を掘り下げることで却って大きな枠組みを見通せるのかも知れない。ともあれ、このシリーズの展開は楽しみだ。
オペラを演奏するのに、外来曲を取り上げるのも、それはそれで楽しいことであるし、それを(短兵急ではなく)日本人として解釈し作り上げていくこともした方が良いと思っているが、一方で日本の国民歌劇もぜひ有って欲しいものである。こんにゃく座の「日本シリーズ」は海外でこそ取り上げて頂きたい。
(そういう意味では、こんにゃく座の「魔笛」や「虫の生活」は海外からのオペラ受容シリーズとも言え、これら選曲の妙を味わうのも楽しい)。

しんよんひさんの絵を見る。
不思議な夢のような色使い。
私がその名を知らない色がこんなにもたくさんあるなんて。

北海道を舞台とする(と称する)アニメーションを少し見る。
家の建てようをちらりと見たが、さほど北海道風とも思われない。地域漫画には期待するところがあるのだが。
私が知っている時代より雪が減ったので、家の建てようが変わった、というのもあるやも知れず。
一方で、春も近いのにふんわりした雪があるというのも違和感。ひと冬積もって密な雪、溶けかけた雪があるべきではないかな。
まあ、そんなことはどうでもよろしいのであろう。

己の練習録音を聴く。
もうちっとカルテット向きの風通しの良い音質を作ろう。私は強硬に音を通す方が得意らしい(音程にもよるが)。
一日三回これを唱えないと治らないね、きっと。
で、練習で少し試す。まあ、悪い方向ではなさそう。でも、ボロボロ落ちている(音づくりとは別な要因で)。これはアカン。

統計とグラフィックスのためのプログラム言語Rを使っている。特にdplyrライブラリは強力。あまりに強力で脳味噌が溶ける。
SQLとほぼ同じ構文で、Unixコマンドと同様パイプで繋げられて快適この上ない。さらに、joinは、inner, left, right だけでなく、outer も使えるし、さらにさらに anti_join まである(MS-Accessのjoinが最初の3つしか使えないことを考えるとまさに天国)。
プログラミング言語の中でSQL(っぽい)フィルターを重ねて使える楽しさよ。
SQLは強力なのだが、どうしても手続き型プログラム言語と組み合わせて使いたい場合から逃れられない。故に、Rでdplyrが最も「手に馴染む」。

手に馴染む、という感覚は、プログラム言語としての良さを表す指標として非常に重要だと思う。主観的なものに過ぎず、万人共通ではないけれど。

銀河英雄伝説(アニメ)を見る。
どうやら、この物語の主題は人間の愚かさである、と思った。
日本のような敗戦国で描かれる戦争・軍事はすべからくそうであるべきかも知れぬ。

福沢諭吉がお札から抜けるけれど、北里柴三郎が入る。
なんとなう、「慶應人脈」を思う。
この末流に属する人々の評判は最近よろしくないようだ。
この学校の立派な人達を見ていると「実学」志向で、世の中に立とうとしていて尊敬に値すると思うが、また別な人達を見ると、世の中から自分が利益を得ることばかり考えているように思われる。

渋沢栄一が一橋大学を作り、津田梅子が津田塾を作ったとすると、両者が並び立つ国立市の皆さんはなかなかお喜びであろうか。

バフチサライ(バフチェサライ)は黒海近くクリミア半島にあったのを初めて知った。
https://note.com/pencdiraht/n/n18c6ad225bff
バレエ「バフチサライの泉」でこの地名を知ったが、なんとなう、もっとモンゴルに近い土地のことと思っていた。
バレエを知ったのは、楽器の師匠から「こういうバレエの伴奏をするからチケットを上げる」という奴で、バレエはあまり見ず、楽器の演奏ばかり見て聴いていた。なかなか目立つチェロの独奏があったことを覚えている。

同窓会で19人集合。45人のクラスだったので、約半分。なかなか優秀ではないか。それだけ時間にもお金にも余裕がある世代になったということだろう。
それかあらぬか、旧知の人々と出かけようという夢を見た。何故かボロボロの軽トラック。
タイヤ交換が必要とて、タイヤを外すが、後先考えずにタイヤを外したがために、どうやって取り付けるべきか分からない。取り付け用のアルミ板を見て考える、というところで目が覚めた。乗用車のタイヤ交換ならしたことがあるが、どう考えても夢で見た構造はおかしい。
そして、なぜに軽トラックだったのか。愛読する漫画「クッキング・パパ」に軽バンで福岡・鹿児島を(楽しく)往復する話があり、そこからの類推だったのだろうか。漫画では様々な「事件」の後、「田中ちん」と「夢子さん」の幸福な将来を予感させつつ終わる。どんな私の潜在意識が関わるのだろう。

サブマリン707を見た。
淡水域に入ると浮力が不足して沈降してしまう、という描写はあり得るように思うが、密度が小さくて浮力が不足するということは、圧力も小さいのだから、圧力計が割れる描写はおかしいのではないか。あくまでも沈降はしているが、淡水域にいる限り圧力は小さく、淡水域から出て海水域に入ったところで、圧力上昇となりそうに思う。ともあれ、淡水が海底から上昇している以外には深海に淡水域は生成しているとは考えにくい。

銀座を訪れる機会があったので、中原亜梨沙氏の個展があるはずだ、と思いきや。3/30開始だった。でも、きくちちきさんの個展を見られたので、私の個展欲はとりあえず満たされた。今の私が銀座で用事があるのは、教文館・泰明庵・熊本物産館くらいだろうか。もとより寄るべき場所は乏しかったけれど。

札幌ひょうたん横丁がなくなるとのこと。出張時に偶々訪れた「倶知安」は、大変味わい深い店だった。日曜夜「明日休みだから今あるものを出す。それでおしまい」。親切で気風の良いおカミさんがお魚や煮物を出して下さって、ビールも飲んで4人で数千円みたいな。もちろんお腹いっぱいにならないが、近くに多くの店があり、これはまた非常に楽しかった。

名古屋市杁中(いりなか)にあったイタリア料理店マンジャーレ閉店
https://sho-wan.com/20231106-mangiare-irinaka-close/
なんでも終わりがあるものだ。40年営業とのこと。私が行きだしたのは開店すぐだったのだな。たしかペスカトーレが580円だったように思う。
土曜の昼などは、近所の女子校の生徒が多く、私がごとき男性には肩身が狭いこともあった。
フンギ、プロシュート、アラビアータ、ベスビオなど、ここで初めて知ったメニューもたくさんある。フライパンを滑らかに操るマスターの姿ももう見られないのか。時代は変わり、私は取り残されているが、いつか私も時とともに流れ去るのであろう。
さらば、マンジャーレ。ありがとう、マンジャーレ。

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今週の戯れ歌

我とあれど嫌な男になるならむ四十年越しの恨み抱けば

四十年の時間を超へて話せむ昔昔のあれもこれもと

懐かしき思ひも我に過ぎずあれ我には今此時しか無き故

懐かしき町であるとは判るとも同じき姿の残るははつか

昔見し乙女の家の未だ有ればまた逢ふ時のあるやもと思ふ我なる

昔見し乙女と別るる交差点滅びぬままに未だ有るも悲し

悲しきは雨に打たるる交差点若き私の切な思ひを

遠き町に我はあるなり昔日の思ひ何時しか忘れたれども

何時か我灰塵に帰す日のあるならむ悲しき日々も滅するぞ善し

様々の思ひ抱きて生きてあれどそれも何時しか消えて行かなむ

酒飲んで全て忘れて眠るならば若き日々とは異ならざるべし

せめてせめて酔ひてあれどもうたを詠まむ我の生きたる証なるなら

うたよ有れ我の生きたる証なれば拙であるとも真実なるらむ

四十年の時を隔ててなほ言へぬ事も少しは有ると知るなる

誰彼の噂を聞くは面白し私の知りたきあの人は今

この町の我は無くとも在るならむ我又町と関わらず在り

人毎に異なる時間のあるならむ我は事実を認むる者なれ

抗弁をせむとうた詠むものならず只忘れ難き思ひあるなれ

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読書の記録(2024年2月)

泣菫随筆 薄田泣菫
以前読み始めたが面白くないと感じて投げ出していたもの。今回、単に書物を整理しようと思って手に取り、偶々、徳富蘆花と国木田独歩を描いた頁が目に入った。面白かった。も少し読んでみよう。
こうした明治ものを読んで面白く感じるようになったのも、関川夏央・谷口ジローの「「坊っちゃん」の時代」のお陰であろう。この漫画のお陰で探し当てた鴎外森林太郎の「普請中」も非常に良かった。

海街ダイアリー 吉田明生
再読。よくまあ四人姉妹の個性を描き分け、それぞれの恋愛をさらりと描き、さらに周辺人物を造形しているよ、と感心するばかり。
これを映画化したかったのも分かるし、役者が演じたくなるのも、分かる気がする。

精選物理学の散歩道 ロゲルギスト
先月に続いて少しずつ読む。
「数理倫理学序説」が特に面白い。現在いわゆるリスク学として知られている考え方だが、この時点で現在も答えが出ていない問題について明確に指摘されているように思う。まあ、「価値」とか「価値観」には厳密な客観性がないからね。
ともあれ、新しい学問を構想する楽しさが感じられる。

「雫が水面に落ちる音」は音の興味のある私には大変おもしろかった。
私が日常生活で感じるのは、温度・湿度によって、我が家の音響機器の音の「聞こえ方」が同じではなさそうである、ということ。
なんとなう、湿度が低い秋頃に最も「明瞭な良い音」に聞こえ、湿度が高い梅雨から夏にかけて「ぼこぼこした悪い音」に聞こえる。
木製弦楽器でも同様のことが起こるが、通常それは楽器本体のこととして説明される。スピーカーコーンも多くは紙ないし繊維製なので楽器と同じ現象が起こっているのかも知れない。だが、それは楽器・スピーカーコーン本体の問題なのか、媒質としての空気の問題なのか、あるいは、「耳」の問題なのか。などなど気になる。
要約・反要約は私が日々推している「言語技術」そのものと思う。

ケストナーの終戦日記
古書店で見つけた福武文庫。岩波が出ていると知っていたらそちらを買ったのだが。仕方がない。
戦争に負けるとはどういうことか、戦争に負けた後、日常生活はどうなるか、など以前から興味があり読む。
私は、現在の日本の状況はある種敗戦であると見ている。そのため、ここで書かれていることと、私が日々見聞きすることの間に、相通じるところがたくさんあるように感じる。
「カール・ハインツ・シュトックハウゼン少尉」の名が出てくるが、作曲家「カールハインツ・シュトックハウゼン」とは年齢的に合致しない。

パンの文化史 舟田 詠子
前半は読むのが少々つらかった。この手の説明はも少し可視化しないと、今の軟弱な私にはダメね。一番良いのは、私が可視化作業をすることだが。そうすると、私は内容をきちんと読んで理解するので。
とは言え、パン焼き窯が各家庭にあるのか村の共同なのか、各家庭にあるとして住居と一体か別棟か、どのような頻度で焼くのかといったところから大変興味深く読むことができた。
惜しむらくは少し古い本なので、写真や図の品質が足りないのであろう。内容は興味深いだけに本当に惜しい。

人さらい シュペルヴィエル 永田千奈
私の期待するシュペルヴィエル調ではないぞ。私はメロドラマが読みたいわけではない。
南米とパリで引き裂かれた彼の自我について知るところもあって良いとは思うが。

キリスト教美術を楽しむ 旧約聖書編 金沢百枝
面白い・・・のではあるが、変に現代調の比喩を入れるのに、私はあまり良い思いがしない。最近学者が書くもの(学者が書かされるもの)はこの手のものが多い。中身だけで十分楽しいのだがなあ。編集者がアカンのかなあ。

物理学者の自由な楽園 朝永振一郎
賢い方の本を読んだとて自分が賢くなれる訳でもないけれど。
私は朝永が企画した「物理学読本」を大いに評価している。その関係もあってちょっと面白い。
朝永の大学時代の生活を読んでいると、何か非常に余裕が感じられる。現代の大学生はもっとあくせくさせられており、腰を据えて勉強するどころではないように見える。国力衰退の一兆候ででもあろうか。

ピンフォールドの試練 イーヴリン・・ウォー、吉田健一
うーん。あまり面白いとは言えなかった。私には、この書は粘着質で苛立たしい。

アンドロメダ病原体 マイクル・クライトン
うーん。「報告する」と前書で書いてあるわりには、本編に入ると小説的時系列描写で、「報告書」の体をなしていない。などと気になる私はある種の職業病なのかも知れぬ。頑張って読もう。
読み始めると、それなりにSFっぽくて楽しくなって来た。古い小説なので、現代だったら使わないであろう設定が散見されるが。
読了。楽しい読書であった。若干のご都合主義、説明不足、伏線回収放棄に伴うがっかりなきにしもあらず。とは言え、これはSFだろう。

ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ ブライアン ウォード=パーキンズ
少しずつ読んでいる。前半1/3は読みにくかったが、陶器の生産・流通の話あたりから調子が良くなってきた。
読みにくかったのは、●●族などと言われてもイメージがないからであろう。ヴァンダル族くらいは、「文明の破壊者」と聞きかじっているが、そこまでである。なんとなう。「部族一覧表をつけて、特徴を書いておいてくれ」と思ってしまう。
陶器の生産・流通になると少し図も出てきて理解しやすい。文字情報を読み通す能力が下がっているのかもね、私。

唐宋伝奇集
これまた少しずつ読むの書。なかなか楽しい。

機械探偵クリク・ロボット カミ
少々古いユーモア小説なので、現代風ではない。まあ軽い読書としては悪くない。

ルバイヤート(トゥーサン版) オマル・ハイヤーム 高遠弘美
ふふふ。入手。ルバイヤート邦訳はたくさんある。手元にも複数ある。で、この本を手に入れて後書きを見る。あらたな訳文を作る意図、ルバイヤートへの愛着、これまでの訳文への言及など、ルバイヤートの後書き標準セットが書かれている。
なんとなう、ルバイヤート愛好家サークルっぽさがあって好き。ゆつくり読もう。

