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読書の記録(2024年3月)

デュポール 奏法と練習曲
「読む」というよりは「弾く」の比重が大きいが。
なかなかに過酷な練習曲。だが、音楽的であるので、取り組む意欲が保てる。また、指番号初めとして楽譜としての校訂が演奏・研究の専門家によってなされているので、迷うことなく安心して練習取り組むことができる。
楽観的に見ると、左手(左腕・左肩を含めたシステム)が改善され、普段弾く他の曲でも「小指が離れているために遅れる」症状が改善されつつあるように感じる。

ステパンチコヴォ村とその住人たち ドストエフスキー
ドストエフスキー比較的初期の作品。ロシアのウクライナ侵攻以来、ロシアものを読む気になれなかっていたが、以前買ったものとて読む。
この書は確かに色濃くドストエフスキーである。道化だったものが居直って傲慢極まりない人間、高潔であるのに優柔不断な人間、卑屈を装う人間などなど。
なかなか面白かった。読んでよかった。凡百の結論にしないところがドストエフスキーらしくあるだろう。
話者の立場上、ナースチェンカをあまり描写できないのは仕方がないのだが、登場人物のバランスとしては少々物足りない(アンナ・カレーニナのキチイよりは人間らしさもあるけれど)。
(戦争と重ね合わせて考えると、こうした有象無象を「母なるロシア」が昇華してくれるというような甘ったれた理想主義がアカン政治をのさばらせる、とも思われてくる。他国のことを言えた義理でもないし、この一国限りのことでもないのが、さらに悲しくあるのだが)。
読み始めた時、あれこんな小説だっけと思ったが、それはゴーゴリのディカーニカ近郊夜話と勘違いしていた。これを読み始めた頃、ウクライナ侵攻があり、以降読まずにいたのだった。

銀河英雄伝説 第1巻 田中芳樹
アニメと並行して読んでみた。アニメは原作を概ねよくなぞっている。表現の粗密あるいは言及する時間配分なども含めて、そのように感じる。
文章はよくこなれており、さらに、経過が速い。細かな描写をあまりしない。そういう意味では「重厚な文学」より「軽い小説(ライトノベル)」に近いのかも知れない。登場人物も多少類型的である、その意味では「ライト」と感じる。
一方、描こうとしている世界の大きさ・深さ・複雑さはどうやら重量級でありそうだ。
アジモフの「ファウンデーション」においても、登場人物が複雑精妙であるかというと、類型に近いが、それに近い視野・解像度であると感じる。
ただし、アジモフのように「SF(科学を基盤に置いた小説)」ではなく、スペース・オペラに近いものと思う。これを「オペラ」と感じないのは、描こうとしている世界の大きさ等によってそう感じる。
私なりに(1巻しか読まずに)この小説を短く表現すると、『未来の宇宙を舞台として、群れとしての人間の愚かさを描く小説』である。
現在の国内外の政治状況とも重ね合わせて考えたくなるような、たいへん興味深い小説であるが、私の趣味「遠くへ行くこと」にはそぐわないため、一旦ここで打ち切りとする。と言っては見るが、読みやすくもあり、他の読みたい本が切れた時のバックアップとしては非常に貴重である。

捜査・浴槽で発見された手記 スタニスワフ・レム
まずは「捜査」から読み始める。早川文庫で一度読んでいるが、この作品はなかなか面白いのだ。
そもそも、ポーランドのSF作家がなぜスコットランドヤードを舞台に推理小説(風のもの)を書かねばならなかったのか。

以下、例に寄って、言葉遣いについて考えさせられたもの。
 p-29 湿気が飽満した → 湿気が充満した の方が一般的な表現か?

 p-31 「連れのいない、赤い鍔付き帽を被った女性が、蝋のような微笑みを浮かべながら舞踏会用ドレスを披露している、マネキン人形たちを眺めていた。」は悪文だと思う。「女性が・・・眺めていた」という主述関係が非常に読み取りにくい。「披露している、マネキン人形」と「、」で切っているのも良くない。「女性が・・微笑みを浮かべながら」という解釈を一旦してしまう。
「蝋のような微笑みを浮かべながら舞踏会用ドレスを披露しているマネキン人形たちを、赤い鍔付き帽を被った女性がひとりで眺めていた。」くらいが普通の表現ではないか。
あるいは、「マネキン人形たちが蝋のような微笑みを浮かべて舞踏会用ドレスを披露しているのを、赤い鍔付き帽を被った女性がひとりで眺めていた。」など。
「ひとりで」ではなく「連れがいない」としたいならば、「赤い鍔付き帽を被った女性が連れもなく眺めていた。」とするのも一案。
レム自身の作文がいささか冗長で難解なのはそのとおりだが、ここまで読みにくい日本語にすることはないと、私は思う。

p-35 「もう着いたか。それはよかった。ついてきてください」
 丁寧語と常体が並ぶと、日本人読者としては奇異に感じる。突然違う相手に向かって話しかけているか、あるいは、聞き手との関係が突然変化したか(変装を解く二十面相とか)。

青年茂吉 北杜夫
読み始めた。北杜夫にとって最初に憧れた文学者が父斉藤茂吉であったとは。彼は長く、トーマス・マンへのあこがれを語っており、そのことに嘘はないと思うが、同じように父へのあこがれもあったのだろう。親族であったからとて良い伝記・評伝が描けるとは限らないが、長く文学に携わってきた北杜夫ならではの視点もあり、面白く読めている。

鉄道ピクトリアル オハ35系特集
戦前・戦後に渡って製造された客車。様々な形態・様々な改造がなされており、興味深い。
客車列車を見に、大井川鐵道に訪れたいものである。

●雑感

林臥園漂舟という号を見かける。
フィリピンのリンガエンと縁がありそうに思うが、昭和3年=1928年(以前)から名乗っているようなので、まだこの地域と日本の縁は薄いように思われる。てっきり、太平洋戦争中リンガエン湾で乗っていた船を沈められ、小舟で漂流した・・・と想像したのだが、年代が合わない。

チェルシー終売の噂。
明治(製菓)が販売している飴チェルシー。だが、私は英国産だったことを覚えている。「バタースカッチ」は本当に油っこくてベタベタしていた。とても普通には食べられないほどくどかった(でも美味しかった)。
明治製菓が売るようになった時、「こんなさっぱりしちまった」と思った。まあ、不味くなったということではないが、当たり前の丸い味になったのは少々残念だった。 一方、ダイジェスティヴビスケットを明治が売るようになった時は、「不味い」と思った。 なんとなう、同じ材料を揃えられないのに、形式的に同じレシピを適用してしまった体であるように感じた。確かに、全粒粉に塩を入れたクッキーにチョコレートをかければこんな味になるが、本物はもっと一体感があったよな、何考えているんだ明治製菓、試作品食べたのか明治製菓、と思った。
明治(製菓)のチョコレートは本当に上質で美味しいと思うが、ビスケットなどの相手とどうするか、はまた別問題なのかと思った。
そういう点では、チョコレートそのものは大したことないが、マシュマロとの合体で印象を残す森永エンゼルパイの方が完成度がずっと高い。(でも、エゼルパイも一時はマシュマロ抜きになったりして、不味くなったことがある。試作品食べたのか森永・・・)。

ホットプレートにチーズ(融けないやつ)を載せて焼くと、おいしい。
上はとろとろ、下はかりかりになるまで我慢する。
フランスパンで受けても、茹でじゃがいもと食べてもその他モロモロなんでもよろしい。
焼肉のついでに隅っこで試せば楽しいであろう。

