読書の記録(2023年12月)
寝ぼけ署長 山本周五郎
正直なところを言えば、書店から出られなくなって買った本ではあるが、こういう気軽な本を読むのは好きだ。
有力者の横暴、法さえ守っていれば道着も何もなく、否、法を守らずとも罰されなければそれでも良い等読んでいると、昔の話とも思えなくなってくる。万古不変の趣があるか?
私の人権意識も大概古く良からぬものであると思うが、「人情」もないのが今の浮世であるなあ、と改めて思う。
ロボット物語 スタニスワフ・レム
「宇宙創世記 ロボットの旅」とは別なお話。という事を知らず、この書の存在を知らず、偶然、古書店にレムがたくさんある中で発見。ありがたい。他は持っているものばかりだったので、これ一冊を買ったが、ポーランド語原書も2冊あった。どんな人が持っていたのだろう。凄い。
そういえば国書刊行会のレム・シリーズII続刊が出ない気がする。応援しよう!(どうやって?)
河野裕子 永田淳
笠間書院の和歌の本は買わざるべからず。と言うか、ちらっと見て、「第一子すなわち筆者を詠んだ」云々とあり、さらに「買わざるべからず」と思い購入。
永田和宏の書いたものをこのところ好んで読んでいる。和宏、裕子、娘の紅は歌人ながら、ひとり息子の淳は(少なくとも表立っては)歌人ではなく、「疎外感はないのかしら」と余計なことを思ったりもしていた。そういう下世話な興味もなくはない読書である。
和宏の書いたものは、裕子と同じ時間・同じ場を生きたものとして、その場その時の感懐を共にするようなところがある。一方、淳の書いたものは、自分の知らぬ時代知らぬ場を思い、それを自分の知る母や自分の知る事ごとに結びつけているように思う。あるいは、和宏は歌人として、淳は編集者として裕子の歌を見ているともとれる。
現在の私は、物事を複眼的に捉えるのを面白いと思っているので、こうした和宏と淳の見方・書き方の違いが大変面白い。そしてまた、そうした様々な見方・書き方の向こうにある裕子の歌を読み直すのが面白い。
改めてご経歴を拝するに、河野氏は、熊本に縁があること、生年、病気など、私の母に近い。
昔のお写真など拝見するに、(本当は時代的な近さによるものだろうけれど)、熊本人としての類似性があるように思われ、似た病気であったこともあり、親しみと懐かしさを感じつつ拝読している。
母の如き親しみを以て歌を眺む会ひたる事のつゆなけれども
と勝手なるうたを詠んでみる。
行きつけの店 山口瞳
家のどこからか出てきた本。昔のファンタジーを読むような具合。昔の人々は、多くの情報がなかったから、なんとかたどり着いた店のうち、気に入った店を「行きつけの店」にしていたのではないか。そして、お金が自由になる人々は相応の店を「行きつけの店」にしており、一般人のたいそう憧れるところであった。そうした背景で書かれた書だろう。
今尚、様々な商業主義の元、「お店の紹介・宣伝」はあるけれど、どちらかというと、テレビ・雑誌・ネットの三者で行われており、こうした書籍はあまり見ないかも、と思う。
この書に書かれた店が今もあるかどうか知らない。多くはきっと無くなるか、雰囲気が変わっているだろう。だからこれは今の私にはファンタジーだ。で、年取ってこういうものを読むと、「上手に作文するなあ」と感心する。まあおそらくは、こうした上手な作文に騙されるのも楽しみのうち、ということだろう。
蒙求
読了。「孟母三遷」みたいな四字の歴史格言とその解説。日本人が知る事績も非常に多く、いい加減にしか知らなかったことが確認できるなど、大変良い。
ちなみに、孟母三遷を取り上げてみたが、孟母のタイトルはこちらではなく、「孟母断機」である。なんで「三遷」のほうが有名なのだろうか。引っ越し業界の宣伝でもあるまいが。
動く人工島 ジュール・ヴェルヌ 三輪秀彦訳
弦楽四重奏団の4人が主人公なので読んで見る。いつものヴェルヌ節。
ふつうであれば眠くなるような、説明的言辞を読んでいるだけで楽しいのだよね。夢と勢いがあるというか。
