合宿に行く日

(今後種々追記するつもりだが、一旦ここに置く)。

弾けもしないし、そもそも楽器を所有していないヴィオラ・ダ・ガンバとバロック・チェロの合宿に行くなど無謀かつ傍迷惑この上ないのではあるものの、主宰者のご厚意で混ぜてもらいました。
主宰者/講師陣/参加者/支援者の皆様に感謝しつつ、以下雑なメモを書く。
私のためのメモなので事実と雑感が混ざっている。よってしてメモのアカンところは皆私のせいである。

●特に大切な情報
Shapeとmessa di voceと修辞学で音楽を作る。
 旋律というよりも「ことば」に近い(?)
 私が「歌いくち」ということばで表現してきたものと相当程度重複する。
 Shapeは、左手(リズム)は崩さず、右手(音量)でつくる。

和音が大切なところは和音に語らせる
 ヴィヴラートはかけない(控える)

18世紀フィンガリングは飛ばない(大きなポジション移動を避ける)。
19世紀は飛ぶ
 ベートーヴェンの四重奏をどちらで弾いても良いが、ベートーヴェンの前提は当然18世紀
 ベートーヴェンは意外と親切
 ベートーヴェンは様々な奏者から影響を受けている。時期によって書法が異なるのもこれが理由

バッハ当時のドイツのチェロ奏者は弓を「下持ち」していた(上持ちがいなかったということではないが)。
 無伴奏も「下持ち」を想定している可能性がある。

●教えて頂いた諸情報
昔の欧州では都市によって音程が異なった。
 音程の違いはパイプオルガンや管楽器に依存。
 弦楽器はそれに合わせる。
 400未満〜466とか480とか!

移動する音楽家は必要に応じ音程を変える。
 弦楽器はかんたんに変えられる。
 声楽は上限↑・下限↓が大変。
 音程が高い都市で弦が切れた・・・というのはしばしばあった。

よってして弦楽器は「ある程度変動する様々なチューニングに耐えうる」と思って良い。
 国際会議で440Hzと決めているが、パイプオルガン等では気温による変化もあり、それも国際会議で決めてある。

たまたま見つけた解説
https://note.com/kagefumimaru/n/n22cc9c00a2dd
 パイプオルガンの「調整」の基本は「削る=高音側に合わせる」。  調整頻度が高いオルガンは高音化しがち。昔の音程を知るためには調整していない(貧乏な町の)オルガンを探す。

なお、チューニングの国際規格は ISO 16 らしい。今どきのISOは一万いくつなので、二桁ISOってば凄い。

●合宿での設定
合宿で採用されたチューニングはA=415Hz。ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ共通。
チェロはエンドピンなし、弓は下持ち推奨、少なくともバロック弓が良い。
(私だけ金属弦、上持ちの現代弓という申し訳無さ。エンドピンなしで弾くのはおそらく高校生くらいでフザケて始めた気がする。正しい奏法であるかはわからないが、エンドピンなしでもほとんど無問題で弾ける。ついでに言うなら、以前、あまり楽器を練習しやすくない環境で暮らしていた頃、エンドピンを出さずに日々の練習をしていたこともあるので、エンドピンがなくてもなんだかふつうなのである)。

●レッスン
自分が出来ないところに助言を頂く式でお願いした。安直でアカンとは思うものの、初レッスンでもありお許し頂いた。
(非常に後ろ暗いことを書くと、「ある種のレッスンにおける教師の実力を見る」にもこういう方式は有効かも知れぬ。後ろ暗いけど。でも、今回はそういう意図はなく、単にこちらの準備ができていないからこの形式にして頂いたのである。でも、後ろ暗い見方をしたところで結果的に「先生の実力」は「圧倒的」すなわち「愚問賢答」の類であったことよ)。

モーツァルトのクラリネット五重奏曲第一楽章のいくつか
・アルペジオ
 強弱のShapeを考えるべき。全ての16分音符を等しく弾くのではない。
 強弱であるから右手で表現すべき。
 左手(リズム・テンポ)は歪めず、強弱のみ
 16分音符ごとに「強中弱弱」などとすることで、左手も最後まで強く押さえす必要が減じてポジション移動が楽になる利点もある。
 (これらの点はガット弦における「左手より右手で表現することが多い」を前提にしているように感じる)。
 (このパッセージはA=442Hz調弦だと弓が弦を噛みにくく演奏しにくいが、A=415Hzだと演奏しやすい。ただし、ずっと415にしている時と変化させた時で同じであるかは分からない。楽器および演奏者奏法のヒステリシスの問題)。

・旋律
 各Shapeの末尾が半音か全音かは重要であり強調すべき。
 (先生ご自身なら)第一ポジション周辺で弾く。

・最後の音階
 Shape重要。当然であるけれど。
 大きな山(これも含めた4小節をMessa di Voceの対象と捉えるべきだろう)が重要。先生ご自身はアップ弓から入る。
 高いポジションに行くより、低いポジションで移弦する(任意)。

(以上、私の文章では「当たり前」の内容に堕ちるけれど、模範演奏がシビれる良さであったことも特筆しておきたい)。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番のいくつか
 最初のテーマ(繰り返し出てくる)はヴィヴラートを大きくかけるべきではない。
 音型そのものに意味がある。Shapeが重要。
 pでは4小節ひと弓でも良い。遅い弓にする際、前の小節の後半から遅くする方法もある。
 ひとつの楽器でも役割は激しく入れ替わる。バスの役割はティンパニ風に短く。

●チェロアンサンブル
4Vc でモーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスを弾いた。
以前も弾いたことがある(調性は異なる)。
が、その時は、「わけのわからん変な曲(チェロで弾く価値を見いだせない)」と思って終わった。今回もどうなることやらと思っていたが、完全に覆った。この曲はやることをきちんとやれば音楽になる。
とは言え、こんなかんたんな事がわかっていなかった私(チェロ歴数十年)って悲しい。
前回は初心者の大人数合奏だったから、できることが少ないことは仕方がないのだが。己(チェロ歴数十年)の感受性の問題として、そういう状況下であっても(そういう状況下であるからこそ)愚鈍であったなあと己の非才を悲しむ。

でもって、「やること」を知るのに学問も必要かも知れない部分はあるかも知れないが、私自身が考えてきた延長線上にそういうのがあるらしいと思うとなおさらではある。

Messa di voce とか shape というのは、私が年来のテーマとしてきた「歌いくち」や「言い回し」と相当程度重なるように思う(希望的観測)。
文字面で例えるならば、「にんじゃ」「ニンジャ」「忍者」「Ninja」は概ね同音かつ本質的には同義だとしても、やはりニュアンスは異なって見える。
アンサンブルで同じパターンを受け渡す時「言い回し」が異なると同じ音楽に聞こえない。「あなた達本当に集まってお互いの音に耳を傾けて練習したの?」と聴き手は感じるだろう。これは「にんじゃ」と「Ninja」の違いと相似であると思う。
これは、もちろんぴったり同一の言い回しにせよということではなく、相手の言い回しを受け取りつつも、全体を見渡した上でそこにさらに己のニュアンスを付け加えて弾くということと考えている。

帰宅後、この件を考えつつ、古楽器ブルックナーのCDを聴いてみた。
仮説にしか過ぎないけれど、古楽的な「ことば」とワーグナーに至る「大旋律」。「どちらかひとつ」の二者択一ではなく、そのバランス・たゆたい(揺蕩い)を大切にするのが面白そうだ。以前、構造と歌謡性の相克こそが面白いと思っていたが、「ことば」はこうした構造とも歌謡とも少し異なる。うむむ。もっと考えてみようではないか。
仕事でも「レンガを作る作業」「レンガを使って大教会を作る仕事」を分けて考えることを提唱することがある。ちょっと近くてちょっと違うな。
少なくとも現時点においてこの辺りのバランスはよくよく考えておかないと阿呆の音楽になるな。先々、自然にバランスがとれるようになると良いのだが。

また、バッハのマタイ受難曲第49曲(アリア Aus Liebe)のチェロ四重奏版(新編曲)も弾いてみた。
よくぞこの曲をチェロ四重奏に持ってきたな!の驚き。ハスラーのコラールや、第50曲ならばさもありなん、だけれど。
でも、このアリアこそ「Shape」や「Messa di voce」を考える好例かも知れない。。。(ちょっと考えてみよう。そして弾いてみよう)。

●ヴィオラ・ダ・ガンバ
ガンバに触るのは人生三回目。少し慣れてきた。が、まだまだ慣れない。
(ほんとは四回目。三十年前に三分間触らせてもらったことがある)。
弦の数が多く、1〜4弦まではチェロと同じく左手が届くが、5弦・6弦は「えらい遠くにある」感じ。
また、いざという時チェロのつもりで違う弦の違う場所を押さえてしまう。阿呆だが仕方がない。

初心者向き合奏として用意された「Canon」は非常によく考えられた譜面。バス+かんたんな旋律の繰り返し。
これが、バスは移弦のときは指はあまり変わらず、旋律は音階的なので、弾きやすくしかも変化に富んでいて楽しい。
こういう練習曲を考えられるのって天才。素晴らしい。

現状、私にとって一番よろしくない右手の練習を考え・実行してみた。
 楽譜を見たりするとそちらに意識が行くので、とりあえず、譜面なしにする。  左手があるとそちらに意識が行くので、なしが好ましいが、同音反復は飽きるので、単純な反復音型・移弦なしにしてみた。  「聖ジュヌヴィエーヴ教会の鐘」なら弦1本の開放と指2本。短いレファミ・レファミの執拗な繰り返し。
 これを様々な弦で試み続ける。
と、少しらしくはなってきた。が、まだまだ慣れない。弓のいろいろな場所を使う、長く使うなどをもっともっとせねば。
でも、こうした練習方法を考えるのは昔々の杉浦師に教えられたやり方でもあり、その試行錯誤自体が楽しかった。
(旧師と新師の教えが組み合わさって役に立つのはとても嬉しい)。

また、他のガンバ初心者(楽器所有者)とお話したが、「右手=弓が難しい」とのこと。
この問題提起は私のチェロにとってもガンバにとっても非常に切実かつ重要なので、いろいろ考えたりした。
これも非常にありがたくも良いことで、またお話させて頂けると、また、私自身の実験に付き合って頂いたりすると私には大きな学びがありそうである(学生オーケストラ時代もそうだったが、人に教えてみるのが最も良い学習の機会なのである。私から教わる方には大変申し訳ないけれど)。

●その他
公共交通機関のみで行くのが難しい場所であったため、自動車運転をされる方に種々ご支援を頂いた。感謝。
長時間自動車を運転し続ける才覚は私にないが、鉄道で長距離移動&近場のみレンタカーなら可能かも知れない。
次回はそれも検討してみよう。また、前泊・後泊のいずれか/双方を入れた方が余裕があって良いのは間違いない。
また、楽器以外の荷物を宅急便で送ることも考えよう。

他の方と自動車内で話したことも大変価値があったけれど、列車内で話したことも同様であった。
その意味でも特急(指定席)ではなく、空いている普通列車で移動する良さがあった。
特急列車は満席に近い状況であるようだから、楽器のように大きな荷物を持ち込むのは難しい面もあるだろう。

●おまけ 日野春駅の「給水塔」。
蒸気機関車時代、峠越えのために機関車(炭水車)に大量の水を補給するために駅横に設けられたもの。
私が子供だった頃、父と共に飯田線・身延線一周をした際、見た記憶がある。
当時であっても蒸気機関車廃止から約十年が経過しており、無用の長物であったに違いないのだが、田舎であって土地にも困らぬこととて、今なお残っているようだ。
特急で通過する時、駅名も確かめられずにきたけれど、この度普通列車で往復することで目出度く駅名も確認できた。

初狩、笹子なども、おそらくは蒸気機関車運転以来のスイッチバック施設が残っており珍しいものと思う。
これも特急で通過していては気づかなかったもののひとつ。
下記記事を読むと、施設として(近年まで?)現役であるものの、列車のスイッチバック目的というより操車場としての機能面が大きいらしい。
https://www5f.biglobe.ne.jp/~switchback/hatsukari.htm

なお、四方津(しおつ)の斜行エレベーター「コモアブリッジ」は廃止になったと思っていたが、まだ稼働しているみたいね。

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今週の戯れ歌

歳長けて隧道の名さへ知らざりき闇の果てには何が待つやも

行き行きて同じやうなる駅のありなべての駅を知りはせねども

山に入る電車の我に快し若き父との旅の思ひ出

深緑の目に沁み入れる夏日かな思へば街に住んで星霜

予定より早い電車に乗るなれど先では同じことになるなれ

一時間一本あるかなき列車路線の未来も明るくはなし

電車乗り手持無沙汰でありければはつかにうたも詠みなむとす

楽器持ち山行く電車に乗るならば子供の頃を思ひ起こせり

木祖にありて楽器弾けるは小学生命なりけり中央本線

日野春の給水塔の未だあり昭和の頃に父と眺める

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読書の記録(2025年6月)

旅に出るときほほえみを ナターリヤ・ソコローワ
大光社、サンリオ文庫、白水社と出版社を替えつつ出版され続ける書。
面白うてやがて悲しき物語。読んで良かった。主人公が《人間》であるのも非常にSF的。そしてSFの「科学」がいささか「社会科学」でもあり、叙情的でもあるのがむしろ美質と思わずにはいられない。
旧ソ連時代のオデーサ生まれの由。「ルサールカ」の名を見て、ひょっとしてチェコではないかと思ったが、スラブ系に普遍な名前なのだろう。

そう考えると2022年に読んだ「マゼラン雲」は辛かった。結局正誤表(でもないけれど修正提案)を作ってしまうほどだった。
http://folia.txt-nifty.com/musik/2022/06/post-4e0db0.html
とは言え、今見直しても相応に妥当な修正提案のように思われるので、「マゼラン雲」はよほど原文が難しかったのか、編集が手を抜いたのか、と思ってしまう。

密林の語り部 バルガス=リョサ
なかなか良い。冒頭からして意外だった。訳も概ね好調だが、時々修飾関係が分かりにくい・分からない文章がある。原文がそうなのか、訳者の趣味なのか、編集者の手落ちなのか。とは言え最後まで面白く読めた。
南米というとマジック・リアリズムを想起してしまうが、そういう部分(そうかも知れない部分)とそうでない部分があり、そのふたつがどこでつながるか・・・というところが面白い。
読み出してから書店に行く機会があり、せっかくの機会なので、平積みの「緑の家」と「ラ・カテドラルでの対話」を買ってしまった。買い逃すとどうしようもないからね。
いつも悩んで買わないのが、「ティラン・ロ・ブラン」全4巻。調べると、岩波文庫にはバルガス=リョサの序文が付くんだ!いつか古本になる日を待つか、どうするか?

夢見る宝石 シオドア・スタージョン
ハードSFではなくファンタジーよりのSFだろうか。読んで面白かった。喫茶店では他人様の会話が気になって読書が進まない私ではあるが、この時ばかりは集中できた。でも、コーヒー2杯ホットドッグひとつで1時間半も粘ったら少々迷惑だよね。反省。

ラッテとふしぎなたね 庄野ナホコ
素敵な絵本。猫、蛙、鳥、草花などの質感のなんとも言えぬ良さ。物語と質感との一体感。西荻窪ウレシカにて購入。『庄野ナホコ作品集 Circus of Wonders』ももちろん購入。楽しみ。

英本土上陸戦の前夜 海野十三
青空文庫で読む。記憶喪失ものとしては二転三転が面白いけれど、何故日本人将校がダンケルクから英国に向けて飛行機で飛んだか合点が行かない。書かれた時代を考えると、そういうことに文句を言っても仕方がないのではあるけれど。

電脳の歌 スタニスワフ・レム
相変わらず楽しく読んでいる。(マゼラン雲とは違って・・・というところ。マゼラン雲等の作品について、おそらくはレムの書き様が晦渋・難解であって、あまりに明快な日本語にすると原文のイメージが損なわれるのかも知れぬと思ってはいる)。

緑の家 バルガス=リョサ
読み始め。バルガス=リョサは二冊目なので、マジック・リアリズムであろうという先入観に捉われずに読める(であろうと期待する)。

ジャン・クリストフ
なんとか第二巻読了。相当程度厚いこともあるけれど、やはり文章がクドい。これを「重厚」と言うこともできようが、必要な描写というよりも「悪口が止まらん」ように見える。
ジャン・クリストフだけを読み続けるのは多分私には難しく、他の本を挟みつつ、毒気を抜きつつ読むしか無いのだろう。そうなると相当程度薄味な読み方になるけれどそれはそれで仕方がない。
孤独で不器用な若者が周囲と衝突しつつ成長し、仲間を見出していく・・・ということなのだろうが、「衝突」を描きすぎ・・・と感じてしまう。
(読書に快さを求めすぎであるか?)