デュポール チェロ奏法と21の練習曲 島根朋史(翻訳)
教本的なものを買うのは久しぶり。鈴木、ウェルナー、ドッツァーと来て、いちおう、モーリス・アイゼンバーグ「現代チェロ奏法」を少し読んで、セヴシックを少し、その後野放し。カザルスなどは読んでいるけれど、固有の楽器演奏技術の本からは遠ざかって久しい。
縁あって購入。まじめに学ぼうという気持ちになっている。年齢的に最後の挑戦ではあるよね。
ベートーヴェンで言えば、交響曲と弦楽四重奏初期ならドッツァーまでの教本で弾ける。チェロとピアノのためのソナタや中期・後期の四重奏曲を考えると、そこからもう数段異なる演奏技術が必要になる。この「もう数段」がデュポールに相当すると、私は今推測している。
練習曲の音を並べるだけで大変。脳味噌をたくさん使う必要がある。でも、それこそが「練習」なのだと思わされる(思い出さされる)。
デュポールの「試論」の訳は、注も含めて大変行き届いている。レッスンにきちんと就いていない私のような野良奏者には大変参考になる。そして、練習曲は試論を踏まえた指番号が付されており、これまた大変有用である。

●雑感

渡辺カネ氏について読む。晩成社の方であり、十勝の教育の母とのこと。
Wikipediaを覗いたところ、「優秀な記事」として挙げられていた。
私も北海道に住んだことがあり、六花亭のお菓子を通じて「晩成社」の名は聞き知っている。
Wikipediaの記事はたいへん行き届いたものであった。
あの時代のキリスト教宣教師に影響を受けた人々の行動を考えてみる。この人たちの共通点として「政・官ではない」ところだろうか。昨今の政・官の弱体化を見ると、同時に「民」も弱っているのではないか、と考えたりする。
自分の一家を考えると、「えらい人」や「有名な人」はいない。地味で堅実な一族である。でも、こうした我々の如き地味で堅実な人々がこの国を支えているのではないか、と私は考えている。我が一家にはキリスト者はおそらくいなかったものと思うが、宗教への憧れと崇敬の念を持つものが多いように思う。さてさて。

黄色く少し透き通った花が咲いている。蝋のように透き通っているからか「蝋梅」という。
私はつい「狼狽」を思い出してしまう。「老馬医」とも変換されるのね。

長谷川伸の「一本刀土俵入」の舞台が(最近いささかの馴染みがある)取手であると先日気づいた。渡しのあるような大きな河縁の話との記憶はあったが。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001726/files/56081_64124.html
この話、声に出して読むと大変面白い。戯曲なので当たり前と言えば当たり前なのだが。また、会話だけで情報の大半が伝わる様にできており(当たり前だ)、ラジオドラマにすると面白そうだ。
ラジオドラマなるものが今尚あるのかどうか、私は知らないが。昔、FMラジオで音楽番組の後、ラジオドラマがあったりして、そのまま聞いたことが何度かある。結構面白いものだった。
「FMアドベンチャー、アドベンチャー、アドベンチャー」と反響させている導入からして深夜静かに聞くにふさわしい情緒があったように思う。
小林まことによる漫画化もされているが、紙媒体は1万円近くもする。高価だ。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番の練習をしている。で、様々な演奏を探して聴くなかで、サクソフォン四重奏版を発見した。
https://www.youtube.com/watch?v=I2KTtE4KPEU&list=OLAK5uy_lKec-9FicDT_gJvOijn8VtT8ZUy8Kp_Dk&index=12
なんか違う曲みたいであるぞ。
音は原曲と同じだが、軽妙で大人しく、ベートーヴェン的苦闘・苦悩からは離れている。とは言え、これもまたベートーヴェンが書いた音の姿であり、大変楽しくも大変勉強になる。

ついでに出てきたストラヴィンスキー「春の祭典」木管五重奏版、
https://www.youtube.com/watch?v=Zs-0AOa4g84
もちろん、冒頭のアレはファゴットだった。木管楽器がオーケストラの音色の重要部を担っていることを再確認できる一方、「やはりここは弦楽器でなければ」という箇所もあり安堵した(雇用状況の安定?)。
金管楽器が担うところは全てホルンに行くのだが、私が金管楽器をさほど聞き分けていないせいか、これで十分に聞こえる(多謝)。

第一次世界大戦のいとこたち
https://www.youtube.com/watch?v=oXmMT4sETu8
第一次世界大戦が始まった際の英国、ドイツ、ロシアの元首は、英国ヴィクトリア女王の孫であり、いとこ同士だったとのこと。そう言われてみればそうだったか。。。
何度か書いているが、当時の実感として「まさかこんな大戦争になるとは思っていなかった」であり、「まさかこんな大戦争がふたたび起きるとは思っていなかった」でもある。ああ、それなのに、それなのに。

群馬県でも慰霊碑を破壊するなど、歴史修正を行っている。私自身は戦争反対だが、もし戦争を考え「中国と戦争になる」と煽るならば「韓国とは仲良くせねば」とならないのは不思議だ。ふたたび世界を敵に回すつもりなのだろうか。

豆撒き
以前、節分の夜、団地脇の道を歩いていたら、頭上から幼い兄弟の「鬼は外」の声が聞こえ、パラパラと豆の落ちる音が聞こえた。
「うわーやられたぁ」などと巫山戯て返したい気持ちもあったけれど、親御さんが私に命中したと誤解されると申し訳ないので、ガマンしました(大人として当然の行い)。

なお、静かな夜だったので、豆の落ちる音が聞こえたように思っていますが、団地建屋から道路までの離隔距離は相応にあり、余程の力がない限り、とても道路まで届くような距離ではありませんよ。
季節の行事を楽しく行っているご家庭の様が目に浮かび、私はたいへん嬉しかった。

我が家では、子供が幼い頃、殻付き落花生や個包装のお菓子を用意し、暗くした部屋で大きな掛け声とともにこれらを撒き、子供たちが競って拾う遊びをしていた。
亡母はどこでこれを思いついたのやら。母に孫たちとともに楽しい時間を過ごす機会が作れたのは、私の数少ない親孝行であるのだろう。

NHKブラタモリを見ていたら「吾妻鏡」の開いた頁に「山田太郎」という名前が書いてあった。
この氏名の方が実在するのを初めて見た。
地頭にしてやる、とかなんとか書いてあった。
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma02b-03.html

ネット上で「装偵」という文字を見つけて煩悶している。おそらく「装幀」または「装丁」が正しいと思うが、「装偵」の用例も多い。
紙資料をOCR・文字起こししたところで「装偵」になったと推測する(それらしい例もある)。
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a52/116
「装偵」は装甲偵察の略らしい。

三菱電機の会員制サイトで個性的な図書館を紹介している。
「三菱電機」「図書館」という単語が並んだ時に思い出すのは、「岡崎市の図書館システムをめぐる事件」
https://www.jla.or.jp/portals/0/html/jiyu/okazaki201104.html
と言いながら、私が知っていたのは、第1の方だけ。第2は今回始めて知った。何でも確認しておくべきものである。
企業が忘れて欲しいと思っていることをいつまでも覚えている私。でもねえ、都合よくなんでも忘れる企業が多いのではないかな。
(企業よりさらに政党・政治屋の都合良きこと)。


ふだんなら、道路上を横に並んで歩く子供たちが、その朝は、縦に並んで歩いていた。
「かさじぞう」みたいだ、と思った。
雪が降り、多少雪かきがされているけれど、歩きやすい場所が一人分しかないので、縦に並ぶことになるようだ。
そうか、「かさじぞう」が縦に並ぶのはそういう意味であったか。
あるいは、僧が修行のひとつとして無言で歩くのに似せたのか。
最初の一人が雪漕ぎをする、風よけになる、という面もまたなきにしもあらず。

朝、除雪ごっこをする。
スコップの手元が折れた。除雪様の軽量型スコップであり、鍬がアルミニウム、他はプラスチック。
北海道に住んでいた時に買ったものだから、二十五年以上経過している。
むしろ、今までよく使えたものだ。柄だけ買ってみようか。
同じ様に柄が朽ちかけたスコップがあるので。
もう一本の除雪様スコップもよく見たならば手元が割れ始めている。
こちらは鍬も含めて全体がプラスチックで鍬先だけが金属製である。
こちらは二十年以内ではあるけれど、まだ元気だった母が買ってきたものだ。

雪見れば母ありし日を思ひ出し雪兎作り南天の目を入れ

佐藤富五郎一等兵曹の遺書・戦場日記
https://researchmap.jp/niheiyoshiaki/misc/29322399/attachment_file.pdf
SNSで知った文章。稀有な偶然によって世の中に出ることが出来たもの。ともあれ、あの戦争を始めなければこんな悲劇は起きなかっただろう。そしてまた、当時の我が国の細部を覆い尽くしていた非合理性の犠牲者でもある。餓死せざるを得ないと解った段階で降伏することもできただろうに。

VBAのDir関数(などのファイルシステムを触る関数類)は、OneDrive上のファイルシステムに対応していないようだ。
出たよ、MSのファイルシステムっぽく見せてはいるが、実は単なるアプリケーション問題。
ファイルシステムはOSで吸収しろよ。抽象化がOSの役割だろ。
こういう、「とりあえず便利っぽいアプリを作ったからバラ撒くぜ。互換性は気にしない。OSの抽象性?なにそれ」というのが、マイクロソフトの伝統であり、Unix屋などから嫌われるところだ。
まあ、そのお陰で生じている仕事が世の中にあったりするで、皆諦めているようでもある。

Théodore Dubois(テオドール・デュボア) – Piano Quintet, in F major
https://www.youtube.com/watch?v=BHote8hpTRw
フランスの作曲家による親しみやすいピアノ五重奏曲。オーボエを入れるのも良いね。

ヴァイオリン・オクテットについてWikipediaの解説を読む。
ヴィオラやコントラバスの不整合を考えると、「ヴァイオリン」属として設計したい気持ちもわからんでもないが、その結果、均質な音色が出せる楽器群になったというが。それがため、「音域が重なる部分において、面白みに欠ける」というのが、たしかにそうなるよね、という点で大変面白くも重要な結論だと感じる。
楽器音の「具体性/抽象性」について、私は考えて来たが、VnオクテットはVn属の中での抽象性を推し進めたものだ、と思う。一方の極は、ストラドとガルネリの音色を区別し、クライスラーの音色やうたい口を重視する。
先月のサックス四重奏によるベートーヴェンの違和感のひとつは、この点にもありそうだ。

タモリの音楽は世界だ 「サックス家の一族大研究」を見る。どの楽器も実は半オクターブくらいしか違わないのね。
まあ、Vn属もそうだし。しかも、オクターブ違う楽器を作ると長さが倍必要であるしねえ。

アンセルメのベートーヴェン
https://www.youtube.com/watch?v=Jj-PJ3fouIk
子供の頃、家にあったベートーヴェンのレコード(当然LP)は、5番と7番がアンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団、9番がフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。6番は謎の指揮者と謎の録音オーケストラだった。
聴いているとなんだか懐かしい、LPレコードと同じ録音であるのかは不明だが、ちょいとかすれたような強音、明るく素朴な木管楽器、気を持たせるよな余裕かました演奏などなど。結構覚えているものなのね。紅茶に浸したマドレーヌの味と同じで、言語として自発的に表現することはできなけれど、たしかに覚えているのだ。驚くべし。
ルネ・レイボヴィッツの「展覧会の絵」があったり、当時の我が家、なかなか凄い演奏を聴いていたね。
そういう意味ではカラヤンや小沢などは、家になかったし、自分も滅多に買わなかった。「世の中にたくさんあるし、いつでも聴ける」という感覚が強かったから。

「東京大学における性的指向と性自認の多様性に関する学生のための行動ガイドライン」なかなか素晴らしい。
「オリエンテーションの時期の自己紹介に出身高校を含めるように設定したり、他の人の出身校情報を勝手に公開したりする(トランジションしている学生にとってはアウティングにつながる可能性がある)。」などは、私自身まったく思いもよらず、参考になった。
一方、「東京大学の構成員(の多様性)」だけを強調しているようにも見える。「彼女は頭が悪いから」の反省はここに必要ないのだろうか。
LGBTQ差別だけに限定して書くならばさもあらん。それが自然でありわかりやすくもある。しかし、全ての差別に反対し、その一部としてLGBTQがあると考えるならば、男女差別・学歴(成績)差別もアカンのではないかな。

小澤征爾氏逝去
あまりご縁のなかった方であり、この十年ほどほとんど活動されていないこともあり、また、亡父と年齢が近いこともあり、ついに来るべきものが来たてふ感慨。RIP。
昔言われていた若手指揮者五人(アバド、メータ、マゼル、ケルテス、小澤)のうち存命なのはメータのみ。

『思考の整理学』は「東大京大で一番売れた本」とのこと。私も読んだことがあるが忘れてしまった。
さほど良いことが書いてあったようには思えない。もうちょっと読んで意味がある本を売り込んだ方が良いのではないか?
物事を批判的に考えられる本とか。たとえば「それゆけ論理さん」の方がずっと意味があるのではないか?
あるいは学問があるということで社会から求められる倫理についての書物とか。


楽器を弾く夢は見たことがない。皆が楽器を弾いているのに、自分だけ間に合わない、あるいは、楽器が壊れている、という夢はしばしば見る。
先日は、例によって自分だけ間に合っておらず、オーケストラが(なぜか箱寿司のように矩形に並んで)バルトークの「管弦楽のための協奏曲」を弾いている夢を見た。チェロの首席が大学の同級生だった。
ちょいと面白いね。

HMS Pinaforeを歌うスター・トレック
https://www.youtube.com/watch?v=sOtgMujbZsY
みんな大好き軍艦ピナフォア。

1815年のタンボラ山噴火
Wikipediaで記事を見る。ワーテルローの戦いの頁からリンクがあった。
ワーテルローの戦いの悪天候も、「フランケンシュタイン博士の怪物」や「吸血鬼」を齎した長雨による無聊も、ターナーの絵画の黄色い夕暮れも、みなこいつのせいだったのか!たいへん驚く。

コロナ感染
5回のワクチン接種を以ても防ぎきれず、最後に油断があったのがアカン。反省しよう。どうか後遺症が出ませんように。
最高到達発熱39.1℃。39℃を超えるなんて30年振り位。

二日ほど食べずにいたせいか、何を食べても味が濃い。味覚障害でないのはありがたい。
一方、足元が若干あやしいよね。コロナのせいというより、熱で寝込んでいたり、久しぶりにうろうろしているからだろうが、悲しい。気をつけよう。
なぜかこのタイミングで「ラスムス クルンプ」の公式X(Twitter)の話題が。
そして、それに仮想的にツッコむ自分の作文が微妙に辛口な気がする。
「おい、ラスムス。いつ『ペッチ』を辞めたんだよ」みたいな。
コロナの後遺症かも知れぬ。今月の読書で微妙に辛口なのもきっとそのせい。