先日、電車を降りる時、ドア窓に写った女性の足がとても小さく見えた。
思わず振り返って見てしまった。
座っているママさんの膝に娘さんが頭を寄せて寝ていた。お二人の上着が同色だったので、お子さんの小さい足が、お母さんの足と見えていたのだった。
(急に振り返ってごめんなさい)。

先般、ある大きな駅で、外国の方にコインロッカーの在処を尋ねられた。その場にあった案内板を見て、「あっち」とお知らせしたけれど、工事の多い駅とて本当にあったかどうか確信がない。わからんちんは人にものを教えてはイカン、と反省。

先日、停車中の電車内で、何かモーターが回るような音が聞こえてきた。
昔の電車は、空気圧縮機が運転とは関係なく突然周りだし、突然止まったりしたので、そういうものかと思ったが、電車が発車した後も止まるようすがない。
次の駅で乗降があり、音源の位置が私の正面から右前に移動したことが判った。その方向を見るに、坊やを抱いたパパさんのリュックが音源である。
パパさんにそれを申し上げると、いささか思い当たる節がなさそうであったが、ママさんが「プラレール!」と言ってリュックを開き、走行しようと足掻いている新幹線を取り出し、スイッチを切った。
一件落着。御礼まで言って頂いたけれど、私は音源が判っただけで十分嬉しかった。
(こんなことは迷惑のうちに入らないので、ママさんパパさんは一切気にする必要はありません)。

電車の中で、ずっと携帯電話を耳に当てているご婦人あり。結局三十分以上、降車するまでそうしていた。
うるさくもあり、謎でもあり、気になった。ひとこと言うべきか考えてしまうのも煩わしかった。
かすかに聞こえる音声から「意味」を汲み取ろうと脳が空転するとイライラしますな。
あーゆーのはアカン。無神経な行動に慣れてしまった方なのであろう。

National Arab Orchestra の演奏
https://www.youtube.com/watch?v=piNFUb2Suv4
どうやら、聴衆みなが知っている曲を弾いているらしい。なんとなうテレビドラマの主題歌や流行した歌ではないかと思ったりする。そしてまた、多くは西洋楽器だが、アラブ楽器も相応数入っている。我々の「歌謡曲」「演歌」と同じように、民族性と商業性から成り立った音楽なのだろうか。
西洋楽器の人たちは、どういう音楽教育を受けているのだろう。アラブ音楽の教本があるのなら(読める文字で書かれているなら)読みたい。や、GoogleLenzで翻訳までしてくれる世の中なのだから、「読める文字」の範囲は広げて考えてもよいのか?云々

Nagoya Shostakovich Orchestra なるものを発見。
名古屋ブルックナー管弦楽団もあり、名古屋マーラー音楽祭で、アマチュア・オーケストラが分担して全交響曲演奏をしたり、名古屋の音楽家は熱い!
非常に野暮なことを言うと、日本で数少ない儲かっている企業であるトヨタ自動車(と系列企業)が存在するがゆえに、多くの人々が愛知県に集まっており、その中にオーケストラで音楽ができる人間が相応数いる、ということであろう。トヨタが儲かれば、系列も儲かり、周辺の金融・保険、不動産、建築、食品、流通販売なども潤う。そこにもオーケストラで音楽ができる人間が相応数集まっている。ということであろう。
さらに付け加えるべきなのは、徳川宗春以来の芸事奨励に起源を持つのか、名古屋は芸事が盛んであり、鈴木ヴァイオリン(製造および教育)の拠点でもあって、ヴァイオリン奏者の層が厚いこともあるだろう。 さらに突き詰めると、愛知県あたりはアルコール分解酵素の能力が低いらしく、それ故、酒など飲まず、お茶・お花その他芸事に真面目に取り組む気風がある、というのも付け加えたい。

ついでに、愛知県立岡崎高校が学業優秀である、というのもトヨタが儲かっており、それによって、社員・関連会社・取引先に優秀な人材が集まり、その子弟の進学先になっているからだと、私は解釈している(教員がさほど優秀ということではないだろう、と解釈している)。

偶々、「ファイアーストーム」について興味がありWikipediaを覗いた。
「火災旋風」は恐ろしいが「ストーム(学生生活)」は北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」で見たやつで、こちらに興味がある。
一橋・津田塾のそれは有名だが、少なくとも近年まで門を飛び越えていたとは懐古主義者としては欣快至極である。
https://pg.tsuda.ac.jp/visiting/hitotsudashi.html

『Big Two-hearted River』
ヘミングウェイの短編。川原にテントを張り、鱒を釣り、釣った鱒をフライパンで焼いて食べる。その程度のお話で何の事件もないけれど、空漠とした主人公の心情がそこはかとなく知れ、心に残る作品である。
「心がふたつある」のか、「心臓がふたつある」のか、翻訳には大変悩ましいであろう。おそらくは両義的であり、固有名詞でもあるらしいのでさらに。
ともあれ、「ふたつある心」とは何か、大変気になるが、それらしい描写は作品中になかったと記憶する。

おしもん・おしもち 「おしもん」は、米粉を熱湯で練って型にはめ、取り出したものに色粉をつけて彩る、桃の節句のお雛様に供えられる郷土菓子である。
(農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oshimon_aichi.html)
小学校に上がるか上がらぬかの頃、友人宅で、「おしもち」作りを手伝わせてもらった。練った米粉を型にはめ、紅と緑を塗る。蒸した後に、少し炙って砂糖醤油を塗って食べさせてもらったような記憶がある。
思えば、地域のことを何も知らない私達家族を慮って、そうした風習や行事を教えて下さったのだと思う。こうした暖かい人々に囲まれて、私の鳴海生活は本当に楽しかった。

蕎麦
蕎麦は食べて当たり前で、好きとか嫌いというものではない。この点、米の飯と同じだと思ってきた。
とは言え、名古屋で長く暮らし、うどん屋はあっても蕎麦屋は乏しい。両親はうどん屋で蕎麦を頼み続け、挙句はうどん屋が「そばつゆを東京風に寄せてみたのですが、食べて頂けますか」と言わしめるほど、鞏固な蕎麦派であった。うどんは風邪を引いた時、鍋物の〆に食べることはあっても、日常の食べ物ではない。それが両親の信念であった。
私は、このうどん屋さんで、うどんを食べるようになったのだが、両親とともに訪れてうどんを頼むと、母は「本当にうどんで良いの」「本当にうどんを食べるの」と三度問い、私がうどんを食べていると「本当にうどんを食べるのね」と感嘆していた。
徹底した蕎麦食い、であった。
私も週に一度・二度蕎麦を食べないと落ち着かない。だが、蕎麦好きか、と言われるとそうも思わない。食べ習わしているだけである。それに、両親もそうであったけれど、高級蕎麦店を探して行こうという気があまりない。東京の下町にある町の蕎麦屋で「冷やしたぬき蕎麦」なんかを食べるのが良く 、目くじら立てて至高の蕎麦を求めるというのは性に合わないのである。

コンピュータの値段は大層上がった。
貧しくなりつつある日本において、今後、さらに中古PCの利用が進むのだろうなあ、と予想。
昨年久しぶりにUbuntu再インストールをしたが、以前使っていたHPマシンが壊れたためである。もう10年近く使っていたPCなので、誠に仕方がない。
動作しなくなる直前、画面表示が崩れるようになった。デジタルで崩れる感じである。その後、全く起動しなくなった。箱を開けると、コンデンサーがひとつ爆ぜていた。失われて困るのはHDDにあるデータであり、それ以外は壊れても仕方がないと思っているので、コンデンサーが壊れるだけで済ませたPCには感謝しかない。
これからはOS代・ソフト代をケチってUbuntu(Linux)という人が増えるかもしれない。