長崎海軍伝習所の日々 カッテンディーケ著
少し読む。なかなかに面白い。勝海舟の怜悧にしてずるいことも充分見抜いておられる。
それにしても、偉い人は無能だが、現場技術者は熱意もあり有能というのはこの頃からそうだったのだねえ(勝海舟もそんなことを言っているけれど)。先の大戦でもそんなことが言われていたし、こういうことは深く反省する価値があると思うけれど。

俺たちの行進曲 有明夏夫
何度読んだか分からない本。戦後の明るい高校生の話ではあるのだが、そこここに戦争と災害の影がつきまとう。父なく母なく子は育つ。もっと読まれて良い書だと思うし、映像化も是非されて良いと思うのだが。調べると、映像化されたが製作会社の破産でほとんど公開されたことがない模様。たいへん悲しい。
「青春デンデケデケデケ」(芦原すなお)や「青葉繁れる」(井上ひさし)と並ぶ良き青春小説(井上は若干の批判があって然るべきだが)であるので勿体ない。
私には何度読んでも面白い本だと思える。足羽山から見渡せる「福井」のイメージが強く感じられる点も良い。デンデケで見られる観音寺や祖谷の風景とともに、良質な地域性の感じられる文章という点でも貴重だと思うのだが。。。

ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻
何度読んだかわからないけれど、結構似た話が多いので忘れるのだよね。でも読めば面白い。Youtubeで動画化された作品が見られるが、ジーヴズはもう少し歳長けてぶっきらぼうな方が良いように思う。タンタンに出てくるネストールくらいで良い。まあ、ジーヴズは「執事」ではなく、「男性付き召使い」なので、執事ほど年長でない蓋然性が高いのかも知れないが。

ザ・フィールドワーク 京都大学学術出版会
というような書名をジーヴズの次において良いのかいささか戸惑うが、それはそれで面白かろう。
すべてを読んだわけではなく、少々めくり見た程度ではあるけれど、フィールドワークの大変さ・面白さが少しずつ伝わってくる。
私としては、23世紀の人類学者が、今現在・此処にやってきたら・・・と想像せずにはいられない。「なぜ世界のあちこちで戦争をしているのか?」「諸君はそれでも『文明人』なのか?」と問われるのだろうか?
「フィールドワーク」で検索すると、同じ京都大学ながら人類研究ではなく霊長類研究の話が一定数当たる。それはそれで面白いが、不正経理が原因で2022年に「霊長類研究所」がなくなったことを思い出すので、ついその前か後かを見てしまったりする。悲しい。

物語を忘れた外国語 黒田龍之介
私が外国語を読もうと思う大方の理由は物語ないし科学的・歴史的興味にあるので、外国語を学ぶのに物語を忌避するなんて「とんでもない」と思うのだが、そう言えば、若い頃大学部の文学部の外国文学系の学科にいる人が結構日本語の文学書を読んでいないので、恐れ入ったことがあったっけ。
「英会話」もそれなりに学問のある面白い相手とであれば話しても見たいが、「英語」しか出来ない方と長くお話できる気がしない。
せめて「英語発達小史」くらいの話はしてくれよな、くらいの感じ。まあ、英会話を習いに行ったりはしないので無問題ではある。

せきれい 庄野潤三
いつもの庄野節とも言えるもの。そう言えば、「愛撫」など庄野の初期作品を読もうとしたが挫折していることを思い出した。
これら初期作品はクドく愉快でないので、途中放棄したのだった。一方で、庄野の後期作品は面白くはあるものの、ある程度調子が似ており、かつまた、創作というよりも随筆的であるようにも見え、読むのを止めていたのを思い出した。まあ、この一冊を軽く読んで、しばらく止めておく、ということになりそう。まあ、目の色変えて読むような書ではないわな。

引き続き古い鉄道模型趣味
創刊号。「私たちの趣味にもっと知性を注入したい」。この言葉はよくよく考える価値が在ると思うし、鉄道模型趣味誌発展の中で批判されつつも生き延びてきたことばであるようにも思う。趣味のなんたるかを大人として考えることは重要だと、私は思う。
そしてまた「美しい本」「読む人と雑誌の間にほのぼのとした愛情がめばえるような親しめる雑誌」を作りたい、とも。
ううむ。私の素人演奏者としての慨嘆にも大変近いように思うし、我が師三村明や森下氏(豊橋交響楽団)とも通じるように感じる。

創刊号にはモーター(直流電動機)の作り方がふつうに掲載されている。このレベルから自作する人々がいたということに改めて震撼する。
1980年代、伊藤剛氏が瀬戸電を作るにあたって、慣性の大きいモーターがほしいからと言って自作していたのを記憶する。あれにも驚いたが、この人たちはモーターを自作するところからの発想があるのだ。
(最初の職場で「プログラミング言語は最低5つ覚えよ」と言われたが、その先に「必要あれば自分で言語を実装することが考えられるようになるべき」というのがあった。そういう「人間が作ってきたものは自分でも作れる」発想というのはとても強くてとても良い。理学部の教育においても「市販の機械で研究するということは他人と同レベルで研究するということだ。だから、機械を製作できるくらいの力を持つようにせよ」と言われた)。

TMS50号。随筆ミキスト(混合列車)の前身はサンドボックス(別な雑誌に山崎氏が書いていた由)。サンドボックスは鉄道用語としては「(動力車輪の滑り止め用)砂箱」であるけれど、一般語としては「砂場」の意味もある。現在のインターネット上で用いられるWikiシステムでも「試しに書いてみる場所」をSandboxと称していたりする。さて、このサンドボックスはどこまでを含意していたのかどうか?
そしてまた「随筆より製作記事が大切」という意見を紹介している。私は、50年近く鉄道模型趣味誌を読んでいるけれど、ミキストあっての雑誌であったことは間違いないだろう。もちろん、ページ数が増えてそれだけ随筆の割合が下がったから、という面はあるにせよ。
51号「鴨鹿本線余話」。800号が十万部売れ発禁になる話。当然「嘘八百」の800。実際に1000号まで出るとは思っていなかったであろう。感慨深い。
51号及び他の号に模型趣味の地位向上が繰り返し論じられている。その中で「趣味としてのレベル低下は避けたい」という語も見られる。
なにか、昨今の「撮り鉄」を始めとする趣味者の悪評判と合わせて考えさせられるものがある。
加藤金属から「台車製造を一時休止する」謹告。今なお関水金属として盛業中。
52号「義経」。帝国車輌の構内用に無様に改造されていた時代の写真には衝撃を受ける。原型に戻してもらって良かったと思わずにはいられない。でもって、苗穂と鷹取のいずれがニセでいずれがホンモノか・・・当然気になる。
89号「あられを喰べて一編成」。題名のみ知っていて読みたかった記事。
タンク車に「養老駅常備 アルコール専用」と文字を入れるのはなかなか楽しそう。
英国の模型にも、ウィスキー専用タンク車(銘柄名入り)があって欲しかった。
この Kix なるシリアルは今も売られているようだ。また、「一編成」時代には貨車(鉄道模型)が景品だったが、今なお科学教材ないし教育的玩具と接点がありそう。この頃「シリアル」などの言葉が知られていなかったので「あられ」と表現せざるを得なかったのだ、というのも感懐。

山崎喜陽氏のミキストで、戦争中に謳われた「科学する心」への嫌悪が語られていたように記憶する。
「私たちの趣味にもっと知性を注入したい」にはそうした戦争に日本を引きずり込んだ反知性主義への反感が大きくあったのかも知れない。

神田神保町3書店の「ベストセラー」がネット記事になっていた。一冊も買わず・読まず・そもそも知らずで、安堵した。
そういう人間であると自覚してきたので、そこが崩れると自我が崩壊・・・しないけど。
基本的に「平積みは買わない」と言いつつ、岩波文庫・ちくま文庫あたりは平積みを普通に買っているなあ。
その時買わないと買えなくなる(が、大変読みたくなる)本が相応にあるからね。これら2文庫は。
ランペドゥーサ「山猫」とかね。

俳優として知られる米倉斉加年氏。絵師でもあると知る。夢野久作の奇書「ドグラマグラ」の表紙絵が米倉だったとは!
善人役の多い米倉をしてかくも奇怪なる絵を描いていたのか。知らん事が多い。

「名古屋、アジアに出会う」(図書出版みぎわ)。面白そう。
昔、名古屋にいて、台湾や中国南方と縁があることを感じることがあった。
まあ、「台湾ラーメン」を食べたから、とか上海・南京あたりからの留学生が身近にいたから、というだけの理由だけれど、調べると汪兆銘が亡命して来たり、なんとなう暑い南同士の連携があったようにも感じる。
でもって、名古屋だけでなく愛知県の主要産業である「自動車」産業の発展によって、多くの人間が巻き込まれていくのだが、そうした現象の社会学的研究ってされていないのだろうか?
あの悪名高き「管理教育」もまた、産業発展⇒人口急増から生み出された悪しき判断の結果だったのではないか。
あらゆる観察は外部からなされるのだが、外部過ぎると問題意識がなく(中を知らないから)、内部過ぎるとこれまた問題意識がない(ほかを知らないから)ということで、非常に調べるのが難しいのだろうなあ、と非専門家として思う。
愛知県における管理教育については「愛知の教育 愛知の教師」(風媒社)がよく書けていたように思う。借りて読んだのがすでに40年前なので、書名には自信がない。(出版社は記憶している)。

●雑感
小泉莉穂×上村誠一 PERGOLESI! に行った!とても素晴らしかった!(5/31だけど)
「私のために・私に向けて歌って頂いている」幻想を濃厚に味わい、二重唱でしか摂取できない栄養を沢山頂いた。
ペルゴレージさんにはもっと長い曲を書いて欲しかった。

「うたの人」は一つの音符を多次元に見ているようだ。
たとえば、私は音高・音長・音量・音質と四つ見ている(ということにしておこう。それすら見ていない、という批判は甘んじて受ける)。
だが、小泉・上村を聴くと、うたの人は、音の方向性(時間的方向性と空間的方向性など多次元の方向性)を考え、長いフレージングの中での音の立ち居振る舞い(言い換えると、曲線の張りの強さや質感・重量感・手触り)を考え、そしてまた、重ねて歌っている相互の関係性を考えて歌っているように感じる。
しかも、このように「考えて歌っている」と見ても高度だが、「考えながら歌っている」のではなく、野の花が風に揺れるようにごく自然に「唯そこに美しく在る」ように歌っている点でも甚だしく高度だ。
素人の楽器弾きとしては泣くしかない。

さて、先日、モーツァルトの弦楽五重奏を演奏した際、「ヴィオラ二重唱のために書かれた曲」と感じた。
ヴァイオリンの二声は比較的似ているが、ヴィオラは楽器の個性が大きく似ているようで似ない。
この「似ているようで違う二声が離合する」快感が二重唱の根幹にあると私は考えているが、ここでもたくさん味わった。
次も期待したい。

ちなみにペルゴレージは1990年頃アバドのCDを買って以来ぽつぽつ聴いている。
なんでアバドのような有名指揮者が突然当時の売れ筋と異なるこの曲を演奏・録音したのか、と思うのだが、同じことを思う方は居るものだ。
http://tillne.life.coocan.jp/ne%20classics/ne%20abbado%20comp/ca%20pergolesi.htm
『ほんとに「演奏者がこの曲を好きだから」録音したかったのだな、と、素直に思えた。』というのに私も賛成。
もちろんアバドの演奏も良いけれど、そうは言っても「私のために・私に向けて歌って頂いている」演奏は何物にも代え難いよね。
ついでと言ってはなんだが、Salicus Kammerchor のCDも買った。昨年カンタータ全集第1回を聴きに行ってたいへん感銘を受けたもの。あのソリスト陣の声をもう一度確かめられるだけでも耳福。

チェロ弦ダダリオのカプラン。相変わらずアカン。うるさい。乱振動している感じ。
引っかかりも安定しない、いつどのように音が出るか不確定性が大きい、ウルフも出やすい。というか、全音程ウルフみたいになる。
ビャービャーと大きな音がするので、「ナイロンは音量が小さい」という不満から「音量の大きいナイロン」として開発されたのかも知れないが、あまりイケている気がしない。
良く言えば「元気が良い」ので、鳴らない楽器に張るのは良いかも。ともあれ、なんとかせねば。
というので、時々やる回復方法を試みた。一応効果はあったようだ。
その方法とは、消音器をつけてしばらく弾くというもの。右手で楽器を鳴らす性能が下がっているのを上げる効果があるのか、なんとなう楽器の鳴りが整う(ように感じる)。本当に整ったかは分からないが、しばらくこれを繰り返してみよう。
ともあれ、楽器の鳴らし方を知るために消音器や弱音器をつけたり外したりして弾くのは、少なくとも人間側には意味が在ると思う。

ドミナント(ナイロン)はおとなしく派手さがないが、なかなか良い。お値段も悪くない。ただし、3ヶ月で賞味期限。15000円だと非常にお買い得感があるが、3万円と言われると1ヶ月1万円だと思って腰が引ける。全音程が滑らかにつながる音色なのは良い。
ドミナントプロ(スチール)はナイロンよりしっかりしていて、悪くはないが、特段の個性もない。こちらもお値段は魅力的。3ヶ月ってことはないが、さほど長くもないか。もしかすると、自分にとって最も合っているかも知れない。それは、大人しくてさして特徴がないようなところだったりするのが、全音程での安定感は非常によろしい。それが個性がないと言えば個性がないのだが。
よくあるヤーガー&ピラストロはおとなしい。特にヤーガー。楽音が鳴っている気がしない。弦の値上がりが激しい中で比較的安価だったので買い、張ってはみたものの、なかなか辛い。
今のところ私の安定的信頼感からはドミナントプロだろうか。

弦を交換する際、D→G→C→Aと替える。D線は他の3弦のペグを乗り越えて一番上のペグに巻き付けねばならない。特に、A線・G線のペグやそこに巻き付けた弦と干渉することがある。そのため、最初にD線を通して、そこに干渉しないようにG線を通す。G線の方がA線より若干難しいので、先にする。また、A線だけ新しくするのがなんとなく怖い(断線はA線が最も多い)ので、他を替えてから最後にしたい。
で、今回、カプラン4弦だったうち、DGをヤーガー・ピラストロに変えてみたが、おとなしい弦とうるさい弦が混ざっていると、非常に弾きにくい。無理に音を出そうとして、体を壊しそうなので、やはり4弦の正確が揃っていることが重要と思う。
また、ヤーガーはピラストロと較べてもおとなしい。ラーセン・ピラストロの組が成立するのはそういうことだ。
で、カプランA、ヤーガーD、ピラストロG、カプランCというのを少し試したが、結局カプラン4本張りに戻した。
張り直しでバランスが変わったからか、前よりはうるさくない。ついでに言うと、A=415Hzを試しているので、できれば生ガットを張りたく、とは言え日常生活に問題が出る(笑)ので、まあカプランくらいのナイロンで良いかと考えたからでもある。
弦のことはなかなか文章にしにくいね。直線的な論理思考というよりも同時多発的・直感的に考えている感じだからね。

楽器演奏とは無関係でない「視力」
現在、楽譜を見る際、右目は裸眼の方がよく見え、左目は眼鏡を使ったほうがよく見える。
もともと大学一年の夏頃に近眼で眼鏡を作って以来近眼であったが、四十歳あたりから老眼が加わり、もしかすると右目は(読書と読譜に関しては)眼鏡不要なのかも知れぬ。今度眼鏡屋さんで測定してもらおう。

イアン・ボストリッジの歌う「冬の旅」
https://www.youtube.com/watch?v=tnuvs2w7ges
英人らしく感傷的ではないが劇的と見る。ピアノもコンパクトにまとめてメリハリがある。
もともと辛い歌なので、あまり感傷的に歌われると辛さが増す。それ故、こういう若干カリカチュアにし、若気の怒りに任せたように歌う方が聴き良いかも知れぬ。まあ毀誉ありそうには思うし、自分も常に全曲を通してこの歌い方が愛好できるとは言いかねるけれど。

指揮者オットー・クレンペラーの息子さん。小沢征爾の「グレの歌」で語りをやっているのね。 聞いたことがあるが知らなかった。そしてまた、俳優としての当たり役のひとつが「(間抜けな)ナチ将校」というのも。ユダヤ系の人間として、「間抜けな」を重要視されていたようだ。他に、「0011ナポレオン・ソロ」の悪役などなど。

長岡鉄男氏のレコード評(外盤A級セレクション)を今になって見直すと、「非常にまっとう」と感じる。
長岡氏はオーディオ観点で「録音」に着目してレコードを紹介しているが、そもそも、レコードの品質として、曲がヘボくて、演奏がヘボくて、録音だけが良い、というものはなかなか存在しない(すくなくともLPレコード時代は存在しにくかった)。一方、曲・演奏は高品質だが、録音は低品質などというのは、フルトヴェングラーやメンゲルベルクでもよくあった。
ということもあり、長岡氏が紹介しているレコードは、優秀録音であるとともに、曲・演奏も高品質であり、さらに海外盤に限っていることもあって、国内盤では聴くことができない貴重な曲目が多かった。そういう意味で、録音品質にあまり興味がない私がごとき者が見ても、「いい曲をいい人が演奏している盤に巡り会える貴重な情報」を長岡氏から得ることができたのだ。あの頃(1980年前後)のレコードは高価だった。1枚3,000円。それより高いものもあった。今なら1万円であろうか。だから、「ハズレ」を引かないための情報が必要だったし、そういう意味でも長岡氏を始めとする評論は重要だった。
あの頃もちょいちょいあったし、今もあるのだよね。「ハズレ」。ちょっと珍しい曲を無名演奏家に演奏させて、ヘボ録音で入れたの。必死に聴いてもその曲の良さがまったく伝わってこない。他所で聞いたところによると、間違った演奏をそのまま流布させた録音があるとかないとか。
長岡氏は録音に重点をおき曲目・演奏についてはさらりと述べるに止めていたが、それは彼の「職業意識」でもあり「誠意」であったようにも思う。見た目がちょっと怖く、奇矯な雰囲気を帯びて(演出して)いたけれど、こういう方だったからこそ根強い人気を博したのだろう。

Youtubeに「名曲聴き比べ」みたいなのがたくさん出ている。概ね交響曲などの末尾を数分程度つなぎ合わせたもののようだ。
まあこれはこれで面白い面もあるけれど、クラシック音楽というのは、デカい曲のデカい構造が前提になって部分が存在するのだから演奏の一部だけを取り出すのは、本来ルール違反であることよ、と思う。私的にこっそり楽しむのは否定しないけれど、これこそが「聴き比べだ」みたいになるのは賛成できないね。
それと「演奏様式」というのも大前提になっている。これも大事。たとえば浪漫派・即物主義などなど。そういう知的な面を置き去りにして、表面的な比較をもってよしとして良いとは思わない。

クラシック音楽に親しんでいるのは「小金持ち」ということになるらしく、SNSでの宣伝がそんな感じになったりする。
でもねえ、私はお金はあまり持っていないし、自分で体験することにこだわりすぎていて、広告宣伝費をたくさん使っているような商品にはあまり興味はないのだよ。
言うならば、クラシック音楽に浸りすぎていて「名演奏家」とか「名演」みたいな看板にはまったく惹かれない(そういう演奏家に実質的な理由で興味を持つことはある)。

昭和の頃人気だったバンド・ゴダイゴのボーカル タケカワユキヒデ氏。鈴木ヴァイオンリンの鈴木一族と縁があるのね。また、学校は外語大学とのこと。英語を歌うのに相応しい気がする。

Johann Ludwig Bach J.S.バッハとベートーヴェンの名前をふざけてつないだわけでなく、J.S.バッハの子でもない。
J.S.の遠縁とのこと。曲はおとなしいが割と良い。

カルロヴィ・バリ国際映画音楽祭のための短編集
https://kviff.tv/show/festival-trailers
とても皮肉。それこそがチェコ風ということだろうか?

