ファーブル 昆虫と生きる
ファーブル昆虫記と言えば、小学校二年生のころの愛読書であった。
とは言え、自宅に本があったわけではなく、図書館で借りて読んでいた。
今となっては、どんな記事があったのかも定かではないが、糞転がしを飼うのに必要な馬糞拾いに通りに出かけると、それを生業にしている男がいて喧嘩になる云々と言うのを妙に良く覚えている。偉ぶらず、研究が好きで堪らない男。謙虚と言うよりも、敬虔と言うにふさわしい態度。子供心に読んでいて楽しかった。
彼は昆虫の観察について述べつつ、昆虫を観察する自己についても述べており、その点が、小学生であった私から見て、多少の不思議さを交えつつ、強いとは言えないがそれだけに忘れ得ぬ印象を与えたのだと思う。
小学生であった私は、彼がどのような時代をどのように生きたのかを、正確には知らなかった。そして、彼が生きたフランスが、どうもパリではないらしいことは判った。小学校を出る頃には、アルフォンス・ドーデの『月曜物語』や『風車小屋だより』に親しんでいたけれど、その南仏の田舎の情景こそ、ファーブルにはふさわしいように思われた。
さて、過日、古書店にて「ファーブル 昆虫と生きる」(林達夫、岩波少年文庫)を入手した。独立した書物の翻訳ではなく、昆虫記から、彼自身の回想を抜き出して整理したものだそうである。
これを読むと、彼が如何に貧しい出自をもち、苦学しつつ、昆虫観察者として大成したかを感じることができる。彼の貧しかったことは、色々なところで読むことができるが、彼自身の筆になる表現はまたひとしおであった。
権勢と喧噪を嫌う彼が、レジォン・ドヌール勲章をもらう、たったふたりの授賞式は、それまでの彼の苦労を知った者には涙なくしては読めない文章である。
昆虫記以外のファーブル本(ファーブル博物記:岩波書店)も、多く翻訳されているようである。昔の心あらためて、また虚心にファーブルを読みたいものと思っている。
彼が独学について述べていることをここに抜き書きしておこう。
<引用>
独学には独学のよいところがある。人を学校育ちのきまりきった型にはめこんでしまうことがない。それはめいめいの人のそれぞれの性質を十分にのばすことになる。野生のくだものも、熟す時期がくると、温室のものとはちがった風味を持つものだ。そのくだものは、ちゃんとものの味のわかる口には、にが味とあま味のまじった味わいをのこし、この味はまた、この二つがまじり合っていることによって、いちだんとねうちを持っているのだ。
</引用>
私は、自分の楽器演奏が、長い間独学であったために、多くの悩みを持っていた。楽器を独学で弾くことなど、信じられない、と言う論を読んだこともあり、それはそれで納得できるものであったが、私の人生がやりなおせるわけではない。そして、ファーブルが言っているのは、学問のことであって、楽器演奏のことではないのも重々承知している。然れども、長い独学を経てめぐり会った我が師は言った。
「演奏とは人生そのものだ。」
もし、そうであるとするならば、自分で悟らねばならぬことは多く、自分で考える習慣ができたことは幸いとするべきだろう。そしてまた、ファーブルの一言は、私に多くの慰めをもたらす。
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