まつや とり野菜みそ
https://www.toriyasaimiso.jp/special/
漫画家東山アキ子氏が宮崎県出身でありながら、金沢の鍋用調味料「とり野菜みそ」に取り憑かれた経緯と、奇な縁に基づいて宣伝に関わるようになったかの、楽しいお話。
ネタバレはよろしくないが、水に材料を入れて、水から煮る、というのは盲点であった。説明書をよく読まねば。

雪崩からの生還
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6513988.html
貴重な証言。10人中9人までが雪崩に埋まりつつも、よくぞ全員ご無事であった。また、生々しくも貴重な証言を残して下さった。
私は山に登らないし、まして雪山には行かない。とは言え、人間いつなにがあるかわからぬものだ。こういうものは心して読んでおこう。

自由民主党の皆さん、悪質にしてグダグダだね。(野党が素晴らしいとも言っていない)。
この悪質かつグダグダな様子を見ていると、次なるテロリズムが生じないか心配になる。
議員の皆さんは政局だけしか考えていないようなので、そういう世間の雰囲気なりに触れ、世間のことを考える能力・習慣は失って久しいのであろう。
私はほとんど中小企業にしか居たことがないけれど、小さい会社の良いところは「内輪揉めしている場合ではない」ことが身に沁みて判っている人が多いことだろう。大きくなるにつれ、安穏として「会社は潰れない」前提でものを考える人が増える。まあ、近年の「経営者目線でものを考えよ」と現場に無理無体押し付けるのもどうかと思うが、自民党(に限らずあらゆる政党)の皆さんは、なぜ政治家という商売があるのかよく考えるべきではないかな。

Culture eats strategy for breakfast.文化の前に戦略など無力だ。そしてまた、「鯛は頭から腐る」。
「国」もまさしくそのとおりで、現在の与党諸氏は、裏金文化が蔓延る不道理・不道徳の社会を勢力的に作ろうとしているようにしか見えない。
それは与党周辺の局部最適にはなるかもしれないが、全体不最適なのは間違いないし、負ける戦争をするような国、戦争をして負ける国になってしまう可能性がある。

魚魚子(ななこ)
彫金の方法だそうだ。魚卵型なので、さかなの子という語を用いるらしい。
魚魚子について調べていたらNIWAKAという高級ブランドのページに行き当たった。どの商品も素晴らしい意匠であるが、お値段の方も素晴らしい。こんな高価なものを誰が買うのだろう、と不思議極まりない。私など、数千円ばかりのネクタイピンを買うかどうかで随分逡巡したけれど、庶民たる者はかくの如し。
(後で思い出したこと。ユダヤ人は常に逃げることを考えねばならず、そのため、持って逃げられる小さい高価なものを持つようにしている、という巷説。私の如きチェロ弾きから見ると、ユダヤ人はヴァイオリニストが主で、チェリストがわずかなのもこれで無意味に説明できる)。

昔、「乱流モデル」を学んで思ったこと
乱流モデルというからには、乱流の計算ができると思ったら、違ってた。乱流を考慮した計算ができるということだった。
つまり、乱流(渦)がどのように流れているかが分かるのではなく、乱流がどの程度できているかの計算ができるのだった。
極端な例を出すと、空気粒子をひと粒ひと粒すべて計算できる場合、「温度」は考えてなくて良い。
「温度」は、空気塊の中でランダムに動く粒子の平均的な速度(エネルギー)の指標であるから、全粒子の運動が判っているなら、温度のような雑な指標は全粒子の運動からちょいと計算すれば良く、わざわざそんなマクロ指標を入れる必要はない。
で、ここで言っている「乱流」は、実は計算モデルの格子では表現できないミクロな現象だが、観測される「温度」に比べるとマクロな現象であって、それまでのモデルでは表現されていなかったもの、である。
なので、温度項と同じ用に、乱流項がひとつ増え、流れから乱流、乱流から温度という段階でエネルギーが流れてゆくのを経験式で表現するてふものなのである。
(ただしい理解であるか知らんけど。それに当時読んだ教科書のこの辺りの表現が非常にわかりにくかったので、長い間考えた結果がこれである。まあ、乱流に関係する数値計算をしたこともないし、金輪際することもないだろう。一応気になるので書いておく)。

ベリーダンスを漢語で「肚皮舞」というらしい。
ベリーがお腹であり、皮膚を晒して踊るのだから、ということか。
この字面、肝が冷える気がする(感じ方は人それぞれ)。

富士通のパーソナルコンピュターの宣伝。
「神PC」などと言って、外国の人々を使っているが、なんだかセンス悪い。
『神の名を濫りに称ふるべからず』という心持ちはないのだろうか。あるいは、宗教的なもの言いは、人によっては大きな不快感を与えることを知らないのだろうか。
貧すれば鈍すというか、何か形振り構わずものを売ろうとして却って客が逃げるようなことをしていないか。
まあ、今の若い衆と老いた私で考え方・感じ方は同じではなかろうから、あくまでも、老インテリの戯れ言にしか過ぎないのであえろう。

昔(昭和60年以前)、英語の「Congratulations」はおおむね「おめでとう」を意味するが、結婚する女性に使ってはいけない、男性には良い、と習った。
女性に対しては「うまいことやったね」と言うからだというが、「うまいこと」をやって何が悪いのやらとか、女性にそういう含意が不味いのに、男性には不味くないのはなぜか、よく分からなかったし、今も分からない。
まあ、近年ではどの性に使っても良いらしいので、英語も改良されたということであろう。

クァルテット・オチェーアノを聴きにゆく。
モーツァルト、ボッケリーニ、ライネッケの弦楽四重奏。
「アマチュアにはメンデルスゾーンは難しいかもしれないが、ライネッケならなんとかなるのでは」(大意)というご発言があり、私は前半には同意しますが、後半はあまり賛同できません。アマチュア奏者といっても、演奏能力に大きな幅があるので、「非常に腕の立つアマチュア奏者なら」と限定するのであれば、渋々賛同いたします(莞爾)。
ボッケリーニとライネッケは初めて聞くので面白かった。普段親しんでいるベートヴェンなどと違って、も少しラフに書かれているので、なんとなう(演奏能力の高い)高校生が午後の音楽室で一生懸命弾いていると面白いな、と思った。
モーツァルトを聴いていると、自分がアルバン・ベルクSQの演奏を基盤にしていることに気づいた。若い頃、最初に買ったCDがABQで、以来(大変失礼ながら)さほど好みとも思わず聴き続けているので、まあそういうものなのだが。古楽方面のモーツァルトのCDを聴き直そう、と強く思った。
以前、モザイクSQのCDを探したが、随分と値が高かったので、諦めた記憶がある。

で、知人の演奏会で、ハイドン Op.20-4、ベートーヴェン Op.18-3、メンデルスゾーンの弦楽四重奏を聴く。
3団体による3曲の演奏(奏者の一部は2曲乗り)。それぞれの団体の個性があって面白かった。「私がそうするか」というのとは隔たりがあるが、他人がそれをしてくれるのは大変よろしい。そうしたことも含めて楽しめた。

さらに知人の演奏会。キュイ、ピアソラ(ブエノスアイレスの四季)、ヴィヴァルディの冬・春。
変わった変奏の曲。どうしてもフルート、ヴァイオリン、ピアノ(鍵盤楽器)がいるのを見ると、チェロを入れてトリオ・ソナタができるやん、と思ってしまう。トリオ・ソナタは通奏低音が1人でも2人でも3人でも「1声部」扱いなので、3声部で「トリオ」。