イタリア映画「ふたりの少佐」
https://www.youtube.com/watch?v=QdO8wvOug9E
戦争コメディ。ギリシアでのイタリア軍とイギリス軍の戦いに始まる冒頭からパンチが効いて凄い。
占領軍が代わるごとに肖像画をかけ直す地元住民、運命の逆転と酒飲み合戦、惚れた女を互いに母親の方だと思いこむ好都合さ等など。
酒飲み合戦で、英軍少佐が「ムッソリーニに乾杯」というと、伊軍少佐が目を背け、伊軍少佐が「チャーチルに乾杯」と返すと、英軍少佐が目を反らす。これによって、お互いが「建前としての元首礼賛ではない、本音としての元首・上長忌避」を共有する付合いをしていることを示して楽しい。
主演トトが、知人に似ている(この知人が好人物かつ多少演説っぽいので殊更)。
史実として、米軍と伊軍が馴れ合っているところに独軍が入ってきたせいで深刻な戦闘になった場所があると聞く。あるいは伊バドリオ政権樹立で英伊が同盟関係になってしまう。そういう意味では少しだけ史実的か。
町の様相がそれらしいのが同時代作品の強み。

youtubeでこうした古い喜劇役者が出ている映画を探し出して見るのはなかなか良いものだ。
ルイ・ド・フュネス、とか。

「経済」の語を使っている者どもが「経世済民」を考えるに乏しいこと如何。
己の懐温めることだけ考えているように思われる。己が懐温めることを否定はしないが、そのために他を蹴落とそうという身根が許しがたい。
私は田舎の学校を出ているが、田舎の学校だとひとつの学級にいろいろな人間がいる、金持ちのボンクラ息子も、洟垂れ小僧も、勉強ができる子、新しい遊びを発明できる子などなど。皆で遊ぶ時も、全員が遊べる方法を考え、場合によって「洟垂れ用特別ルール」を作ったりもする。それが人としての暖かさであり、社会としての方便でもある。
で、都会の受験予備校化した学校を見ると、皆さん親御さんはしっかりしており、お子さんたちは塾に通ってお勉強を仕込まれているけれど、どうやら「他人様は蹴落とすもの」と思っているし、「他者を蹴落とす以外に己の栄達はない」くらいの勢いで生きているようにも思う。
で、後者の人々向けの雑誌は「ワンランク上の」とか「ちがいがわかる」と称して要りもしないピカピカしたガラクタを売りつけるのであるし、お金さえあれば何事も意のままになると思っているフシがある。
まあ、私が見たことがないような更なる上流階級はもっと余裕があるのであって、他人を蹴落とす云々は下流の上くらいなのであろう。

楽しかったブラタモリも終わるそうだ。ありがとうブラタモリを作ってきた皆さん(特に各地の研究者のみなさん)。
とは言え、タモリさんもご高齢であり、日本中回っておくべきところは回ったやに思える最近の番組だったので、これで良いようにも思う。
前半は何が何でも見る、という気合だったが、近年は、見ても良いな程度だった。
番組作りがパターン化して、若い女性アナウンサーに歓声を挙げさせておけば、後はタモリが何とかしてくれると、適当に作っているようにも見えた。
後継番組は虚妄捏造で有名な「プロジェクトX」だそうだ。やめれば良いものを。
あれは、『日本人下士官・兵は優秀だが、上級将校は無能」なる批判を都合よく忘れられる人が見る番組だ。
「我が社の黒歴史」くらいにしておけよ。あれだって、結局、回り回って役に立っているという仕組みではあるのだから。

ヴァイオリン用品製造販売会社トマスティーク社によるチェロ弦マップ(もちろん自社製品のみ)
https://www.thomastik-infeld.com/en/new-releases/dominant-pro/cello
WarmとBrilliantが相反する概念かどうか、私にはちょっとわかりにくいが、BroadとFocusedはさらにわからん。 W/Bは全般に高周波成分の多少 and/or 発音時の子音成分の多少を示すと思ったりしたが、では、B/Fは何なのか???
奇数次倍音と偶数次倍音?

銀河英雄伝説のアニメを少し見る。
お互いを遮るものとて何もない宇宙空間で艦隊戦をすると、結局海上での艦隊決戦(しかもナポレオン戦争に近い)あるいは、平野での槍騎兵決戦、砂漠での戦車戦みたいになるしかないのかな。
これを人間ドラマとして見るべきなのか、戦略ドラマとして見るべきなのか、あるいは、SFとして見るべきなのか、まだ分からない状況。

しらかわホール(名古屋)閉館とのこと。
私が名古屋を離れた直後に出来たホール。一度か二度、帰省の際に、知人たちの演奏会が偶然あって、その時に覗いたことがある程度。
あれから、ひとつのホールが世を去るほどの時間が経過したのね。途中で、カザルスホールの日本大学への売却話があったり。林真理子日本大学理事長が、カザルスホール復興について言及されていたが、ちょっとそういう趨勢ではなさそうだ。そもそも日本大学は体育系は重視しているが、それ以外の文化系に力を入れそうには感じられない。知らんけど。
そもそもで言えば、「ホール」という箱の重要性以上に、どんな演奏会を行うかという「企画」を大事にしなければ意味はない。それを「カザルス」という看板で積み上げてきたのが、日本大学以前の「カザルスホール(企画室)」であったし、日本大学は結局のところその良き伝統を断絶させたに過ぎない。
私見では、まず「カザルス」の名前をカザルス夫人にお返しするとともに、よき伝統の断絶を謝罪すべきだろう。それが最低限。
然る後に、新しく日本大学としてのホール名を付け、日本大学として企画者を集め、日本大学としてホール運営をすれば良い。それが正当なやり方ではないかな。
(ところで、小澤征爾の名前は今後どこかで何かしら使われてゆくのだろうか)。

音楽理論は「家訓」ていど説
物理法則はこの宇宙において普遍的であり、何物も逃れ得ないが、音楽理論はある地域のある時代の音楽の「家訓」ということ。そういう家訓があっても良いが、異なる家でそれに従う謂れはない。
私は物理系だったので、宇宙において普遍的な「音楽理論」が存在するのかと大いなる幻想を抱いていた時期がありますが、ちょっとがっかりしました。

南北朝正閏論は「せいじゅんろん」なんだ。うるう年の話題で初めて知った。
長らく「正閨論(せいけいろん)」と勘違いしていた。幸いにして、これまでこの単語を発語する機会がなかったものの、不敬のきわみであった。

自由民主党の皆さんが駅前で能登震災復興支援のための募金を集めておられた。
我々貧乏人にも一枚噛ませて下さるくらいなのだから、きっと何億円もあるという「裏金」(ではないんだっけ)は全部このためにお出しになるに違いない。
なんなら支援金を集めるためのパーティも開催されるのではないか。
万一そうでないならば、我々貧乏人の怒りを買うだけだろう。まさかそんなことはあるまい。伝統ある自由民主党ともあろうものが、そんなにも判断力を欠如しているなどと想像することすら困難である。
・・・などと書いていることの虚しさよ、まさにゴマメの歯ぎしり・ミミズのたはこと。

昨今の政治情勢について心を痛めている。
まともとは思えない政治屋集団が改憲を口にしている。
おそらくは、まともでないから改憲したいと思っている、と思うべきなのだろう。

政治倫理審査会とて、まともに回答できぬ(せぬ)首相の無能・無責任さよ。
同時に有名野球選手の結婚のニュースを流すメディアの無能・無責任さよ。
かくも重大な無能・無責任は、国全体に影響を及ぼすゆえに、極度の害悪である。

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読書の記録(2023年1月)

ゴールデンカムイ 野田サトル
無料公開にほだされて正月休みに読破。ちょっとやりすぎた。
まあ、年末年始に映画を見る代わりと思えばこんなものか。
アイヌ考証については、専門家がきちんと見ているとのことで、安心して読めた(いちいち疑って読んでいると疲れる)。
時代考証はあえて破っていそうなところがあるが、話の勢いの前には些事であろう。
「ニヴフ」とか「ウィルタ」は「デルスウ・ウザーラ」で見た名前であり、なんとなう親しみがあるのもよろしかった。
こういうスケールが大きく、かつ、正史をあまり歪めないお話が私には一番楽しいかな。
山田風太郎の小説「地の果ての獄」も北海道の樺戸監獄を舞台にしており、「北海道歴史もの」というジャンルで同類であーる。
さらに広げて「北海道もの」と考えると、「銀の匙」、「チャンネルはそのまま」なども仲間であーる。

私は、元北海道在住者なので、こうしたものには興味があるし、それ以外の「地域もの」の漫画も好物である。
福岡・博多の「クッキング・パパ」や、矢口高雄「おらが村」、高妍「緑の歌 収集群風」等など。思ったより少ないが、地域性を出すためには、地域の中にいてもわからないし、外にいてもわからない。その難しさがあるからかも知れない。

国鉄 「日本最大の企業」の栄光と崩壊 石井幸孝
趣味で読むには若干深刻な書。話の速度・粗密が様々であるが、それはある意味当然でもあり、「栄光」と「崩壊」の行きがかりを双方書くためのものでもあろう。
ともあれ、趣味的に知ったり齧ったりしている断片がひとつの大きな絵になってつながるところもあり、興味深かった。
いくつもある労働組合の確執を趣味者である私が正確に追尾する必要はないので、少々理解が浅いが、こうしたことも含めた上で、未来への提言を行っている点が貴重である。
どういう人に薦めるべきかいささか迷うが、国鉄の栄光と崩壊から学びを得たい方には良い、というところか。 また、石井氏がディーゼル技術者であったことから、ディーゼル機関車の国産化等の記載は非常に貴重な証言になっていると感じる。
(特に、ディーゼル機関・ディーゼルシステム開発の「難しさ」について端的な説明があり貴重。)

動く人工島 ジュール・ヴェルヌ
ヴェルヌには、楽しい技術解説(うつくしい未来像)とわかりやすいドラマの二面があるが、この書はほぼ前者に尽きる。
主人公(というか視点人物)を弦楽四重奏者とする意味があったのかどうか、等など。
いつもの英国人蔑視(仏人称揚)は喧嘩友達のこととて構わないが、現地人差別は昔の小説と解っていても少々気になる。
まあ、現代の人が喜んで読むような内容ではないね。

新編 不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア、澤田直
脈絡もない迷路のような美しい文章。訳も大変こなれているように感じる。
いや、良い本を買えて良かった。(下北沢のB&Bさんありがとう)。
こういう本は実際の本屋でなければなかなか買えないと思う。つまり、本との出会いは、いつでも良いということではなく、自分の側の状態にも依存するので、実際に開いてみて、その時の自分に適しているかを考えずには買えないということである。
ところで、翻訳の良さに、お名前で検索するとフランス文学の方である。不思議に思い、後書きを少々覗くに、仏文の方でありポルトガル語はご専門ではないが、どうしてもペソアを訳したくてポルトガル語その他を参照されたとのこと。(素人考えには、ラテン語・ロマンス語系で共通するところが多いようにも思うが、あらゆる言語には地方差・時代差もあり、一概には言えまい)。

「不穏の書」の原語と見ると「desassossego」。「desassossego」(ポルトガル語)をGoogle翻訳すると「落ち着きのなさ」と返ってくる。
ふと思いついて仏語にすると「agitation」。音楽用語としての「アジタート」や、日本語化した「アジる」は、相当の熱量を感じさせる言葉だが、「落ち着きのなさ」とはいささかの隔たりを感じる。
とまれこうまれ「不穏」と訳すのはなかなか悪くないと思う(なぞの上から目線)。落ち着きのなさを漢語にする才覚が私にはないが、「軽挙妄動」と結びつけて「妄動の書」とする・・・と一瞬思ったがあんまりだな。「惑乱の書」の方が少し良いかも。このあたりの言語感覚は言語化するのが難しいぞ。
で、Google翻訳で「desassossego」を中国語にすると「不安」と出てくる。まあ、妥当なのだろうが詩語としては「不穏」の方がおののきがあるようで良いな。
(以上、勝手に訳語検討ごっこ)。

「尾形亀之助 美しい街」
行く先々で見かけたので、購入。まあ、そういう場所にばかり行っているということなのだが。
山川直人氏の漫画で取り上げられており、親しみを感じていたので購入。
嘘いつわりなき庶民感情や良し。
近頃の政治屋やテレビで垂れ流しになっている雑話業者の汚れた文言を(間接的にではあるが)目にするにつけ、嘘いつわりがない、というだけで清々しい。
「汚れっちまった悲しみ」なのかな。
そもそも私はセッカチ人間で、ゆっくり詩を楽しむということが難しい。であるがゆえに、自分にあった詩を、少しずつ楽しむ、ということしか出来ない。
であるがゆえに、詩をたくさん読むことはできないし、少ししか読めないならば、余程自分にあった詩でなければ読めない、ということになる。
なかなかメンドウであるね、私。それで誰に迷惑をかけるでもないので、お許しいただきたい。

肝っ玉おっ母とその子どもたち ブレヒト 岩淵達治
読んで良かった。最初の1ページからブレヒトの皮肉が炸裂し、最後までそれが持続する。戦争を非難する文言はほとんどなく、戦争を礼賛しているのだが、その礼賛の仕方があまりにも滅茶苦茶で、これを読むと、笑いながら戦争の悪が身に沁みてゆくことになるように思う。 翻訳はわかりやすいが、劇として演じられることを想定しているからか、私が求めがちな「小説としての良さ」とは異なる文言を選んでいる。(というのをメモしておくが、これを翻訳の品質の問題と考えているわけではない)。

精選 物理の散歩道 ロゲルギスト
なかなかおもしろい。私の知識・能力ではわかりにくいものもあるけれど、日本語文法やリスク評価(今で言う)など先見的な試みは本当に素晴らしいと思う。
私が夢想しているのは、同じような「数理経済学」である。(私は経済学素人なので、誤解多数があると思うが)、現在の経済学は根本原理がなく、マクロの経験則をあてている程度ではないだろうか。それに対し、エネルギー保存則をベースに貨幣価値を評価してゆくような経済学はできないものだろうか。というやつ。まあ、誰か考えて失敗しているのだろう。アシモフの「心理歴史学」などが典型だ。

愛撫 庄野潤三
私のようなものにはちょっと読みにくい。後年の淡々とした幸せを描く庄野からすると、意図的な不幸、意図的なグロテスクを描いているように見える。

これまでに読んだ様々な本の記憶も薄れると、「天国に財宝は持ち込めない」という『財宝』のひとつが『記憶』であると感じるようになる。
多くの苦しかった記憶もまた薄れており、それを慰謝と思っても良いのかも知れず、禍福は糾える縄の如しと思うしかなかろう。

