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愛の言葉 Requiebros

過日、ガスパール・カサドによるチェロとピアノのための「愛の言葉」を聴いた。

これは自分が弾きたくなるような曲であるな、と思っていたところ、その場にいた某氏から、きっと弾きたいと思っているであろうと指摘された。そうやって図星を指されると、謀反気が起こるのは、児戯に類するとは思いつつ、しばらくそんな曲は弾きたくないものだと思い込もうとしていたのであるが、結局、楽譜を入手した。

普通であれば、CDを買って来て、お勉強がてら曲を聴き込むようにするのであるが、今回は買わないことにした。インターネット上に演奏のヴィデオが落ちており、なんどかそれらを見聞きしたせいもあるけれど、それで済ませようという意味ではない。

この曲は、きっと自分で立ち上げてみたいと思ったからである。

自分の予想としては、数ヶ月では無理で、一年から二年程度をかけて自分の手の内に入れるべきと思っている。

ピアノもなしでは、この曲を理解し、把握したことにならないということは重々承知しているけれど、現在の私には、ピアニストを調達する能力がないために、これは仕方のないことと諦めている。

とにもかくにも、現在、一生懸命さらっている。

チェロ奏者が書いた曲だけあって、決して弾けないようには書いていない。むしろ弾けるように書いてあるというべきであろう。ただし、プロフェッショナルはともかくも、アマチュアにはどうしても技術的な得意不得意があって、得意な指、得意なボーイングにひかれる。

弦楽器の弓は、根元から先に向かうダウンと先から根元に向かうアップで、大きな差があり、また、弓先と弓元では使い勝手が大きく違う。上手であれば、音楽全体の解釈としてそれらを使い分けるのであろうが、下手糞はできることが限られているから、それらの選択がその場その場の唯一解であったりして、結局音楽としては息切れする体のものとなってしまう。

今のところ、カサドの書いたアーティキュレーションを確かめて弾きつつ、時に楽譜を離れて自分なりに弾いてみつつ、その違いを感じようとしているところである。カサドの曲を弾く以上、アーティキュレーションやボーイングを重んじる必要はあるが、私も一応一箇の奏者ではあり、かつ、アマチュアでもあるので、出来ないところは多少失礼をしつつ、なんとかまとまりのある方向に向かいたいと思っている。

さて、そもそも、ピアニストもおらず、レッスンにもつかず、如何すべきか。迷うところである。


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情景

柿の木に止まった烏が、実を齧っている。

と、柿の実が枝から落ちて、木の下の倉庫の屋根にぶつかり、ぼこんと大きな音。

烏はちょっとびっくりしていたけれど、その後、素知らぬ顔で、次の実を齧り出しました。

食べかけを放り出してはいけないと思うのですがね。

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ベートーヴェンを弾く日

来年(2009年)1月10日に、ベートーヴェンの弦楽四重奏第15番を弾く。

自分としては16番も弾きたいと思い、迷ったけれど、最後はままよの気持ちである。

ベートーヴェンの後期を本当に弾けるのかどうか、自信はないのだが、前回、まがりなりにもバルトークを弾いてしまったこともあり、また、これから年齢が進むにつれて運動能力は低下するに違いないので、今のうちに弾くならば弾いておけという、多少放胆な気持ちもあってのことである。

聴いていると、割合にさらりとした曲なのだが、細かいかみ合いがあって、いつものベートーヴェンとは思えぬ弾きにくさである。これは交響曲を基準に考える習慣が抜けきらないせいかも知れない。交響曲は集団で弾いて聞こえるように書いてあり、室内楽は、それに較べればずっと精密に書かれている。基本的にはその違いが大きい。そして、私の弾いた交響曲が第六番以前であるから、尚の事その傾向が大きいのだろう。

一楽章はチェロの序奏から始まるいつものベートーヴェンだ。でも、その後の主導権の移り変わりが激しくて、安定してひとつの音楽を作るのがたいへん難しい。「警告」らしい音型があったり、歌ってみたり、音楽の味わいをどう考えるべきなのか、とても迷うものである。

メヌエットとも思えぬ第二楽章は、シャープが三つで、私にはちょいと弾きにくい。音楽的には、この曲のうちで、最も単純に書かれているように思われるが、ユニゾンが多いことも、弾きにくさを感じさせているようだ。