今月の誤字・誤読・誤聴
「西武線練馬方面」が「西武線ゲリラ方面」に聞こえた。
「ランペドゥーサ」を「ラペンドゥーサ」と誤って覚えていた。が、そういう人が一定数世の中にいる。
「ペルソナ・ノン・グラタン」というのを思いついた。グラタンを食べさせない刑罰。恐ろしい。
もちろん「ペルソナ・ノン・グラータ」外交的に喜ばれない人物(海外追放)から思いついた。
Wikipedia「ブラック・レイン」の記事にある
「ニックとチャーリーは松本の静止を無視し」は
「ニックとチャーリーは松本の制止を無視し」の間違いだろうなあ。直して良いのかな?
「意味深に呟く」てふ口語表現も気になる。「意味深長に呟く」というのが正書法だろうなあ。あるいは「意味深長に呟いてみせる」か。
日本語で「アウトロー」は中国語で「法外之徒」わかりやすい。Wikipediaグレティルのサガ(英語版)からたどる。
Wikipedia「売茶翁」に
「禅の窮地に立った擬人化」とあるのは、きっと
「禅の境地に立った擬人化」ではないか。窮地とは「追い詰められて身動きが出来ない場所」であろう。
「禅の境地」という言葉は見たことがあるが「禅の窮地」の用例は思いつかないな。

ウクライナ諜報機関がロシアの戦略爆撃機等40機超をドローン攻撃で撃破
私は判官贔屓なので、当然ウクライナ応援団である(そうでない日本人がいることには驚きを感じたりもする)。
が、国際法的にマズい部分でもあり、これで各国のウクライナ支援が鈍ることを懸念する。ロシアが民間人攻撃をしまくっているのでそちらの国際法違反が大であるというのはそのとおりなのだが。
私は、ロシア文学・ロシア音楽の愛好家であったが、他国を侵略する国の文化を素直な気持ちで愛好することは難しい。
一方、イスラエル・パレスチナ・イランで言えば、反イスラエル・パレスチナ贔屓となり、イランに与したくなる(口火を切ったのはイスラエルであり)。が、ロシア・ウクライナとの対照で言えば、ロシア・イランと西側・イスラエル・ウクライナが組でもあり、「捩じれ」ている。

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」なかなか良いことばである。
と思ってネットを巡っていると「賢人ナータン」の話が出てくる。最近気になっていた書だが、ついあらすじを読んでしまった。からには、書も買って読まねばだよね。

在中英国大使館が天安門事件を暗示する動画をTwitter/Xに掲載していた。で、英国大使館のツイートを見てゆくと「りすぼん丸」沈没における英兵捕虜遭難者の慰霊祭についても述べている。Wikipediaで「りすぼん丸」沈没状況を読むと、非常にいたたまれない。捕虜諸氏もそうであるけれど、戦犯となった船長(捕虜のために相当意を用いていると思われる)に同情することしきり。

Kuruluş Osman 194巻でシーズン終了。まあそう大きな話の転換があるような物語ではないけれど。
よくぞこんな長いドラマシリーズを作れるものだと感心する。どうもこの手の歴史ものその他シリーズを作っているみたい。かの国の主要娯楽なのだろうか?

映画「ハイランダー」は30周年だそうだ。そう言われれば、それくらい昔、ドイツ旅行に行った際、テレビで放映していたのを眺めた記憶がある。
ドイツ語翻訳されたセリフはもちろん聞き取ることすらできないが、そこはそれ。「チャンバラ映画」の感覚で「お前を倒してやる」くらいのセリフがほとんどなので、見るのに支障はない。時々しんみりシーンがあるが、きちんと説明的映像がつくのでとか「女性は寿命が尽きつつあるが、男性はどうやらものすごく長寿命でこれからも生きるらしい」ということが推察された。

映画「つばめを動かす人たち」
https://www.youtube.com/watch?v=iX1AmguttRM
昭和30年頃とみられる、特急つばめ運転に関わる人々の映画。
当時の電気機関車がちょいと簡単に動かせるものではなく、複雑な構造をむき出しにしたシステムであることが伝わってくる。
蒸気機関車と同様に、各部をハンマーで叩いて検査している。これによりネジの緩みや金属構造の断裂などが(ある程度)わかるらしいけれど、こんな不確かな検査に頼っていたのか、と感じてしまう。日常点検としての有効性はあろうと思うけれど。。。

鉄道がちょいと出ている古い映画を少しずつ見る。その縁で「東京のえくぼ」。上原謙がホルンを吹くシーンがあるが、Wikipediaを見ると立教大学のオーケストラでトランペットを吹いていたとのこと。音声は吹き替えなのかも知れないが、吹きっぷりはホンモノらしさがある。

し尿のゆくえ
https://www.youtube.com/watch?v=xnG_HpJhuXc
NPO法人科学映像館が歯医者さんの支援を得てデジタル化したもののよう。尊い。
古い科学映画は懐かしさ半分でつい見てしまうのだが、さすがにこの映像は色付きでなくてよかった。
ナレーターも「この映画に匂いがなくて良かった」を仰る。まさにそのとおり。

団地への招待 (1960)
https://www.youtube.com/watch?v=saehM0Fr2tM
17分頃の音楽がリャードフ。自分が歳長けてから知った音楽が、以前から知られていたものであると知ると驚く。まあ、自分のところに流れ込んでくるくらいだから、以前から知られていてもおかしくないのだが。

ダウントンアビーに出演している役者さん。たとえば Amy Nuttall さん。
https://lifeofwylie.com/2011/08/03/downton-abbey-amy-nuttall/
https://downtonabbeyonline.weebly.com/amy-nuttall.html
役柄であるエセル・パークスとしては、不安に怯える使用人そのものだが、Amy Nuttall で見ると、自信に満ちた女優さんっぽい(蓮っ葉な役が多いように見えるけれど、ダウントンアビーでもそういう役だったらしい)。
役者の演技に騙されて良いのは騙されたい時だけ。

教育映画(ごちそう列車)
https://www.youtube.com/watch?v=21vtrkjCpMM
車載船をいうに「蛇が卵を飲むように貨物列車を船腹に飲み込む」という比喩はあんまり分かり良いとも適切とも思わないが、時代を感じさせる。。

「喜劇急行列車」
https://www.youtube.com/watch?v=R5hqTjo2GYg
急行列車と言いながら、特急さくらがもっぱら。特急富士が少し。
渥美清の車掌っぷりもいいし、車内放送も(途中でもちろん大変なことになるけれど)、懐かしい。
これを見ると、特急さくら(佐世保・長崎行き)の模型が欲しくなるね!(渥美清の車掌人形は難しいだろうけれど。また、KATOのカニ22はもう少し後の時代のパンタグラフ撤去後なのね。悲しい)。

プレナ。朝鮮鉄道のタンク機関車の由。むろん海浜幕張にある「プレナ幕張」とは無関係。
こうした少し特殊な用語で検索すると、非常に興味深い情報を集めた個人サイトが当たる。ふつうの単語でふつうに検索すると面白くもない。検索語の使い分けのひとつかも。

銀梅花ミルト。ちょっと気になっていた花。覚えておこう。
ニオイバンマツリ、テイカカズラなど、最近少しずつ気になる花の名を覚えたので嬉しい。

Ubuntu の BlueTooth がちょいちょい使えなくなる。BlueToothのアダプタが凶悪という説も。

ルノーB1重戦車。砲・装甲とも非常に強力。運動性能も悪くないようで、ドイツのIII号戦車など蹴散らすくらいの実力がある。
にも関わらず、ナチス・ドイツによるフランス侵攻を防ぎ得なかったのも事実。
サン=テグジュペリ「戦う操縦士」でも戦車名こそ出てこないが、独仏の戦車戦術の違いとその結果への言及があった。
https://www.youtube.com/watch?v=XbZiFgLgaeU

第二次大戦で「最後に降伏したドイツ軍」ハウデーゲン作戦の写真が公開されている。
https://leibniz-ifl.de/forschung/forschungsinfrastrukturen/digitale-sammlungen/wettertrupp-haudegen
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E4%BD%9C%E6%88%A6
ノルウェーの北極圏の離島であり、戦闘目的ではなく、気象観測目的。それもあって、ドイツ本国降伏後も放置されていたとのこと。
「戦わずして降伏することを拒んだ精鋭部隊」なる噂にも関わらず救出されて良かった。
私も気象系技術者として他人事ではない気がしてしまう。
そこから派生して「非戦闘軍事作戦」なるページを知る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E9%9D%9E%E6%88%A6%E9%97%98%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E4%BD%9C%E6%88%A6
ゴールデンアイ作戦、ピッグ・ブリストル(豚毛)作戦など知らないことがたくさん。

俳優チャールズ・ブロンソンはリトアニアの「リプカ・タタール人」出自のアメリカ人とのこと。
タタール人すなわち東洋人ということで、細目黒髪という親近感のある外貌はそういうことだったのか!と改めて驚き入る。
ご先祖がモンゴルを出て以来、地球を3/4周したわけだ。

英語 all right の訛化「オーライ」は仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」が初出らしい。
洒落ておる。

三重県。北勢・中勢・南勢。そして伊賀。と思いきや、さらに東紀州。
確かに、尾鷲、熊野は紀州っぽいかも。逆に新宮もまた「どっちだっけ?」と思うことがある。
東紀州だから、紀宝町・紀南町があったりするわけだ。
紀勢本線全通は1959年でもあり、道路事情も良くなかったこととて、これら紀伊半島は「島」同様海路で行く場所だったのかも知れない。(伊豆半島に「島流し」という事例もあるし)。
全通以前、紀勢本線の一部は新宮鉄道として開通し、国に買収されて「紀勢中線」となっていた。大阪にも名古屋にもつながっていない線路は、おそらくは、新宮からの海路と接続していたのだろう。(紀勢中線にいたC11型蒸気機関車がすでに国鉄では使われなくなっていたねじ式連結器を使用した写真を見て驚いたことがある)。
穿った見方をすると、地方の人口減少に伴って、ふたたび紀勢本線が半島先端部を放棄・廃止となる時代が来るかも知れない。和歌山県のホームページ「きのくに線で訪ねてみてください」にその予兆を感じる。

amazonでテレビ録画用HDDを買おうとする。「3000円くらいで30TB」のHDDを売りつけてくる。どう考えてもインチキ商品。これを天下のアマゾンで売っているのだなあ、と感心。初期アマゾンは書籍のような「日本中どこで買っても同じ品質」のものを売っていたし、安心してものを買える場所だったけれど、最近はまったくそうでもない。古書店などは比較的に良心的なのか、私はハズレを引いたことがないけれど、それとて長年の「古書とはこういうもの」という常識に則って行動しているからという部分が大きいように思う。中には版元をたどれば正価で買えるのに、何倍もの値段をつけている例を見たことがあるしなあ。
SNSでの暴言なども含め、最近のネット界は恐ろしいね。

天気。6月にして最高気温30℃。
テレビに出ている気象予報士は「熱中症に注意」などとのんびり言っているが、もっと気候変動対策(緩和と適応)について日々強く訴えるべきではないのか。とは言え、我が国では職業倫理よりもお上(雇用主、所管官庁)が気になるし、自分自身はタクシー送迎で涼しいスタジオで背広ネクタイを着ているから気にならないのだろう。
予報解説者がスタジオに籠もりきりで実際の気象現象を肌感覚では知らないことは、30年くらい前にすでに話題にしていた記憶がある。その時はどちらかというと「峠の雪」のような北国での文脈だったけれど。

健康診断で胃カメラを鼻から入れた。
反射的に吐き気が出るので苦しいのだが、今回の医師は、細かに状況を伝えてくれるのが良かった。
そちらに気が向いて吐き気を少しは忘れることができるし、自分の苦しみに意味があることや進捗がわかったような気がする点がたいへんよろしい。 この医師独自の工夫なのか、消化器学会(?)の標準的な方法なのか知らないが、たいへん良いと感じた。

3日間の合宿に行った。感想は長くなるから別途書こう。でも行ってよかった。主宰者・講師陣・受講生・現地スタッフの皆さんに大感謝。

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今週の戯れ歌

ちよいと行く麻酔の旅も味なものさてお帰りは何時になるやら

軽口を叩いてみても謎なるは我が「意識」とは何であるぞや

十秒で意識なくすと医師の言ひ意識なき我我にあらずや

(術後述懐)
麻酔には記憶なければ語り得ず気がつけば我世に戻りたり

手術室の冷たき様も一瞬に気づけば病棟の天井を見る

朦朧と己が鼾の因を探り探りその半分は妄想ならむや

看護師の多く接すは病重し後回しなる我の良きかな

眠れるは病気ならむと母の言ひ今の自分はまさにさうなる

痛みあれば動きひとつが挑戦なる棚からタオル一枚出すのも

昨日は苦痛であった動きさへけふは滑らかなるを喜ぶ

常にありし健康を再び発見すこの有り難みを忘れまいぞ我

無気力の我を襲へる時のあり隙を作らぬやうに生くべし

何時来るか分からぬ事務を待ちながら天井を眺め旅の心地す

退院しグラタン食べて帰宅する意地汚きは我の本性

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モーツァルト 弦楽五重奏曲第6番変ホ長調K.614

以下は、先日モーツァルトの弦楽五重奏曲第6番変ホ長調K.614を演奏した際の駄文である。

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同声の二重唱には独特の魅力がある。サイモン&ガーファンクルも、あみんも。 これら同声の二重唱は、三重唱以上の多声とも異なり、大人数の合唱とも全く異なる。どうやら三人以上の人間の歌を聴くと、人間ひとりひとりの見えない「社会」や「組織」を遠望しているように感じる。二人の歌っているのを聴くと、人間と人間の原初的な関係性を拡大鏡で微細に眺めているように思われる。二つの似ているようでわづかに異なる声がひとつになったり別れたり遠ざかったり近づいたりする時に、親密さや疎外感をないまぜにした独特の風合いや肌理の細かさまでを感じさせるように思われる。

さて、モーツァルトの弦楽五重奏第6番(K.614)は、ヴァイオリン奏者でもあり、実業家としても成功したトストの依頼により書かれたという。しかしながら、モーツァルトほどの天才がただ言われたように弦楽五重奏を書いたとも思えぬ。弦楽五重奏がよくある弦楽四重奏とどのように異なるのか深く見抜いた上で書いているのではないか。

ふつうの弦楽四重奏で同声と言えるのはヴァイオリン2本であって、あまりにも当たり前の組み合わせである。弦楽五重奏は、ここにヴィオラが一本加わった「だけ」の編成である。ヴァイオリン二重唱にヴィオラ二重唱が加わった「だけ」である。 ところがところが、ヴィオラにはそれぞれの楽器個体の音はあるけれど、共通した一定の「ヴィオラの音」が存在しない。二本のヴィオラが鳴る時、サイモンとガーファンクルの声音の違い、岡村孝子と加藤晴子の歌い回しの違いを私は想起する。それに比べると、ヴァイオリン二重唱は、ザ・ピーナッツやマナカナのような双子の二重唱っぽい整った同質性があるように感じる。弦楽四重奏ではヴァイオリンだけが二重奏をするけれど、弦楽四重奏では見られなかった異質性による陶酔感がヴィオラ二重唱に現れるのではないか。また、その同質性と異質性による陶酔の実現をモーツァルトは考えたのではないか。この弦楽五重奏曲を弾いていると、ついそんなことを考えてしまう。

モーツァルト最晩年三十五歳に作られたのは、この弦楽五重奏曲、ピアノ協奏曲第二十七番、歌劇「魔笛」、歌劇「皇帝ティトスの慈悲」、クラリネット協奏曲、そして未完のレクイエム。 これら様々な曲の中にあってもひときわ天空海闊、なんら屈託することのない筆でさらりと書かれた五重奏曲であるけれど、弾いてみると上述のような二重唱っぽさを含め様々な工夫があらゆる箇所にされており、弾けば弾くほど楽しくなるてふ音楽である。お聴きいただく皆さんにも少しなりともこうした楽しさを感じて頂ければ幸いである。

第1楽章 Allegro di molto 冒頭いきなりヴィオラ二重唱。ヴァイオリン二重奏とヴィオラ二重唱の違いがあるのかないのか、まずは興味を持って聴いて頂ければ。

第2楽章 Andante アイネ・クライネ・ナハトムジークの第2楽章に似た主題が繰り返される。ヴァイオリンのお洒落な装飾!