●雑感
「ローグライクしかやったことがない人間が「Rogue」やってみた。」
https://www.4gamer.net/games/535/G053589/20240105025/
移動キー[h]左、[j]下、[k]上、[l]右、は、普通にviエディターのキーアサインである。というのは常識だと思っていたが、この「常識」も最早インターネット老人会(Unix支部)の話題にしか過ぎないか。
ゲーム「ローグ」は昔から有名だが、私はやったことがない。ローグライクの文字列がウィスキー「ラフロイグ」に似ていると思うくらいだ。

『ブラックジャックによろしく』を読んで勘違いして欲しくないこと
https://medley.life/news/56bd3a5169e1ce7e008b6242/
良い漫画なんだよね。それだけに事実関係をきちんと指摘することも大切だろう。

ドヴォルザークの弦楽四重奏曲 Op.105 の本番中、A線が緩み演奏を止める。こういうケースは初めて。
後で湿度20% だったとの話も聞いており、おそらく低湿のせいであろう。自分が舞台上で調弦する貴重な姿を録画で見た(別に見たくはない)。

今回も含めて今年は演奏会4回を予定している。そういうこともあってか、「復活」と言われた。
深い意味はなかったのであろうが、印象深い言葉だった。確かに、この数年音楽が詰まらないと思っていた。コロナによって、あるいは、戦争によって、多くの人が傷つき死んでゆく傍らで楽器を弾くことには罪悪感さえある。個人的にも両親の他界もあり、深刻で切実な時間があった。形式的には音楽活動を続けていたけれど、最近になってようやく少し真面目な音楽活動に「戻って来た」という感慨がある。その点を旧知に看破されたようで少しく驚いたのであった。
ところで、「復活」と言われて思い出すのは、ラザロ、イエス、トルストイの順番か。トルストイは読んでないや。アンナ・カレーニナを読みはしたけれど、働く必要のない貴族の恋愛を読んだところで、私にはあまりおもしろくなかった。そういうこともあり、トルストイにはあまり愛着がない。
「立て、ラザロ。愛は行動の前を通りかかるが、お前はまだ宿屋から出てきていない」というセリフがアルセーヌ・ルパン(正確にはボワロー=ナルスジャックによる高度な贋作)にあった。このセリフの意味が何十年経ってもわからない。

人気漫画に習って、「冷凍のフローズン」というのを思いついた。
フリーレンはドイツ語で「冷凍する」の由。

クーデターはフランス語で実は3単語 coup d'État 「国家への攻撃」。
クードグラース coup de grâce 「慈悲の一撃」と比べてみよう。
フランス語は「ラテン語が訛ったもの」と考えてよい(だって、プルーストがそう言っているから)。
我が国の東北弁(特に津軽方言)が短いのと軌を一にするものである。「け(食べて下さい)」「く(いただきます)」など、ほのかにフランスの香りが感じられるではないか(嘘)。
ついでにメモ 国家理性 Raison d'État と 存在意義 Raison d'être。前者は「国家的理由」だと思っていた。

サラディンのドラマ(らしい)
https://www.youtube.com/watch?v=o1b-cTUM_ig
オスマンも140話を超えている一方、こちらも見始めるのか・・・。迷う。Wikipediaでアイユーブ朝について読むと、なかなか面白い。為替の存在などなど。
まこと、知らないことがたくさんあるものだ。

たとえば、大阪万博は中止すべきだろう。人もお金も資材も震災復興に回すべきだ。また、自民党の裏金・脱税に関しては、きちんと捜査し、摘発すべきは摘発すべきだろう。
庶民の常識で「犯罪」と思われるものを放置するのであれば、検察などの捜査当局はその理由を説明すべきだ。
日本は正当な理屈、自然な考えの通らない国になってしまった。
阿部謹也氏の書を見ると、「贈与・互酬が社会関係の基盤になっているのが前近代、『平等』となるのが近代」と感じられる表現がある。我が日本は前近代であり、「贈与・互酬」で政治を動かしているのだ、と感じる。
まあ、いつまでも前近代で頑張る国であっても良いのかも知れないが、そんなことをしていると世界中の若者からそっぽを向かれ、衰退して当然ですよね、と初老の私でも思い至るのだが、この国のえらい人たちにはそういう感覚はないらしい。あなや。

露語で書かれたトルストイの大型本を間違って通販で買ってしまう夢を見た。8,300円でも高いと思ったが、何故か買ってしまい、思いの他大きい本が届いて、値段を見直すと83,000円であるという恐ろしい夢。
まあ、トルストイも好きではないし、露語は読めないし、読む気もないけどね。

我が師杉浦薫の演奏が公開されていた。
http://npowfao.or.jp/blog/theory/p06_j/#jump
お元気にされているだろうか。杉浦師には本当にお世話になった。そして、私は、森下元康氏とは直接の接点を持ったことがないが、杉浦師を通じて師匠筋である、大恩があるものと思っている。徳は孤ならず。
まさに杉浦師らしい「うたい口」と「音色」が録音に残されていることが大変うれしい。
これを仰ぐにいよいよ高く、これを切らんと欲するにいよいよ堅し。
おそらくは、杉浦師の「自分で感じ、自分で考える」という根は、ご自身の志向でもあったろうが、森下先生の志向でもあったろうと信じる。

三村先生からは「私はヴァイオリンのことは分かるがチェロのことはわからない。自分で考えなさい」と仰っていただき、杉浦師からの最後のレッスンで「考えるのをやめるな」と言われた。私は本当に師に恵まれつつも、これら大恩をどこにも返すことなく生きており、忘恩の徒である。

Rosinha de Valença ホジーニャ・ジ・ヴァレンサ
https://www.youtube.com/watch?v=hxi_qliU3DE
とっても素敵。

Paco de Lucia - Tico Tico
https://www.youtube.com/watch?v=HIXLC5SRC7w
こちらも。私、昔から撥弦楽器が好き。アランフェス協奏曲くらいしか知らなかったころ、たいへん困っていた。今やyoutubeなどを通じて無尽蔵に(でもないが)様々な曲・様々な演奏に手が届くのは本当に有り難い。ただし、きちんとメモをとって置かないと、手から滑り落ちるのも仕方がない。

Echo Bridge Cello
https://www.youtube.com/watch?v=vbCulZIUF7c
達者なチェロの四重奏。韓国系だろうか。私、韓国系の奏者は味付けの濃さで敬遠気味だったが、この方たち、そうした無理なドライブはしないので好き。日本の古い奏者も無理しがち(だから好まなかった)だったので、昔の韓国系奏者も同じように無理しつつ、出てくる無理味が日本と韓国で違った、ということかも。

プルーストの眼
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/10613/ronso1220300820.pdf
「この絵を私が数時間で描いたとあなたはおっしゃいます。しかし私は全生涯の経験によってそれを描いたのです。」はホイッスラーの言葉であるとのこと。大事なのでメモ。
(と言いながら、ホイッスラーをホガースと勘違いしていた私。)

関水金属KATOの飯田線シリーズはやはりクロハ59改造クハ68やクモル23050を計画していたのか。
https://ameblo.jp/bon-syosai/entry-12836799114.html
まあ、計画するのも当然だろうし、優先度として後回しになるのも当然だろうけれど。私はもちろん「惜しい」と思う口である。

電車内で幼いお子さんの笑顔を拝見すると癒やされる。
先日「叩いて・つねって・階段のぼってこーちょこちょ」をされている若いパパさん・ママさんが居られた。事の次第を理解するにはまだ幼いようではあったけれど、温かいお二人の話振りに私も嬉しかった。
時によってはスマホを見なければならない事もあろうが、お子さんと向き合っているパパさん・ママさんを見るのは、私には嬉しい。

デカルト『音楽提要』 における spiritus について
https://researchmap.jp/read0163018/published_papers/18652274/attachment_file.pdf
名須川学氏による平松希伊子氏の批判への「反論」。注1にある誠実さが心を打つ。私はどちらの論考をも理解・判断するだけの素地を持たない者だが。

ブラームスの弦楽四重奏第2番
Johannes Brahms, String Quartet Op.51 No.2 - GoYa Quartet
https://www.youtube.com/watch?v=_sZFNAd-lMA
GoYa四重奏団はアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の団員とのこと。素晴らしいうたい口とアンサンブル能力。驚くべし。

Shanghai Youth String Quartet Brahms No 2 A minor Opus 51
https://www.youtube.com/watch?v=P4Hw5KkCYH0
こちらは上海若者四重奏団。

これらのふたつの演奏のうち、前者は快いが、いい気分で聞き流してしまって勉強にはならない(いや、勉強になるんだけどね)。後者は様々なひっかかりがあるために、気づく点も多い。後者を聞くことで前者の工夫や凄みが分かるところも多い。
若い方々なので、これからも頑張って欲しい。

私は、あるアマチュアの四重奏団の演奏を聞くのを楽しみにしている。この人々は大変腕達者であるのだが、「私なら絶対やらない」ことをたくさん繰り出す。あえて言えば、「『私がやりそうなこと』を非常によく知っていて、その上でひとつひとつ丁寧に否定しているのではないか」と思われる演奏をする。だから、私自身がアイデアに詰まっている時、彼らの演奏を聞くと、「そこはもっと・・・したい」「そこは・・・はしない」とたくさんの考えが浮かび上がる。だから、私はこの団体を尊敬し、いつまでもそのままでいて欲しいと思っている。
そして、私と彼らの違いを考え続けている。

【NNNドキュメント】200人以上が死亡 封印された沖縄の鉄道事故の真相
https://www.youtube.com/watch?v=qA7buVeEzU8
私は鉄道史を好んでいるので、ある程度大きな鉄道事故について知っているつもりであった。しかし、沖縄における事故についてはまったく知らなかった。

女の園の星
https://www.shodensha.co.jp/onnanosononohoshi/
ひと頃パオロ・マッツァリーノ氏の文章をよく読んでいた。久しぶりに彼の名を見かけ、ブログを覗いていたところ、この漫画が紹介されていた。とても面白い。いい意味で脱力系、いい意味で下らない。
静かな画風なのも良い。絵は頭文字Dと似せているのだろうか。すごく絵がうまいが中身が脱力という漫画は、私はなかなか好きで「クロマティ学園」も好みに合う。女の園の星。もっと読んでみたい。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のサックス四重奏版
https://www.youtube.com/watch?v=I2KTtE4KPEU&list=OLAK5uy_lKec-9FicDT_gJvOijn8VtT8ZUy8Kp_Dk&index=12
弦楽四重奏団が演奏するのとまったく違う曲に聞こえる。恐ろしいことだ。

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今週の戯れ歌

久方に少し歩けるその夜は少しく長く眠りをるなり

100kmを歩ける人もあるといふ我また何時か歩けるや否や

墓参りに歩いて行くの良からましその数刻の追悼のとき

歩きをればさまざまの事思ひ出し亡母亡父の在りし日のこと

歩くことに祈りに似たる気持ありさてその心は何処に届かむ

遠き国で戦あるとや聞きながら日々のたつきの変わらざるに驚く

散歩して little free library を見つけけむ優しき人の優しきわざかな

何時もとは異なる道を歩くならば何時もと異なるさまざまを見ゆ

去年の今何を着たかを思ひ出せず嗚呼あの頃は涼しかつたか

カミさんと諍ひありしその宵は通信販売でポチッとするかも

宅配の届く音こそ嬉しけれまた細君の不在なればこそ

ありがとうと言ひて世を去る美しさ我が去る時のかくもあらまし

人たちの問に答へず世を去るは公人たるの資格なからむ

世襲とてうき世を何も知らざるや庶民の暮らしに同情もなし

静けさや時計の刻む秒の音今年も疾く残り少なく

静けさは音なき様にあるならず小さき音の仄かにするなる

静けさは闇に光の差すごとく無音に音のわづかあるなる

歳の終はり掃除をもせで街を歩く自分の影を消すが如くに

心なき我にしあれば痛みなく他人の幸せ平らかに見よ

寂しさは行く宛もなき休日をただ彷徨ひて独りあること

仕事には倦み疲れたる我なれど何かしたきか感慨もなく

悲しみにうちひしがれし思ひありその悲しみの故は知らざり

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読書の記録(2023年12月)

寝ぼけ署長 山本周五郎
正直なところを言えば、書店から出られなくなって買った本ではあるが、こういう気軽な本を読むのは好きだ。
有力者の横暴、法さえ守っていれば道着も何もなく、否、法を守らずとも罰されなければそれでも良い等読んでいると、昔の話とも思えなくなってくる。万古不変の趣があるか?
私の人権意識も大概古く良からぬものであると思うが、「人情」もないのが今の浮世であるなあ、と改めて思う。

ロボット物語 スタニスワフ・レム
「宇宙創世記 ロボットの旅」とは別なお話。という事を知らず、この書の存在を知らず、偶然、古書店にレムがたくさんある中で発見。ありがたい。他は持っているものばかりだったので、これ一冊を買ったが、ポーランド語原書も2冊あった。どんな人が持っていたのだろう。凄い。
そういえば国書刊行会のレム・シリーズII続刊が出ない気がする。応援しよう!(どうやって?)