こんにゃく座「神々の首都」
こんにゃく座のいわば「日本シリーズ」(私がそう言っているだけだが)。「遠野物語」もそうだったけれど、日本精神史とでも言うべきもの(日本製紳士と変化しては欲しくなかった)。
今回は、ラフカディオ・ハーンの個人史に寄っていたように思う。しかし、個人個人を掘り下げることで却って大きな枠組みを見通せるのかも知れない。ともあれ、このシリーズの展開は楽しみだ。
オペラを演奏するのに、外来曲を取り上げるのも、それはそれで楽しいことであるし、それを(短兵急ではなく)日本人として解釈し作り上げていくこともした方が良いと思っているが、一方で日本の国民歌劇もぜひ有って欲しいものである。こんにゃく座の「日本シリーズ」は海外でこそ取り上げて頂きたい。
(そういう意味では、こんにゃく座の「魔笛」や「虫の生活」は海外からのオペラ受容シリーズとも言え、これら選曲の妙を味わうのも楽しい)。

しんよんひさんの絵を見る。
不思議な夢のような色使い。
私がその名を知らない色がこんなにもたくさんあるなんて。

北海道を舞台とする(と称する)アニメーションを少し見る。
家の建てようをちらりと見たが、さほど北海道風とも思われない。地域漫画には期待するところがあるのだが。
私が知っている時代より雪が減ったので、家の建てようが変わった、というのもあるやも知れず。
一方で、春も近いのにふんわりした雪があるというのも違和感。ひと冬積もって密な雪、溶けかけた雪があるべきではないかな。
まあ、そんなことはどうでもよろしいのであろう。

己の練習録音を聴く。
もうちっとカルテット向きの風通しの良い音質を作ろう。私は強硬に音を通す方が得意らしい(音程にもよるが)。
一日三回これを唱えないと治らないね、きっと。
で、練習で少し試す。まあ、悪い方向ではなさそう。でも、ボロボロ落ちている(音づくりとは別な要因で)。これはアカン。

統計とグラフィックスのためのプログラム言語Rを使っている。特にdplyrライブラリは強力。あまりに強力で脳味噌が溶ける。
SQLとほぼ同じ構文で、Unixコマンドと同様パイプで繋げられて快適この上ない。さらに、joinは、inner, left, right だけでなく、outer も使えるし、さらにさらに anti_join まである(MS-Accessのjoinが最初の3つしか使えないことを考えるとまさに天国)。
プログラミング言語の中でSQL(っぽい)フィルターを重ねて使える楽しさよ。
SQLは強力なのだが、どうしても手続き型プログラム言語と組み合わせて使いたい場合から逃れられない。故に、Rでdplyrが最も「手に馴染む」。

手に馴染む、という感覚は、プログラム言語としての良さを表す指標として非常に重要だと思う。主観的なものに過ぎず、万人共通ではないけれど。

銀河英雄伝説(アニメ)を見る。
どうやら、この物語の主題は人間の愚かさである、と思った。
日本のような敗戦国で描かれる戦争・軍事はすべからくそうであるべきかも知れぬ。

福沢諭吉がお札から抜けるけれど、北里柴三郎が入る。
なんとなう、「慶應人脈」を思う。
この末流に属する人々の評判は最近よろしくないようだ。
この学校の立派な人達を見ていると「実学」志向で、世の中に立とうとしていて尊敬に値すると思うが、また別な人達を見ると、世の中から自分が利益を得ることばかり考えているように思われる。

渋沢栄一が一橋大学を作り、津田梅子が津田塾を作ったとすると、両者が並び立つ国立市の皆さんはなかなかお喜びであろうか。

バフチサライ(バフチェサライ)は黒海近くクリミア半島にあったのを初めて知った。
https://note.com/pencdiraht/n/n18c6ad225bff
バレエ「バフチサライの泉」でこの地名を知ったが、なんとなう、もっとモンゴルに近い土地のことと思っていた。
バレエを知ったのは、楽器の師匠から「こういうバレエの伴奏をするからチケットを上げる」という奴で、バレエはあまり見ず、楽器の演奏ばかり見て聴いていた。なかなか目立つチェロの独奏があったことを覚えている。

同窓会で19人集合。45人のクラスだったので、約半分。なかなか優秀ではないか。それだけ時間にもお金にも余裕がある世代になったということだろう。
それかあらぬか、旧知の人々と出かけようという夢を見た。何故かボロボロの軽トラック。
タイヤ交換が必要とて、タイヤを外すが、後先考えずにタイヤを外したがために、どうやって取り付けるべきか分からない。取り付け用のアルミ板を見て考える、というところで目が覚めた。乗用車のタイヤ交換ならしたことがあるが、どう考えても夢で見た構造はおかしい。
そして、なぜに軽トラックだったのか。愛読する漫画「クッキング・パパ」に軽バンで福岡・鹿児島を(楽しく)往復する話があり、そこからの類推だったのだろうか。漫画では様々な「事件」の後、「田中ちん」と「夢子さん」の幸福な将来を予感させつつ終わる。どんな私の潜在意識が関わるのだろう。

サブマリン707を見た。
淡水域に入ると浮力が不足して沈降してしまう、という描写はあり得るように思うが、密度が小さくて浮力が不足するということは、圧力も小さいのだから、圧力計が割れる描写はおかしいのではないか。あくまでも沈降はしているが、淡水域にいる限り圧力は小さく、淡水域から出て海水域に入ったところで、圧力上昇となりそうに思う。ともあれ、淡水が海底から上昇している以外には深海に淡水域は生成しているとは考えにくい。

銀座を訪れる機会があったので、中原亜梨沙氏の個展があるはずだ、と思いきや。3/30開始だった。でも、きくちちきさんの個展を見られたので、私の個展欲はとりあえず満たされた。今の私が銀座で用事があるのは、教文館・泰明庵・熊本物産館くらいだろうか。もとより寄るべき場所は乏しかったけれど。

札幌ひょうたん横丁がなくなるとのこと。出張時に偶々訪れた「倶知安」は、大変味わい深い店だった。日曜夜「明日休みだから今あるものを出す。それでおしまい」。親切で気風の良いおカミさんがお魚や煮物を出して下さって、ビールも飲んで4人で数千円みたいな。もちろんお腹いっぱいにならないが、近くに多くの店があり、これはまた非常に楽しかった。

名古屋市杁中(いりなか)にあったイタリア料理店マンジャーレ閉店
https://sho-wan.com/20231106-mangiare-irinaka-close/
なんでも終わりがあるものだ。40年営業とのこと。私が行きだしたのは開店すぐだったのだな。たしかペスカトーレが580円だったように思う。
土曜の昼などは、近所の女子校の生徒が多く、私がごとき男性には肩身が狭いこともあった。
フンギ、プロシュート、アラビアータ、ベスビオなど、ここで初めて知ったメニューもたくさんある。フライパンを滑らかに操るマスターの姿ももう見られないのか。時代は変わり、私は取り残されているが、いつか私も時とともに流れ去るのであろう。
さらば、マンジャーレ。ありがとう、マンジャーレ。