第3楽章 Menuetto: Allegretto 簡素だが明朗なメヌエット。ちょっと穏やかなトリオとの対比が素敵。

第4楽章 Allegro 可愛らしいお嬢さんの歩みについて行くと、振り返りざまアッカンベーをされるような、意外感あふれるロンド。何度見ても可愛らしいんだけどな。

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蛇足:私の中学に教えに来ていた音楽の非常勤講師はおっかないオバちゃんだったが、「藤山一郎の弟子筋で岡村孝子の師匠」であったらしい。 私が中学生だった当時、「あみん」の「待つわ」が流行しており、同級生女子がきれいな二重唱でカバーしていた。だがしかし、当時の私そしてまた同級生男子には、あの歌は、年上女性の若干意味不明の恋愛感情に思われたのだった。今、改めて聞き直すと女性二重唱としての良さとわづかに舌足らずな初々しい歌い回しが魅力的なのだと感じる。

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読書の記録(2025年5月)

秘話陸軍登戸研究所の青春 新多 昭二
以前、ネット上で読んだ話であるが、まとまって読めるので、購入・再読。
ある日ある駅前で太平洋戦争を防衛戦争であるかの如き演説をしている者がいた。あれはまぎれもなく侵略戦争であって防衛に転じた後も無責任に戦闘を持続していたのではないか。「そうでありたい」と「そうである」の意図的・非意図的な混同が最も組織を危うくする。それがあの戦争の少なくとも目先の反省ではないのだろうか。

ジャン・クリストフ ロマン・ロラン
岩波版第2巻。ドイツ人の悪口はなかなか終わらなかったが、急な出国でこんどはフランス人の悪口に。
も少し理性的な読みをするならば、悪口ではなく都市や国家さらにはあらゆる人間集団に対する猜疑・批判であると見るべきなのだろう。
ロマン・ロランについて調べる(Wikipediaを読む)⇒高田博厚⇒下高井戸共産村⇒芸術家のヤギ飼育=取手アートプロジェクトみたい!(レゴビルダー三井淳平氏も参加).
入院してもなかなか進まない。良く言えば緻密な文章。悪く言えば無駄でくどい文章。今のところフランス芸術界の悪口が続いているが、これを21世紀の私が精緻に読む価値が見いだせない。そもそも仏人の筆者(小説家)が、独人の主人公の目を通して語らせるフランス芸術界(音楽、文学、演劇など)の悪口ってば、読むに値するのかね、と思い始める。ジャン・クリストフの性格設定もまた、「ドイツ人は無骨な野人だろ」という紋切りが出発点になっているようにも取れる。うーん。あと2巻読めるかな。それともこうした「悪口パート」を飛ばしつつ「抄訳」として読んでいくしかないのか。

ビザンツ皇妃列伝 (憧れの都に咲いた花) 井上 浩一
再読。中身を細かに覚えていなかったこともあり、入院中楽しく読めた。ちょうど完読。
この数年、オスマン・トルコ側の時代劇ドラマを見続けており、ビザンチンについてはどちらかというと「悪者」設定(弱体化しつつある帝国にあって皇帝は善良だが弱々しく、悪代官がはびこっている的表現ではある)。また、癩王ボドウィンやアンナ・コムネナの話題をネットで見たりすることもあり、ちょっとビザンチン帝国を味わいたくなっていたところだった。
この書は、ビザンチンの通史ではないけれど、8人の皇妃を通じて、滅亡に至る様々な局面の雰囲気を味わうことができ、大変楽しく読める良書である。
癩王ボドウィンやアンナ・コムネナについても少しだけ出てくる(前者は名前言及程度、後者はもう少し)。
井上先生の本をも少し読んでみるか、あるいは、漫画アンナ・コムネナを読むか?
Google Art&Cultureでビザンチンのモザイク画を眺めようとしたが探し出せなかった。無念。
そうそう、「フィラデルフィア」はギリシア語であり、東ローマ帝国内などにいくつかあり、ひとつは現在のトルコとのこと。米国のそれしか知らないからびつくりしたね。

フェルナンド・ペソア詩集 澤田直(編訳)
まあ、私は詩に憧れつつも詩を読む能力にかけるので、何度読んでもわかりはしないのだが、それがためこの詩集も入院中でも良いと思って持参。正解だった。わからないままにあちこちを読み飛ばし同じ場所を何度も読む。呼び出し待ちの無聊を慰め、読んでいる途中で呼び出されてもあまり気にならない。詩人には失礼だが、私の今回の入院には適切な書であった。
帰宅後「アナーキストの銀行家」を見始めた。これもまたペソアの一面であろうけれど、これまで見てきた「不穏の書」「詩集」とも異なる散文で少し驚く。こういう方面からペソアに入る方もあるだろうし、その場合の「ペソア観」は私とは同じではないだろう。だが、そうした多様なペソアの見方こそ、ペソアが異名者を通じて表現したものであったかも知れない。

アナーキストの銀行家 フェルナンド・ペソア
不穏の書や詩集のような高度な幻想性を期待していたので、少々拍子抜け。
まあまあ面白い幻想文学?と言ったところ。異名者のなかにはこういう素直な方も居たのね、と理解しておこう。
短編集のうち、「アナーキストの銀行家」が最も面白かったか。若干くどいし、つい真面目に論理を追いかけたくなるが、まあそういうものではないだろう。私は直線的な「論理」だけでなく「数理性」「ばらつき」を重視しているので、こうした論理っぽいものを見ると、「そういう展開も間違っては居ないが他の展開もあるだろ」思考に入る。そしてそれをなんどもしていると大変疲れて読書に集中できないので、ちょっとこういう作品は苦手。
(とは言え、こういうことを実際に自分で読んで感じることが大切であって、他人の評価を気にするなど以ての外である。)
翻訳は少々微温いのではないか。私にとっては澤田直氏あってのペソアなのかも知れない。「アルセーヌ・ルパン」に堀口大學を必要とするように。

王の没落 イェンセン
「王はいつになったら出てくるのだろう」と思いつつ読むが、なかなか出てこないし、出て来るのも一瞬(全三章中すくなくとも第二章までは)・・・と思っていたらそういう風になるタイプのお話なのね。種々象徴的というか意味不明的材料を簡潔に投げ出して来るので、落ち着いて最後まで読むべきお話。
主人公にも周囲の人物にも道義はないし、古い時代を題材にとったお話なのでそれで良いのだろうが、そういうのも含めた人生と歴史を描いたものと理解すべきなのだろう。
翻訳者による解説には「象徴主義」の語がみられ、「グレの歌」などに馴染んでいる者には、「やはりそうだったのか」の感懐があるけれど、岩波の紹介文にこの語はない。入れておいた方が良いと思うのだが。
後、稀に日本語が雑。「大人の子供」は変でしょ。ふつう「成人した子供たち」って言わない?他にもあった。

外国語の水曜日(黒田龍之助)をめくり見る。
教科書的なものより「文学」を読みたいという学生の声。私もそうだった。
次を読みたいという切実な思いが生じないようなダレた文章は、日本語であれ外国語であれ読みたいとは思わないよね(循環語法?)。
その意味で記憶に残るのは、英語の教科書にあった「スコット探検隊(全滅)」や授業で読んだ米国の白人貧困層のお話などだ。
これらは数十年経っても覚えている。
黒田氏は本当に言語マニアでもあり、ある種「理系」っぽい(私も多少自覚があるが、アスペルガー傾向とかそういうのかも)。でも、自分はそういう人の話を聞くの好きなんだよね(自分がそうだから)。

中谷宇吉郎の随筆を青空文庫で読む。
十二花の雪、「先生を囲る話」について、娘の結婚、「もく星」号の謎 ――白鳩号遭難事件を回顧して――、雪男、湯川秀樹さんのこと、リチャードソン、私の履歴書
どれも読むに足るもの。また、「随筆」は気儘に何を書いても良いものではあるけれど、相応の批判精神を持って書かれており、「試論エセー」に近いのではないか。単なる「感想文」の如きものではない。結局、もく星号の謎は解けていないことを別途Wikipediaで知る。米側からの情報開示が少なかったことが大きな原因だとは思うが、中谷が言及しているような、本気で原因解明に取り組む人が居なかったのかも知れない。
青空文庫もいい文章を収録していて素晴らしい。

ジャック・カロを知っていますか? 谷口江里也
「バロックの時代に銅版画のあらゆる可能性を展開したジャック・カロとその作品をめぐる随想」の副題がある。
随想なのだから、何をどのように書こうが筆者の自由であろう。けれど、どうにも読みにくい。文章が舌足らずというか、飛躍するというか。また、事実・推察的事実・意見を混ぜ書きにしているのも辛い。歴史的事実についてはどの程度専門的確認がされているか怪しく感じられる。テーマも面白いし、カロはもちろん面白いのだがもっと書き様はあったのではないだろうか。
「悪文の教科書」に入れたくなるような「一見良さそうだが、読んでいるとイライラする文章」と感じる。(酷評多謝)
文章は飛ばし読みして、絵を眺め、古書店に早めに持っていく・・・と考えているところ。

ドストエフスキー前期短編集
今はなき福武文庫。前2編を読む。いつものドストエフスキー節。若い頃からこうだったのだ、と感じる。この後、ペトラシェフスキー事件をつ通じて、思想を深化させてゆくが、それでも若き日があったからこその深化だと感じる。

電脳の歌 スタニスワフ・レム
ご存知トルルルとクラパウツィウスの冒険。彼らの肩書を「建造師」としている。深見弾だと「宙道士」だったような。他の訳書の存在を前提として、己の立ち位置を「原典に忠実な訳」としたのかな?深見訳は「初めての訳としてわかりやすさ・面白さを追求した訳」?どちらも面白く、両方読んでさらに面白いのでこれで良い。
読み始めたところだが、訳はこなれており、怪しい日本語がないのが有り難い。以前の

古い鉄道模型趣味誌を読む。旧1号から100号までがPDFで供給されているもの。
面白い。烏口使用について、1955年6月号ミキストに「今から17年前」が初出であるらしい記述がある。私は1980年頃、グリーンマックスのカタログで見たのが初めてだが、1938年以来の伝統ある技法であるか。なお、カタログの筆者はまず間違いなく小林信夫氏であろう。
我々が「古い」と思っている実物車輌が新車として続々と登場する時期なのも面白い。戦後、電化が進展する一方で、旅客用蒸気機関車は新製していたわけで、なんとなう蒸気機関車時代と電化時代は別なものと思うけれど、並行していた時期が長く長くあるのだ。
模型の動力伝達にベルトドライブが流行した時期がある、と。私も小学生時代にそういうことを考えたことがあるが、実用化しなかった。まあ、小学生のような愚か者の考えることは休むに似たりなのだが、今になって振り返ると、なぜ実装できなかったなどの難所がわかり面白い。一度でも考えておいたことは無駄にならない(まあ人生のすべてが無駄だと言えばそうなのだが)。
第63号ミキスト「私の名前を縮めたような店名で恐れ入るが」と「崎陽軒」に言及。「山崎喜陽」氏のお名前になんとなく通じると思っていたが、ご自身でもそう思われていたか。
TMS64号ミキストを読むと、DD50のデザインがよろしくないこと、当時も話題になったようだ。私も長年「妙なものだ」と思いつつ、そういう話をする相手もないので、ここに至って我が意を得たりと思う。「インダストリアル・デザイナア」による鉄道車両設計(への関与)についてこの時代すでに考えられていたのだなあ。と感慨。
TMS65号「レイアウトには山がある」に動力車のスリップ防止に「松脂」のアイデア。今はゴムで巻いた車輪があるからこんなことは考えないが、ちょっとおもしろくはある。この時代は、動力伝達用ゴムベルトに松脂様のものを塗っていたりしたのだ、というのは知らなかった。
TMS79号。オルゴール搭載車輌。「明色アストリンゼンのCM」とあるが判らぬので調べる。と、昭和7年からある化粧品。CMも長く「乙女の祈り」を使っているらしい(少なくとも昭和末頃まで)。驚くね。
TMS80号。塩水を使った可変抵抗、ジャガイモを使った電池。今どき科学実験(実習)のネタではあるが、これらを実用品としているのは、物不足時代を感じさせる。今日出海の小説「珍満亭」読んでみたいがネット検索では出てこない。

鉄道模型趣味誌は「機芸出版社」ということで「機械・機構の芸術」を目指していたらしくあり、そもそも、山崎氏・中尾氏・赤井氏の『同人』であったようだ。ただ目の前にある鉄道や模型を気儘に楽しむばかりでなく、高い志をもって『趣味』として生きる。そういうことが、やっと自分もわかってきたように思う。
こうした生き方は、豊橋交響楽団の主宰者であった森下元康氏にも(プロアマの違いはあっても)通じるところが強いように感じる。「魂の餓え」とでも言おうか。私自身森下氏と直接の接点はなかったが、同じ愛知県内で三村明先生も森下氏と交流があったと聞くし、杉浦薫師を通じて私は森下氏の孫弟子でもあるわけだ。そういうことを最近考えることが多くなった。パスカル・キニヤールの小説にもあった。「音楽が王の踊りに役立つとて、それがどうしたというのだろう」云々。自分自身目先の楽しさで音楽をやっている自覚はあるが、一方で、正確な音程によって作曲家が構想した和声感を実現(ないし理解)することや、構築と破壊による官能性の現出などを考えている部分もあり、「趣味の趣味たる由縁」に居るとも言える。

「お米のいろいろ」って「たくさんのふしぎ」のテーマにならないかな?
もち米、うるち米(ジャポニカ米とインディカ米)の違い。性状、生物、文化の違い。知りたい。
なぜ「お餅」はお正月に食べ、他の時期にあまり食べないのか。なぜ糯米は蒸すが、うるち米は炊くのか(外国ではどのように調理しているのか?)。糯米は餅にするが、うるち米は例外を除いて餅にしないのか。また、餅にしない場合、なぜ糯米は具を入れることが多いのか。などなど、素朴にして答えを見たことがない質問がいくつもあるように思う。
(とは言え、この内容は「パンが来た道」の二番煎じっぽいかも。でも良いのだ)。

そこから思いついて、そういえば、芋類はそれぞれ事典が出版されていたことを思い出した。調べると「サツマイモ事典」がWeb公開されていた。
https://imoshin.or.jp/publications/encyclopedia-of-sweetpotato/
芋そのものだけでなく、人物・団体・祭りなどについても記載されていて感心する。
米もありそうな気がしてきた。でも、それはそれ、「たくさんのふしぎ」に圧縮して欲しい。
というか、圧縮の思考実験をするだけで脳が爆発しそう(楽しい)。

●雑感
先月のクリストフ・コワンの演奏会
ヴィヴラートがかかっていない音を「美しい」と思う。弓の技術が卓越しているから、ということもあろう。
一方、ヴィヴラートがかかっている音は「ふつう」であるように感じた。
そういう生活を送っている習慣的な感覚なのだろうか。
この数年、自分は遅い弓をうまく使えるようになりたいと思ってそれはそれで重要だが、ふわっと早い弓を使うことも忘れないようにすべきかも。両方をきちんと使い分けられることが表現の楽しさにつながるのではないか。などと思っている。