河野裕子 永田淳
笠間書院の和歌の本は買わざるべからず。と言うか、ちらっと見て、「第一子すなわち筆者を詠んだ」云々とあり、さらに「買わざるべからず」と思い購入。
永田和宏の書いたものをこのところ好んで読んでいる。和宏、裕子、娘の紅は歌人ながら、ひとり息子の淳は(少なくとも表立っては)歌人ではなく、「疎外感はないのかしら」と余計なことを思ったりもしていた。そういう下世話な興味もなくはない読書である。 和宏の書いたものは、裕子と同じ時間・同じ場を生きたものとして、その場その時の感懐を共にするようなところがある。一方、淳の書いたものは、自分の知らぬ時代知らぬ場を思い、それを自分の知る母や自分の知る事ごとに結びつけているように思う。あるいは、和宏は歌人として、淳は編集者として裕子の歌を見ているともとれる。
現在の私は、物事を複眼的に捉えるのを面白いと思っているので、こうした和宏と淳の見方・書き方の違いが大変面白い。そしてまた、そうした様々な見方・書き方の向こうにある裕子の歌を読み直すのが面白い。
改めてご経歴を拝するに、河野氏は、熊本に縁があること、生年、病気など、私の母に近い。
昔のお写真など拝見するに、(本当は時代的な近さによるものだろうけれど)、熊本人としての類似性があるように思われ、似た病気であったこともあり、親しみと懐かしさを感じつつ拝読している。

母の如き親しみを以て歌を眺む会ひたる事のつゆなけれども

と勝手なるうたを詠んでみる。

行きつけの店 山口瞳
家のどこからか出てきた本。昔のファンタジーを読むような具合。昔の人々は、多くの情報がなかったから、なんとかたどり着いた店のうち、気に入った店を「行きつけの店」にしていたのではないか。そして、お金が自由になる人々は相応の店を「行きつけの店」にしており、一般人のたいそう憧れるところであった。そうした背景で書かれた書だろう。
今尚、様々な商業主義の元、「お店の紹介・宣伝」はあるけれど、どちらかというと、テレビ・雑誌・ネットの三者で行われており、こうした書籍はあまり見ないかも、と思う。
この書に書かれた店が今もあるかどうか知らない。多くはきっと無くなるか、雰囲気が変わっているだろう。だからこれは今の私にはファンタジーだ。で、年取ってこういうものを読むと、「上手に作文するなあ」と感心する。まあおそらくは、こうした上手な作文に騙されるのも楽しみのうち、ということだろう。

蒙求
読了。「孟母三遷」みたいな四字の歴史格言とその解説。日本人が知る事績も非常に多く、いい加減にしか知らなかったことが確認できるなど、大変良い。
ちなみに、孟母三遷を取り上げてみたが、孟母のタイトルはこちらではなく、「孟母断機」である。なんで「三遷」のほうが有名なのだろうか。引っ越し業界の宣伝でもあるまいが。

動く人工島 ジュール・ヴェルヌ 三輪秀彦訳
弦楽四重奏団の4人が主人公なので読んで見る。いつものヴェルヌ節。
ふつうであれば眠くなるような、説明的言辞を読んでいるだけで楽しいのだよね。夢と勢いがあるというか。
そして、他民族に対する素朴な優越感。まあ京都人の「イケズ芸」だと思って、私は楽しく読んでいるのであるが。
まだ途中。もちろんこれからひと波乱あるのであろう。
古い訳なので、文句を言っても仕方がないが。
 発電機→電動機 電流によって動かされる方なので。
 騎士→騎兵ないし乗馬者、馬乗りなど 封建制度・貴族制度における「騎士」ではないよね。
 メンデルスゾーン弦楽四重奏曲第7番→存在しないはず。他にも、モーツァルト等の名曲と言っている番号が怪しい。適当に書いているのか、読者をおちょくっているのか、さて。

自分の中に歴史を読む 阿部謹也
昔読んだ本。整理中に読み始める。阿部の問題意識のすべてが私と重なるものではないけれど、たいへん興味深く、切実な問題設定をされていると感じる。
また、阿部の個人史として読むと、何時にあっても、孤独で静かな阿部の眼差しを感じるように思う。
阿部学説が現在も正当なものとして流布しているのか、私にはわからない(阿部説が正当/不当であることを証明することも難しいので、現代的な学問の流れからは傍流となっていると想像したりもする)。
バロックから古典派に向かって、音楽が「語りから歌」に転じてゆくのと、阿部がいう、世界が贈与・互酬的関係からキリスト教的普遍的関係に転じてゆくのと、いささか重なるところがあるのではないか、と私は思ってみたりしている。
また、前近代と近代の違いとして、贈与・互酬性によって直接的な関係で結ばれた社会と法や制度の下における平等社会(用語は私が勝手に変えている)という点を挙げているが、報道で見る我が国のあり方は明らかに前近代の贈与・互酬性社会ではないか。これで先進国でございと言っているのは矛盾の極み。
新しい本ではないが、再読で教えられること・考えさせられることが多く実りある読書であった。良い本を再読できて大変うれしい。

阿房列車 内田百閒 一條裕子
驚くべき漫画。人間百閒が活写されている。原本を読んだことがない人が面白いと思うかはわからないが、原本を読んだ人には原本と等しく楽しめるのではないだろうか。
頑固だが愛嬌のある老人百閒。でも、今の私より若いのではないか。
百閒および参詣氏が乗車した列車の編成表が付されているのも、私には面白い。この漫画と、鉄道模型の列車セットなどあれば、私は買ってしまうだろうな。「阿房列車急行「霧島」セット(百閒および山系氏のミニフィギュアつき」とか。そうなると、同じように漫画「エンジニール」セットも欲しくなる。「関西鉄道急行列車(牽引機は『早風』)」(島・雨宮のフィギュアつき?)。
この編成表はどうやって作ったのだろう。それはそれでちょっと気になる。

欲望という名の電車
偶小耳に挟んだ会話中に現れた戯曲が、書店で眼の前に現れたため購入。読んだことがないので、多少恥じつつ。
小説には通例「視点人物」が出てくる。この戯曲にはそれがないように見える。以前、ゲーム・オブ・スローンズの登場人物解説を眺めていたら、「視点人物」が何人か挙げられていた。
ということは、戯曲であっても視点人物を設定することができるわけだ。
私の推測では、舞台劇は観客の視点が固定されているので、視点人物を設ける必要はない(低い。あるいは設けることができない)。
テレビ・映画などでは、場所や時間が移動することから、「誰かの視点」がないと視聴者が混乱しやすい。そのために「視点人物」を設けることで物語の流れを作り出すことができ、それによって、視聴者の混乱を防ぐ。
まあ、素人の仮説に過ぎないが。

「年末年始に読む本」を買う。言い訳しないと本を買うこともできないのか、私。
「入門 公共政策学」、「パンの歴史」、「河野裕子」、「尾形亀之助 美しい街」、「シェイクスピアの記憶」(ボルヘス)、「精選 物理の散歩道」(ロゲルギスト)など。
文庫・新書の類が多い。貧乏中学生だった頃からの習いでもあり、持って歩いて電車の中で読むためにも仕方がない。

昔、大学受験のため「源氏物語」の粗筋を諳んじようと思った。
田辺聖子「絵草紙 源氏物語」で概略を把握。全1巻で短く、かつ、絵があるので、理解しやすかった。
円地文子「源氏物語」(全5巻)を読んだ。谷崎潤一郎・与謝野晶子なども読んでみたかったが、「色」がついていることを警戒して避けた。円地文子はそれぞれの巻冒頭に、登場人物の関係図がついているがたいへんよろしい。これがないと誰が誰やらわからなくて困る。
その後、田辺聖子「私本 源氏物語」(続編も含め3冊)を読んだ。まあ、当然これが一番面白いわな。でも、田辺が源氏を枉げていると、私はあまり思わない。源氏の中で不幸せになりがちな女性たちを、田辺は強く・美しく描き、自ら救われるように描いていると感じる。田辺の源氏物語とその登場人物への愛情がなせるわざと、私は思った。今も時々私本源氏を引っ張り出す。
そうそう、大学の文学部に潜り込む、という野望は果たされなかった。それで良かったと思うけどね。

海街diary 吉田秋生
鎌倉あたりに行くことが時々あるので、読んでみた。
面白いストーリー展開。深刻になりすぎないようよく調整された「深み」。
マナスル初登頂者のお話が出てくる。私の大学時代、近くの研究所の教授がヤルンカン初登頂者(凍傷経験者)なので、ちょっと親近感。
様々な要素が相当の密度で進んでゆくが、相応の味わいもある。

●雑感
ミード(蜂蜜酒)を初めて飲む。
甘いことは甘いが、酸味も程よくあり、美味しかった。少し甘めの白ワインと言ったところ。
ともあれ、一つのミードで百のミードを語るなかれ(今思いついた格言)、すべてのミードがそうなのかはわからない。

ジャンヌ・ダルク。英語で Joan of Arc。相当に趣が異なる。
仏語では Jehanne d'Arc。いずれにせよ、Arcが地名というわけでもなさそう。

「なんて素敵にロマネスク」というのを思いついた。氷室冴子氏の「なんて素敵にジャパネスク」のパクリでござる。と言って通じる時代ではないかな?

生れかわる客車 国鉄客車鋼体化の記録 高砂工場  昭和28年制作
https://www.youtube.com/watch?v=K481r0Kh6gw
台枠は縦横に延長、車体は新製、車輪のタイヤははめ直し、台車のバネは新たに入れており、もはや「改造」の意味があるのか、と現代の視点からは思ってしまう。
また、床、内装、天井、椅子など木工品も多いが、丸太からの製材自体を国鉄工場が担っていたのも知らなかった。確かに大量に使うのであり、独自の規格などあればそうなるだろう。今となってはもったいないような無垢材を惜しみなく切り刻んでいる。
基礎的な資材の入手が困難であり、人手が余剰であるならばこそこうした手立てを採ったものであろう。
オハ61 379(米子鉄道管理局鳥取客貨車区?)および前身の木造客車が主人公。B50など後年あまり見かけなくなった車両がちらちら写るのが嬉しい。

1960年代 国鉄深名線 豪雪地帯を走る
https://www.youtube.com/watch?v=h-Cd4ESMFcc
機械式気動車キハ05が走っている。総括制御ができないのに、2量編成だ。北海道といえば、キハ22の印象が強いが、キハ22受け入れの素地がこうして作られていたとも言えよう。
前面4枚窓のうち、3枚は中桟があり、おそらくこの3枚が開くのであろう。当時の窓の構造・工作から言って、隙間風が入りたいへん寒かったのではないか、と思ってしまう。
Wikipediaでキハ05(キハ04)の記事を読むと、涙ぐましいほどの国産化努力をしつつ、スパークプラグとローラーベアリングはどうしても国産化できず輸入している。また、エンジンも米国ウォーケシャ製品に及ばなかったということである。昭和10年頃の日本の工業力を知る意味でもなかなか重要だと思う。

テフロン(PTFE)は、マンハッタン計画でも用いられたとのこと。
サランラップがもともと軍事用に研究されていたことも含め、感じ入る。

紛失した眼鏡発見。 庭木に登って作業していたところ眼鏡を落とした。棕櫚の葉の上に落ち、そこからさらに落ちたところを見ていた。
眼鏡なしで作業を続け、作業後木から下りて地面を探したが見つからなかった。何日も探したが見つからない。これが1ヶ月前。
道路に出ていったか、光り物を好むと言う烏が持ち去ったか、などと思っていた(あるいはKGBのスパイ説も)。
その後、野朝顔がはびこっているのを相当に片付けた。それもあって、庭が明るくなった。で、それら木々を眺めていたところ、落ちた場所の棕櫚の葉の下にある月桂樹の枝に、眼鏡が引っかかっていた。
眼鏡を畳んでシャツのボタンにぶら下げたりするが、ちょうどそんな具合に畳まれており、少々歪んでいるものの、大きな不具合はなかったので、洗剤で洗い、眼鏡屋さんで調整してもらい、ふつうに使えている。
慌てて次の眼鏡を買わなくて良かった。まあ、前の眼鏡があったし、老眼が進んで間近であればむしろ眼鏡なしで暮らしているので、そんなに困ったわけでもないので。
六十歳にでもなったら、オシャレ眼鏡でも作ろうかな。眼鏡屋さんで丸眼鏡を試すと、大正時代の人みたいで実に似合うが実に悲しくもある。
(山田参助氏をちょっと思い出す。彼のCDを買わねば)。

「翔んで埼玉」続編出来。
第一編公開時、埼玉県民なる知人が見に行った感想は「埼玉県は特に disられていない。他の県の方が disられていて心配」だった。
私が映画を見るに「埼玉県民の disり耐性の高さに恐れ入った」ところである。
ともあれ、どんな人でもゆかりのある土地に愛憎の思いがあって当然であり、それを超拡大して見せてくれる曲芸をこの映画では楽しむことができた。

日本大学の部活動には、3段階あるようだ。
競技部、学生部、サークル。
まあ、なんか変だな。大学改革を行うなら、こういう部分の方を直すべきと感じる。
大学生なんだから自主運営くらいしなさいよ、と思ったりする。まあ、事情はそれぞれであろうが。

某無名宗教団体の不名誉な新聞記事を見る。
まあ、そんなところなんだろうな。と腑に落ちてしまう。
私が若い頃持っていた宗教へのあこがれをきれいに粉砕してくれたことにはいささかの感謝をしている。

日本最初の地下鉄、上野・浅草間が開通したとき、待ち行列が上野・浅草より長かった、というお話が好き(ほんとかな?)。
移動目的ではなく、乗ること自体がお楽しみの「アトラクション」感覚だったようだ。
私が最初に銀座線に乗った時、時々車内が真っ暗になるのでびつくりした。ここで騒いでは「イナカモノ」だと思って我慢した記憶がある。
新旧雑多な車両で編成されていたが、まだ、リベット打ちの車両が混ざっていた。

忘年会。
外気が暖かいと気分が出ない。
寒い中、コートの襟を立てて移動し、店に入ってコートを脱ぎ、「や、今日は鍋だ」と喜び、熱燗を頼む。
鍋が煮えるまで、あれこれつまみながら、盃を傾ける。
温かい鍋を啜った後、帰路、火照った頬を寒風で冷ましながら歩く。
これらも昔話になるのだろう。

連続式の輪ゴム銃を作ったことがある。
感想は、
1)装弾がたいへん
2)弾道を見ながら狙いを修正してゆけば良いので、いつか必ず命中する。
というもので、1からは「工業化→輸送力→総力戦」と連想し、2からは「塹壕戦→戦車→工業化→総力戦」と連想した。
装弾における工業化とは、つまり、連続的に利用可能な弾薬セットの製造であり、弾丸つまりを起こさないような、高度な精度管理が必要ということである。
もちろん大量に消費される弾薬であるから、設計・製造技術・生産管理など全工程における一体的な技術力ばかりでなく、国家としての資源管理や工業規格の達成が必要である。
さらに、その弾丸を的確に戦場に届けなければならない。かんたんに言えば「輸送力」であるが、むしろ「物流システム」というべきであろう。
こうした生産力・物流力が必要となるとまさに国家全体が戦争のための生産と物流に総力をあげる「総力戦」と考えるべきだ。
ということで、ごく当たり前のことだが、物量戦すなわち総力戦である、という結論に至った。
あまりにも当たり前のことであり、この結論・思考過程は、人類にとっては些細な一歩に過ぎない。でも、私にとっては実感から当然の結論に至ることができたのだから、自分自身の巨大な躍進だ!