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今週の戯れ歌

我とあれど嫌な男になるならむ四十年越しの恨み抱けば

四十年の時間を超へて話せむ昔昔のあれもこれもと

懐かしき思ひも我に過ぎずあれ我には今此時しか無き故

懐かしき町であるとは判るとも同じき姿の残るははつか

昔見し乙女の家の未だ有ればまた逢ふ時のあるやもと思ふ我なる

昔見し乙女と別るる交差点滅びぬままに未だ有るも悲し

悲しきは雨に打たるる交差点若き私の切な思ひを

遠き町に我はあるなり昔日の思ひ何時しか忘れたれども

何時か我灰塵に帰す日のあるならむ悲しき日々も滅するぞ善し

様々の思ひ抱きて生きてあれどそれも何時しか消えて行かなむ

酒飲んで全て忘れて眠るならば若き日々とは異ならざるべし

せめてせめて酔ひてあれどもうたを詠まむ我の生きたる証なるなら

うたよ有れ我の生きたる証なれば拙であるとも真実なるらむ

四十年の時を隔ててなほ言へぬ事も少しは有ると知るなる

誰彼の噂を聞くは面白し私の知りたきあの人は今

この町の我は無くとも在るならむ我又町と関わらず在り

人毎に異なる時間のあるならむ我は事実を認むる者なれ

抗弁をせむとうた詠むものならず只忘れ難き思ひあるなれ

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読書の記録(2024年2月)

泣菫随筆 薄田泣菫
以前読み始めたが面白くないと感じて投げ出していたもの。今回、単に書物を整理しようと思って手に取り、偶々、徳富蘆花と国木田独歩を描いた頁が目に入った。面白かった。も少し読んでみよう。
こうした明治ものを読んで面白く感じるようになったのも、関川夏央・谷口ジローの「「坊っちゃん」の時代」のお陰であろう。この漫画のお陰で探し当てた鴎外森林太郎の「普請中」も非常に良かった。

海街ダイアリー 吉田明生
再読。よくまあ四人姉妹の個性を描き分け、それぞれの恋愛をさらりと描き、さらに周辺人物を造形しているよ、と感心するばかり。
これを映画化したかったのも分かるし、役者が演じたくなるのも、分かる気がする。

精選物理学の散歩道 ロゲルギスト
先月に続いて少しずつ読む。
「数理倫理学序説」が特に面白い。現在いわゆるリスク学として知られている考え方だが、この時点で現在も答えが出ていない問題について明確に指摘されているように思う。まあ、「価値」とか「価値観」には厳密な客観性がないからね。
ともあれ、新しい学問を構想する楽しさが感じられる。

「雫が水面に落ちる音」は音の興味のある私には大変おもしろかった。
私が日常生活で感じるのは、温度・湿度によって、我が家の音響機器の音の「聞こえ方」が同じではなさそうである、ということ。
なんとなう、湿度が低い秋頃に最も「明瞭な良い音」に聞こえ、湿度が高い梅雨から夏にかけて「ぼこぼこした悪い音」に聞こえる。
木製弦楽器でも同様のことが起こるが、通常それは楽器本体のこととして説明される。スピーカーコーンも多くは紙ないし繊維製なので楽器と同じ現象が起こっているのかも知れない。だが、それは楽器・スピーカーコーン本体の問題なのか、媒質としての空気の問題なのか、あるいは、「耳」の問題なのか。などなど気になる。
要約・反要約は私が日々推している「言語技術」そのものと思う。

ケストナーの終戦日記
古書店で見つけた福武文庫。岩波が出ていると知っていたらそちらを買ったのだが。仕方がない。
戦争に負けるとはどういうことか、戦争に負けた後、日常生活はどうなるか、など以前から興味があり読む。
私は、現在の日本の状況はある種敗戦であると見ている。そのため、ここで書かれていることと、私が日々見聞きすることの間に、相通じるところがたくさんあるように感じる。
「カール・ハインツ・シュトックハウゼン少尉」の名が出てくるが、作曲家「カールハインツ・シュトックハウゼン」とは年齢的に合致しない。

パンの文化史 舟田 詠子
前半は読むのが少々つらかった。この手の説明はも少し可視化しないと、今の軟弱な私にはダメね。一番良いのは、私が可視化作業をすることだが。そうすると、私は内容をきちんと読んで理解するので。
とは言え、パン焼き窯が各家庭にあるのか村の共同なのか、各家庭にあるとして住居と一体か別棟か、どのような頻度で焼くのかといったところから大変興味深く読むことができた。
惜しむらくは少し古い本なので、写真や図の品質が足りないのであろう。内容は興味深いだけに本当に惜しい。

人さらい シュペルヴィエル 永田千奈
私の期待するシュペルヴィエル調ではないぞ。私はメロドラマが読みたいわけではない。
南米とパリで引き裂かれた彼の自我について知るところもあって良いとは思うが。

キリスト教美術を楽しむ 旧約聖書編 金沢百枝
面白い・・・のではあるが、変に現代調の比喩を入れるのに、私はあまり良い思いがしない。最近学者が書くもの(学者が書かされるもの)はこの手のものが多い。中身だけで十分楽しいのだがなあ。編集者がアカンのかなあ。

物理学者の自由な楽園 朝永振一郎
賢い方の本を読んだとて自分が賢くなれる訳でもないけれど。
私は朝永が企画した「物理学読本」を大いに評価している。その関係もあってちょっと面白い。
朝永の大学時代の生活を読んでいると、何か非常に余裕が感じられる。現代の大学生はもっとあくせくさせられており、腰を据えて勉強するどころではないように見える。国力衰退の一兆候ででもあろうか。

ピンフォールドの試練 イーヴリン・・ウォー、吉田健一
うーん。あまり面白いとは言えなかった。私には、この書は粘着質で苛立たしい。

アンドロメダ病原体 マイクル・クライトン
うーん。「報告する」と前書で書いてあるわりには、本編に入ると小説的時系列描写で、「報告書」の体をなしていない。などと気になる私はある種の職業病なのかも知れぬ。頑張って読もう。
読み始めると、それなりにSFっぽくて楽しくなって来た。古い小説なので、現代だったら使わないであろう設定が散見されるが。
読了。楽しい読書であった。若干のご都合主義、説明不足、伏線回収放棄に伴うがっかりなきにしもあらず。とは言え、これはSFだろう。

ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ ブライアン ウォード=パーキンズ
少しずつ読んでいる。前半1/3は読みにくかったが、陶器の生産・流通の話あたりから調子が良くなってきた。
読みにくかったのは、●●族などと言われてもイメージがないからであろう。ヴァンダル族くらいは、「文明の破壊者」と聞きかじっているが、そこまでである。なんとなう。「部族一覧表をつけて、特徴を書いておいてくれ」と思ってしまう。
陶器の生産・流通になると少し図も出てきて理解しやすい。文字情報を読み通す能力が下がっているのかもね、私。

唐宋伝奇集
これまた少しずつ読むの書。なかなか楽しい。

機械探偵クリク・ロボット カミ
少々古いユーモア小説なので、現代風ではない。まあ軽い読書としては悪くない。

ルバイヤート(トゥーサン版) オマル・ハイヤーム 高遠弘美
ふふふ。入手。ルバイヤート邦訳はたくさんある。手元にも複数ある。で、この本を手に入れて後書きを見る。あらたな訳文を作る意図、ルバイヤートへの愛着、これまでの訳文への言及など、ルバイヤートの後書き標準セットが書かれている。
なんとなう、ルバイヤート愛好家サークルっぽさがあって好き。ゆつくり読もう。

