超人にならなくていい(3)
「超人にならなくて良い」と、まったく同じではないにせよ、似たことを、最初の職場で先輩に言われた。非常に見識の優れた先輩であった。
かいつまんで言うと、以下のような内容であったと記憶している。
「組織として取り組んでいる以上、『誰それでなければできない』と言う状態にしてはならない。
職人や芸術家であれば『誰それでなければできない』と言うことが必要であるが、
組織人としては、『誰それでなければできない』と言うことは不要であるばかりでなく、有害である。
であるが故に、仕事をする時には、『誰にでもできるように』と考えよ。
難しくて『誰にでもできるわけではない』ことを『誰にでもできるように』ブレークダウンすることこそが
技術者としての仕事である」
と言うことであった。
私は、趣味としての音楽においては「私にしかできないこと」を追求している。私の場合、それは難曲を弾くことではない。音階のような単純なものであっても「誰が弾いたか判る」状態に持って行こうと考えている。もちろん、伴奏において「上手に霞む」あるいは「旋律を泳がせる」と言うのも芸のうちだと思っている。
一方、職業的には、属人的なものを排するように注意している人間がどれだけいるであろうか。今、目先の仕事が済みさえすればそれで良いとされているのではないだろうか。
また、上記の先輩の言葉を思い出す。
「組織として商品を提供している以上、品質が一定である必要がある。
それは、悪品質な商品を出荷してはならないばかりではなく、
常態として守ることのできない高品質なものをも排除するべきである。
何故なら、商品を利用する側で、一時的な高品質に頼ってしまう事態が
発生した時、本来の品質に戻った時に障害が発生する恐れがある。
そのために、一定の品質とは、下限ばかりでなく上限をも意識する必要がある。」
と言うことであった。これも日本人には難しい。良ければどれだけ良くても良い、
と言う吝嗇根性があるように見受けられる。
属人的要素を排することは、仕事のポータビリティを増すことである。その先輩は、また、こう言った。
「自分のパソコンでなければ仕事ができません、と言う人間になるな。
どんな環境であっても、与えられた環境で仕事ができるだけの人間になれ」
つまり、人間のポータビリティを強化するわけである。(この先輩のお陰で、私は転職することが良いことであるように思っていますし、転職しても困らないだけの才覚を身につけることができました)。
また、些事ですが、こうも言いました。
「データは常にテキストで持て。
あるソフトがなければ開くことも使うこともできないファイル形式は危険である」
これはデータ/ファイルに関するポータビリティと言えます。
総じて、この先輩の意見は強くオープンシステムを意識したものだと言えますが、プロジェクトのあるべき一断面を指しているように思います。
Comments
私は、趣味としての音楽においては「私にしかできないこと」を追求している。
この事を、ここ数日考えていました。結論として私はそうでないみたい。
バッハのカンタータの通奏低音は「正しく」あるいは、「バッハの考えたことに忠実に」が優先ですね。癖は無い方がよく、録音を聴いてどこかの名手と見分けが付かなくても構いません。音色だって様式によって定められているように感じています。
ベートーヴェン・ブラームスのチェロソナタなんかでも、作曲家の意図と様式感が優先で、あまり自分しかできないことは考えていません。
古典派の弦楽四重奏でも、やらなければならない仕事を誠実に良心的に果たす、という感覚だと思います。ただ、私以外の誰が、ここまで楽譜を正しく読めるだろうか、という自負を覚えることがあり、それが、自分しかできないこと、という感覚につながりますが。
Posted by: はかせ | 2005.05.18 11:41 AM
淮です。
はかせ御大のご指摘は、いつもながら面白いです。私がいい加減に書いていることを、よくぞ見て下すっております。
私は、正攻法をするほどの技量も教育もないので、いわば、奇襲狙いのカウンター攻撃をするしかないのでしょう。
また、私の音楽の捉え方は、動的なものを指向しているので、「正しさ」と言うよりも、その場の「ノリ」とか「ウケ」に走ってしまうのかも知れません。
私は、八分音符の音階が並んでいても、四分音符の頭打ちが並んでいても、それらを同じ長さで弾くと考えることができない人間です。どちらかと言うと音楽の抽象性を担っている器楽奏者と言うよりは、思うままに音を伸ばしたり早めたりする歌手の性向なのかも知れません。
Posted by: 淮 | 2005.05.20 11:52 PM