RIASの意味を始めて知る。「Rundfunk Im Amerikanischen Sektor: アメリカ軍占領地区放送局」
RIASのオーケストラ、合唱団は良い演奏を残している記憶がある。こういう意味だったのね。

渋沢社史データベース
https://shashi.shibusawa.or.jp/index.php
なんぞ凄いものがある。

偶然「目黒銀座」を通る。
なかなかいい通りね。私にはいささかお洒落すぎるけれど。
祐天寺の「カレーハウス ナイアガラ」も発見。
小学生の時分に雑誌「旅」か何かで見た覚えがある。四十五年程昔だ。店舗前の踏切遮断器と店主の笑顔の写真が、当時のあまりきれいでない印刷紙面にあったと記憶する。
関東に居住するようになり、そういえば行ってみたいと先日から思っていたのだが、偶然見つけてしまうとは。これまた面白いことである。
まあ、人が流れるような飲食店向きの立地であるということでもあろうけれど。

Google Photo
「この写真に「彫る」が写っていますか?」と訊かれる。
塑像を入れるべきか迷う。彫像はもちろん該当するのだが。直訳の弊害。

久しぶりに機械式メトロノームを使う。
錘の高さで速度を変えるのだが、錘の上端を目盛りに合わせるのを忘れ、下端を合わせる。
「アンダンテはこんなに遅かったっけ」と惑う。

真空管アンプの去就を考える。
そもそもロシア管をよく見かけたが、ロシアから物を買うのは、現在の私の好まないところである。
また、円が弱いこと、真空管の生産数が少なく、値上がりしがちであることを考えると、あまり明るい将来が考えられない。
まあ、私が他のアンプと使い分けつつ消費するくらいの真空管は購入可能であろうけれど。

「情熱の真空管」ペルケ氏亡くなったと聞く。
私は、アンプ実装には至らなかったけれど、トランス式DACは作って楽しんでいる。
彼の「生き方」や「考え方」にも興味があり、そうした文章を拝見した。たいへん尊敬できる方であり、貴重な情報の開陳にはまことに感謝している。
また、彼が紹介ししている音源もたいへん素晴らしいものであり、徐々に聴き進めているところだ。
一方、彼が比較的最近知ったらしいシベリウスの弦楽合奏曲については、私が昔から知っているものだった(演奏は違うが)。
世の中に発信する価値のある知識・情報は、私には乏しいが、わずかでもよいからこうした情報を世の中に発信すべきではないか、と考えている。

スピーカーについて調べる。
「フルートの音域にクロスオーバーを持たない。」って良いな。
https://jun.fishing-forum.org/2009/10/post-143.html
楽器弾きなら当然考えることだろう。
チェロならA線を220Hzとしてその2オクターブ上まで出すならば880Hz。も少し上まで出すと考えても1kHzあれば良さそう。
むしろ、下の方がC線が55HzのAのちょっと上。
現在、Dali Menuet II なるスピーカーを使っているが、再生周波数帯域70Hz~55000Hz、クロスオーバー周波数4.2KHz。
クロスオーバーは良いとして、下が足りん。まあ、人間の聴覚は、倍音から下の音が鳴っていると補完する機能があるので、ふつうこれで問題ないらしいが。

この点でいえば、Tannoy Mrcury m2 の48Hz~20kHz、クロスオーバー周波数 2.5kHz や、Wharfedale 515 の 42Hz~25kHz の方が優秀に見える。
Mercuryは古くてもっさりドカドカした音、Wharfedaleは地味にきらきらしているけれど、いわゆるカマボコなんだけどね。

古文・漢文不要説。
歴史に学ばなくて良いなら、これらは不要なのだろう。でもね、歴史から学んだ方が良いと思うな。
プロフェショナルとして古文・漢文の機微を学ぶ必要はないと思うが、我々が日々用いている現代文にも様々な形で忍び込んでくる古文・漢文があるのだから、それらに触れた時、「これは古文/漢文なのだから、現代文と勘違いしない方が良い」と思う感性は持っていた方が良いだろう。
まあ、自分は小学生だった時、親父に「新唐詩選」を渡されて読んでいた。そのお陰で学校の漢文で困ったことは一度もないので、特殊事例ではあろう。あれ一冊でマーラーの「大地の歌」までおおむね到達できる。

藤沢製本の事業撤退。
https://note.com/fujisawabb/n/n383bc1810b6f
こういう切実な話はなかなか外に出てこない。非常に貴重である。
(どうでも良い成功譚は表に出やすいが、本当に重要なことは出てこない。まして「撤退」においてをや)。

島根朋史氏の『J.S.バッハの装飾・弓使い』を聴講
音楽雑誌も買わず、音楽会にもほとんど通わず、教科書も含め音楽系の情報に接することが少ないくせに、楽器だけは長く弾いている人間には大変刺激的で面白かった。
まあ、「最新」であることに全く興味はないけれど、情報が多いがゆえにそれに縛られるのではなく、多くの情報の中でより自由により開かれた思考が出来、それによってより自由で楽しい音楽が花開くというのは大変楽しい。

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今週の戯れ歌

諦める事多かりし人生はただ欲深きと異ならざりける

「極深」のコーヒーなれど我が耳は「欲深」なりと聞きぞ違へる

心憂き諸々からは距離を置ける弱き我をば赦したまひそ

家を出るその気もなくて家を出れば「鬱」が後ろより我を見るなる

日を浴びて少し気分の晴れるならば無理にも家を出て正解なり

多忙とて家を出でずに過ごせれば心暗くして体も動かず

救援のあるかなきかを我は知らずただ救援に相応しくあれ

一日の終はつた如き蕎麦屋入りて酒も飲めぬは辛くありけり

河野永田のうたの本読み涙する我がうた斯くも高くあらざり

我は我の高くもあらぬうたを詠み高くもあらぬ生を生くべし

芸大生に畑を貸せる男ありその寛闊に耳傾けり

古き町の街道筋を通り抜けり造り酒屋の重々しき哉

駅からは遠ざかるほど家もなく林野の中に大学のあり

起伏ある山野の如き構内にのんびりとある大学や良し

田や畑を作品とする芸術家心に沁み入る我ら土の子

私からあなたへの言葉はもう尽きたあなたから私に言葉がないから

気持とて限りある資源と思ひ知る知りたくもない事実の悲しさ

言ふ程に悲しみの我にあらざりき随分前から予想されたこと

数多き自然現象の流れ来て我の片方を通り過ぎゆく

聊かの無関心なる視線もて通り過ぎたる現象を見ゆ

命あれば今年の秋もラフロイグ英国王も愛せると聞く

好き好み正露丸なる酒を飲みもの好きなるは我であるかな

酒場なる我を見るのは久しぶり酒を飲むのは常になるとも

好めるはトワイスアップの酒なれど少し冷たくあればさらなり

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読書の記録(2023年11月)

あの本は読まれているか ラーラ・プレスコット
なんとなう面白くもあるが、1950年代の米人女性に感情移入して読むのはちょいと難しい。で、露側・米側の話が交互に出てきて読みにくい。米露とも「女性は強い。男性はアカン」と言いたい小説なのだろうか。なんとなくテーマが読み取れず、あまり楽しめなかった。残念。

ともあれ「ドクトル・ジバゴ」が大きな「事件」であったことを改めて知る。
私自身は学生時代、新潮文庫になったのを喜んで急いで買った記憶がある。だが、その後新潮から再刊されないという。如何なる事情によるものやら。
そして、数年前に見たロシア制作のドラマは、旧ソ連の百貨店経営者が主人公であったが、禁書であるドクトル・ジバゴが少々登場した。主人公に探りを入れるKGB捜査官が職務で入手した「ドクトル・ジバゴ」を、学校教員である妻に貸し、妻は学校で学生に貸す。そして学生は電車内で読んでいる書を咎められ、捜査の手が妻にも及びかねないので云々・・・という筋であった。
これらは実話ではないだろうが、一方で、ソ連国内でも多くの人々がこの本に大きな興味を持ち、秘密裏に入手し閲読するケースも一定数あったのであろう。

「その日暮らし」の人類学 小川さやか
大企業=正規軍、零細商人=ゲリラ、と解釈することも可能かも知れぬ。まあ、比喩は比喩に過ぎず、受け取る側によって必ずわかりやすくもなく、正確でもないけれど。
どうやら、我々の日本社会は「きちんとしよう」としすぎて、社会が硬直化しているようだ。一方、ここに出てくるゲリラ的零細商人的な働き方は、まったく「きちんと」はしていないが、それ故に、柔軟に社会が動いてゆく。もちろんどちらも長短があって、一概に日本もアフリカ風に「その日暮らし」になるべき、とは思わないが、もちょっと「その日暮し」に寄ったほうが社会としての発展が望めるように思う。
東芝然り、ジャニーズ然り、政治や教育もまたそうである。まあ、前よりも余裕がなくなってゆく中で、必然的に「その日暮し」に寄ってゆく部分はあるのだろうが、もともとの「きちんとしよう」を捨てきれず、「その日暮し」への恐怖に身を固めた我々日本社会が柔軟に新しい体質を身につけるのは難しいであろう。
さて、本書がアフリカが舞台であるせいか、某日、アフリカ人が登場する夢を見た。私が列車(昔の急行電車のようなボックス席の車両だった)に乗っていると、アフリカ人の執事らしい男性が、「向こうの個室に席がある」といざなってくれる。それについて行くと、アフリカ人らしい女性のボディビルダーがにっこり笑って迎えてくれる。そこで私は「ああ、この人(夢の中では旧知である人)は実はアフリカ人だったのか」と思うのであった。
私にはアフリカ人の知人はいないので、たいへんステレオタイプな「アフリカ人」であり、ほんとうのアフリカの人々には失礼極まりないのであるが、私の脳内から取り出せない以上、ご寛恕願いたい。

蒙求
少しずつ読んで読了。
諸葛孔明の話題で、出典は「蜀志」となっている。我々「魏志 倭人伝」についてよく耳にするのだが、まあ、魏呉蜀と三国同時に並んでいたこともあり、それぞれ「志」があってもおかしくないのだろう。どうしても「魏志」というと、そのまま「倭人伝」が出てくるが、倭人伝はあくまでも魏志のほんの一部であって、魏志の多くは「魏国の歴史」である。

ゴッケル物語 クレメンス・ブレンターノ
ドイツロマン派の有名作家ブレンターノ。マーラーが作曲した「魔法の角笛」でお世話になっている。
現代の我々から見ると、冥いロマンティシュ・拙い稚さに特徴があるように思う。 我々(現代日本人)は、幼さに無垢を見、罪を見ることはあまりない。幼いものが誤りを犯すのは「保護者」の問題であって、本人を責める気持ちにはなりにくい。
一方、ここで現れる稚さはどちらかというと本人が責められるべき未熟さであるようにも思われる。そういった「冷たい視点」も含めて、ロマンティッシュ全体が「冥さ」に覆われているように思われる。森の奥の城の冥さ、人形が逃げ込む森の冥さなどなど。
E.T.A.ホフマンの怪異が生え出でる土壌はこういうところにもあるのだろう。
ふだんの自分の生活感情と異なる「遠く」に行くことができて、良い読書であった。

たくさんのふしぎ 「植物」をやめた植物たち 末次健司
いつもながら「たくさんのふしぎ」は面白い。あらゆる大学の図書館で購読されるべきではないか。

もっと!天幕のジャドゥーガル
https://souffle.life/author/motto-tenmaku-no-ja-dougal/
たいへんおもしろい。ジャドゥーガル本編ももちろん面白いが、その内容や疑問が頭に入っている状態で読めるのが大変良い。
東京藝術大学取手キャンパスに訪れた折、なかなか格好良いコートを来ている方がおられた。背中や襟から前身頃に向かって刺繍があり、結びボタン。ちょっと中華風でもない。聞けば、カシミール地方で購入したとのこと。後ろ姿の写真をとらせて頂いた。乙嫁語りなど好ませたまうとのこと。私はすかさずジャドゥーガルをお勧めした
(1. 格好いいコートのお写真がネット上にあるではないか。 2. 話しかけている相手がジャドゥーガルの作者である可能性は考えなかった。でも、可能性は充分あるよね。気をつけよう)。
https://omoharareal.com/navi/news/detail/3697

沈黙 遠藤周作
意外と淡々とした描写。こうなるしかないのか。それが歴史的事実でもある。そしてまた、取締側の考えもある意味目的に対して理屈は明確である。だからと言って今の我々から見て正当とはまったく言えないのだが。

大遠藤の用字に文句をつけるのは大変不遜であるが一言。
 甲板に凭れる→舷側に凭れる
 酒瓶が転がって→この時代の「瓶」とは「土瓶」なのだろうか?時代的にガラス瓶ではないと考えられる。また、「土瓶」が「転がる」ような形状か?そもそもこの時代に貧しい者が酒を買って自宅まで持って帰って飲むだろうか?さらに貧しい者がアルコール中毒になるほど酒を買うことができたのだろうか?さほどの強い酒が安価に購入できたのだろうか?などなど疑問。
以上、作品の本質には一切関係ない。

太子の少年 佐々木良
現代の奈良語に翻訳した万葉歌集。たいへん面白い。が、しばしば現代語の方が分からずに万葉歌の方を見直す私。
これが2巻で1巻もあるのね。

ノモンハンの夏 半藤利一
有名な書。冒頭を読んでいるだけで、現在の日本社会の状況にあまりにもよく似ていて、ページをめくるごとに気分が悪くなること必定。
無責任に調子の良いことを言っているヤツが出世して、調子良く勝手なことをして、それがため世の中がどんどん悪くなり、収拾がつかなくなってしまっているが、無責任野郎は相変わらず。
「ノモンハンは言われているよりソ連の被害は大きかった云々」の説もあり、それはそれで良いが、だからと言って不必要かつ不手際の極みであった事実は変わらないと思う。
(下士官兵が優秀であったことは、以前から言われている。)
また、ノモンハンにおける戦闘とともに、欧州・ソ連の状況が同時に動いていたこと、それに対する大日本帝国の対応も描かれており、益々暗澹たる気分になれる。
ともあれ、読んで良かったと思う。

清々と 谷川史子
再読。
後書きを読むと、作者にとって初長編であり、最初に設定を決めず途中整合をとるのが大変だったとある。まあ、それはそれで興味深い。
そう言えば、私は、「セーラー服のカトリック学校」というのを知らない。あるのかな?セーラー服の起源はとうぜん「水夫/水兵」の制服であるが、19世紀末から20世紀はじめ頃、女性や子供のファッションとして定着した・・・と記憶する。
小説「ヴェニスに死す」でも美少年タッジウがセーラー服を着ている記述があったように思う(映画と混乱しているかも)。
で、そんな軽薄なファッションをカトリックが認めるのかな、と私は疑問に思うのである。まあ、「知らんけど」。
なお、主人公たちが通う学校が「カトリック」とは明記していないが、マリア像の描写からすると、ふつうに考えてカトリックであろう(英国国教会とかもあるかも、だが)。
一部、登場人物たちの会話の論理のつながりがわからんところがあるが、若者どうしは論理を超えて勢いで伝わる、ということと理解している(これによって特に話が混乱して読者が困ることはない)。