デュポール チェロ奏法と21の練習曲 島根朋史(翻訳)
教本的なものを買うのは久しぶり。鈴木、ウェルナー、ドッツァーと来て、いちおう、モーリス・アイゼンバーグ「現代チェロ奏法」を少し読んで、セヴシックを少し、その後野放し。カザルスなどは読んでいるけれど、固有の楽器演奏技術の本からは遠ざかって久しい。
縁あって購入。まじめに学ぼうという気持ちになっている。年齢的に最後の挑戦ではあるよね。
ベートーヴェンで言えば、交響曲と弦楽四重奏初期ならドッツァーまでの教本で弾ける。チェロとピアノのためのソナタや中期・後期の四重奏曲を考えると、そこからもう数段異なる演奏技術が必要になる。この「もう数段」がデュポールに相当すると、私は今推測している。
練習曲の音を並べるだけで大変。脳味噌をたくさん使う必要がある。でも、それこそが「練習」なのだと思わされる(思い出さされる)。
デュポールの「試論」の訳は、注も含めて大変行き届いている。レッスンにきちんと就いていない私のような野良奏者には大変参考になる。そして、練習曲は試論を踏まえた指番号が付されており、これまた大変有用である。

●雑感

渡辺カネ氏について読む。晩成社の方であり、十勝の教育の母とのこと。
Wikipediaを覗いたところ、「優秀な記事」として挙げられていた。
私も北海道に住んだことがあり、六花亭のお菓子を通じて「晩成社」の名は聞き知っている。
Wikipediaの記事はたいへん行き届いたものであった。
あの時代のキリスト教宣教師に影響を受けた人々の行動を考えてみる。この人たちの共通点として「政・官ではない」ところだろうか。昨今の政・官の弱体化を見ると、同時に「民」も弱っているのではないか、と考えたりする。
自分の一家を考えると、「えらい人」や「有名な人」はいない。地味で堅実な一族である。でも、こうした我々の如き地味で堅実な人々がこの国を支えているのではないか、と私は考えている。我が一家にはキリスト者はおそらくいなかったものと思うが、宗教への憧れと崇敬の念を持つものが多いように思う。さてさて。

黄色く少し透き通った花が咲いている。蝋のように透き通っているからか「蝋梅」という。
私はつい「狼狽」を思い出してしまう。「老馬医」とも変換されるのね。

長谷川伸の「一本刀土俵入」の舞台が(最近いささかの馴染みがある)取手であると先日気づいた。渡しのあるような大きな河縁の話との記憶はあったが。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001726/files/56081_64124.html
この話、声に出して読むと大変面白い。戯曲なので当たり前と言えば当たり前なのだが。また、会話だけで情報の大半が伝わる様にできており(当たり前だ)、ラジオドラマにすると面白そうだ。
ラジオドラマなるものが今尚あるのかどうか、私は知らないが。昔、FMラジオで音楽番組の後、ラジオドラマがあったりして、そのまま聞いたことが何度かある。結構面白いものだった。
「FMアドベンチャー、アドベンチャー、アドベンチャー」と反響させている導入からして深夜静かに聞くにふさわしい情緒があったように思う。
小林まことによる漫画化もされているが、紙媒体は1万円近くもする。高価だ。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番の練習をしている。で、様々な演奏を探して聴くなかで、サクソフォン四重奏版を発見した。
https://www.youtube.com/watch?v=I2KTtE4KPEU&list=OLAK5uy_lKec-9FicDT_gJvOijn8VtT8ZUy8Kp_Dk&index=12
なんか違う曲みたいであるぞ。
音は原曲と同じだが、軽妙で大人しく、ベートーヴェン的苦闘・苦悩からは離れている。とは言え、これもまたベートーヴェンが書いた音の姿であり、大変楽しくも大変勉強になる。

ついでに出てきたストラヴィンスキー「春の祭典」木管五重奏版、
https://www.youtube.com/watch?v=Zs-0AOa4g84
もちろん、冒頭のアレはファゴットだった。木管楽器がオーケストラの音色の重要部を担っていることを再確認できる一方、「やはりここは弦楽器でなければ」という箇所もあり安堵した(雇用状況の安定?)。
金管楽器が担うところは全てホルンに行くのだが、私が金管楽器をさほど聞き分けていないせいか、これで十分に聞こえる(多謝)。

第一次世界大戦のいとこたち
https://www.youtube.com/watch?v=oXmMT4sETu8
第一次世界大戦が始まった際の英国、ドイツ、ロシアの元首は、英国ヴィクトリア女王の孫であり、いとこ同士だったとのこと。そう言われてみればそうだったか。。。
何度か書いているが、当時の実感として「まさかこんな大戦争になるとは思っていなかった」であり、「まさかこんな大戦争がふたたび起きるとは思っていなかった」でもある。ああ、それなのに、それなのに。

群馬県でも慰霊碑を破壊するなど、歴史修正を行っている。私自身は戦争反対だが、もし戦争を考え「中国と戦争になる」と煽るならば「韓国とは仲良くせねば」とならないのは不思議だ。ふたたび世界を敵に回すつもりなのだろうか。

豆撒き
以前、節分の夜、団地脇の道を歩いていたら、頭上から幼い兄弟の「鬼は外」の声が聞こえ、パラパラと豆の落ちる音が聞こえた。
「うわーやられたぁ」などと巫山戯て返したい気持ちもあったけれど、親御さんが私に命中したと誤解されると申し訳ないので、ガマンしました(大人として当然の行い)。

なお、静かな夜だったので、豆の落ちる音が聞こえたように思っていますが、団地建屋から道路までの離隔距離は相応にあり、余程の力がない限り、とても道路まで届くような距離ではありませんよ。
季節の行事を楽しく行っているご家庭の様が目に浮かび、私はたいへん嬉しかった。

我が家では、子供が幼い頃、殻付き落花生や個包装のお菓子を用意し、暗くした部屋で大きな掛け声とともにこれらを撒き、子供たちが競って拾う遊びをしていた。
亡母はどこでこれを思いついたのやら。母に孫たちとともに楽しい時間を過ごす機会が作れたのは、私の数少ない親孝行であるのだろう。

NHKブラタモリを見ていたら「吾妻鏡」の開いた頁に「山田太郎」という名前が書いてあった。
この氏名の方が実在するのを初めて見た。
地頭にしてやる、とかなんとか書いてあった。
https://adumakagami.web.fc2.com/aduma02b-03.html

ネット上で「装偵」という文字を見つけて煩悶している。おそらく「装幀」または「装丁」が正しいと思うが、「装偵」の用例も多い。
紙資料をOCR・文字起こししたところで「装偵」になったと推測する(それらしい例もある)。
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa/a52/116
「装偵」は装甲偵察の略らしい。

三菱電機の会員制サイトで個性的な図書館を紹介している。
「三菱電機」「図書館」という単語が並んだ時に思い出すのは、「岡崎市の図書館システムをめぐる事件」
https://www.jla.or.jp/portals/0/html/jiyu/okazaki201104.html
と言いながら、私が知っていたのは、第1の方だけ。第2は今回始めて知った。何でも確認しておくべきものである。
企業が忘れて欲しいと思っていることをいつまでも覚えている私。でもねえ、都合よくなんでも忘れる企業が多いのではないかな。
(企業よりさらに政党・政治屋の都合良きこと)。


ふだんなら、道路上を横に並んで歩く子供たちが、その朝は、縦に並んで歩いていた。
「かさじぞう」みたいだ、と思った。
雪が降り、多少雪かきがされているけれど、歩きやすい場所が一人分しかないので、縦に並ぶことになるようだ。
そうか、「かさじぞう」が縦に並ぶのはそういう意味であったか。
あるいは、僧が修行のひとつとして無言で歩くのに似せたのか。
最初の一人が雪漕ぎをする、風よけになる、という面もまたなきにしもあらず。

