読書の記録(2024年3月)
デュポール 奏法と練習曲
「読む」というよりは「弾く」の比重が大きいが。
なかなかに過酷な練習曲。だが、音楽的であるので、取り組む意欲が保てる。また、指番号初めとして楽譜としての校訂が演奏・研究の専門家によってなされているので、迷うことなく安心して練習取り組むことができる。
楽観的に見ると、左手(左腕・左肩を含めたシステム)が改善され、普段弾く他の曲でも「小指が離れているために遅れる」症状が改善されつつあるように感じる。
ステパンチコヴォ村とその住人たち ドストエフスキー
ドストエフスキー比較的初期の作品。ロシアのウクライナ侵攻以来、ロシアものを読む気になれなかっていたが、以前買ったものとて読む。
この書は確かに色濃くドストエフスキーである。道化だったものが居直って傲慢極まりない人間、高潔であるのに優柔不断な人間、卑屈を装う人間などなど。
なかなか面白かった。読んでよかった。凡百の結論にしないところがドストエフスキーらしくあるだろう。
話者の立場上、ナースチェンカをあまり描写できないのは仕方がないのだが、登場人物のバランスとしては少々物足りない(アンナ・カレーニナのキチイよりは人間らしさもあるけれど)。
(戦争と重ね合わせて考えると、こうした有象無象を「母なるロシア」が昇華してくれるというような甘ったれた理想主義がアカン政治をのさばらせる、とも思われてくる。他国のことを言えた義理でもないし、この一国限りのことでもないのが、さらに悲しくあるのだが)。
読み始めた時、あれこんな小説だっけと思ったが、それはゴーゴリのディカーニカ近郊夜話と勘違いしていた。これを読み始めた頃、ウクライナ侵攻があり、以降読まずにいたのだった。
銀河英雄伝説 第1巻 田中芳樹
アニメと並行して読んでみた。アニメは原作を概ねよくなぞっている。表現の粗密あるいは言及する時間配分なども含めて、そのように感じる。
文章はよくこなれており、さらに、経過が速い。細かな描写をあまりしない。そういう意味では「重厚な文学」より「軽い小説(ライトノベル)」に近いのかも知れない。登場人物も多少類型的である、その意味では「ライト」と感じる。
一方、描こうとしている世界の大きさ・深さ・複雑さはどうやら重量級でありそうだ。
アジモフの「ファウンデーション」においても、登場人物が複雑精妙であるかというと、類型に近いが、それに近い視野・解像度であると感じる。
ただし、アジモフのように「SF(科学を基盤に置いた小説)」ではなく、スペース・オペラに近いものと思う。これを「オペラ」と感じないのは、描こうとしている世界の大きさ等によってそう感じる。
私なりに(1巻しか読まずに)この小説を短く表現すると、『未来の宇宙を舞台として、群れとしての人間の愚かさを描く小説』である。
現在の国内外の政治状況とも重ね合わせて考えたくなるような、たいへん興味深い小説であるが、私の趣味「遠くへ行くこと」にはそぐわないため、一旦ここで打ち切りとする。と言っては見るが、読みやすくもあり、他の読みたい本が切れた時のバックアップとしては非常に貴重である。
捜査・浴槽で発見された手記 スタニスワフ・レム
まずは「捜査」から読み始める。早川文庫で一度読んでいるが、この作品はなかなか面白いのだ。
そもそも、ポーランドのSF作家がなぜスコットランドヤードを舞台に推理小説(風のもの)を書かねばならなかったのか。
以下、例に寄って、言葉遣いについて考えさせられたもの。
p-29 湿気が飽満した → 湿気が充満した の方が一般的な表現か?