ところで、昔昔、カラヤン関係の映像化作品で、ベートーヴェンの交響曲第三番を、ひな壇に一人ずつ乗ったチェロ奏者が弾いている動画があった。
変にゆっくりとウネウネしたヴィヴラートで本当に気持ち悪かった。正直に言うと、あれを見たせいでカラヤンから距離を置くようになった。
映像も気持ち悪かったが、音楽のテンポと関係のないヴィヴラートがとりわけ不気味だった。なんだったのだろう、あれは?流石にカラヤン風の作り込んだ映像は最近流行らない。まあなんと言っても不自然だもんね。

モーツァルトの弦楽五重奏 K.614 の演奏会が終わった。
反省は色々。硬い、なんか集中力を欠いてヘンなところで落ちる。なんかコロナの後遺症なんかな、と悲しい(悪いことはコロナのせい)。
音程もちょっと良いと思ったが悪い。基本的な和音がアカンくて、旋律を弾いても調性外になっているように聞こえる。音程が悪い前提でさらわないとどうしようもないな。難しいところで外すのは仕方がないが、四分音符一発の根音で外すようでは『音程悪悪大臣』であるぞよ。
自分のパートと旋律と、関係するパートのすべてを一度声に出して(相応に正確に)歌うくらいの訓練が必要そうだ。まあ、それをソルフェージュとなむ言ひけるのだらう。

現在の手持ち曲:
 Mozart Quartet K.428 10/4本番
 Dvorak Quintet Op.97 11/9本番
 Beethoven Quartet Op.132 時期未定
 Mozart Quartet K.421 時期未定
モーツァルトが多いね。もちろん自分が選択しているのだし、まったくそれで良いのだ。
チェロが少し伴奏よりの曲が主なのだが、そういうのをきちんと弾きたい。できるだけ音程(ハーモニー)のことを考えて生活したいので。

Selections by Henry Purcell, performed by Nigel North
https://www.youtube.com/watch?v=OeUzsDrNvyU
パーセルのRondo (Hornpipe) from “Abdelazer” は、聴いたことがある(もしかすると弾いたこともある)ように思うのだが、いつ・どこで・どんな編成で、ということが全く思い出せない。鈴木ヴァイオリンの教則本に入っているのだろうか?
と思ったならば、『ベンジャミン・ブリテンの有名な「青少年のための管弦楽入門-パーセルの主題による変奏曲とフーガ」の主題』になっているとのこと。それならば確かに聴いたことがある。
https://www2f.biglobe.ne.jp/~verde/purcell.htm
「管弦楽入門」も含め、ブリテンの曲にはなかなか馴染めないでいる。

NHK クラシックTV
演奏会の拍手をいつするべきか?の答えとして「辛さから救われに来る人もいる。そうした側への配慮もほしい」。
これは教条的でなく、本当に素晴らしい回答だと思う。私自身この場では適当な演奏評を書いたりするけれど、今一度「配慮」が充分であるかを考えるべきだ。
(それにつけても、シリアスな『ヨハネ受難曲』で主催者側がバシャバシャとシャッターを切る某音楽祭は、ちょっと考え直して欲しい。まあ、行かないから構わんけど)。

ネットで「絶対音感」の広告。要らん。
精緻な相対音感、和声感はまああったら良いと思うが。
「わさびの味が分かっては身代は持てぬ」とも言うし、A=442でも430でもいける人間でありたいし。
なんでこういう不要かつ有害なものを売ろうとするのだろう。売る側が売りたいものを押し売りするの愚。売りやすいものを買ってしまうの愚。ほんまそれ要りますか?売る方も買う方もよく考えるべき。

ガットの専門誌 https://gut.bmj.com/ があると聞く。
と言っても、この場合は人体を中心とする医学としての「腸」。
British Medical Journal 英国医学会誌?のひとつだもんね。
弦楽器のガット弦でもなく、テニスラケットでもなく、焼肉屋のガツでもなく、「お前らはガッツがない」でもない。
他にも、ガットにまつわる雑誌やサイトがいくつかある。ポップス系ではちょいちょい使われる用語なのか、1980年ごろの日本の音楽雑誌でもGutsなるものがあったらしい。

軍艦ピナフォア
https://www.youtube.com/watch?v=2oGV6p5j95A&t=4s
以前、米国のウィチタでの演奏を聞いた。今回はニュージーランド(ダニーデン市、人口13万人)。
この曲は英語圏でプロアマ混成またはアマチュアで演奏するのに好まれているようだ。
なんとなう身の丈にあった「おらがオペラ」の風情があってちょいと面白い。
雑な感想を述べると、アマチュアオーケストラの演奏能力は日本(関東近辺の市民オーケストラ)の方が高いかも。特に管楽器。
ただし、管楽器はそもそもの編成が「薄い」ので、ふつうの二管以上のオケから聞こえる響きはどの楽器もするはずがない。
人口13万人の都市規模からは相応以上にも感じる(周辺・遠隔都市からの応援の有無は知らぬ)。
ダニーデンは歌もアマチュアのようだ、ウィチタは歌はプロっぽかった。
日本で市民オペラがも少し盛り上がっても良いように感じるが、演奏しやすい曲がも少しあると良いのかも。
ある学校の「オペレッタ部」で、J.シュトラウス2世の『ヴェネツィアの一夜』をわりと頻繁に再演していたのも、レパートリーがなかなか広く持てないから、ということだったようだ。
日本語の合唱曲は相応のレパートリーがあるように感じる。コンクールの課題曲として整備・普及されてきた歴史があるからと感じる(あまり詳しくないので、理由がそれしか思いつかない)。一方で、コンクールの課題曲とは言いながら、演奏会用にも配慮されているケースが一定数あるようにも感じる。「蔵王」「筑後川」などは組曲として作られており、紆余曲折のある「大曲」を演奏する困難と楽しみを歌唱者に与えてくれるように思う。
そこで思いつくのは、合唱組曲でもありオペラでもあるような曲を作ること(思いつくのは簡単)。
ピアノ伴奏が基本だが、そこに管楽器数本が入っても良い、場合によってはピアノなしでも演奏可能といった作りならなお楽しいようにも思う。
まあ作るのも流行らせるのも簡単ではないだろうけれど、まずは「オペラを作ろう」的テレビドラマを作るしかないかな。天才高校生が(ヤナーチェク風の)ものすごいオペラを、同級生の歌い手・演奏者に「あて書き」しているようなの。愛と友情、出会いと別れを描く作品にならないかな(そういう小説をそのうち書いてみよう。主人公にはもちろんレオシュ・ヤナーチェクを擬する)。

メジューエワ様のメトネルを聴く。いい曲のいい演奏だ。ロシアという国がどうしようもない侵略国であるのは事実だがだからと言って。。。とつい考えてしまう。

ドヴォルザークの弦楽四重奏Op.96第四楽章は蒸気機関車の走行を模しているように思う。
大多数の蒸気機関車は2気筒・複動式であり、位相差90度なので、車輪一回転につき4回の排気音(ブラスト)が出る。
この点はバルブギアや弁装置の仕組みに関わらず一定だろう。

では、これ以外の排気音の出方は?と考え始めた。
以下を思いつく:
 国鉄C53など3気筒、4気筒の機関車
  3気筒の場合3拍子として、4気筒の場合どうなるのか?ずらして細かい拍子になるのか?
  4気筒でもヴォークレイン複式などの場合、高圧・低圧気筒を同時に作用させるので、排気音は2気筒と同じはず。
 Sey式などエンジン・伝達系の発想が異なる多気筒数の機関車
  減速機構があるので、エンジンは高回転であり、排気音は小さくほぼ連続に聞こえるのではないか?
 マレーなどの多気筒の機関車
  普通の機関車と変わらないが、エンジンセットの位相がずれることはあるだろう。重連も同じ。
  厳密には、高圧・低圧エンジンがある場合音が異なるかも。
 蒸気タービン式機関車
  ほぼ連続音になるはず。

なお、Franco-Crosti boiler のように排気利用をしていても、やはり排気音は同様みたいだ(Youtubeで見た。https://www.youtube.com/watch?v=csMehOTUQ90)。子供の頃読んでいた「学研の図鑑 機関車・電車」はよくできた本だったし、フランコ・クロスティ式の機関車の写真もあったが、解説が十分であったとは言えない。とは言え、こうして何十年も経って、この変わった形の蒸気機関車のことを思い出すことができるのだから、やはり偉大な図鑑だ。
Wikipediaでは、リビオ・ダンテ・ポルタ、5AT先進技術蒸気機関車など、面白い記事も見つけた。
首振りエンジンについても「安全弁」について言及するなど、非常に「工学的」な良い記事だった。こうしたニッチな記事は良い記載者に当たると本当に勉強になる。

奈良電気鉄道が近鉄と合併したのは、昭和38年。知らなかった。どうしても「戦時統合」を鉄道合併の主流(常識)として考える癖がある。まあ、関西方面の知識・経験がないのでそうなっちまうが。
また、奈良電の確保は近鉄と京阪で争ったことも知らなかったし、そもそも京阪に「京都駅」「大阪駅」がないことも知らなかった。なんも知らんな儂。「京阪乗る人おけいはん」でも「淀屋橋から京阪で」と言っていて、「大阪駅から・・・」と言っていないのは知っていたが。関西私鉄は「大阪駅」というより「梅田駅」の言い方を好むから・・・とも思いつつ。

「飛行場の測候所」
https://cwhung.blogspot.com/2016/09/blog-post_27.html
台湾の気動車について日本語ブログからリンクされていた台湾の方のブログ。
そう言えば、コロナで外出自粛だった頃、こういう「自分が少しは読めそうな外国語頁」を読もうとしていたことを思い出した。
ひらがな「の」をこのように入れるのは、中国本土でも見たことがある。お洒落という意識があるように思われた。
ちなみに日本語だと「航空測候所」なる語がありますな。

関西万博でユスリカ大量発生の報に接し「蚊柱の礎となる捨て子かな」の句を思い出す。

テレビで工学研究者への問いかけ「技術・金銭の制限がない場合、どんな世の中にしたいか?」があった。
私は、そこで、オマル・ハイヤーム師の言葉を思い出した。

 神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに、
 そうしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
 何でも心のままになる自由な宇宙を
 別に新しくつくり出したろうに。
(小川亮作訳、青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html)

工学者は「実学」の人であり、物理定数をいじろうなんて思わず、こうした詩的発想にも縁がないだろう。

テレビなどのメディアで扱われると飲食店に行列ができる。
目に就く範囲でも、洋食店、中華料理店などで見かけた。近隣住民にとってはいい迷惑。行列がなくなる頃また行きましょうの体。

今月の誤字・誤読
「全店課長会議」を
「全裸店長会議」と読む。読んでしまう。申し訳ない。ほら、「課」と「裸」って旁が一緒だから。

「古代住居」を
「舌代住居」と読む。なんて意地汚い。

「定義温泉」なる文字列を見かけたが「じょうげおんせん」だった。無念。
精神疾患に効能があるとされていたとか。ふしぎ。
そこから仙台四郎や「私説・日本精神医療風土記」にたどり着く。自分の無知を知る。

以前撮影した写真を見返して「鉄筋コンクリート」を「鐵筋混凝土」と書いてある石碑を見つける。
「凝り」はぎりぎり「くり」ではないけれど相当良い線をいっている。
ネットで見ると戦前は学術的にもこの用語を用いていたようである。
「ビーナス」を「美之主」「美之須」と書くのも雅だが、こちらも雅であるぞよ。

「ヌル2」という単語を耳にする。万博の展示物のひとつらしい。
「ヌルハチ」なら、清帝国の「実質的な初代皇帝」ですな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%81

「バチカン」と見るたびに「バカチン」を思い出す不届き者。

「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」も、アンポンタンが混乱している感じがする。

中国語では規模の大小に関わらず「医院」を用い、「病院」は「〇〇病」の専門病院についてのみ使うとか。
https://kotobank.jp/jazhword/%E7%97%85%E9%99%A2
「病院」の語は明代の中国語から来ているみたい。
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900030433/KJ00004218877.pdf
西嶋佑太郎氏(精神科医、日本漢字学会、日本医史学会)にこうした用字の違いについてご解説頂きたいところ。
https://www.m3.com/news/open/iryoishin/1057952

女性のお名前で「早由里」をお見かけする。
すべての文字が似ていて目がクラクラする。どんな名字が良いかつい考えてしまった。
「古田早由里」では物足りないか。「吉田早由里」ならまあまあ。晶や昌の字と組み合わせると最高かも。
「皛納(きょうのう)」という名字の方にお会いしたことがある。しかも2名。驚いてお尋ねしたところご親戚なのがわかったけれど。

鉄道模型趣味の記事データベースで遊び続けている。
2013年11月号に「私鉄の小型機関車4形式 東野鉄道DC20・栗原電鉄ED20・東急電鉄デキ3021・が苦難鉄道ED40」なる記事がある。
「岳南鉄道」なんだろうか。こうした遊び心のある模型鉄道名はしばしば見られるけれど、他の3つが実在のようなので、これは誤字(このDBとしては相当珍しい)ではないだろうか。当の岳南鉄道の方々のことを思うと、この誤字で楽しむのも申し訳なくなる。
鉄道会社が「金を失う」と書くのを嫌がって旧漢字「鐵」を使ったり「金に矢」と書いたりしている例もある。

PCに取り込んだ音楽を「Ravel」で検索。作曲家モーリス・ラヴェルの曲が出てくるのは当然だが、ヴォーン=ウィリアムズも。
ああ「旅の歌 song of tRAVEL」だからか。

Yes, Prime Minister
https://www.youtube.com/watch?v=ZVYqB0uTKlE
相変わらず絶好調。「英国の500年に渡る外交方針」「なんのために欧州連合に入ったか」。この論法はBrexitをも説明しうるように感じる。もちろん冗談ではあるのだろうが、「物事全般を説明しうる美しい仮説」の信用ならなさを示しているとも言える。
私は「美しい仮説」愛好家なので気をつけよう。

WebブラウザChromiumはタブごとにメモリ使用量を表示することが出来る。
タブを新しく出すだけで(メニューが出てくるけれど)64.5MBですって。昔のMacintoshは8MBとか16MBで、もちろんOSこみで動かしていたのだから、気が遠くなるほどたくさんメモリを使っているように感じる。

イェニチェリ
https://www.youtube.com/watch?v=EB5Ad0I__SU
このメフメトを主人公としたドラマでイェニチェリの隊長は反乱を起こした末、逮捕・処罰されるが・・・というところ。「鍋」はイェニチェリの象徴であり「鍋が覆される」は「(イェニチェリが)反乱を起こす」に相当する言葉であるとか。それらしい場面がしばしばある。
隊長の名がクルチュ・ドアンらしいが、ガンダムにもそんな名前の登場人物がいるようだ。
しかし、大宰相の様子が常に不穏だ。なかなか尻尾を出さないずる賢い狐のように。
で、私が最も見たかった金角湾に向けた艦隊の山越えは38話後半から39話前半。まあ不可欠なテーマだが主要なテーマでもなく、ちょいとそれらしい場面がある程度。個人的には実地形を見たかったのだが。その辺りを再現するためのドラマではないので仕方がない。

サラディン映画におけるエルサレム側。
https://www.youtube.com/watch?v=bFPD029aYCM
エルサレム王ボードゥアン4世(癩王)。チェロの音楽が悲痛
姉シビーユの描かれ方が映画作品によって違うのもちょと興味深い。

ドラマ「女王と枢機卿」を見る。
https://www.youtube.com/watch?v=mbOxQgjyiF4
多くの登場人物はダルタニャン物語で履修しているのであまり困らない。一方、リシュリューの死に比べて、ルイ13世の死が明示的に描かれなかったので、最初ルイ13世であるかの確信が持てなかった。
自動字幕の「レッツ」は「レス枢機官(レ枢機官)」だね。 で、銃士の皆さんは歴史書どおりの活動しかしない。ほとんどの場面では「立っているだけ」。一部で、戦闘・警察行動をとるが、己の意志といったものは感じられない。フロンドの乱におけるパリ脱出など、ダルタニャン物語では面白おかしく描かれているが、そんなことはない(描かれない)。

Troopers (Full Web Series)
https://www.youtube.com/watch?v=rvoJXBqLILM
スターウォーズと関係なくもない兵士の物語。わざと安出来にしたのであろう。お話も安出来(褒め言葉)。

オーストリア・ハンガリー帝国末期を描いた反戦小説・映画(らしい)
C.K. Dezerterzy
読んでみたい・見てみたい。youtubeのお勧めが、中欧の中世から近代あたりの戦争・戦闘場面をたくさん出してくる。まあそれはそれで正しい私の趣味かも知れないが、知れない地名・時代が目白押しなので、調べながらついつい見てしまう。戦闘自体の描かれ方は大きく変わらないので、適当に見ているけれど。
オーストリア人(ドイツ語話者)である将校こそ大真面目に帝国への愛国心を説いているが、ポーランド人・ハンガリー人・チェコ人・ソロバキア人などなどからなる兵士には全く無関係。帝国の解体ということはこういうことか。
第一次大戦のイタリア戦線 Uomini contro (総攻撃)では、無意味な「対機関銃装甲」が出てくる。唾棄すべきほど無意味。

