超人にならなくていい
野田篤司氏のマツドサイエンティスト日誌・研究日誌を読んで、いろいろ考えました。
あちらに投稿したものを持ってくるべきではないのかも知れませんが、自分の考えたことを自分の手元に残したいことから、こちらにそのまま載せることにしました。
トラックバックを使ってみたかった、と言うのも理由のひとつです。
読み直しますと、マッドサイエンティストではなく、マツドサイエンティストなんですね。
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マッドサイエンティスト様。初めまして。淮と申します。
顔見知りではない人間を歓迎しているとのことなので、コメント差し上げます。
建築向け3次元CADを売っている人と話をしたことがあります。
日本では、ある部品どうしが図面上ではつながっていなくても、「つなげなければ困る」と言うのを察して施工するのが「良い業者」であり、多くの業者はそうするし、そうしな業者は次から使ってもらえないであろう。米国では、図面でつながっていなかったら、図面=契約条件だから、絶対につなげない。つながっていないと言う図面の通りに施工する。発注者もそれを当然と受け取る。
と言うことで、それゆえに、米国の発注者は3次元CADを使って、実際の施工シミュレーションをする必要があって、3次元CADを買ってくれるが、日本の発注者は3次元CADを買ってくれないのだそうです。
発注先が少数であれば、このような善意の品質管理が成り立つのかも知れませんが、多くの人間が介在する状態では、ある種統計的平均を見た上で、「誰がやってもできる」レベルの管理を導入するべきなのでしょう。
また、第二次世界大戦中、米国は少品種大量生産、日本は多品種少量生産であったことも思い出されます。日本人はとかく職人的技巧を好み、ついつい多くの要求を付加することが指摘されます。現代のコンピューターシステム構築についても、シンプルさよりも、付加機能を多くしたがることが多いように聞きます。
歴史学者阿部謹也の著書「自分のなかに歴史をよむ」などを読みますと、契約履行の倫理観が中世以降のヨーロッパで発達して行くことによって抽象度が向上して行ったと考えられますし、あるいは、「世間」と言う「自分が顔を知っている範囲」でしか通用しない倫理感に基づく日本社会は、抽象度が低く、小型のプロジェクトでは非常な力を発揮するものの、大型プロジェクトでは暗黙の了解で覆いきれなくなるようなって当然と感じられます。極端な言い方をすれば、日本人の社会は、大規模化に適応しきれていないと言うことができると思います。欧米の社会が完璧だと言うつもりはありませんが、少なくともある程度の規模以上になると有効な側面を持っているのは事実なのでしょう。

Comments
マツドサイエンティスト・研究日誌、おもしろいページを教えて頂きました。
(1) 「良いモノ作り」のためには「バランスの良い設計が必須」・・これは本当だ、たぶん。
(2) そのために「問題の構造」の把握が必要・・これも本当だ、たぶん。
(3) 「問題の構造」の把握のために、「モノ自体」に精通することが大切だ。・・これは必ずしも、そうではない!!
これは、音楽演奏について私が今取り組んでいることと強いアナロジーがあります。
音楽演奏では楽曲の構造の把握が必要です。今、最後の追い込みに入っている、チャイコフスキーのピアノトリオ「ある偉大な芸術家の思い出のために」は長大な曲で、凡庸な演奏では聴衆に忍耐を強いることになります。この曲の魅力を伝えるためには、構造的に弾かなければなりません。
多くの日本人の演奏は細部を丁寧に正確に弾くが構造的でないのです。何回もでてくるフレーズをみな同じように一生懸命弾く。
我々はこれまで、演奏上難しい箇所を個人的にさらってから、合奏に入る、縦の線が合うようになってからバランスを考える、最後に音楽にする!とかやるのが当然、と思っていたのですが、そのやり方は止めました。
まず、全体のラフスケッチを把握し、全体のために部分がどのような意味を持つかを考え、そういう構造がわかってから初めて、練習するようにしました。
イギリスに住んでいた頃、イギリス人のアマチュア・プロとよく合奏をしました。日本人と全然違うのに唖然としたものです。特に下手なアマチュアが日本人と違います。弓も左手もぐちゃぐちゃなくせに、自分の弾くべきパッセージの意味だけはわかっている、という感じ。
日本の美しい建築は近寄ってみると、その細部のすばらしさに驚嘆するけれど、西洋の教会なんかは丘越しに見た遠景が美しかったりする。
日本女性は近寄ってみた時の肌理が美しいが、西洋人の美人は彫刻的な美しさであって近寄ってみるとひげが生えていたりする---。
Posted by: はかせ | 2005.05.09 09:38 AM
プロジェクトについてもいろいろ思うところがあるのですが、音楽的話題として、私は、プロジェクトにおける抽象化の比喩/実例として、オーケストラを考えていました。
指揮者から見て、すべての楽器は、奏法や音色に関係なく、音程やリズムとして抽象化されていると言えるでしょう。指揮者はどこまで具体的な奏法にふれるべきか。ひとつには、それが指揮者の個性であると言えます。
私は、オーケストラにいて、ブルックナーやフランクの交響曲と言う、極端なまでに構造的な音楽を弾いていたので、一応構造意識は持っているつもりです。
特に、比較的初期に取り組んだフランクでは、たくさん強弱記号があって、それを一様にやっていると、非常に馬鹿みたいに聴こえます(宴会芸として、どれだけ馬鹿みたいに弾けるかの練習をしたことがあります)。
例えば、山が4つあるとして、1の山、2の山、3の山、4の山と言う概観があって、そのうち3の山が最大の山になるように設計しなければ何の面白さもない。
音楽の構造化表現のひとつしては、質量の慣性をイメージした、速度変化の鈍さをあげることができます。特にオーケストラは人数が多ことから、室内楽に比べてあらゆる変化が鈍くなり、それを逆用した重量感を作り出すことができ、その重量感を利用して構築感を補強することができるのではないかと思います。
ピアニスト小川典子が弾いているベートーヴェンの交響曲第九番(ワグナ−編曲)は、このテンポ的重量感をうまく作り出しているが、非常に面白い。くらべてカツァリスのリスト編交響曲は、アップテンポのせいで、弾けていると言う以上の面白さが見られない。
さて、私の音楽的課題のひとつとしては、「音の通し方」がテーマであると考えています。対位法的な音楽は、各声部の動きが見えなければ全くつまらないものになってしまいますが、それは和音的に溶け合う音作りと矛盾するのだろうか。
私が興味を持っている指揮者、クレンペラー、ケーゲル、ザンデルリンクと言った人々は、このような音作り/和声感/対位法について一定以上の成果を挙げていると思うが、その具体的方法については判らない。
弦楽器で言えば、弓の使い方によって、音質は変えることができ、ソロとして、オーケストラの中からでも聴こえる音作り、あるいは、他のものを覆い尽くすようなべったりとした音作り、あるいは、4本なっていれば、その1本として認識可能だが、他の3本は邪魔しないような音質などもあるだろう。
私としては、最後の正確に1/4であるかのように聴こえる音質、にもっとも興味があり、それ故に四声体のアルトを指向しているのだと思っている。
Posted by: 淮 | 2005.05.09 10:06 PM