p-31 「連れのいない、赤い鍔付き帽を被った女性が、蝋のような微笑みを浮かべながら舞踏会用ドレスを披露している、マネキン人形たちを眺めていた。」は悪文だと思う。「女性が・・・眺めていた」という主述関係が非常に読み取りにくい。「披露している、マネキン人形」と「、」で切っているのも良くない。「女性が・・微笑みを浮かべながら」という解釈を一旦してしまう。
「蝋のような微笑みを浮かべながら舞踏会用ドレスを披露しているマネキン人形たちを、赤い鍔付き帽を被った女性がひとりで眺めていた。」くらいが普通の表現ではないか。
あるいは、「マネキン人形たちが蝋のような微笑みを浮かべて舞踏会用ドレスを披露しているのを、赤い鍔付き帽を被った女性がひとりで眺めていた。」など。
「ひとりで」ではなく「連れがいない」としたいならば、「赤い鍔付き帽を被った女性が連れもなく眺めていた。」とするのも一案。
レム自身の作文がいささか冗長で難解なのはそのとおりだが、ここまで読みにくい日本語にすることはないと、私は思う。
p-35 「もう着いたか。それはよかった。ついてきてください」
丁寧語と常体が並ぶと、日本人読者としては奇異に感じる。突然違う相手に向かって話しかけているか、あるいは、聞き手との関係が突然変化したか(変装を解く二十面相とか)。
青年茂吉 北杜夫
読み始めた。北杜夫にとって最初に憧れた文学者が父斉藤茂吉であったとは。彼は長く、トーマス・マンへのあこがれを語っており、そのことに嘘はないと思うが、同じように父へのあこがれもあったのだろう。親族であったからとて良い伝記・評伝が描けるとは限らないが、長く文学に携わってきた北杜夫ならではの視点もあり、面白く読めている。
鉄道ピクトリアル オハ35系特集
戦前・戦後に渡って製造された客車。様々な形態・様々な改造がなされており、興味深い。
客車列車を見に、大井川鐵道に訪れたいものである。
●雑感
林臥園漂舟という号を見かける。
フィリピンのリンガエンと縁がありそうに思うが、昭和3年=1928年(以前)から名乗っているようなので、まだこの地域と日本の縁は薄いように思われる。てっきり、太平洋戦争中リンガエン湾で乗っていた船を沈められ、小舟で漂流した・・・と想像したのだが、年代が合わない。
チェルシー終売の噂。
明治(製菓)が販売している飴チェルシー。だが、私は英国産だったことを覚えている。「バタースカッチ」は本当に油っこくてベタベタしていた。とても普通には食べられないほどくどかった(でも美味しかった)。
明治製菓が売るようになった時、「こんなさっぱりしちまった」と思った。まあ、不味くなったということではないが、当たり前の丸い味になったのは少々残念だった。
一方、ダイジェスティヴビスケットを明治が売るようになった時は、「不味い」と思った。
なんとなう、同じ材料を揃えられないのに、形式的に同じレシピを適用してしまった体であるように感じた。確かに、全粒粉に塩を入れたクッキーにチョコレートをかければこんな味になるが、本物はもっと一体感があったよな、何考えているんだ明治製菓、試作品食べたのか明治製菓、と思った。
明治(製菓)のチョコレートは本当に上質で美味しいと思うが、ビスケットなどの相手とどうするか、はまた別問題なのかと思った。
そういう点では、チョコレートそのものは大したことないが、マシュマロとの合体で印象を残す森永エンゼルパイの方が完成度がずっと高い。(でも、エゼルパイも一時はマシュマロ抜きになったりして、不味くなったことがある。試作品食べたのか森永・・・)。
ホットプレートにチーズ(融けないやつ)を載せて焼くと、おいしい。
上はとろとろ、下はかりかりになるまで我慢する。
フランスパンで受けても、茹でじゃがいもと食べてもその他モロモロなんでもよろしい。
焼肉のついでに隅っこで試せば楽しいであろう。
先日、電車を降りる時、ドア窓に写った女性の足がとても小さく見えた。
思わず振り返って見てしまった。
座っているママさんの膝に娘さんが頭を寄せて寝ていた。お二人の上着が同色だったので、お子さんの小さい足が、お母さんの足と見えていたのだった。
(急に振り返ってごめんなさい)。
先般、ある大きな駅で、外国の方にコインロッカーの在処を尋ねられた。その場にあった案内板を見て、「あっち」とお知らせしたけれど、工事の多い駅とて本当にあったかどうか確信がない。わからんちんは人にものを教えてはイカン、と反省。