そして、他民族に対する素朴な優越感。まあ京都人の「イケズ芸」だと思って、私は楽しく読んでいるのであるが。
まだ途中。もちろんこれからひと波乱あるのであろう。
古い訳なので、文句を言っても仕方がないが。
発電機→電動機 電流によって動かされる方なので。
騎士→騎兵ないし乗馬者、馬乗りなど 封建制度・貴族制度における「騎士」ではないよね。
メンデルスゾーン弦楽四重奏曲第7番→存在しないはず。他にも、モーツァルト等の名曲と言っている番号が怪しい。適当に書いているのか、読者をおちょくっているのか、さて。
自分の中に歴史を読む 阿部謹也
昔読んだ本。整理中に読み始める。阿部の問題意識のすべてが私と重なるものではないけれど、たいへん興味深く、切実な問題設定をされていると感じる。
また、阿部の個人史として読むと、何時にあっても、孤独で静かな阿部の眼差しを感じるように思う。
阿部学説が現在も正当なものとして流布しているのか、私にはわからない(阿部説が正当/不当であることを証明することも難しいので、現代的な学問の流れからは傍流となっていると想像したりもする)。
バロックから古典派に向かって、音楽が「語りから歌」に転じてゆくのと、阿部がいう、世界が贈与・互酬的関係からキリスト教的普遍的関係に転じてゆくのと、いささか重なるところがあるのではないか、と私は思ってみたりしている。
また、前近代と近代の違いとして、贈与・互酬性によって直接的な関係で結ばれた社会と法や制度の下における平等社会(用語は私が勝手に変えている)という点を挙げているが、報道で見る我が国のあり方は明らかに前近代の贈与・互酬性社会ではないか。これで先進国でございと言っているのは矛盾の極み。
新しい本ではないが、再読で教えられること・考えさせられることが多く実りある読書であった。良い本を再読できて大変うれしい。
阿房列車 内田百閒 一條裕子
驚くべき漫画。人間百閒が活写されている。原本を読んだことがない人が面白いと思うかはわからないが、原本を読んだ人には原本と等しく楽しめるのではないだろうか。
頑固だが愛嬌のある老人百閒。でも、今の私より若いのではないか。
百閒および参詣氏が乗車した列車の編成表が付されているのも、私には面白い。この漫画と、鉄道模型の列車セットなどあれば、私は買ってしまうだろうな。「阿房列車急行「霧島」セット(百閒および山系氏のミニフィギュアつき」とか。そうなると、同じように漫画「エンジニール」セットも欲しくなる。「関西鉄道急行列車(牽引機は『早風』)」(島・雨宮のフィギュアつき?)。
この編成表はどうやって作ったのだろう。それはそれでちょっと気になる。
欲望という名の電車
偶小耳に挟んだ会話中に現れた戯曲が、書店で眼の前に現れたため購入。読んだことがないので、多少恥じつつ。
小説には通例「視点人物」が出てくる。この戯曲にはそれがないように見える。以前、ゲーム・オブ・スローンズの登場人物解説を眺めていたら、「視点人物」が何人か挙げられていた。
ということは、戯曲であっても視点人物を設定することができるわけだ。
私の推測では、舞台劇は観客の視点が固定されているので、視点人物を設ける必要はない(低い。あるいは設けることができない)。
テレビ・映画などでは、場所や時間が移動することから、「誰かの視点」がないと視聴者が混乱しやすい。そのために「視点人物」を設けることで物語の流れを作り出すことができ、それによって、視聴者の混乱を防ぐ。
まあ、素人の仮説に過ぎないが。
「年末年始に読む本」を買う。言い訳しないと本を買うこともできないのか、私。
「入門 公共政策学」、「パンの歴史」、「河野裕子」、「尾形亀之助 美しい街」、「シェイクスピアの記憶」(ボルヘス)、「精選 物理の散歩道」(ロゲルギスト)など。
文庫・新書の類が多い。貧乏中学生だった頃からの習いでもあり、持って歩いて電車の中で読むためにも仕方がない。
昔、大学受験のため「源氏物語」の粗筋を諳んじようと思った。
田辺聖子「絵草紙 源氏物語」で概略を把握。全1巻で短く、かつ、絵があるので、理解しやすかった。