歌に私は泣くだらう 永田和宏
歌人永田氏が妻河野氏の晩年を描いた書。今の私が読んで良かった。この数年に父母を亡くし、自分たちの順番を考えるようになった私には切実にして哀切。
書くことに迷いもあったというが、私は書いていただいたことに感謝する。
有名歌人夫婦という立場は私には理解し難いが、人として切実に生きること、自分の生を見切ることは、凡人とても異ならぬ、と私は思う。

最近、書店でも詩歌の棚があれば、近寄って眺めることが多くなった。とは言え、韻文だけを読み続けるのは疲れるので、散文韻文混じりがいちばん楽しめる。
さて、過日、神田須田町の蕎麦店「まつや」に行った折、「季刊 新そば 174」を頂いた。久しぶりの「まつや」でもあり、久しぶりの「新そば」でもある。
帰宅してページをめくるに驚くべし、巻頭に永田の文章と短歌がある。こうしたご縁にはなかなか楽しく驚かされるのである。
また、こうした小冊子に書かれた随筆を読むことを、私はなかなか好いているのである。

●雑感
『炭坑節』mmm+ジンタらムータ+久下惠生
https://twitter.com/nyantokonyan/status/1718460113198162005
謎のバンドによるゆるゆる演奏。とてもゆるくていい気分。
だが、うたのゆるさに比べ、管楽器がきれいに吹いているのが、少し気になる。キレイな音の欺瞞性。音楽の商品化というか。
昔、佐藤しのぶと和田あき子のデュエットというものすごいものを聴いたことがある(テレビで)。
どちらも歌手として一家を為す人であり、それぞれに聴く分には、私は大変好きなのだが、同時に歌われると、オペラ歌手の欺瞞性(っぽいもの)が気になるのであった。

カニササレアヤコ氏の笙を聴く。
カニ氏「子供騒いでもいいよ」とのこと。お子さんたちも声を出していたけれど、なんか音楽的だった。ふだん耳にする笙の音は、お祭りのそれだったりするので、社殿の奥から笙が聞こえる一方、屋外のざわめきや綿菓子に喜ぶ子供の声が混じったりする、そういう感じで、立体的音楽である。
そこでリゲティを思い出しておく。関係ないけど。
https://www.youtube.com/watch?v=8ZKaMuALMMY
https://www.youtube.com/watch?v=w0Tvj83xqDw
バーバラ・ハニガン氏についても忘れんようにしよう。
笙。登場の場面でもの凄く息が長いと思ったら、吸っても吐いても同じように音が出るとのこと。もちろん、循環呼吸や気嚢について考えましたよ。バグパイプみたいな空気袋とかね。
思いの他の表現力で、でも、遅い曲の方が多いのかしら。多声の曲もそこそここなせるようなので、シベリウスの「祝祭的アンダンテ」とか、マレの「人間の声」とかイケるかも(いや、演奏できるのか分からないが)。

先月のヴィオラ・ダ・ガンバを思い返す。
一般人の感懐として、ガンバとチェロはそっくり。楽器弾きの感想として、ガンバとチェロはまったく違う。
類似点:構え方(大域的な形)、弓の軌道、左手の押さえ方(たぶん)
相違点:右手の構え方、右手の軌道・使い方、左手はフレットがあっての押さえ方なので、チェロの押さえ方とは異なる。音色。どこを押さえてもフレットがあるせいで、基本的に開放弦の音がする。おそらく、弦の張力や指板からの高さの関係があり、チェロは押さえる分の張力付加が効いて音程が変わるが、ガンバにはそれほどの音程変化がない。
基本的にチェロは「張って、張り詰めて音を出すもの」だと思う。一方、ヴィオラ・ダ・ガンバは「緩んで緩み抜いて音を出すもの」だと思う。もちろん、チェロで抜くこともガンバで張ることもあるだろうが、基本的な立ち位置というか、方向性はこれで間違いないと思う。その点が大きくことなり、右手を上手で使うか下手で使うかはここにかかっているように思う。

ついでに、「通奏低音を弾いたことがあるか」問題(勝手に問題化)。
学生時代、オーケストラにいたけれど、全てが楽しいわけでもなくいささかの苦痛なきにしもあらず。まあ、人間の社会にいれば仕方のないことであるが、その時、自分の楽器演奏においてオーケストラの比重は1/3しかない、と思っていた。1/3が一人で弾く。1/3が通奏低音を含めた室内楽。と思っていたように思う。それゆえ、オーケストラなどいつ辞めても良いかな、と。
さて、高校時代、バッハの管弦楽組曲(2番・3番いずれも序曲を除く)を弾き、それが通奏低音(ぽいの)の弾きはじめ。 大学に入ってすぐ、ヴィオラが初心者で同級生でカルテットはできないので、バッハの2本のヴァイオリンのトリオ・ソナタ(おそらくBWV1036)を弾いた。生き生きとしたいい曲だった。最終楽章がフーガなのも良い。自分にフーガ趣味があることを発見した最初だった。 また、学生時代のある日「伴奏ピアニストが熱を出したので、午後の小さな本番でヘンデルのフルート・ソナタの通奏低音を弾け」と言われ、急遽弾いたこともある。打ち上げで酔っ払った写真が手元に残っている
社会人になってから「音楽の捧げもの」のトリオ・ソナタを弾いた。これにドメニコ・ガロを加えればおしまい。多摩にしか弾けないがそれぞれ楽しい通奏低音生活ではあった。今後も引き合いがあって欲しいものである。
「音楽の捧げもの」は辛いけれど楽しかった。何故か、池袋のマレーシア料理屋さんが練習会場であって、昼営業の最後に集まって昼食をいただき、机を片付けて練習。練習の合間にお茶を入れていただき、夜営業に向けて机を出し直して練習終了。フルートの方がマレーシア料理屋さんに可愛がられていたから、らしい。そういうのも忘れがたくて楽しいね。
あ、一度だけプロアマ混成の「マタイ」の2番Vcをもらったことがある。でも、友人の結婚式と重なって断念したのだった。あれは惜しかった。

多摩美術大学・東京農業大学のお祭りに行く。
どちらも「自分たちが作ったものを様々な人々に見てもらって(食べてもらって)喜んでもらうのが嬉しい」という気持ちは同じ。

農大生が多肉植物の最後の一つを売らんしていた。だが、売り方が「芸」の域にまで高まっており、それを聴くのが楽しい。となると、「買ってしまうと、この『芸』が終わってしまうのか」と思い、買わずにしまうという連鎖が起こる。
多くの方々がこの売り声を楽しく聴きつつ結局私が見ているうちに多肉植物は売れなかった。
人間が生きてゆくには、こうした「お祭り」が必要なのだろう、と思い至る二日間であった。
こうした若い人々の楽しい様を間近に見せて頂いて、感謝。

平安伸銅のラブリコ
https://www.lmaga.jp/news/2023/11/750354/
ラブリーコングの色は「モーブピンク」とのこと。
モーブ色ってば、「失われた時を求めて」でもちらっと出てくる象徴的な色だったような。また、昆虫学者アンリ・ファーブルが茜(植物)から染料を取り出し商業化しようとしていたのを断念することになったのも、この人工染料の影響だったような。レジオンドヌール叙勲の際も、染料試作のために指が赤く染まっていたはず。で、モーブは最初期の人工染料のひとつで、非常に流行したというもの。
ラブリコ動画の制作意図にはこのような文化的重層性があるにちがいない(嘘)。

立川志らく氏。話題になる。
この方が演じようとしているのは「江戸っ子ぽさ」なのか、「立川談志の弟子っぽさ」なのかなんだか分からないが、その表層的な演技が鼻につく。
「何だかわからないが、『何か』を演じようとしている」と見ている者に感じさせるのは、演技者として欠けている点があるのだろうと思う。
柳家小三治が「郡山剛蔵」といい、春風亭柳昇が「私ももとは陸軍軍曹」という。これら虚実皮膜の域には遠い。

柔道の山下氏頚椎骨折とのこと。
希死されていたのかも、と思う。
まず、柔道家が転倒すること自体が疑問であり、さらに転倒したとして、受け身も取れないことが疑問である。
さらに言えばこうした素朴な疑問に一切触れない報道が不思議である。
彼はかつて「国民的英雄」であらせられたが、東京五輪では関係者の贈収賄など良い話を聞かず、最近お写真を見るに生彩がない。
ご自分でも身を誤ったと思っているのかも、と思う。早くお辞めになれば良いのに、と私は感じていた。
(陰謀論に与するならば、東京五輪問題で表に立たせないために「消された」と考えたくなるぞ。)

プロレス。話題になる。
昔、何かの番組を見ようとしてテレビのスイッチを入れたところ、プロレス番組の最後の部分だった。 誰もいないリング、熱狂の残ったホールの様子。そして、テロップに、これから毎日各地で興行が行われるとの告知が流れた(確か北海道だったので、旭川、帯広、釧路・・・のような感じだった)。
これを見た時、プロレスには筋書きがあるに決まっている、と思った。偶発的な状況任せで毎日安全かつ楽しい興行が出来るわけがない、と思った。
でも、だからと言ってプロレスが楽でインチキな商売だとは思わない。非常に高度な訓練と最高の肉体のぶつかり合いを見せる、尊敬すべきショービジネスだと思う。
まあ、「プロレスに筋書きがある」という事は、かつては『言わないお約束』だったのかも知れないが、今となってはあまりにも<公知>なのではないかな。
手品だってタネや仕掛けがあるに決まっているが、それが分かっていても、本当にそうは見えないし、だからこそ楽しいし、安心もしていられるし、そうした面を満たしていることに尊敬できる。NHK手品講座で、Mr.マリックが初心者向け手品を演じて下さったが、まさに「ほんとうごと」に見え、身震いするほど嬉しかった。
こういう言い方自体今の世の中に合わないと思うが、「男らしさ」を商売にするプロレスの人々が、「女性」に文句をつけているようでは、<情けない>と感じてしまう。そこは「男らしく」鷹揚にすべきでないの?文句を言うなら、もっと強そうな奴らに立ち向かうのが「男らしさ」でないの?営業上必要な「男らしさ」を自ら毀損していないかな?

「たわまん」現代語としては「たわーまんしょん」。
米朝の聞き語りを読んでいると「撓まへん」と出てくる。「撓まん」。大きな地震の時「たわまん」は撓んで揺れを吸収するが、ふだんは「撓まん」のか?
米朝の弟子も様々で個性的である。こういう師匠は偉いなあと思う。
まあ、個性的でない落語家・芸人というのもどうかと思うが。

Chloe Chua氏のブルッフ
https://www.youtube.com/watch?v=seGGLTnuqYM
たいへん情熱的で明晰で面白い。最終楽章のこの緊張感までどうやって高めて行ったのかは気になる。
「花なければ萎れどころ無役なり」は風姿花伝にある芸の極意らしいが、この方の「萎れどころ」はどこでどうしているのだろう。
オーケストラはこの前後の曲に何を並べ、どのように演奏したのだろう。
(私はヴァイオリン弾きではないけれど)、このような若くて有能な方を見るにつけ、職業として音楽を選ばなくて良かった、と思う。
まあ、トゥハチェフスキーが望んだように「どこかのオーケストラの第二ヴァイオリンの後ろの方で弾いていたかった」といった感懐があるのも知ってはいるけれど。

映画エイリアンで女優シガニー・ウィーバー氏が坊主頭になっている。
その姿を見て、急に思い出したことがある(これ自体随分昔の話だが)。
昔、私が小学校低学年だった頃、父母の友人が急に自宅に来たことがある。
どうやら、奥さんが脳の病気(あるいは怪我)で大阪にある実家近くの病院で手術をした、夫としてもちろん会いに行くのだが、心細くてならない、といった話があったようだ。
で、翌日、「大阪に行くぞ」ということで、そのご友人と私達一家四人で自動車に乗って出かけた。
大阪の仕舞屋に到着し、奥から出てきた女性が坊主頭だった。
そのことを私は半ば忘れていたのだが、映画エイリアンで女性の坊主頭を見た瞬間に、この記憶が蘇った。大阪の仕舞屋を背景に、明るく微笑む坊主頭の女性。
女性というものは、髪が長いものだと思い込んでいた私に、それは衝撃だった。そして髪が長くなくとも、まぎれもなく女性を女性であると感じることにも驚きがあった。 「それでは」と言って、我が一家は車を帰路に向けた。母からは「大阪でも奈良でも何処にも寄らなかった」とずっと父は非難され続けていたけれど、「奈良で鹿を見た(木の間隠れに鹿が見えた)」と父は言う。
まあ、それで良いのだ。そういう行為が父らしい。自分が出来ることはしっかりする、それ以上ベタベタしない。大阪の仕舞屋の前で自動車から下りもしなかったのではないか。少なくともどこかに駐車すらしていない。そういう父だった。

昔、安房トンネル開通前、安房峠をオートバイで越えた。秋のはじめながらとても寒かった。
釜トンネルの手前でタクシーに乗って上高地入りした。タクシーに相乗りした方が古今亭志ん朝師匠だったのではないか、と思うが、今となっては確かめる術もない。
「気ぃ使わなくって良いんだよ」という口調で、「この方はもしや」と思った。テレビで見知った師匠ではあるけれど、観光とて着物を来ておられず、さらにあの頃のテレビの解像度では、とてもご本人の顔は覚えられなかった。

鉄道の操車場にあった「カーリターダー」。「車両(カー)減速装置(リターダー)」とでも訳すべきものだろう。
でもそうした情報がなかった時代「カーリ・ターダ」かも知れない、と思っていた。
インドの詩人「カーリダーサ」の名を聞いた時にも、とうぜん「カーリターダ」を思ったのであった。
字句の切れ目が分からなかった、という点では「プエルト・リコ」「シャン(ズ)・エリゼ」等いろいろあった。
そう言えば、フランスで我が国の誰やらが「アンヴァリッド」を訪問されたとか。昔は廃兵院(あるいは廢兵院)と言っていたが。 Les InvalidesのValidは「ばりでーしょん」などと技術用語としてその道の方なら日常お使いであろう。