先日、停車中の電車内で、何かモーターが回るような音が聞こえてきた。
昔の電車は、空気圧縮機が運転とは関係なく突然周りだし、突然止まったりしたので、そういうものかと思ったが、電車が発車した後も止まるようすがない。
次の駅で乗降があり、音源の位置が私の正面から右前に移動したことが判った。その方向を見るに、坊やを抱いたパパさんのリュックが音源である。
パパさんにそれを申し上げると、いささか思い当たる節がなさそうであったが、ママさんが「プラレール!」と言ってリュックを開き、走行しようと足掻いている新幹線を取り出し、スイッチを切った。
一件落着。御礼まで言って頂いたけれど、私は音源が判っただけで十分嬉しかった。
(こんなことは迷惑のうちに入らないので、ママさんパパさんは一切気にする必要はありません)。
電車の中で、ずっと携帯電話を耳に当てているご婦人あり。結局三十分以上、降車するまでそうしていた。
うるさくもあり、謎でもあり、気になった。ひとこと言うべきか考えてしまうのも煩わしかった。
かすかに聞こえる音声から「意味」を汲み取ろうと脳が空転するとイライラしますな。
あーゆーのはアカン。無神経な行動に慣れてしまった方なのであろう。
National Arab Orchestra の演奏
https://www.youtube.com/watch?v=piNFUb2Suv4
どうやら、聴衆みなが知っている曲を弾いているらしい。なんとなうテレビドラマの主題歌や流行した歌ではないかと思ったりする。そしてまた、多くは西洋楽器だが、アラブ楽器も相応数入っている。我々の「歌謡曲」「演歌」と同じように、民族性と商業性から成り立った音楽なのだろうか。
西洋楽器の人たちは、どういう音楽教育を受けているのだろう。アラブ音楽の教本があるのなら(読める文字で書かれているなら)読みたい。や、GoogleLenzで翻訳までしてくれる世の中なのだから、「読める文字」の範囲は広げて考えてもよいのか?云々
Nagoya Shostakovich Orchestra なるものを発見。
名古屋ブルックナー管弦楽団もあり、名古屋マーラー音楽祭で、アマチュア・オーケストラが分担して全交響曲演奏をしたり、名古屋の音楽家は熱い!
非常に野暮なことを言うと、日本で数少ない儲かっている企業であるトヨタ自動車(と系列企業)が存在するがゆえに、多くの人々が愛知県に集まっており、その中にオーケストラで音楽ができる人間が相応数いる、ということであろう。トヨタが儲かれば、系列も儲かり、周辺の金融・保険、不動産、建築、食品、流通販売なども潤う。そこにもオーケストラで音楽ができる人間が相応数集まっている。ということであろう。
さらに付け加えるべきなのは、徳川宗春以来の芸事奨励に起源を持つのか、名古屋は芸事が盛んであり、鈴木ヴァイオリン(製造および教育)の拠点でもあって、ヴァイオリン奏者の層が厚いこともあるだろう。
さらに突き詰めると、愛知県あたりはアルコール分解酵素の能力が低いらしく、それ故、酒など飲まず、お茶・お花その他芸事に真面目に取り組む気風がある、というのも付け加えたい。
ついでに、愛知県立岡崎高校が学業優秀である、というのもトヨタが儲かっており、それによって、社員・関連会社・取引先に優秀な人材が集まり、その子弟の進学先になっているからだと、私は解釈している(教員がさほど優秀ということではないだろう、と解釈している)。
偶々、「ファイアーストーム」について興味がありWikipediaを覗いた。
「火災旋風」は恐ろしいが「ストーム(学生生活)」は北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」で見たやつで、こちらに興味がある。
一橋・津田塾のそれは有名だが、少なくとも近年まで門を飛び越えていたとは懐古主義者としては欣快至極である。
https://pg.tsuda.ac.jp/visiting/hitotsudashi.html
『Big Two-hearted River』
ヘミングウェイの短編。川原にテントを張り、鱒を釣り、釣った鱒をフライパンで焼いて食べる。その程度のお話で何の事件もないけれど、空漠とした主人公の心情がそこはかとなく知れ、心に残る作品である。
「心がふたつある」のか、「心臓がふたつある」のか、翻訳には大変悩ましいであろう。おそらくは両義的であり、固有名詞でもあるらしいのでさらに。