円地文子「源氏物語」(全5巻)を読んだ。谷崎潤一郎・与謝野晶子なども読んでみたかったが、「色」がついていることを警戒して避けた。円地文子はそれぞれの巻冒頭に、登場人物の関係図がついているがたいへんよろしい。これがないと誰が誰やらわからなくて困る。
その後、田辺聖子「私本 源氏物語」(続編も含め3冊)を読んだ。まあ、当然これが一番面白いわな。でも、田辺が源氏を枉げていると、私はあまり思わない。源氏の中で不幸せになりがちな女性たちを、田辺は強く・美しく描き、自ら救われるように描いていると感じる。田辺の源氏物語とその登場人物への愛情がなせるわざと、私は思った。今も時々私本源氏を引っ張り出す。
そうそう、大学の文学部に潜り込む、という野望は果たされなかった。それで良かったと思うけどね。
海街diary 吉田秋生
鎌倉あたりに行くことが時々あるので、読んでみた。
面白いストーリー展開。深刻になりすぎないようよく調整された「深み」。
マナスル初登頂者のお話が出てくる。私の大学時代、近くの研究所の教授がヤルンカン初登頂者(凍傷経験者)なので、ちょっと親近感。
様々な要素が相当の密度で進んでゆくが、相応の味わいもある。
●雑感
ミード(蜂蜜酒)を初めて飲む。
甘いことは甘いが、酸味も程よくあり、美味しかった。少し甘めの白ワインと言ったところ。
ともあれ、一つのミードで百のミードを語るなかれ(今思いついた格言)、すべてのミードがそうなのかはわからない。
ジャンヌ・ダルク。英語で Joan of Arc。相当に趣が異なる。
仏語では Jehanne d'Arc。いずれにせよ、Arcが地名というわけでもなさそう。
「なんて素敵にロマネスク」というのを思いついた。氷室冴子氏の「なんて素敵にジャパネスク」のパクリでござる。と言って通じる時代ではないかな?
生れかわる客車 国鉄客車鋼体化の記録 高砂工場 昭和28年制作
https://www.youtube.com/watch?v=K481r0Kh6gw
台枠は縦横に延長、車体は新製、車輪のタイヤははめ直し、台車のバネは新たに入れており、もはや「改造」の意味があるのか、と現代の視点からは思ってしまう。
また、床、内装、天井、椅子など木工品も多いが、丸太からの製材自体を国鉄工場が担っていたのも知らなかった。確かに大量に使うのであり、独自の規格などあればそうなるだろう。今となってはもったいないような無垢材を惜しみなく切り刻んでいる。
基礎的な資材の入手が困難であり、人手が余剰であるならばこそこうした手立てを採ったものであろう。
オハ61 379(米子鉄道管理局鳥取客貨車区?)および前身の木造客車が主人公。B50など後年あまり見かけなくなった車両がちらちら写るのが嬉しい。
1960年代 国鉄深名線 豪雪地帯を走る
https://www.youtube.com/watch?v=h-Cd4ESMFcc
機械式気動車キハ05が走っている。総括制御ができないのに、2両編成だ。北海道といえば、キハ22の印象が強いが、キハ22受け入れの素地がこうして作られていたとも言えよう。
前面4枚窓のうち、3枚は中桟があり、おそらくこの3枚が開くのであろう。当時の窓の構造・工作から言って、隙間風が入りたいへん寒かったのではないか、と思ってしまう。
Wikipediaでキハ05(キハ04)の記事を読むと、涙ぐましいほどの国産化努力をしつつ、スパークプラグとローラーベアリングはどうしても国産化できず輸入している。また、エンジンも米国ウォーケシャ製品に及ばなかったということである。昭和10年頃の日本の工業力を知る意味でもなかなか重要だと思う。
テフロン(PTFE)は、マンハッタン計画でも用いられたとのこと。
サランラップがもともと軍事用に研究されていたことも含め、感じ入る。
紛失した眼鏡発見。
庭木に登って作業していたところ眼鏡を落とした。棕櫚の葉の上に落ち、そこからさらに落ちたところを見ていた。
眼鏡なしで作業を続け、作業後木から下りて地面を探したが見つからなかった。何日も探したが見つからない。これが1ヶ月前。