Facebookの「知り合いかも」に、薄着の女性が出てくる。こーゆー知り合いはいないな、自分。こういう女性嫌いではない(大好き)だが、見たい時とそうでない時(見ないことを強く求める時)があるのだから、きちんと区分して欲しい。他のネット宣伝もすべて。

文学の活動をされている人々。「100冊マラソン」みたいなの、自分には合わない。まったく合わない。
また、読書の傾向も私と異なる。
まあ、当然のことではある。人間はすべて異なるのだから。
ちょっと興味があったけれど、(おそらくはお互いに)距離を置くべきなのだろうと思った。
私はこの場所で勝手にほざいているのが良い。

ある街道筋の脇道にある古書店。例に寄って書を覗いていたところ、学生という方が「この辺りの古いことを知っている方を探している」と店主に尋ねている。
そういうことに興味があってよく調べている方が近所におられたけれど・・・という話につい耳を傾けてしまう。
また、建設会社が入って大規模開発をしようとしたが、皆が賛成しなかったことなど。

連休中さほどの散財もせざりければ、浜田山サンブックスなる書店に行きて、未知谷・青土社の本をば贖ひけり。
量子力学、ジャック・カロ、いずれも己が能力を省みず眺めてみんとて買うなり。
構えは小さかりけれど志いと高う書店とぞ見ゆ。
通りがかった地元のご婦人と店番との会話も面白かった。

ラ・フォル・ジュルネなる音楽祭り。
何年か前に行ったけれど、真面目な音楽もお祭り騒ぎの中に紛れさしてしまうのが苦痛であった。
自分のような者は人が集まる場所に行かない方が良いのだと思った。故に今年も行かない。望見もしない。
私のような者も多数ではないにせよ一定数いるだろう。まあ、声高に言う必要もないけれど。勝手にさらせ。

以前から気にしていた半蔓性の花「テイカカズラ 定家葛」とのこと。
「ニオイバンマツリ 匂蕃茉莉」とともに名前を調べなければと思っていたもの。

家の近所で見かける人々に適当なあだ名をつけている。が、それを発話することはない。
冬でもコンビニエンスストアでアイスコーヒーを買って歩いている人物は「アイスマン」。
小柄で優しそうな女性は「吉永さん」。強そうに見える女性は「ヨハンソンさん」。どちらも女優さんのイメージ。吉田茂の反戦グループ「ヨハンセン」とは関係ないよ。

兵器の内部構造解説シリーズ。
https://www.youtube.com/watch?v=DN4TJpPRhSQ&t=874s
回天、桜花のように日本人にとって様々な意味で痛切な兵器についても、冷静かつ技術的な説明をされている。
ドイツのキングタイガーも「戦闘には勝てるが兵站が重すぎて戦争には勝てない」「1時間使うために10時間の整備」といった評価。
戦争は常に科学たらざるを得ないことを思う。我が国が本当に戦争をしたいのなら、本当に戦争に備えるならば、科学を重視せよと言いたい。

そういえば、先月Ubuntuを22から24に上げた。
コマンドラインを叩いて再起動するだけだったが、22に入っていたGimpは24には何故か入らなかった(抜けていた)。一瞬驚いたがインストールはふつうにできた。
他にも入らないプログラムがあったかも知れないが、今のところ気づいたのはこれだけ。他は22でも24でも同じように利用できている。
また、BlueToothドライバが良くなったということはないらしい。キーボードは使えているので良いが、トラックボールはやはりアカン。
きょう日BlueToothは相当に重要なインターフェイスだと思うのだが、これで良いのだろうか?
デフォルトのテキストエディターは変わらずMousepad。行数も表示されるし過重すぎない良いエディタ。この雑文もMousepadで書いている。 いつの間にか表示はXubuntuLightに変わったようだが、悪くない。

Ubuntuは2009年に8.10を使っていたのね。これが最初であるかはわからないが、おそらくこの時以降ほぼUbuntuなはず。本当に長い間お世話になっております。きっと、Linuxのディストリビューションの中でも最長(私史上)だろう。Vine、Debian、Knoppix、Ubuntuと来ており、RedHat系はほぼ触っていない。
http://folia.txt-nifty.com/musik/2009/04/ubuntu-810-6753.html

鼠径ヘルニア(脱腸)治療のため手術・入院
昨年来遠歩きしていないのはこの症状のため。本番・練習に穴を開けないよう(仕事も繁忙期を避け)連休明けに実施。
今は、無事退院して、好き勝手にものを食べたり、ゴロゴロしているところ。

 1日目 朝入院、午後手術、全身麻酔以降夕刻病床で目覚めるまでの記憶は全くなし。動くと手術部位が痛い。
 2日目 微熱で一日ゴロゴロ。昼から普通食(完食)。手術部位は少し痛いので、姿勢を変えるのに気を使う。夕刻点滴終了。
 3日目 痛みほぼなし。鎮痛剤をもらって動きまわる。病院の地下階から5階まで断続3往復。シャワーも浴びる。
 4日目 退院。バスと電車を使いひとりで帰宅。途中で昼食(グラタン)を食べるの余裕。
予想より入院は一日延びたが、想定の範囲内で仕事にも差し支えなさそう。しばらくおとなしくするが、そのうち遠歩きをしよう。
病院には様々な病気の方がおられる。自分などは本当に軽い症状で、そこに医療資源をつぎ込むのを申し訳ないとも思った。これからも社会保険を納めて貢献しよう。できれば献血もしよう(自分が輸血を受けたわけではないが、できることをしようのココロ)。
また、病院とその周辺には様々な医療・バックヤードの方がおられる。医師・看護師・検査技師・薬剤師・清掃員・事務員・救急隊員などなど。多くの治療行為を滞りなく進めておられ、大変尊敬・感謝している。
ちなみに、隣の病床の方も見舞い客に医療関係者への尊敬・感謝の念を語っておられ、看護師さんらとのやりとりでもきちんとそういう応対をしていた。「良い奴だ」と思ったね。「食欲がないがアイスクリームは食べたい」と看護師に言い、看護師も「医師と相談する」と言い、その後医師が「栄養士と相談した。昼飯にアイスクリームをつける。だが、『持ち込み』は止めてくれ」と言いに来ていた。きちんと断る男もなかなか偉いと思うが、それにきちんと応える医療関係者も(とても多忙なのに)偉いなと思った。私にもなにか出来ないかと思ったが、思いつくのはアイスクリームの密輸だけだった。もちろんそんな悪いことはしないよ。 一方、悪気はなさそうだが、看護師に叱られがち爺さんというのもおり、これはこれで(危険なほどではないからだが)面白かった。
早朝から流し台で洗髪して「流し台周辺も着衣も濡れてビシャビシャじゃないの・・・早朝は従事者が対応できないから洗髪しないで」と言われて、「え、昨日も一昨日もしたけど・・・」という「より怒られる」応対をしてしまうなど、すこぶる正直者だった。どうやら組織人ではなく個人営業の職人さん(清潔好きなので、飲食関係か?)であり、ずっと自分の采配・才覚で生きてきたのだろう。それに比べると私自身なんだかんだ言っておとなしい組織人なのよね。

「鼠径ヘルニア」「鼡径ヘルニア」両用されているけれど、意味があるみたいね。専門的すぎてその差異がよくわからないけれど(ICD-10なるコード表を見るとおそらく前者が広義、後者が狭義っぽいが、病院で使われているコードがICD-10か否か確信がない)。

某日の朝、家の周囲を掃除していると、なにか変わった音がした。表現しづらいし事後的な感じとしては「滑走音などなど」。音がする方を見ると、白い煙が上がっているので、急いで見にゆく。
すると、駐車場でコンクリ破片を鼻先に載せて後退するジープ。そして、駐車場外壁(というか隣家のコンクリート塀)がちょうど一枚分崩れている。
まあ、人身事故ではなくて良かった。事故後警察をすぐには呼んでいないのがちょとアカンと思うがどうなることやら。
その前には火事でもなさそうだが、消防車が来てアパートの2階の窓を開けようと奮闘していたり、我が家周辺の治安は低下しつつあるのかも知れぬ。

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今週の戯れ歌

連休は少し掃除をしたるかな却って塵の目立ちはすれども

人たちの連れ立ち歩くを他所に見つつ家の陰にて雑巾がけせむ

余りにも掃除しつるを解すれば余命短き人のやうなる

死を思ひし人にしなくば掃除すもほどほどなるを当然とせむ

連休で独り過ごすの長ければ独語するのを我に気付けり

青春のつとに終はるを知れるあり始まることの知りもせねども

悲しさをうたに紛らし生きるならばうた佳き事の期することなかれ

適当に仕事切り上げ楽器弾き酒でも飲んで早く死すべし

書きかけの原稿あらばそれなりに完成させたき心もあるなむ

人たちの不快を恐れ小説の頁を閉ずる我何のトラウマ

何かにか幼き頃の傷あらば人の争ふを好まざるなる

転居ありて言葉異なる人たちに畏怖を覚えし幼き頃なる

両親の諍ふ声を聞きながら子供部屋にて密やかに過ごす日

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読書の記録(2025年4月)

飛ぶ教室 ケストナー 丘沢 静也
楽しくも考えさせられる読書であった。
「ギムナジウム」という優越的地位にあってもその中で起こる「男らしさ」の物語など、ともあれ、読後感は良い。
ロマン・ロランの小説で、ドイツ民族は非常な長文で貶されているが、ここではさらりとした味わいのドイツ的理知のあり方が示されているように思う。
畑の中に置かれた客車に住むというとこちらを思い出す。
Grounded Coach Body
https://peco-uk.com/products/grounded-coach-body?srsltid=AfmBOopzNRWUn8e5aYfoLmbsNjIHoPKDcGah7RHebWtSey1nbIZzJCHE&variant=7435747328034

中谷宇吉郎 随筆(青空文庫)
I駅の一夜、アイクと鳩山さん、英国日食班の印象、ケリイさんのこと、原子爆弾雑話、抗議する義務、小林秀雄と美、北海道開発に消えた八百億円、など。
科学ものではない「I駅の一夜」や「ケリイさんのこと」がほのぼのと心に残る。特に前者は、近年の我が国の凋落振りにあって、少しく同じような心情や期待を持つ者にとっては忘れがたい。
我が国の首相が国会図書館で一時を過ごしたことを批判する向きもあるようだが、たとえば「原子爆弾雑話」など読んでおくのはたいへん重要だと、私は感じる。よってして国会図書館に行くのも当然のことと思う。
中谷宇吉郎をなかば文人と捉え、美文のみ書いているように賞揚する向きもあるように感じるが、「北海道開発に消えた八百億円」を読むと、適正なる社会批判者であって、今の世の中にも大変必要とされている(が、過剰に批判されたりもする)立場であるように感じる。

増補 幕末百話 篠田鉱造
適当にめくり見るに、脱疽をヘボン医師が治療する話あり。これってば、山田風太郎先生の明治断頭台のモデル(の一部)だよね。
さすが山田先生。たったこれだけの記事から大きいお話に発展させておられる。

澄江堂雑記 芥川龍之介
wikipediaの題頁を見る⇒「澄江の化石産地」が出ている。⇒「澄江堂ってば芥川龍之介だよね」⇒Google検索すると「澄江堂雑記」(青空文庫)が当たる。の順序。
とても賢そうでそこそこおもしろい文言が並んでいるが、よくわからない文章もある。私の賢さが不足しているのか、時代性が強いのか。「文芸と階級問題との関係は、頭と毛生けはえ薬ぐすりとの関係に似ている。」など。
「七 赤西蠣太」は以前読んだようにも思うが、いつ・なぜ読んだか思い出せぬ。
龍之介が紹介している近松の俊寛はなかなかに劇的で面白そう。読んでみよう。
ここから「痴人の告白」についてネット辞書を見る。「痴人の告白」の項を読んでいるのに「レストランの調理スタッフ」が出てくる。広告が本文を平然と邪魔し、その区別も不分明な時代。悲しいね。広告をするなとは言わないが、本文を邪魔しないこと・本文と区別がつくこと・不快でないことは、最低限守っていただきたい。
古い東京の「とても」は否定を伴ったが、新しくは三河由来の否定を伴わない使い方が入ったとの言説。最近でも似たような話を聞く。「まったく・・・ない」等かな?

幻の朱い実 石井桃子
石井桃子と言えば、私が幼い頃より「くまのプーさん」などでお世話になった翻訳者である。
その方の小説。岩波現代文庫で「石井桃子コレクション」としていることからその重視されていることがわかる。
私の母・祖母の間くらいの時代性を感じるこの小説を読むと、小説と母・祖母の話を通して、時代の断面を立体的に見ているように感じる。
また、生涯独身だった大叔母や歳長けてからひっそりと結婚生活を初めた伯母など、あの昭和の動乱期における結婚の有様にも通じるようにも感じる。

この小説は、「自伝的作品」と見るべきなのだろう。極貧でも富裕でもない、都会の知識層の戦前・戦後の(戦中の生きるのに精一杯だった時期を除く)、シスターフッド的な精神生活を描いたものとして見るべきなのだろう。
(岩波書店の作品紹介を見るに、石井自身は結婚歴がないとのこと)。
言っても詮無い「もし」であるけれど、私自身もっと若く結婚する前後に読んだならばどう感じただろうか、と少しく思う。
もともと、カラスウリ趣味で見つけた本でもあり、銀座教文館で偶々複数置いてあったので、思わず買ったのだが、読めて良かったと思う。高年男性には、一読ではわからないニュアンスがたくさんありそうなので、いつか再読しよう。

ジャン・クリストフ ロマン・ロラン
なんとか二巻を読んでいるところ。第一巻はドイツ人(ドイツ民族)の悪口が相当あったが、第二巻はドイツ作曲家の悪口。バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーその他もろもろ皆アカン。まあ、こういう見方もあると楽しんでいるけれど、描写は冗長だし、昨今あまりウケないのも当然(また、それが惜しくもない)と感じてしまう。買ってしまったので、第四巻までつらつら読んでみましょう。
私は精神的軋轢の大きい本は読みたくないらしい。まあ、自覚もあるのだが。

星の牧場 庄野英二
大岡昇平の「武蔵野夫人」を読んでいると、復員兵が兵士の目で地形を眺める情景が異様に浮き立っているように感じられる。それまでのあやふやな「作り話」ではなく、明晰な意味を持つとともに生死を分かつ峻厳さが感じられる。
庄野もまた戦闘で負傷し、そののち後方勤務になったらしい(ロッテルダムの灯火)。ここでも、大岡と同じではないが「兵士の目」が感じられる。それも、負傷兵の目であり、海没した戦友たちを思う目である。
この書もまたちくま文庫の「戦闘以外の戦争」シリーズであり、読んでよかった。

古い鉄道模型趣味誌
先日亡くなった片野正巳氏の古い記事(1975年の京濱急行など)を読んで楽しむ。

鉄道模型趣味通巻第1000号
私が最もよく買い、最もよく読んだ雑誌。でも、私が現役で読んでいたのは343号(1977年1月)〜480号くらい。
記事も「機芸」出版社の志にふさわしい題材を選んでおられるように見る。私には、欧州の不思議な電気機関車が、題材、模型化手法、工作水準ともに機芸らしさを感じた。
付属のDVDで伝説の「孔版1号」が読めるのも嬉しい。このあたりはもともとの雑誌が読みにくいのだから、も少し解像度を高くして頂ければよかったのだが、仕方がない。
孔版時代の文章を読んでいると、「予備士官」とか「今の処、戦災を受けなかった会員の車輌を持ち寄って運転しており云々」「空襲で(自宅が)全焼」「一夜を過ごす話のたねはヤミと食物の浮世を離れて」などとあり、生々しい時代性が感じられる。この時代にすでに模型を趣味とし、模型趣味における「芸術性」を志している人もあったのだと感銘を受ける。
そしてまた、京都大学の化学系の教授宍戸圭一氏の記事などもある。「自分が発明した薬品を売っている会社の看板を1/80模型の線路脇に出したから、1/80の看板料を払え」なんて面白い。ノーベル化学賞をとった野依氏は宍戸氏の弟子のひとりなのね。
完売・増刷決定とのこと。喜ばしい。私はちょいちょいこういうのを買いそびれるが、この本ばかりは執念で手に入れた(というほどのことはない)。グリーンマックス創業五十周年記念誌は高価だったこともあり、ぼんやりしているうちに売り切れた。こちらも何らかのかたちでの増刷(廉価版)は出ないのかなあ?
そうそう、一点贅沢を言うならば、すでに古典的なレイアウト三部作(レイアウト全書、レイアウトモデリング、レイアウトテクニック)もpdf化して欲しかった。時期尚早なのではあろうけれど。

付録の記事題名・著者DBはSQLiteなので、適当なフロントエンドを突っ込めば直接中を触ることができる。
私は Linux (Ubuntu) を常用しているので、 DB Browser for SQLite を使った。これ、なかなか使い良い。
例えば以下の感じで、WHERE句の中を変えるとだいたい好きなことができる。
SELECT year, month ,articles.title, authors.name, categories.name FROM articles
INNER JOIN categories ON articles.category_id = categories.id
INNER JOIN magazines ON articles.magazine_id = magazines.id
INNER JOIN authors ON articles.author_id = authors.id
WHERE authors.name LIKE '赤%'
(空白を入れてイコールが揃うように書いていたが、markdownが解釈して改行するのでボツにした)。