ともあれ、「ふたつある心」とは何か、大変気になるが、それらしい描写は作品中になかったと記憶する。
おしもん・おしもち
「おしもん」は、米粉を熱湯で練って型にはめ、取り出したものに色粉をつけて彩る、桃の節句のお雛様に供えられる郷土菓子である。
(農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oshimon_aichi.html)
小学校に上がるか上がらぬかの頃、友人宅で、「おしもち」作りを手伝わせてもらった。練った米粉を型にはめ、紅と緑を塗る。蒸した後に、少し炙って砂糖醤油を塗って食べさせてもらったような記憶がある。
思えば、地域のことを何も知らない私達家族を慮って、そうした風習や行事を教えて下さったのだと思う。こうした暖かい人々に囲まれて、私の鳴海生活は本当に楽しかった。
蕎麦
蕎麦は食べて当たり前で、好きとか嫌いというものではない。この点、米の飯と同じだと思ってきた。
とは言え、名古屋で長く暮らし、うどん屋はあっても蕎麦屋は乏しい。両親はうどん屋で蕎麦を頼み続け、挙句はうどん屋が「そばつゆを東京風に寄せてみたのですが、食べて頂けますか」と言わしめるほど、鞏固な蕎麦派であった。うどんは風邪を引いた時、鍋物の〆に食べることはあっても、日常の食べ物ではない。それが両親の信念であった。
私は、このうどん屋さんで、うどんを食べるようになったのだが、両親とともに訪れてうどんを頼むと、母は「本当にうどんで良いの」「本当にうどんを食べるの」と三度問い、私がうどんを食べていると「本当にうどんを食べるのね」と感嘆していた。
徹底した蕎麦食い、であった。
私も週に一度・二度蕎麦を食べないと落ち着かない。だが、蕎麦好きか、と言われるとそうも思わない。食べ習わしているだけである。それに、両親もそうであったけれど、高級蕎麦店を探して行こうという気があまりない。東京の下町にある町の蕎麦屋で「冷やしたぬき蕎麦」なんかを食べるのが良く
、目くじら立てて至高の蕎麦を求めるというのは性に合わないのである。
コンピュータの値段は大層上がった。
貧しくなりつつある日本において、今後、さらに中古PCの利用が進むのだろうなあ、と予想。
昨年久しぶりにUbuntu再インストールをしたが、以前使っていたHPマシンが壊れたためである。もう10年近く使っていたPCなので、誠に仕方がない。
動作しなくなる直前、画面表示が崩れるようになった。デジタルで崩れる感じである。その後、全く起動しなくなった。箱を開けると、コンデンサーがひとつ爆ぜていた。失われて困るのはHDDにあるデータであり、それ以外は壊れても仕方がないと思っているので、コンデンサーが壊れるだけで済ませたPCには感謝しかない。
これからはOS代・ソフト代をケチってUbuntu(Linux)という人が増えるかもしれない。
まつや とり野菜みそ
https://www.toriyasaimiso.jp/special/
漫画家東山アキ子氏が宮崎県出身でありながら、金沢の鍋用調味料「とり野菜みそ」に取り憑かれた経緯と、奇な縁に基づいて宣伝に関わるようになったかの、楽しいお話。
ネタバレはよろしくないが、水に材料を入れて、水から煮る、というのは盲点であった。説明書をよく読まねば。
雪崩からの生還
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6513988.html
貴重な証言。10人中9人までが雪崩に埋まりつつも、よくぞ全員ご無事であった。また、生々しくも貴重な証言を残して下さった。
私は山に登らないし、まして雪山には行かない。とは言え、人間いつなにがあるかわからぬものだ。こういうものは心して読んでおこう。
自由民主党の皆さん、悪質にしてグダグダだね。(野党が素晴らしいとも言っていない)。
この悪質かつグダグダな様子を見ていると、次なるテロリズムが生じないか心配になる。
議員の皆さんは政局だけしか考えていないようなので、そういう世間の雰囲気なりに触れ、世間のことを考える能力・習慣は失って久しいのであろう。
