ラヴェルの弦楽四重奏曲を弾く
ラヴェルの弦楽四重奏曲を弾いた。
いろいろ思うところをメモしておく。本当は演奏会前に書き上げるはずだったが、諸般の事情により、演奏会が終った後で書き継いでいるので、時制がおかしい部分があるが許されたい。また、演奏会前の大言壮語と、演奏会後の傷心が入り混じっているかも知れぬが、ご笑覧あれ。
■第一楽章
当たり前だが、四人の機能として、上声・下声、あるいは、旋律・伴奏と言う切れ方が八小節一箱の中で継続することはあり得ない。そうした意味では錯綜・混交しており、表の声部ではないと思って気を抜くとひどい目にあう。自分が表に出る瞬間をきちんと見極めて、「瞬間芸」を果たさないとギアを入れ替えているうちに、時間切れ、裏側にまわるはずが、表通りでうろうろ、となってしまう。
白抜きのロングトーンも、全体としてはリズミックな中で機能しているので、リズムの噛み合いをきちんと考えて、リズミックな出と移り変わりを心がけること。C線の出て来るシンコペーションなどは特に注意が必要。
二重音が重くなりすぎないように、軽くうつろな「響き」だけが残るようにする(五度/平行五度が多い)。ただし、白抜きでもリズミックに弾くと言う点は、前記の通り(それが難しい)。弓は最初少しひっかけて置いて、軽く抜いて速く使うのが良いのではないか。弓を遅く使うと、音が重ぼったくなってよろしくない。二重音と一重音?が入れ替わる時、一重音の重みだけが二重音と変わらないようにする。速い弓は同じだが、重みを少しかけるような感じで、ヴィヴラートをたくさんかける感じか?二重音と一重音は意図的に違えた方がよいであろう。同じにしようとして、同じにならないより、違う意味を考えて違えた方が。
旋律らしい旋律は、ユニゾンなので、味付けのニュアンスが相手とあうように(当たり前)。楚々とした中に艶が出る様に弾けると良いのだが、なんだか出て来たと思うと終ってしまうので、きちんと最初から意図をはっきりさせておくこと。(出てから考える己が情けない)。
コーダの重音は、上は一種の旋律系(少なくとも動機)、下は持続低音みたいな効果を狙うべきと思う。
動くところは、それなり、かな。
テーマの音階は実は音程もニュアンスも難しい。ハイドン的な明快な単純さを目指したこともあったし、それも悪くはない(全体としての味付けとあえば)と思うが、結局ありきたりの弾き方にはなった。チェロは、小節毎にスラーが切れているが、繋げていると思った方が、他のパートとあう。また、小節ごとに弓を返すより、1拍目まで繋げておいて返した方が、音程もとり易いのではないかと思う(本番が終わり、今更だが)。
書いてあるスラーと弓を同期する、と言う習慣は私にはかなりなくなってしまった。ブラームスの交響曲第三番の第三楽章の弓使いを杉浦薫師(名古屋SPO)に教えられた時、必ずしもスラーと弓使いを同期させる必要はないとの示唆を受けた。最近、オーケストラで弾かないで野放しなのと、多くの場合チェロと逆弓になるヴィオラ・ダ・ガンバを意識するようになったのも、その理由だろう。そう言えば、チェロでは、アウフタクトをアップ弓で弾くことが多いが、先のブラームスでは、ダウン弓でのアウフタクトを薦められ、実にその通りだと思った。それについては別途述べたい。
■第二楽章
速い必要はないけれど、リズミックに聴かせる必要はある。
単発のピチカート、ではなく、意味と脈絡のあるフレーズとして弾ければ、それなりにリズミックに聴こえるはず、と思っているが、確証はない。
ダブル、トリプルのピチカートは親指でする以外にないが、速い連続パッセージは、親指に限らない「得意指」ですることになる。その切り替えがある場合、切り替え地点を決めておくこと。
#練習時には、連続パッセージは人差し指をメインに、ダブル・トリプルで親指に切り替えていた。昔は親指が得意だったこともあり、本番だけ親指で連続パッセージを弾いていたら、間に合わなくなって落ちてしまった。とても残念。
中間部も中途半端で終ってしまった。中間部に切り替わるのに、もっと時間を使うべきだったと反省。
■第三楽章