朝、除雪ごっこをする。
スコップの手元が折れた。除雪様の軽量型スコップであり、鍬がアルミニウム、他はプラスチック。
北海道に住んでいた時に買ったものだから、二十五年以上経過している。
むしろ、今までよく使えたものだ。柄だけ買ってみようか。
同じ様に柄が朽ちかけたスコップがあるので。
もう一本の除雪様スコップもよく見たならば手元が割れ始めている。
こちらは鍬も含めて全体がプラスチックで鍬先だけが金属製である。
こちらは二十年以内ではあるけれど、まだ元気だった母が買ってきたものだ。

雪見れば母ありし日を思ひ出し雪兎作り南天の目を入れ

佐藤富五郎一等兵曹の遺書・戦場日記
https://researchmap.jp/niheiyoshiaki/misc/29322399/attachment_file.pdf
SNSで知った文章。稀有な偶然によって世の中に出ることが出来たもの。ともあれ、あの戦争を始めなければこんな悲劇は起きなかっただろう。そしてまた、当時の我が国の細部を覆い尽くしていた非合理性の犠牲者でもある。餓死せざるを得ないと解った段階で降伏することもできただろうに。

VBAのDir関数(などのファイルシステムを触る関数類)は、OneDrive上のファイルシステムに対応していないようだ。
出たよ、MSのファイルシステムっぽく見せてはいるが、実は単なるアプリケーション問題。
ファイルシステムはOSで吸収しろよ。抽象化がOSの役割だろ。
こういう、「とりあえず便利っぽいアプリを作ったからバラ撒くぜ。互換性は気にしない。OSの抽象性?なにそれ」というのが、マイクロソフトの伝統であり、Unix屋などから嫌われるところだ。
まあ、そのお陰で生じている仕事が世の中にあったりするで、皆諦めているようでもある。

Théodore Dubois(テオドール・デュボア) – Piano Quintet, in F major
https://www.youtube.com/watch?v=BHote8hpTRw
フランスの作曲家による親しみやすいピアノ五重奏曲。オーボエを入れるのも良いね。

ヴァイオリン・オクテットについてWikipediaの解説を読む。
ヴィオラやコントラバスの不整合を考えると、「ヴァイオリン」属として設計したい気持ちもわからんでもないが、その結果、均質な音色が出せる楽器群になったというが。それがため、「音域が重なる部分において、面白みに欠ける」というのが、たしかにそうなるよね、という点で大変面白くも重要な結論だと感じる。
楽器音の「具体性/抽象性」について、私は考えて来たが、VnオクテットはVn属の中での抽象性を推し進めたものだ、と思う。一方の極は、ストラドとガルネリの音色を区別し、クライスラーの音色やうたい口を重視する。
先月のサックス四重奏によるベートーヴェンの違和感のひとつは、この点にもありそうだ。

タモリの音楽は世界だ 「サックス家の一族大研究」を見る。どの楽器も実は半オクターブくらいしか違わないのね。
まあ、Vn属もそうだし。しかも、オクターブ違う楽器を作ると長さが倍必要であるしねえ。

アンセルメのベートーヴェン
https://www.youtube.com/watch?v=Jj-PJ3fouIk
子供の頃、家にあったベートーヴェンのレコード(当然LP)は、5番と7番がアンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団、9番がフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。6番は謎の指揮者と謎の録音オーケストラだった。
聴いているとなんだか懐かしい、LPレコードと同じ録音であるのかは不明だが、ちょいとかすれたような強音、明るく素朴な木管楽器、気を持たせるよな余裕かました演奏などなど。結構覚えているものなのね。紅茶に浸したマドレーヌの味と同じで、言語として自発的に表現することはできなけれど、たしかに覚えているのだ。驚くべし。
ルネ・レイボヴィッツの「展覧会の絵」があったり、当時の我が家、なかなか凄い演奏を聴いていたね。
そういう意味ではカラヤンや小沢などは、家になかったし、自分も滅多に買わなかった。「世の中にたくさんあるし、いつでも聴ける」という感覚が強かったから。

「東京大学における性的指向と性自認の多様性に関する学生のための行動ガイドライン」なかなか素晴らしい。
「オリエンテーションの時期の自己紹介に出身高校を含めるように設定したり、他の人の出身校情報を勝手に公開したりする(トランジションしている学生にとってはアウティングにつながる可能性がある)。」などは、私自身まったく思いもよらず、参考になった。
一方、「東京大学の構成員(の多様性)」だけを強調しているようにも見える。「彼女は頭が悪いから」の反省はここに必要ないのだろうか。
LGBTQ差別だけに限定して書くならばさもあらん。それが自然でありわかりやすくもある。しかし、全ての差別に反対し、その一部としてLGBTQがあると考えるならば、男女差別・学歴(成績)差別もアカンのではないかな。

小澤征爾氏逝去
あまりご縁のなかった方であり、この十年ほどほとんど活動されていないこともあり、また、亡父と年齢が近いこともあり、ついに来るべきものが来たてふ感慨。RIP。
昔言われていた若手指揮者五人(アバド、メータ、マゼル、ケルテス、小澤)のうち存命なのはメータのみ。

『思考の整理学』は「東大京大で一番売れた本」とのこと。私も読んだことがあるが忘れてしまった。
さほど良いことが書いてあったようには思えない。もうちょっと読んで意味がある本を売り込んだ方が良いのではないか?
物事を批判的に考えられる本とか。たとえば「それゆけ論理さん」の方がずっと意味があるのではないか?
あるいは学問があるということで社会から求められる倫理についての書物とか。


楽器を弾く夢は見たことがない。皆が楽器を弾いているのに、自分だけ間に合わない、あるいは、楽器が壊れている、という夢はしばしば見る。
先日は、例によって自分だけ間に合っておらず、オーケストラが(なぜか箱寿司のように矩形に並んで)バルトークの「管弦楽のための協奏曲」を弾いている夢を見た。チェロの首席が大学の同級生だった。
ちょいと面白いね。

HMS Pinaforeを歌うスター・トレック
https://www.youtube.com/watch?v=sOtgMujbZsY
みんな大好き軍艦ピナフォア。

1815年のタンボラ山噴火
Wikipediaで記事を見る。ワーテルローの戦いの頁からリンクがあった。
ワーテルローの戦いの悪天候も、「フランケンシュタイン博士の怪物」や「吸血鬼」を齎した長雨による無聊も、ターナーの絵画の黄色い夕暮れも、みなこいつのせいだったのか!たいへん驚く。

コロナ感染
5回のワクチン接種を以ても防ぎきれず、最後に油断があったのがアカン。反省しよう。どうか後遺症が出ませんように。
最高到達発熱39.1℃。39℃を超えるなんて30年振り位。

二日ほど食べずにいたせいか、何を食べても味が濃い。味覚障害でないのはありがたい。
一方、足元が若干あやしいよね。コロナのせいというより、熱で寝込んでいたり、久しぶりにうろうろしているからだろうが、悲しい。気をつけよう。
なぜかこのタイミングで「ラスムス クルンプ」の公式X(Twitter)の話題が。
そして、それに仮想的にツッコむ自分の作文が微妙に辛口な気がする。
「おい、ラスムス。いつ『ペッチ』を辞めたんだよ」みたいな。
コロナの後遺症かも知れぬ。今月の読書で微妙に辛口なのもきっとそのせい。