TMS30号。赤井哲郎氏(前号でもそう呼ばれている)が、なぜか赤司哲州名で記載している。
東西電車自慢東の巻。「双方ともイキリ立つ内に遂にはどちらかに大事故が起こるものである」。
雑文(失礼!)のうちにも、未来の福知山線事故を予言しているようで慄然とする。

時々訪れる古書店にあった「ニルス・リューネ (ルリユール叢書)」を、買いに行ったら売れてなくなっていた。
よくある。そういうの。古書店主もそうおっしゃった。誰かが気にかけると、誰かが買ってゆく、と。
やはり、「迷ったら買う」しかない。呉明益の「複眼人」も気になるが、これは文庫があるからなあ(それならそれで文庫が切れないうちに買おう)。

渡辺電機(株)氏の「新選組いちねんせい」(ネット漫画)。結局すべて読んでしまった。なかなかのオチ。
新選組が内紛外紛で人を殺してばかりいた実相をギャグ漫画で描くのもすごいが、最後がこれかい(ほめことば)。

バルザックの「人間喜劇」の発想は、司馬遷の史記などで用いられた編年体・紀伝体(本紀、世家、列伝)と出発点(問題意識)は同じかもね。まあ、人間のやることが新旧東西あまり異ならぬというだけのことだが。

「アラミス最期の恋」なんて小説があるのね。
(たまたま、ヤン・ヨーステンについて調べていた→アメリカに「アラメダ」なる地名がある→アラメダ公爵(ダルタニャン物語の登場人物)について調べる→この小説にたどり着く。読んでみたい。貧乏銃士だったアラミスが、イエズス会の管区長にしてスペインの大公爵になり、そしてその虚偽と変転に満ちた人生を回顧する・・・。
ダルタニャン物語は面白い。何度も読んでいるけれど、最初に読んだ小学5年生の時は冒険活劇として、大人になってからは歴史的物語として、それぞれ面白く読んでいる。貴族たちの群雄割拠するルイ13世統治下から、新教弾圧、反乱を経て中央集権化、また、武力闘争中心だったのが、経済闘争中心へと変化していく様、下級貴族であるからこそ貴族社会に出入りすることが出来、有能であるからこそ出世するダルタニャン(そしてコルベール)。などなどの変化を肌身を持って感じさせてくれるのは流石デュマ(及び鈴木力衛)の筆力と思う。

アレクサンドル・デュマによる自作の翻案『銃士たちの青春』 柳光子
https://ehime-u.repo.nii.ac.jp/record/2001447/files/AN10579404_2022_52_51.pdf
これも上記と同じ経緯で見つけたもの。こんな作品あったのね。
でもって、柳光子氏は(研究者であるから、とはいえ)、非常なダルタニャン物語好きなのね。私も嬉しい。
と思うたら、この手の文書は結構あちこちで書かれているのね。これは愛媛大学、別に岐阜大学。
「退屈を囲って」とあったが、「不遇を託つ(かこつ)」の「託つ」だろうなあ。

「チェロはいいよ!」を読み始める。
アマチュアとして合点がいくことが多い。
https://www.amazon.co.jp/dp/B015VBVCW2/ref=docs-os-doi_0
おそらく著者は私が知る人だ。この属性の方がそうそうおられるとは思えない。そしてこの語り口。硬質な諧謔とでも言おうか。
ちょっと悲しいのは、電子版をWebブラウザで読むことができず、Kindleアプリが必要なこと。私はLinuxで読みたいがなかなか。

喫茶店でだらだらしながら書籍通販のwebサイトを眺め、岩波文庫「やし酒飲み」を「お買い物かご」に入れた途端、隣席に座った方が同書を取り出したので驚く。
そして、岩波文庫の近刊に「夜間飛行・人間の大地」がある。私が好む「南方郵便機」や「戦う操縦士」が無視されがちなのが悲しい。

●雑感
エイプリルフール。良い嘘をつくのは難しいものだ。
昔、行きがかり上、我が家の子どもたち向きの四月馬鹿の催しを考えねばならなくなった。
実害がなく、でも騙されたと少々悔しい思いもしてもらいたい。
そしてまた私は会社に行かねばならない。
仕方がないので、前日子どもたちが寝静まってから、家の中の時計を30分ずつ早め、朝30分早く起こした。
「まだ寝てるの、起きなさい」てな具合だ。
もちろん後々文句を言われたが、心に残る良い催しであった。
子どもたちが小学校に通っていた頃の、春休みの温かい思い出。

同じように、成人した我が子に昔読んでいた絵本「ペッチ」を誕生日プレゼントにしたのは、今なお話題になる。
「ペッチ」は、今は「ラスムスクルンプ」を名乗ってTwitterもしているので、家族内では、ラスムスに向かって「おいペッチ。いつからラスムスクルンプになったんだよ」と(乱雑に)呼びかけるツイートをするぜ!という会話が面白おかしくなされている。ゴメンよラスムス。

バッハの管弦楽組曲第3番の本番。
高校生の時に挑戦し、結局序曲が出来なかった。以来四十年の宿願が果たされた。
なんだか最近こういう「もうすぐ死ぬのかな」的結願が多い。まあ、そうであったとしても限りなく有り難いことだけれど。
当時は速いところも弾けなかったが、冒頭の圧力をかけて弾くようなところがそもそも理解できず、奏法も判らなかった。
当時は、録音もほとんど入手できなかった。たまたま、NHK-FMでロリン・マゼール指揮ベルリンRIAS放送管弦楽団が流れたのが唯一の情報だったと思う。
あれから、様々な情報も増え、グランドスタイルで行くか、ピリオド風で行くかを考えるくらいには世の中とともに進んできた。
大変ありがたいことである。
で、例によって練習中、モロモロ嘴を挟んだのであるけれど、本番後に「室内楽のレッスンを受けたことがあるか」と問われたのは、もしかすると「お前の変な嘴の根拠はなんだ?」ということだったかも知れぬ、と後々思い至る(事後孔明とは己がことだよ)。
己が身を顧みるに室内楽としてのレッスンも少しは受けているけれど、おそらくは昔々、三村先生の練習を受け、さらに杉浦薫師の室内楽(チェロとピアノの二重奏)の練習を何度か見学させてもらったことが大きいようにも思う(ついでに言うと中学校で顧問が滅多に来ない合唱部の指揮者をしていたぞ)。
彼らは、音楽を萎縮させないために、様々な工夫をしていた。だから「音程が変」とか「●●しないで」といった具体的対応がしにくい表現はしなかったし、それぞれの奏者が積極的に感じ・考えて弾く気になるような文言を発していた。私は良い先生に恵まれたのだ。その大恩を少しでも世の中に返せるならば、本望これに尽きる(それに反する行いをしていないかよくよく反省しよう)。

現在の手持ち曲:
 Mozart Quintet K.614 5/10本番
 Dvorak Quintet Op.97 11/9本番
 曲目未定 10/4本番
 Beethoven Quartet Op.132 時期未定
 Mozart Quartet K.421 時期未定(K.465と比較検討したが、ベートーヴェンと並べた時に重すぎる懸念があり、K.421に決定)。
 さらに、もしかすると9月にチェロ教室のおさらい会にお邪魔するかも

練習の録音を聴いていると、思ったよりダメだった、思ったとおりダメだったというのもあるが、思ったよりダメじゃなかった、というのも偶にある。意図しないで手が勝手に動いていて、耳は追尾できていない状況。それが楽しいかと言われると忸怩たるものがあるけれど。私は私の意志と制御のもとに音楽をなしたい。

弦を替えた(4月15日)。
2024年7月6日からドミナントプロを使っていた。ほんとうは半年で交換したかったが、値上がりもしたし逡巡の末。
そんなに劣化している感じでもなく、結構長く使える良い弦だったかも。最初さほど良いとは感じなかったが、安定していて劣化も少ないように感じる。
今回はダダリオのカプラン。張った直後の感じでは、アカン。
うるさい。特に上2本。でC線は弱い。G線の第4ポジションあたりは暴れすぎ。また、ハイポジションになると音がひどく艶消しになる。まあ、慣れてくれることを期待しましょう。もし1週間経ってこれが治らなければドミナントプロの古いのに戻った方が安全かも。
ダダリオを張るのは、20年振りくらい。ヘリコア・ユニコアを売っていた時代。渋谷で買ったような記憶がある。
2週間経ってまあまあ落ち着いてきた。が、やはり毛のひっかかりが悪く音が荒れやすい。ガットもそうだが、弓の技術の低さが暴露されるタイプの弦である。

La Musica Collana
エーベルルの三重奏、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ。
一曲目より二曲目の方がピアノの音が穏やかで美しくなったように感じた。どーゆーことなのだろう。作曲家(が作った曲)の違いなのか、演奏者の演奏行為の違いなのか・・・。
モーツァルトのロンド。短調モーツァルトはやはり良いね。
最後のトリオは「さすがモーツァルト」。エーベルルも面白い良い曲で楽しく聴けたのだが、やはり、格の高さが異なるように感じる。
そしてまたロンドも良いのだが、やはり「3人で演奏する立体感」がたまらない。
(エーベルルとモーツァルトの対比が面白いので、同じ演奏会で・この順番で弾いていただいたのはたいへんよろしい)。
して、例によって丸山氏・島根氏の様々な音作りが素晴らしいのだ。

五反田文化センターへの行きがけに不動前駅近くのフラヌール書店によったが、定休日であった。なんと間が悪いこと。
ガラス越しに店を覗いていると、隣の英学塾の時間待ちらしいお嬢さんが「今日は定休日ですよ」と教えて下さる。
なにかにと少しお話した。お嬢さんは小学生であろうけれど、都会育ちらしく利発にしてきちんとした物言いをなさる。
私の「日頃の行いが悪いから定休日にあたってしまった」に対し、「そんなことはないでしょう。優しい声をしているから優しい人なんです」などと大人をヨイショするのも後生恐るべし。
二度と会わないであろう人の類例。最近「忘れ得ぬ人」について考えるがそういう方のお一人にかも知れない。
昔、東海道線の車中で蜜柑を下さったご婦人方、札幌で凸凹に凍結した道路で脱輪した自動車を救って下さった引っ越し屋さん・・・。

Abel Selaocoe: Tiny Desk Concert 先月一曲目しか聴いていなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=GhY31ngpnWg
二曲目はなんと、マラン・マレ「人間の声」。自由な即興歌謡も付く。不思議だが納得できる演奏。
この「曲」とも言えないような「曲」。好きな人が多いね。自分でもなぜこの曲を好むか不思議だったけれど、この曲にしかない何かがある。

クリストフ・コワン演奏会
恐るべき安定性。恐るべきニュアンス。ロングトーンであれ、動きのあるパッセージであれ、完全に自家薬籠中のものとして正確なニュアンスづけが行われている。こういうのを聴くと、己がテキトー音楽・いい加減音楽・ブサイク音楽が嫌になるよね。
ヴェルフルやモーゼスもとても面白い音楽で良かった。まあ、ベートーヴェンと並べると格下感は否めないけれど。

フィリアホールのエスカレータを降りる際、お子さん連れの女性が「おもちゃを見るのはいいけれど、買わないからね。ポイントは『買わない』こと!」とおっしゃっている。なかなかおもしろい。つい「良いポイントだと思います」と賛意を評してしまう。
我が家でもそうだったが、何でも買ってもらうのが幸せではないと思う。『特別』の甘美な響きを伝えるのも親の務めかと思う。

落合の有名鉄道模型店でダラダラ過ごす。
BGMがチェロ特集だったらしく、「白鳥」やエルガーの協奏曲。若干居心地の悪さを感じるが、そう思う人間は少数であろう。
昔、同僚に「ジャズは寛げる」と言ったところ驚かれた。ジャズ研出身者で「次に誰がソロを取るか、取ったソロをどうこなすか、緊張する」とのこと。人それぞれ。

株式会社キングインターナショナルのホームページを見たところ、閉鎖のお知らせになっていた。
CDが売れないので、閉業ということだろうか。
ヴァントゥイユのソナタについて検索した結果のひとつであったのだが。

雨降りの日曜日 鷺澤伸介氏
http://blaalig.a.la9.jp/
シェーンベルク「グレの歌」のもととなったヤコブセンの「サボテンの花ひらく」の和訳を公開されている方(偉大!)。
2015年頃拝見して感激していたが、このところサイトが見られなくなった・・・と思いきや、今日は接続できた。
この方のサイトも「古き良きインターネット文化」であるが、この方の名前に言及されている方々もまた、「古き良き文化」に属するようで嬉しい。
https://leeswijzer.hatenadiary.com/entry/2021/06/01/065528
あのインターネット黎明期の良き日々は失われて久しい。
「サボテンの花ひらく」の冒頭が少々分かりにくいが、国木田独歩「忘れ得ぬ人」と似たようなことを言っているやにも思われる。自分の2016年のメモ(http://folia.txt-nifty.com/musik/2016/06/index.html)でもこれらが並んでいるのはそうした意味があったのかも(自分のことでももうわからん)。

鷺澤伸介氏の興味と能力は素晴らしい。
ウィンナーワルツのCD選び。私も実は同じようなことを考えたことがある。
http://blaalig.a.la9.jp/wienerwald/wienerwald.html
ウィーンの森の物語はやはりツィターでなければ・・・というのには特に賛同。アントン・カラスが弾いているのはどの録音だっけ?

これを出発点に、子供の頃家で聴いていたウィンナーワルツのLPレコードを探す。
https://www.snowrecords.jp/?pid=136414355
見つかるのがネットのすごいところ。ミネアポリス交響楽団の名前にはなんとなう覚えがあるが、指揮者アンタル・ドラティなのは知らなかった。
ジャケットは安っぽいし、写真は意味不明だが、思った以上にきちんとした演奏だった。これに限らず、我が家にあったLPレコードは結構趣味性が高かった。これもその一枚だったのか。
ドラティの「CD30枚組ボックス・セット」にも収められているらしい。また、NAXOSのこれ(https://ml.naxos.jp/album/00028948441051)も近い。
そう言えば、このLPには「ウィーンの森の物語」が入っていて、自分は「美しく青きドナウ」よりもこちらの方がなんとなく「名曲」として刷り込まれていた時期があるのだった。とは言え、自分がオーケストラで演奏するようになると、ツィターがあったり、弦楽器の独奏があって取り上げにくい「ウィーンの森の物語」よりも「美しく青きドナウ」の方が演奏機会が多くなり、何年か後にはこちらに親しみを感じるようになったのだった。

ストラヴィンスキーの言いたい放題
http://blaalig.a.la9.jp/printemps.html
我々は、カラヤンやブーレーズを崇めているのだが、しかし。
一方で、「火の鳥」をストラヴィンスキーが指揮する映像を見たことがあるが、そんなに素晴らしいとも思えない。

ラテン系の格好いい女声 Entre a Mi Pago Sin Golpear (Chacarera)
https://www.youtube.com/watch?v=ZV7T0WFxopc

第二次ブルガリア帝国の皇帝にカロヤン・アセンがいる。カロヤンは「善良なヨハネ」もしくは「寛大なヨハネ」ですって。
指揮者カラヤンもご先祖はこっち方面と聞いたことがある。どうなんだろ。

CDを買う。中古とは言え、安くて申し訳ない。昔、CD出始めの頃、LPレコードを安価に買い漁ったが、それよりも安い。
もう、主流はネットのダウンロード販売なのだろう。

イギリス国鉄クラス50ディーゼル機関車の50007号は作曲家「Sir Edward Elgar」の名が付いていた、と。

ボンタンアメ100周年とのこと。
目出度い。ボンタンアメは子供の頃から大好き。雅で床しいお菓子だ。
1925年に作られた。我が母だけでなく、祖母が親しんでいる様子があったが、さもありなん。
今後の発展を祈りたい。
また、ボンタンアメと並んでいる兵六餅について調べると、「大石兵六夢物語」に題を得ているとのこと。
Wikipediaを読むと、大石兵六はずいぶん狐に誑かされており、兵六餅の箱絵にあるような勇ましい感じでもないのが、ちょと不思議。
とは言え、地元銘菓に地元のお話が結びついているのはが雅味があって良いよね。
こちらは1931年から。いずれも息の長いお菓子だ。
軍隊に送られたり、工場が空襲で焼けたり、戦争と無縁ではいられなかった百年を思う。

遊び半分で官報を眺めていたら、「水先人に免許を与えた件」を見つける。
水先人は氏名と本籍地都道府県名まで公開されるんだ。まあ、公益性も高いし、詐称されたりした時の損害も大きいだろうから公開の意義も大きいのだろう。それに引き換え気象予報士・・・。
まあ、そういう扱いで良いのだが、日々の気象予報・防災について言及するだけでなく、地球温暖化についての注意喚起も続けるのが、職業倫理つうもんよね、と思わないでもない。