私にとって最もとっつきにくい楽章であったが、弾いてみて、もっとも心惹かれる楽章になった。
循環動機の「荒れ寺」と、その近所の柳影から月が登る様とでも言ったような組み合わせが、私の「似非中国」趣味に大変適うものである。
全般に、ヴィオラの雰囲気作りに依存するので、チェロとして仕掛けを作るところは、実はあまり無い。中間部で、時間を使うこと、五度の重さに気をつけること、終結部の上向系をそれらしく弾くことである。音作りとしては、多少ソフトタッチで、全体に馴染む音を心がけた。合いの手に関しては多少際立たせるようにしたつもり。
■第四楽章
ごびょうし、と打つと、「ご病死」と変換されることを初めて知った。
5拍子と3拍子の鮮やかな入れ替わりが眼目であるけれど、どの程度達成されたか心もとない。
三拍子系は一楽章同様白抜きが多いが、やはりリズム機能はしっかりしていないと、とても詰まらない曲になる。ちょっと危険領域に踏み込んでしまったし、テンポに対して余裕のない反応をしてしまったのが、反省点である。
5拍子の「刻み」はどんな表現にするのか、音量の変化とともにどのように変わって行くのか、テイスト(と言うか温度感と言うか)を揃える必要がある。と思ったが、本番では最高温ばっかりになってしまったように思う。
コーダではミステリアスな要素があるはずだけれど、そこまで深堀りできなかったなあ。
■総論
ドイツ風の音楽だと、基本的にフレームワークがあって、その枠組みを作りつつ、フレーズの端々に情感を加えて枠組みを部分的に破壊すると言う操作が加わるように思う。その操作を、私の周辺では、冗談まじりに「脱ぐ」と言っており、「もっと脱いだら」とか「もう少しゆっくり脱いだ方が良い」なんて、妙な会話をしている。
ところが、ラヴェルには「脱ぐ」ところはあまりない。もとから薄着だけれど、衣装と肉体が不可分でもある、と安直に言っておこう。フレームと言う作りがまったく違うので、「論理的構築」と「感情的=破壊的操作」と言う対立関係とは無縁なのであろう。
練習中、脱ぐ場面がないことに言及がなされた。と言っても「ここはもっとはかない」と言うことに対し、「パンツを履かない」、「いくら飲んでも吐かない」と言う心ない回答が寄せられたためである。「儚い」ないし、せめて「果無い」であろう。
■その他(愚痴)
このところ精神的余裕がなく、自分の中に音楽を広げておける余裕も時間もなかったなあ。そうした人間にはなりたくないのだが。私の願い。もっと余裕をもって取り組めるような単純な音楽を追究するべきかも知れない。
体調があまりよくなく、楽器にあまり触っていなかったせいで、リハーサル時は、逆にソフトタッチが上手くいっていたように思うのだが、本番が始まった時にはすでに疲れて堅くなった感じでよろしくなかった。これなら、普段のような堅さの方がまだ我慢できるくらいだ。
自分の内部では言葉が優勢で「ドレミ」を考えて音をとっている部分がある。それは、他を聴く自分を圧倒することがあるので、全体を聴きながら響きの中で音程をとることを阻害する。
せめて、旋律を口に出して歌いながら伴奏系を練習する、と言うことをしておかないと、自分が詰まらないや。冒頭だけは、少しだけこのイメージトレーニングをしたので、私としては少し幸せでした。全ての部分、全てのパートをイメージトレーニングするのは大変で、私にはとても不可能だけれど、室内楽で弾くと言うのは本当はそう言うことなのでしょう。
楽器を弾く時間が短くなっており、自分自身も演奏者としての意識が薄れている。もっと譜面を見るとか、人の演奏している映像を見るとか、楽器への触れ方や音作りを考える練習をするとか、演奏者としての感覚を保てる工夫をする必要があると思う。
愚痴ばかり言っていてはいけないね。生きる意味が何なのかは解りませんが、音楽は、私に生きている感覚を与えてくれる。そして、人に聴いてもらって演奏することは更に特別な感覚の上に成り立つことである。もう少し、聴いている人々にとって幸せをもたらすような、せめてわずかなりとも共感を持ってもらえるような演奏を心がけよう。


Comments