緩徐楽章は、いつものベートーヴェン節でとても楽しい。これは絶対弾いている方が楽しいてふもの。聴いている皆さんにはごめんなさい。そして、いつになく、崇高なテーマが出て来る。こういうベートーヴェンて、私は好きだな。私は「第九」は弾いた事がありませんが、アダージョだけは弾いてみたいといつも思う。でも、この楽章を弾いていると、第九よりも良い様な気がする。「第九」のアダージョにあるのは「警告」だったと思いますが、こちらのアダージョにあるのは「感謝」です。身に溢れる感謝にふさわしい、寛いだ、光の降るような雰囲気がでるようにしたいものです。

ここで妙な間奏がある。独立した四楽章と見るべきか、終楽章の序奏と見るか。歌劇のアリアのような、多少好き勝手なファーストヴァイオリン。第九の終楽章冒頭に現れる「いやいやこんな音ではない」に似ています。一楽章にも、アリア的な経過句がみられますが、ベートーヴェンの持つこうした唐突さは、あるいは、形式の破壊者としての一面なのかも知れません。

終楽章は、あまり突っ走らないもの。スペイン舞曲風になったりするのもちょいと珍しいか。

でも、バルトークと違って、意味不明な瞬間がないのが、面白くもあり、危険でもある。

こうした曲を弾くために、どんな練習をすれば良いのかは、非常に表現しにくい。やはり、単純なことも、複雑なこともきちんとできる必要があるし、それは、言ってみれば付け焼き刃で練習して済むことではなくて、何十年間の日々の蓄積があらわになるのだろう。それも、楽器の練習だけではなく、日々の立ち居振る舞いの全てが問われるような厳しさだ。時々刻々を切実に生きて居るかどうか、出す音の全てに自分を賭けているかどうかを問われるような。

だから、練習する時も、「何ができる」、「あれをする」と考えるのではなく、「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を弾く様な人間になる」練習をするしかないとも言えるだろう。

例によって、エンドピンの長さや、それによって得られる左手の自由度を考えつつ、練習をしているところである。急に寒くなって来た今日この頃。演奏会まであまり間がないことを感じさせる。苦手なパターンは一杯あるけれど、音楽にぶつかって行く様な気概を持って取り組みたいと思う。

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言い間違い

混雑する駅で、Kに「手をつなごう」と言うと、Kは「お父さんを見損なっちゃうから?」

ある意味間違ってはいないような気がしますが。「お父さんを見失っちゃう」と言うべきだと言っておきました。


熱のある祖母に。「お祖母ちゃん。湯加減如何ですか?」。聞いた祖母はそれで一遍に元気になった、と言っています。


ある大学祭を見に行って。「お父さん、柔道部にきれいな花が飾ってあった。」というので大変奇異に思いながら連れて行ってもらうと、そこは「華道部」でした。

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勘違い

ルロイ・アンダーソンの「そり滑り」。「そり」というのは、スキー場で子供が乗って坂を滑り降りて遊ぶものだと思っていた。よくよく考えると、鞭の音が入っていて、あれあれ。そういえば、ディズニーのクリスマス特集で、馬に引かせるそりに乗って、雪景色の中を行く奴があったっけ。鈴の音も、鞭の音もあったような気が(少なくとも、それらがあってもおかしくない風景が・・)。

アンダーソンの「そり」が、馬に引かせる「トロイカ」の仲間であることに気付くのに約十五年。


Unix Magazineの連載「ワークステーションのおと」は「ワークステーションの『音』」だと思っていた。
「のおと」が一単語「Note」であると気が付くまでに約十年。

パンク・ロックは、「タイヤがパンクする」の「punctured」の類だと思っていた。違う単語「punk」なのね。また、「punctual」なんて単語もあって、とても紛らわしい。

「ヘルスエンジェルス」は「health angels」だと思っていた。健康な天使、あるいは、健康に関係する天使、だ。
本当は「hell's angels」(地獄の天使)なんだね。

庭仕事をしていると、家の外に自転車に乗った夫婦が止まる。庭の方を見て、妻が「かえる?」。夫が頷きながら「かえる」。そうか、蛙が居るのかと、視線の先を見ると、電柱に貼った売家の貼紙。「蛙」ではなく「買える?」「買える」だったのだ。私に通じるのない話ではありますが。

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