博物館「明治村」村長は阿川佐和子氏。阿川氏は明治生まれだっけ?なんてね。
「明治偉人隊」なる者らも居て、福沢諭吉氏も含まれている。大隈重信を押し込めなかったのか、まあ学閥が弱いのが早稲田の良いところではあるよね。名古屋出身の有名な明治人としていないのも一見識かも知れぬ(すぐには思いつかない)。 後藤新平は板垣退助が岐阜で刺された時に治療にあたったと言うが、愛知県医学校勤務だっただけで、出身は奥州水沢なのね。
永井荷風は父方母方とも名古屋(周辺)と縁があるものの、本人は東京小石川生まれで名古屋との縁は非常に薄い。

名鉄中興の祖である土川元夫氏は明治生まれであるけれど、流石に主に取り上げるのは控えるだろう。
Wikipediaを見ると、土川が京都帝国大学出身とのこと。京都大学霊長類研究所が犬山にあったのもこの縁であったか。
霊長類研究所は長く憧れの的だっただけに、低調な終焉となったのは残念である。

ChatGPTで写真を絵画風に加工してみる。
 レンブラント風=暗く粗い筆使いで、とてもレンブラントとは言えない。
 フェルメール風=レンブラントと区別がつかなった。説明文では自画自賛していたが。
 ミロ風=まあまあそれらしかった。これが一番おもしろい。
 エッシャー風=一応石版画には見える。が、エッシャーの謎めいた冷たい表現力はないよね。
 棟方志功風=木版画には見える。が、棟方の豊穣さ・厳しさはないよね。
 漫画風=特定の作者を指定すると拒否される。漫画風というより、漫画調を取り入れたデッサン風にかえしてくる。北斎漫画風は作成できない。
 ポップアート風、エジプトのピラミッドの壁絵風、ビザンティンモザイク風、アール・ヌーヴォー風、マヤ文明もコンテンツポリシー違反だそうだ。嘘くさいな。
 以降は「たとえば・・・リクエストせよ」という中で例示しているのに、指示すると違反という矛盾。なんだか仕事をしたくない人間みたいだな。
説明文を記録しておこう。
 こちらがレンブラント風の油彩画風に仕上げた画像です。重厚でドラマチックな雰囲気が加わり、まるで絵画のような仕上がりになりました!
 フェルメール風に仕上げました!柔らかい光と陰影のコントラストが特徴的で、静謐な雰囲気が漂う作品になっています。
 ミロ風に仕上げました!カラフルで遊び心のある抽象的な表現が、列車をユニークな形と色彩で描き出しています。
これら説明文はつく時とつかない時がある。どうしたものなのか。

六花亭のインスタグラム
熱狂的かつ長期に渡るファンが熱く語っている。
自分なんかはこの人々に比べて大したことないと思うが、数日の北海道出張の際、六花亭某喫茶室に毎日出入りして店員さんに見咎められた(気づいて頂いた)のは私である。
札幌勤務時代、毎週六花亭の喫茶室に通っていた。今なお名前を覚えている店員さんがある(それとは別に、お名前こそ存じ上げていないものの、バッテリー上がりを助けてくださった社員さんはさらに忘れてはいないし、子々孫々まで忘れてはならぬ)。もしかしたら、私は、店員さんと結婚して、六花亭に転職して、今ごろは六花亭管弦楽団の首席チェロ奏者・・・。まあ、こういう無責任な想像は、フーテンの寅さんという大先輩同様に楽しいよね、と道理もへったくれもなく書くのをお許し頂きたい。下らない男でござんす。

レストラン「聚楽」
昭和ひと桁生まれの亡父が「はじめてナイフとフォークを使った」のは聚楽(上野)らしい。
当時、父は全音楽譜出版の使い走りをしていて、作曲家ないし作家さんに原稿料を持ってゆくことがあった。ある時の待ち合わせ場所が「聚楽」で、作家さんが「君、ご馳走しよう」と言われて、見様見真似で苦心しながらハンバーグを食べたという。
父はこの話をしながら、我々子どもたちのナイフとフォークの練習としてフレンチトーストを作ってくれた。
父の昔話は、おそらく昭和二十年代後半のことだろう。

金沢の「芝寿し」
大好き。で、伝統的なお寿司屋さんかと思いきや、東芝の炊飯器を売るために炊いたご飯の使いみちとして、金沢伝統の押し寿司を思いついたとのこと。なかなか面白い。
芝寿しが食べたくなってきた。今年は金沢にゆこうか?(柿の葉寿司も大好き)。

鉄道模型のKATO、ついに「クロコダイル」を模型化。
KATOがスイスの鉄道を模型化しているのを、なかなか良いなと思って見ていた。でも、最新型のスマートな車両ばかりで、私の好みには少し合わない。だから買いもせずに来た。
有名な電気機関車クロコダイルなど古い車両があれば買うのに、と思っていたが、やはりツボを付いてきた。私はこの機関車を買うだろう。そうなると客車・貨車なども買わねばならぬ。私は、列車に乗って移動しつつ、車窓から様々な風景を楽しみ、さらに行き交う列車を眺めるのが好きなのである。ということは「行き交う列車」を再現するために、旅客列車と貨物列車を・・・などと考える。すなわちなかなか楽しいご散財が待っている。

鉄道模型趣味誌第1000号は「孔版初号(1946年)~3号、創刊号(1947年)~102号までの全ページPDFを収録DVD」がつくとのこと。
伝説の初期が読めるのは非常に嬉しい。私が現役読者だったのは、350〜430くらいだったろうか。
昔買った雑誌の記事を今なお眺めて楽しくも学びがある。すごい雑誌だ。

中野ブロードウェイの中の模型店で、古い模型をいくつか見る。 中村精密のC51、エンドウの9600。昔欲しかったNゲージ蒸気機関車の模型。昔の倍の値付けは決して高いとは思わない(が、自分のような者が買っても仕方がないとも思う)。見られただけでほのぼのと幸せである。もちろん、これらの蒸気機関車が最新式の模型になって登場して欲しいけれど、商業的に難しかろうし、期待もすべきではないだろう。

漢字。廿、丗、卌。20、30、40まではあるが、50はない。
50があれば、五十歩百歩を「四字熟語」に入れられたのに。
まあ、昔は卌みたいな五十があったが、文字コードに入らなかったのね。

誤字シリーズ
「口径の高速有蓋者」は「後継の高速有蓋車」だろうなあ。「有害者」でないだけ穏当かも。

「まずは所作なく勤めたのであろう。」と見たが「大過なく」か。
「無所作」は「やることがなくぶらぶらしていること」らしいので、おかしいだろう。

靴「スベルガ(滑るが)」ではなく「スペルガ」だった。
香水「カーレシュ」も「加齢臭」「カレー臭」みたい。

Googleの検索結果「黄昏のウィーンの生物学 尿前 JT生命誌研究館」
原文は      「黄昏のウィーンの生物学 承前 JT生命誌研究館」
間違えるにも程がある。まさか、原文が以前は間違っていたのだろうか。。。

アッテネーター(減衰器)。「音程がアッテネーター」と言いたくなる。

一旦停止違反でお巡りさんに止められた運転者(ベンツを運転する若い女性)が「それってあなたの主観ですよね」と言っているのを小耳に挟んだ。
この語法がいかに広まっているかを実感した。日本人は自分の主張をできないことが欠点とされてきたから、多少の進歩かも知れないが、その主張が聞きかじりの「魔法の文句」ではねえ。

JCB。Journal of Cell Biology 細胞生物学雑誌。Johann Christian Bach じゃないよ。
カード会社は「Japan Credit Bureau」だったんだ。今は違うだろうけれど。

アジャンクール(エジンコート)。英国で戦艦の名前になっているのを知らなかった。まあ、第一次大戦時の戦艦だからね。
主砲塔が7つもあり、世界最多とのこと。そもそも英国向けではなく、ブラジル向けだったものがトルコ向けに変更になり結局英海軍。などなど。

先月の「ギヨタン」。「たん」は女児などの愛称としての接尾語?としても知られ、可愛らしい印象が一般的だろう。
しかして、ギヨタン、ヨナタン、などの名を「かわいい」と思えるだろうか。

Nowhere
「No Where どこでもない」としても「Now Here 今・此処」としても禅語っぽい。なんだっけ、「爾の那辺において切なるや」(お前は、どういう場所で(どういう時に)切実であることができるのか?)。

「AIコンパニオン」なる語を聞く。
この「コンパニオン」はどのような意味だろうか?ご学友程度の意味だろうか?まさか、バブル期のパーティーに現れた「酌婦」のことではなかろうけれど。貴族のお付き女性なども「コンパニオン」だっけ。

米国の爆撃機B17の後方射撃手向け動画
https://www.youtube.com/watch?v=aoHOVUKOc0M
これを見ただけで有効な射撃が出来るようになるとも思わないが、こうしたものを動画にする国と我が国は戦争したのね。

知人に「地理学至上主義者」がいる。
「地理学科が理学部と文学部にあるのではなく、地理学の中に理学も文学もあるのだ。あらゆる学問は地理学の中に位置づけられる」くらいの壮大にして高い視点を持った主義であり、そういう意見も一定程度納得がいくと感じるものである(私は一文字異なる理学至上主義者なので、一定程度以上の納得はいかない)。

地理学至上主義からみた「あらゆる学問の位置づけ」を改めて見てみたいものだ。
(酒飲みの与太話)

笑福亭べ瓶氏のYoutubeを見る。 関東四派閥の話を聞く(尋ねる)ことが出来るのは、上方かつ関東での仕事も長いべ瓶氏ならではだろう。
特に昇進制度などで、圓楽と立川の違いがものすごいが、その双方を包摂するのが「落語」であるのは、良いことだ。
立川小春志氏の修行は人情ものみたいだし、錦笑亭満堂の軽やかな芸風も良い。そして落語協会・落語芸術協会が中庸を締めるのも良い。
(日本の政治もこれくらいに落ち着かないか、と余計なことを思ってしまった)。
桂米朝「落語とわたし」を渡されるお話。私も読んでたいへん気に入っているので、嬉しい。
「笑福亭の捨て育ち」というのも凄い言葉。田中啓文で「笑酔亭」となっているのもここから来ているのかとやっと知る。

映画「兵隊やくざ」が無料公開されているのを見る。
もとより娯楽作品ではあるけれど、日本の軍隊の暴力性・非合理性が満ち満ちており、これをある種『軍隊とはそういうものだった』として社会が受容していたしるしでもあると思う。「星の数よりメンコの数」というのも、ある種非合理性の裏面である。

フォークランド紛争の記事をネットで見る。昔、戦争1年後くらいでBBCが双方にインタビューした番組を見たことがあり、驚いた。そんな時期に双方で取材が出来たということ、また、双方の軍人が憎しみではなく義務として戦闘を語っていることなどに。
中国による台湾侵攻があると、私は思っていないけれど、そういう観点から見直すことももちろん可能だろう。もちろん、大きな違いもあるだろう。

京都ノートルダム女子大学募集停止とのこと。
京都大学出身者から「京女とダム女」という言い方を聞いたのは、何十年も前。
四年生大学が閉校する時代。少子化だから当然でもあろうけれど。なんとなう「京大生の口から出るような名門女子大」だと思っていたので、驚く。

ChatGPTにものを教わる。
1992年頃買ったマイク(Sony ECM-909A)を使うと雑音が多いのは、経年劣化でコンデンサーが容量抜けしているのではないか、とのこと。ちなみにこのマイクはプラグインパワー対応だそう。そんなことまで教えてくれる。
1995年頃買ったスピーカー(Tannoy Mercury m2)から高音が出ないのも同様にコンデンサー劣化。推奨コンデンサーも教えてくれる。
UbuntuでBluetoothトラックボール(サンワMA-BTTB183)が使えないのは、PC内蔵のBlueToothデバイス(RTL8821AE)が凶悪だかららしい。
こういうことはきちんと答えてくるっぽい。

情景。
四月上旬の朝、スーツ姿の親娘三人が駅に向かって歩いてゆく。
中高年の父母と、就職したての娘でもあろうか。黒いスーツに少しだけ華やかなお化粧。
娘さんが「娘が一番背が高くて・・・」と話すのを聞くともなしに聞くご両親。 思わず「行ってらっしゃい」と呟くと、お母様が「行ってまいります」と返して下さる。
私がこの親子の状況を(正しいかどうかはわからないが)見て取ったことを、お母様は感じ取ったに違いない。
子供を就職させる同世代であろうことも。
よき職業生活を送られますことをお祈り申し上げます。

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良い楽器に触らせてもらう日

昔、楽器屋で高価なチェロ・高価な弓に触らせてもらったことがある。

当時学生だった私は、50万円くらいの量産品のチェロを使っていた。良く鳴る良い楽器だったから、各大学で同じメーカーの楽器を1台ずつは使っていたと記憶する。
それ以外の学生も概ね同程度の楽器を使っていたと思う。おそらくは30〜80万円程度。
そして、わづかに楽器に理解のある親族があるなど特別な事情があると、100〜200万円あるいはそれ以上の楽器を使っていたのではないだろうか。

そして、大学に長くいた私は、下級生の楽器選びを手伝うことが多かった。

実は当時楽器選びをする際、特定の楽器屋とのみ付き合わないようにしていた。
まあ、その地域のアマチュア奏者の多くは、学生か学生OBだったから、学生に変な楽器を売りつければ、その楽器屋は商売が立ち行かなくなるだろう、とも思ったが、そうであっても、「この楽器屋で買わねばならない」という状況を作らないようにしていた。
もちろん、無限に多くの選択肢があったわけではないけれど、数軒は付き合うようにしていた。

で、どの店も学生に親切だったけれど、ある楽器屋は、経営者が大学オーケストラのチェロ出身だったらしく、割合にチェロ学生を構ってくれることがあった。

ある時は、背板が斜めに継いである楽器を見せて、「こういう楽器を買うのは慎重にした方が良い」などと言い、またある時は、「ドイツ、イギリス、日本の楽器は、同じメーカーで同価格なら同じ性能の楽器と考えて良いが、フランスやイタリアは個体差が激しい」といったことを教えて下さった。

さて、とある平日の昼間たまたまその楽器屋に行った際、待ち時間を過ごしていると、その経営者が「良い楽器と良い弓があるから弾いてみるか」と言って、古い楽器を出して下さった。楽器屋の値付けがどれくらい正当か?という話はあるにしても、きちんとした健康かつ古い楽器で、音もしっかり出るのだから、一定以上高価なのは当然、という楽器だったと記憶する。

私の弓でこの良い楽器を弾くと、非常に良い音がする。己はこんなにも上手かったのか、と思う。
また、言われて見て、良い弓で私の楽器を弾くと、これまた非常に良い音がする。良い弓は短く使えば短くなり、長く使えば長くなるようで、まるで孫悟空が使う「如意棒」のようだった。
こうして感心していると、「良い弓で良い楽器を弾いてご覧」とおっしゃる。
で、折角の良い弓と良い楽器であるのに、これが意外といい音がしない。
不思議に思っていると、「それがあなたの持っている音だ」と。
「良い弓も良い楽器も、『あなたがやっている事』を反映する。だから、良い弓・良い楽器を使うと、『良い弾き方』をせざるを得ない。だから、良い弓・良い楽器を使うと上達するのだ」と。

この言葉にはすこぶる感心し今なお記憶している。

その後も機会があれば楽器屋で様々な楽器に触らせてもらうようにしているが、自分としては数十万円から三百万円くらいまでの楽器は、評価できるような気がしてきた。これらの楽器はおおむね、価格と性能が比例するように感じることが出来る(好みはまた別だが)。
だが、ここから上の楽器は皆同じように感じる。雲の中に入ってしまったようでもあり、価格に対する感度が対数的に下がっているようにも感じる。

まあ、魯山人先生が「わさびの味がわかっては身代は持てぬ」ので、身代は持っていないけれど、わさびの味がわからない方が幸せであると思っておこう。

そうそう、「良い弓・良い楽器」はとても買える値段ではなかろうと思ったけれど、一応値段を訪ねてみた。

「値段はつけられない。若くていい人がいたら貸したい」とのことであった。

すなわち、眼の前に居る私は「若くていい人」には該当しないということであった(残念)。

私に良い弓・良い楽器を触らせて下さったのは、長期的には「営業」に他ならないのだろうけれど、そこで何か要らないものやダメなものを売りつけられたわけではなく、私としてはあれを若くものを知らない人間に対する親切の一つだったと解釈している。そしてまた、あれから何十年も経って楽器を買うかもという際、この楽器屋にも行って楽器を複数触らせてもらっており、ご縁がなかったのは残念だと思っている。

注:ここでの楽器の価格は二十世紀のものも二十一世紀のものも、また、地域についても特段区別せず適当に書いているので、あまり参考にならないでしょう。お気をつけください。

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今週の戯れ歌

酒を煽り暗き道をば歩み出し我がゆく道に光あれとや

休みなる明日を思へば少しばかり度を過ごすのもなかなか良きかな

久方に歩く夜の町暗い道我が目の程は見えずあるなる

佳き酒の重き憂さをば晴らすべき明日の頭痛は知れたことなれ

電車代節したつもりで歩くなれど酒飲みければ本末転倒

本末は転倒なれど酒を飲み憂さを晴らすも必要なりける

夢に見る「皆集まったよ」の一声に指先までも至福に包まる

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