道路に出ていったか、光り物を好むと言う烏が持ち去ったか、などと思っていた(あるいはKGBのスパイ説も)。
その後、野朝顔がはびこっているのを相当に片付けた。それもあって、庭が明るくなった。で、それら木々を眺めていたところ、落ちた場所の棕櫚の葉の下にある月桂樹の枝に、眼鏡が引っかかっていた。
眼鏡を畳んでシャツのボタンにぶら下げたりするが、ちょうどそんな具合に畳まれており、少々歪んでいるものの、大きな不具合はなかったので、洗剤で洗い、眼鏡屋さんで調整してもらい、ふつうに使えている。
慌てて次の眼鏡を買わなくて良かった。まあ、前の眼鏡があったし、老眼が進んで間近であればむしろ眼鏡なしで暮らしているので、そんなに困ったわけでもないので。
六十歳にでもなったら、オシャレ眼鏡でも作ろうかな。眼鏡屋さんで丸眼鏡を試すと、大正時代の人みたいで実に似合うが実に悲しくもある。
(山田参助氏をちょっと思い出す。彼のCDを買わねば)。
「翔んで埼玉」続編出来。
第一編公開時、埼玉県民なる知人が見に行った感想は「埼玉県は特に disられていない。他の県の方が disられていて心配」だった。
私が映画を見るに「埼玉県民の disり耐性の高さに恐れ入った」ところである。
ともあれ、どんな人でもゆかりのある土地に愛憎の思いがあって当然であり、それを超拡大して見せてくれる曲芸をこの映画では楽しむことができた。
日本大学の部活動には、3段階あるようだ。
競技部、学生部、サークル。
まあ、なんか変だな。大学改革を行うなら、こういう部分の方を直すべきと感じる。
大学生なんだから自主運営くらいしなさいよ、と思ったりする。まあ、事情はそれぞれであろうが。
某無名宗教団体の不名誉な新聞記事を見る。
まあ、そんなところなんだろうな。と腑に落ちてしまう。
私が若い頃持っていた宗教へのあこがれをきれいに粉砕してくれたことにはいささかの感謝をしている。
日本最初の地下鉄、上野・浅草間が開通したとき、待ち行列が上野・浅草より長かった、というお話が好き(ほんとかな?)。
移動目的ではなく、乗ること自体がお楽しみの「アトラクション」感覚だったようだ。
私が最初に銀座線に乗った時、時々車内が真っ暗になるのでびつくりした。ここで騒いでは「イナカモノ」だと思って我慢した記憶がある。
新旧雑多な車両で編成されていたが、まだ、リベット打ちの車両が混ざっていた。
忘年会。
外気が暖かいと気分が出ない。
寒い中、コートの襟を立てて移動し、店に入ってコートを脱ぎ、「や、今日は鍋だ」と喜び、熱燗を頼む。
鍋が煮えるまで、あれこれつまみながら、盃を傾ける。
温かい鍋を啜った後、帰路、火照った頬を寒風で冷ましながら歩く。
これらも昔話になるのだろう。
連続式の輪ゴム銃を作ったことがある。
感想は、
1)装弾がたいへん
2)弾道を見ながら狙いを修正してゆけば良いので、いつか必ず命中する。
というもので、1からは「工業化→輸送力→総力戦」と連想し、2からは「塹壕戦→戦車→工業化→総力戦」と連想した。
装弾における工業化とは、つまり、連続的に利用可能な弾薬セットの製造であり、弾丸つまりを起こさないような、高度な精度管理が必要ということである。
もちろん大量に消費される弾薬であるから、設計・製造技術・生産管理など全工程における一体的な技術力ばかりでなく、国家としての資源管理や工業規格の達成が必要である。
さらに、その弾丸を的確に戦場に届けなければならない。かんたんに言えば「輸送力」であるが、むしろ「物流システム」というべきであろう。
こうした生産力・物流力が必要となるとまさに国家全体が戦争のための生産と物流に総力をあげる「総力戦」と考えるべきだ。
ということで、ごく当たり前のことだが、物量戦すなわち総力戦である、という結論に至った。
あまりにも当たり前のことであり、この結論・思考過程は、人類にとっては些細な一歩に過ぎない。でも、私にとっては実感から当然の結論に至ることができたのだから、自分自身の巨大な躍進だ!