イタリア映画「ふたりの少佐」
https://www.youtube.com/watch?v=QdO8wvOug9E
戦争コメディ。ギリシアでのイタリア軍とイギリス軍の戦いに始まる冒頭からパンチが効いて凄い。
占領軍が代わるごとに肖像画をかけ直す地元住民、運命の逆転と酒飲み合戦、惚れた女を互いに母親の方だと思いこむ好都合さ等など。
酒飲み合戦で、英軍少佐が「ムッソリーニに乾杯」というと、伊軍少佐が目を背け、伊軍少佐が「チャーチルに乾杯」と返すと、英軍少佐が目を反らす。これによって、お互いが「建前としての元首礼賛ではない、本音としての元首・上長忌避」を共有する付合いをしていることを示して楽しい。
主演トトが、知人に似ている(この知人が好人物かつ多少演説っぽいので殊更)。
史実として、米軍と伊軍が馴れ合っているところに独軍が入ってきたせいで深刻な戦闘になった場所があると聞く。あるいは伊バドリオ政権樹立で英伊が同盟関係になってしまう。そういう意味では少しだけ史実的か。
町の様相がそれらしいのが同時代作品の強み。

youtubeでこうした古い喜劇役者が出ている映画を探し出して見るのはなかなか良いものだ。
ルイ・ド・フュネス、とか。

「経済」の語を使っている者どもが「経世済民」を考えるに乏しいこと如何。
己の懐温めることだけ考えているように思われる。己が懐温めることを否定はしないが、そのために他を蹴落とそうという身根が許しがたい。
私は田舎の学校を出ているが、田舎の学校だとひとつの学級にいろいろな人間がいる、金持ちのボンクラ息子も、洟垂れ小僧も、勉強ができる子、新しい遊びを発明できる子などなど。皆で遊ぶ時も、全員が遊べる方法を考え、場合によって「洟垂れ用特別ルール」を作ったりもする。それが人としての暖かさであり、社会としての方便でもある。
で、都会の受験予備校化した学校を見ると、皆さん親御さんはしっかりしており、お子さんたちは塾に通ってお勉強を仕込まれているけれど、どうやら「他人様は蹴落とすもの」と思っているし、「他者を蹴落とす以外に己の栄達はない」くらいの勢いで生きているようにも思う。
で、後者の人々向けの雑誌は「ワンランク上の」とか「ちがいがわかる」と称して要りもしないピカピカしたガラクタを売りつけるのであるし、お金さえあれば何事も意のままになると思っているフシがある。
まあ、私が見たことがないような更なる上流階級はもっと余裕があるのであって、他人を蹴落とす云々は下流の上くらいなのであろう。

楽しかったブラタモリも終わるそうだ。ありがとうブラタモリを作ってきた皆さん(特に各地の研究者のみなさん)。
とは言え、タモリさんもご高齢であり、日本中回っておくべきところは回ったやに思える最近の番組だったので、これで良いようにも思う。
前半は何が何でも見る、という気合だったが、近年は、見ても良いな程度だった。
番組作りがパターン化して、若い女性アナウンサーに歓声を挙げさせておけば、後はタモリが何とかしてくれると、適当に作っているようにも見えた。
後継番組は虚妄捏造で有名な「プロジェクトX」だそうだ。やめれば良いものを。
あれは、『日本人下士官・兵は優秀だが、上級将校は無能」なる批判を都合よく忘れられる人が見る番組だ。
「我が社の黒歴史」くらいにしておけよ。あれだって、結局、回り回って役に立っているという仕組みではあるのだから。

ヴァイオリン用品製造販売会社トマスティーク社によるチェロ弦マップ(もちろん自社製品のみ)
https://www.thomastik-infeld.com/en/new-releases/dominant-pro/cello
WarmとBrilliantが相反する概念かどうか、私にはちょっとわかりにくいが、BroadとFocusedはさらにわからん。 W/Bは全般に高周波成分の多少 and/or 発音時の子音成分の多少を示すと思ったりしたが、では、B/Fは何なのか???
奇数次倍音と偶数次倍音?

銀河英雄伝説のアニメを少し見る。
お互いを遮るものとて何もない宇宙空間で艦隊戦をすると、結局海上での艦隊決戦(しかもナポレオン戦争に近い)あるいは、平野での槍騎兵決戦、砂漠での戦車戦みたいになるしかないのかな。
これを人間ドラマとして見るべきなのか、戦略ドラマとして見るべきなのか、あるいは、SFとして見るべきなのか、まだ分からない状況。

しらかわホール(名古屋)閉館とのこと。
私が名古屋を離れた直後に出来たホール。一度か二度、帰省の際に、知人たちの演奏会が偶然あって、その時に覗いたことがある程度。
あれから、ひとつのホールが世を去るほどの時間が経過したのね。途中で、カザルスホールの日本大学への売却話があったり。林真理子日本大学理事長が、カザルスホール復興について言及されていたが、ちょっとそういう趨勢ではなさそうだ。そもそも日本大学は体育系は重視しているが、それ以外の文化系に力を入れそうには感じられない。知らんけど。
そもそもで言えば、「ホール」という箱の重要性以上に、どんな演奏会を行うかという「企画」を大事にしなければ意味はない。それを「カザルス」という看板で積み上げてきたのが、日本大学以前の「カザルスホール(企画室)」であったし、日本大学は結局のところその良き伝統を断絶させたに過ぎない。
私見では、まず「カザルス」の名前をカザルス夫人にお返しするとともに、よき伝統の断絶を謝罪すべきだろう。それが最低限。
然る後に、新しく日本大学としてのホール名を付け、日本大学として企画者を集め、日本大学としてホール運営をすれば良い。それが正当なやり方ではないかな。
(ところで、小澤征爾の名前は今後どこかで何かしら使われてゆくのだろうか)。

音楽理論は「家訓」ていど説
物理法則はこの宇宙において普遍的であり、何物も逃れ得ないが、音楽理論はある地域のある時代の音楽の「家訓」ということ。そういう家訓があっても良いが、異なる家でそれに従う謂れはない。
私は物理系だったので、宇宙において普遍的な「音楽理論」が存在するのかと大いなる幻想を抱いていた時期がありますが、ちょっとがっかりしました。

南北朝正閏論は「せいじゅんろん」なんだ。うるう年の話題で初めて知った。
長らく「正閨論(せいけいろん)」と勘違いしていた。幸いにして、これまでこの単語を発語する機会がなかったものの、不敬のきわみであった。

自由民主党の皆さんが駅前で能登震災復興支援のための募金を集めておられた。
我々貧乏人にも一枚噛ませて下さるくらいなのだから、きっと何億円もあるという「裏金」(ではないんだっけ)は全部このためにお出しになるに違いない。
なんなら支援金を集めるためのパーティも開催されるのではないか。
万一そうでないならば、我々貧乏人の怒りを買うだけだろう。まさかそんなことはあるまい。伝統ある自由民主党ともあろうものが、そんなにも判断力を欠如しているなどと想像することすら困難である。
・・・などと書いていることの虚しさよ、まさにゴマメの歯ぎしり・ミミズのたはこと。

昨今の政治情勢について心を痛めている。
まともとは思えない政治屋集団が改憲を口にしている。
おそらくは、まともでないから改憲したいと思っている、と思うべきなのだろう。

政治倫理審査会とて、まともに回答できぬ(せぬ)首相の無能・無責任さよ。
同時に有名野球選手の結婚のニュースを流すメディアの無能・無責任さよ。
かくも重大な無能・無責任は、国全体に影響を及ぼすゆえに、極度の害悪である。

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