詩と音楽のイベントに行く。
そう言えば、「詩」について人と語り合った経験に乏しいことに気づく。私の両親は、詩歌のひとつも暗唱できねばという人々であり、時々好きな詩歌について語ってくれたが、自分が発言したのは、子供の頃きょうだいとアポリネールの和訳のヴァリエーションについて話し合ったくらいであろうか。まあ、書物の話も学校などで滅多にしなかったので、その仲間ではある。
やはり、詩は読んでもそれなりに面白いが、言葉として発せられての楽しみが多くあるように思った。一方で、私は音楽をいちいち細かに捉えすぎていて、音楽と詩がある時に双方を理解するのが苦手なことにも気づいた。そう言えば、10年くらい前うたを歌おうという機会があったけれど、自分の脳内での歌詞の処理が本当に下手くそだと思ったものだった。まあ、それで困る生活をしていないけれど、私の脳内の「音楽」が非常に器楽的であるらしいことは覚えておこう。

接待文化について読む。まあ、あれを「文化」というべきかはアレだが。
以前見た、中国の歴史ドラマで、「格好いい共産党の大人(たいじん)」が、国民党系の警察署長を拉致させ、一緒に食事をし、その際の記念写真を撮るというのをしていた。大人は終始にこやかで温厚だが、署長とすれば、こんな人物と「仲良く」している写真はそれだけで致命的であることはよく分かっている。もちろん、大人にしてもそれをよく理解しての記念写真であり、「何かあったら」然るべき使い方をするぞ、という暗黙の恐喝を行っているのであった。
もしかすると、すべての「接待」には「悪いことを一緒にしている」感が大切かもね。私はその大切さを理解したいと思わないが。
私には「お客さんと食事をする(お酒少々を含む)」程度の経験しかないが、1度だけ「女性つき」をやったことがある。

とあるお客さんの要請で田舎宿にコンパニオンさんに来てもらった。まあ、詰まらないことこの上ない。何も話すことがない。私が世間的な、ゴルフ、麻雀、野球、テレビ番組などに興味がないからだが。
よくまあこんな田舎にまで、と思ったが、自動車に載せられてわざわざ来るらしい。帰る時間をやたら気にしていた。
結構良いお金を払い、お客さんもお喜びになったし、私も人生でただ一度のそういう「接待」を経験できたので、大変良かった、というべきだろう。
20世紀の末の話だから、もうそんな職業は廃れている、と思いたいがいかがであろうか。

まあ、あんなものはなくなれば良い、と私は思っている。知人(理系)は、「令和になっても文系の奴らは昭和の酒の飲み方をしている」と言っていたが、今尚接待文化があることとおそらく地続きであろう。
私は「同じ釜の飯を食う」重要性は理解するが、「悪いことを一緒にしている」のはこれとて東アジア的かも。

昔、とある社長の武勇伝(出版されている)の中に、「借金して接待する」といった記載があり、それって、会社の経費として許される以上に接待しているということであり、社会通念上まずいんじゃないの、と思った覚えがある。

暑い間は、「冷やしたぬき蕎麦」を研究していたが、寒くなったので「おかめ蕎麦」に鞍替えした。 どちらにせよ、蕎麦を食べる前に写真に撮っているだけだが、五反田の海老民では写真を撮ってくれるなとのこと。よって文章で記録する。
こちらのおかめ蕎麦は、かまぼこ3枚、麩1つ、伊達巻1切れ、なると2切れ、しいたけ半分、たけのこは縦裂き1つ、わかめ1盛りだった。

東方的バッハ
https://www.youtube.com/watch?v=RmBG9g68SnY
なかなか面白い。東ローマ帝国ビザンチン風ということなのだろうか。1453年に東ローマ帝国は滅んでいるが、だからといって、コンスタンチノープルのキリスト教徒が滅びてしまったわけではなく、こうした演奏があり得たかも知れない、と思う。

パトリシア・ヤナーチェコヴァさん亡くなったと聞く。
https://www.youtube.com/watch?v=mVUpKIFHqZk
新婚間もなかったとのこと。無念。

la musica collana の演奏会に行く。たいへん楽しかった。
私が楽器奏者に求めたいのは、「歌いくち」と「音色」。おそらく音程も求めているが、音程は音色の一部と解釈しているようだ。音程悪くて音色だけきれい、という人を私は見たことがないため。
楽譜というのは、音楽の情報の一部にしか過ぎず、「楽譜どおり弾く」というのは音楽の具体性を積極的にそぎ取るという態度だと思っている。いわば、一軒の家の間取りだけ見て家を建てるようなもので、外壁の色、屋根の材質を一切考えませんと言っているに等しいように思う。
LMCの皆さんは、床と天井と内壁はどのような材質のどのような色にして、それぞれを調和させるか緻密に考え、ひとつの緊密な「室内環境」を作り上げているように思う。そこに穏やかに浸っていても楽しいし、細かな工夫を見ても楽しい。素敵な壁紙のように遠目には落ち着きがあり、近目には隠し模様がある、そんな感じだ。
というわけで、暫くこの団体に貼り付いてみようと思う。私もクラシック音楽歴が長く知らない曲が少なくなってきたとつまらなく思っていたところだが、アンコール以外すべて噂のみ知る作曲者の知らない曲だった。

日本民藝館に行くが、臨時休館。
ホームページを見直すとたしかにそう書いてある。だが、私以外に同時に三人が休館に驚いている。これは、民芸館側の告知不足であり、ホームページのデザイン不備ではないのかな?
近所の前田侯爵邸に行ってみる。ここもいくつかある入口には「自転車持ち込み禁止」とのみ書いてある。この表現も有害無用で「自転車の方は北側正門にお回り下さい」と書くべきではないかな?
ワインバーグの名著「ライト ついてますか?」を読むべき。まあ、如何にも近視眼的小役人的態度ではある。

東京藝術大学取手キャンパスに行く(取手藝祭)。
常磐線に乗って取手駅を通過したことはある。でもTXが出来る前だから十年以上前だろう。あの辺りの駅、一度下りてみたいと思いつつ、初めての降車。 本当は東口に出なければならないが西口に出てしまう。列車前より・後ろよりふたつの改札は東西両面に出られそうに見えてそうなっていない。こうした表示類が不親切なのはあまり人が訪れない地域の性である。結局、東口のバスには乗れそうもなく、タクシーを使ってしまう。結果的にバス代の8倍程度かかる、と計算された。
タクシーは古い街道筋を走る。造り酒屋さん(味噌屋さん?)などあり、大変趣深い。そして、段々人家がまばらになり、森に入りかかったところに門があり、その奥の丘の中にキャンパスがある。なかなかに長閑。夜は真っ暗ではないかと心配にはなるが、なんとなう芸大生もそんなことを気にしなさそうに見える。

取手キャンパスには、先端芸術と美術教育の方(その他)が居られるらしい。
田園地帯にあるだけに、作品もまた、ちょいちょい農産畜産寄りのものがある。あらゆる人間は土から生え出でる物を食べなければ生きていけないのだから、芸術もまた土から生え出でるべきではないか、と私は思うし、このキャンパスはある程度それを体現しているのではないか、と思う。「豚のとちく」(白川深紅さん御作品)を扱った作品など大変心に残る。植物を描いている大作も見たが、都会の公園にある植物ではなく、野にある植物であるように見えた。これらもまた「土から生え出でる」の好事例と感じる。
地元の方が多数参観にお出になっているらしいのが大変好い。「近所だから毎年藝祭に来ている」「うちの畑を芸大生に貸していて・・・」という会話の前ふりがとても好い。だからと言って恩着せがましいでもなく、暖かくもきちんとした距離感もある。なんだか、短いやりとりしかしていないけれど、取手の人々に好感を持ってしまった。藝大はいい場所を見つけたものだ、と感心した。
その意味で、このキャンパスを見られて大変良かった。大学に無関係な者の願望としては、音楽科の方もこの地を訪れたり、人々と触れる機会を持ったら良いのに、と思う。

これで、(1)東京藝術大学(上野)、(2)武蔵野美術大学(本校)、(3)武蔵野美術大学(吉祥寺。通っただけだが)、(4)多摩美術大学(八王子)、(5)多摩美術大学(上野毛)、(6)女子美術大学、に加え、(7)東京藝術大学(取手)が並んだ。私の無意味な美術系大学めぐりコレクション。
日本大学藝術学科、東京造形大学に訪れれば一応東京の美術系大学制覇だろうか。
他に、北海道教育大学旭川校の美術家卒業展を(偶然)見たことがあるのと、愛知県立芸術大学に行ったことはある。私の無意味な自慢ではある。

取手駅でお手洗いを借りた時、並んでいた方が「関東鉄道常総線列車衝突事故」の事を語っていた。私も実は、「関東鉄道」・「取手」などと聞くとついこの事故を思い出してしまう。
調べると1992年6月2日。もう30年も前のことなのか。そして、今尚人々に思い出されてしまうのか。逆に言えば、鉄道の事故は非常に少ないのだろう。Wikipediaの航空事故リストなど見ていると、(世界中様々な土地で飛行していることもあるが)毎年のように何らかの事故がある。また、自動車の交通事故など言うに及ばずで、思い出せるような事故などほとんどない。
(自動車事故で覚えているのは霧の中で150台以上の多重衝突くらい)。

会津高原のペンション「ラフォリア」さんは今月末で閉業とのこと。以前、ラフォリアについて調べた(検索しただけなんだけれど)時、見つけたもの。
「ラフォリア」は、スーパーマーケット、マンション、花の名前などになっているが、本来は「empty head」あるいは「fool」の意味なので、命名としてちょっとどうかな・・・と思っていた。
でも、ペンションであれば、「まあ、頭を空っぽにして寛いで下さい」とも読み取れて好い名である、と私は思った。昔調べたのも20年近く前であろうから、閉業しても宜なるかな。

結城浩氏の「数学ノート」を久しぶりに覗いてみる。「音楽と数学:音は波」。基礎的なところ。
このあと、和音や音色について入ってゆくのかなあ、とドキドキ。
私としては「子音(的なもの)」と「母音(的なもの)」も気にしている。トランジェントと定常音みたいなことか(こういう用語があるか知らんけど)。

人間の記憶には意味記憶と物語記憶がある(というのは大変重要な情報だと私は思っている)。
数学は純粋に意味だけの世界だが、そこに物語を付け加えることで、記憶の定着性を向上させる試みが数学ガールの趣旨だと感じる。
以前、読書会で意味と物語が相半ばする書物を読んだ時、意味と物語への興味の度合いが人により極端に異なることに驚かされた。
いわゆる理系は意味を、文系は物語を愛好していた。

昔々、私、「最大の台風(大きさのスケール、および、風速)がどのような物理定数に依存しているか?」を考えたことがある。
粘性とか気温勾配みたいなのが支配因子だろうと思いつつ、別に研究畑ではないので、もちろん放置。
神山氏(お茶の水女子大学の気象学教室)が同じようなことを考えて居られる。自分の疑問が正当なものであると知れて嬉しい。研究成果をお待ちしたい(私が理解できるかは別)。

日本大学の部活動が廃部とか。
私が所属していた大学オーケストラは、基本的に「学生が勝手に(任意に)」やっているものであって、大学から施設を借り、光熱費を頂いているものの、運営の主体性は学生にあった。
演奏会、選曲、指揮者・ソリスト・トレーナーの選定・交渉、練習計画、合宿・演奏旅行の企画・交渉・運営などなど。
であるがゆえに、「大学側が運営している運動部」というものが今ひとつ理解できない。
まあ、色々あるのだろう。大学オーケストラでも、学生が入れ替わる一方、長く指導する立場にある「悪い大人」がいたりするらしいから。
(社会的に掣肘されても仕方がないレベルの「すごく悪い」場合と、社会的には問題ないが、「まあもうちょっと学生のこと考えてやれよ」くらいの場合の双方を聞いたことがある)。

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今週の戯れうた

蕎麦喰へば母の供養になるならむ父の供養は酒を飲むなる

蕎麦酒で父母の供養になるなれば我が父母の気安かりける

行く宛もなき休みの日まずは家を出てまずは蕎麦屋に向かってはみむ

寒風の噂を聞けばカレー蕎麦七味もちよいと振りかけてみる

箸持てぬ若者の饂飩食べるなる何も言えない我の悲しき

益体もなき番組の流れおり昼の眠たき蕎麦屋のテレビ

休みの間出校とてか騒がしき若き人らの華やぐる朝

珈琲を好みし祖父の墓前には豆を供える慣わしのありき

独り言多き己を恥ずるべし孤独に慣れぬ心地こそすれ

独言の代はりに暫しうたを詠みさしたる中身のありはせねども

久方に知らざる土地に来たならば細かき所もなにかにと見ゆ

燃えるやうに輝く紅葉前にして楽しむ心誰と分たむ

若き人の創作数多見るにつけ傍観者なる我を思ほゆ

我もまた創作せむと志せど「時」の流れは残酷なるべし

何もせぬ我が来し方を思ひては創作者らの尊かるべし

さまざまの作品を見る歓びは己の無才と関わらざらまし

何故うたの我より出ずるか知らざりき知りたき気持もまるでなきなり

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今週の戯れ歌

さまざまの人の来たりて去りて行き嗚呼かの人たちの何処にかある

寂しくも透き通りたる青空の我を誘ふ旅へ出よとや

寂しさは行く宛もなく歩き出し只北を指し歩を運ぶこと

寂しさは何処に居るのか解らざれどさして問題もなく過ぎること

鄙びたる稲荷銀杏の散り敷きて彩なる秋の静かなるかな

行列のラーメン店を横に見て蕎麦手繰らむと暖簾潜れる

たぬきちらし名前宜しき蕎麦のあり海老天乗るも喜ばしきかな

蕎麦頼み冷たくて良いか問はるるも心安らぐひと時なりける

お下げ髪の娘ゆかしき白上着蕎麦の味をや増せに増すなる

子連れ多き蕎麦屋の我に宜しかる我また子供と異ならざりける

昔来し路を再び歩きをり路も変はれり我も変はれり

豆を煮る匂ひ静かに漂へり裏の長屋の秋の夕暮れ

人老いて草木茂れる庭のあり人も草木も静かに動かず

歩いては座りお茶飲む我なればはや老いたりといふべかりける

庭先に図書貸出の家のありその日溜まりの暖かるべし

ごゆつくりと声掛けられて嬉しきは独り歩ける余得なるべし

古材のカウンターに肘つけばうたのひとつも自ずから出ずる

愚かなる我人の恋しくて目立つやうなる振りもなすらむ

愚かならば愚かなるまま大人しく人に隠れて棲みてあるべし

愚かさの我を覆ひてあるならばその愚かさを見るも能はず

通らざる路を惜しみながらも通れるは唯ひとつの路人生のやうに

坂の下の大きなお寺の境内に落ち葉散り敷く少し寂しも

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