RIASの意味を始めて知る。「Rundfunk Im Amerikanischen Sektor: アメリカ軍占領地区放送局」
RIASのオーケストラ、合唱団は良い演奏を残している記憶がある。こういう意味だったのね。
渋沢社史データベース
https://shashi.shibusawa.or.jp/index.php
なんぞ凄いものがある。
偶然「目黒銀座」を通る。
なかなかいい通りね。私にはいささかお洒落すぎるけれど。
祐天寺の「カレーハウス ナイアガラ」も発見。
小学生の時分に雑誌「旅」か何かで見た覚えがある。四十五年程昔だ。店舗前の踏切遮断器と店主の笑顔の写真が、当時のあまりきれいでない印刷紙面にあったと記憶する。
関東に居住するようになり、そういえば行ってみたいと先日から思っていたのだが、偶然見つけてしまうとは。これまた面白いことである。
まあ、人が流れるような飲食店向きの立地であるということでもあろうけれど。
Google Photo
「この写真に「彫る」が写っていますか?」と訊かれる。
塑像を入れるべきか迷う。彫像はもちろん該当するのだが。直訳の弊害。
久しぶりに機械式メトロノームを使う。
錘の高さで速度を変えるのだが、錘の上端を目盛りに合わせるのを忘れ、下端を合わせる。
「アンダンテはこんなに遅かったっけ」と惑う。
真空管アンプの去就を考える。
そもそもロシア管をよく見かけたが、ロシアから物を買うのは、現在の私の好まないところである。
また、円が弱いこと、真空管の生産数が少なく、値上がりしがちであることを考えると、あまり明るい将来が考えられない。
まあ、私が他のアンプと使い分けつつ消費するくらいの真空管は購入可能であろうけれど。
「情熱の真空管」ペルケ氏亡くなったと聞く。
私は、アンプ実装には至らなかったけれど、トランス式DACは作って楽しんでいる。
彼の「生き方」や「考え方」にも興味があり、そうした文章を拝見した。たいへん尊敬できる方であり、貴重な情報の開陳にはまことに感謝している。
また、彼が紹介ししている音源もたいへん素晴らしいものであり、徐々に聴き進めているところだ。
一方、彼が比較的最近知ったらしいシベリウスの弦楽合奏曲については、私が昔から知っているものだった(演奏は違うが)。
世の中に発信する価値のある知識・情報は、私には乏しいが、わずかでもよいからこうした情報を世の中に発信すべきではないか、と考えている。
スピーカーについて調べる。
「フルートの音域にクロスオーバーを持たない。」って良いな。
https://jun.fishing-forum.org/2009/10/post-143.html
楽器弾きなら当然考えることだろう。
チェロならA線を220Hzとしてその2オクターブ上まで出すならば880Hz。も少し上まで出すと考えても1kHzあれば良さそう。
むしろ、下の方がC線が55HzのAのちょっと上。
現在、Dali Menuet II なるスピーカーを使っているが、再生周波数帯域70Hz~55000Hz、クロスオーバー周波数4.2KHz。
クロスオーバーは良いとして、下が足りん。まあ、人間の聴覚は、倍音から下の音が鳴っていると補完する機能があるので、ふつうこれで問題ないらしいが。
この点でいえば、Tannoy Mrcury m2 の48Hz~20kHz、クロスオーバー周波数 2.5kHz や、Wharfedale 515 の 42Hz~25kHz の方が優秀に見える。
Mercuryは古くてもっさりドカドカした音、Wharfedaleは地味にきらきらしているけれど、いわゆるカマボコなんだけどね。
古文・漢文不要説。
歴史に学ばなくて良いなら、これらは不要なのだろう。でもね、歴史から学んだ方が良いと思うな。
プロフェショナルとして古文・漢文の機微を学ぶ必要はないと思うが、我々が日々用いている現代文にも様々な形で忍び込んでくる古文・漢文があるのだから、それらに触れた時、「これは古文/漢文なのだから、現代文と勘違いしない方が良い」と思う感性は持っていた方が良いだろう。
まあ、自分は小学生だった時、親父に「新唐詩選」を渡されて読んでいた。そのお陰で学校の漢文で困ったことは一度もないので、特殊事例ではあろう。あれ一冊でマーラーの「大地の歌」までおおむね到達できる。
藤沢製本の事業撤退。
https://note.com/fujisawabb/n/n383bc1810b6f
こういう切実な話はなかなか外に出てこない。非常に貴重である。
(どうでも良い成功譚は表に出やすいが、本当に重要なことは出てこない。まして「撤退」においてをや)。
島根朋史氏の『J.S.バッハの装飾・弓使い』を聴講
音楽雑誌も買わず、音楽会にもほとんど通わず、教科書も含め音楽系の情報に接することが少ないくせに、楽器だけは長く弾いている人間には大変刺激的で面白かった。
まあ、「最新」であることに全く興味はないけれど、情報が多いがゆえにそれに縛られるのではなく、多くの情報の中でより自由により開かれた思考が出来、それによってより自由で楽しい音楽が花開くというのは大変楽しい。