私はほとんど中小企業にしか居たことがないけれど、小さい会社の良いところは「内輪揉めしている場合ではない」ことが身に沁みて判っている人が多いことだろう。大きくなるにつれ、安穏として「会社は潰れない」前提でものを考える人が増える。まあ、近年の「経営者目線でものを考えよ」と現場に無理無体押し付けるのもどうかと思うが、自民党(に限らずあらゆる政党)の皆さんは、なぜ政治家という商売があるのかよく考えるべきではないかな。
Culture eats strategy for breakfast.文化の前に戦略など無力だ。そしてまた、「鯛は頭から腐る」。
「国」もまさしくそのとおりで、現在の与党諸氏は、裏金文化が蔓延る不道理・不道徳の社会を勢力的に作ろうとしているようにしか見えない。
それは与党周辺の局部最適にはなるかもしれないが、全体不最適なのは間違いないし、負ける戦争をするような国、戦争をして負ける国になってしまう可能性がある。
魚魚子(ななこ)
彫金の方法だそうだ。魚卵型なので、さかなの子という語を用いるらしい。
魚魚子について調べていたらNIWAKAという高級ブランドのページに行き当たった。どの商品も素晴らしい意匠であるが、お値段の方も素晴らしい。こんな高価なものを誰が買うのだろう、と不思議極まりない。私など、数千円ばかりのネクタイピンを買うかどうかで随分逡巡したけれど、庶民たる者はかくの如し。
(後で思い出したこと。ユダヤ人は常に逃げることを考えねばならず、そのため、持って逃げられる小さい高価なものを持つようにしている、という巷説。私の如きチェロ弾きから見ると、ユダヤ人はヴァイオリニストが主で、チェリストがわずかなのもこれで無意味に説明できる)。
昔、「乱流モデル」を学んで思ったこと
乱流モデルというからには、乱流の計算ができると思ったら、違ってた。乱流を考慮した計算ができるということだった。
つまり、乱流(渦)がどのように流れているかが分かるのではなく、乱流がどの程度できているかの計算ができるのだった。
極端な例を出すと、空気粒子をひと粒ひと粒すべて計算できる場合、「温度」は考えてなくて良い。
「温度」は、空気塊の中でランダムに動く粒子の平均的な速度(エネルギー)の指標であるから、全粒子の運動が判っているなら、温度のような雑な指標は全粒子の運動からちょいと計算すれば良く、わざわざそんなマクロ指標を入れる必要はない。
で、ここで言っている「乱流」は、実は計算モデルの格子では表現できないミクロな現象だが、観測される「温度」に比べるとマクロな現象であって、それまでのモデルでは表現されていなかったもの、である。
なので、温度項と同じ用に、乱流項がひとつ増え、流れから乱流、乱流から温度という段階でエネルギーが流れてゆくのを経験式で表現するてふものなのである。
(ただしい理解であるか知らんけど。それに当時読んだ教科書のこの辺りの表現が非常にわかりにくかったので、長い間考えた結果がこれである。まあ、乱流に関係する数値計算をしたこともないし、金輪際することもないだろう。一応気になるので書いておく)。
ベリーダンスを漢語で「肚皮舞」というらしい。
ベリーがお腹であり、皮膚を晒して踊るのだから、ということか。
この字面、肝が冷える気がする(感じ方は人それぞれ)。
富士通のパーソナルコンピュターの宣伝。
「神PC」などと言って、外国の人々を使っているが、なんだかセンス悪い。
『神の名を濫りに称ふるべからず』という心持ちはないのだろうか。あるいは、宗教的なもの言いは、人によっては大きな不快感を与えることを知らないのだろうか。
貧すれば鈍すというか、何か形振り構わずものを売ろうとして却って客が逃げるようなことをしていないか。
まあ、今の若い衆と老いた私で考え方・感じ方は同じではなかろうから、あくまでも、老インテリの戯れ言にしか過ぎないのであえろう。
昔(昭和60年以前)、英語の「Congratulations」はおおむね「おめでとう」を意味するが、結婚する女性に使ってはいけない、男性には良い、と習った。
女性に対しては「うまいことやったね」と言うからだというが、「うまいこと」をやって何が悪いのやらとか、女性にそういう含意が不味いのに、男性には不味くないのはなぜか、よく分からなかったし、今も分からない。
まあ、近年ではどの性に使っても良いらしいので、英語も改良されたということであろう。
クァルテット・オチェーアノを聴きにゆく。
モーツァルト、ボッケリーニ、ライネッケの弦楽四重奏。
「アマチュアにはメンデルスゾーンは難しいかもしれないが、ライネッケならなんとかなるのでは」(大意)というご発言があり、私は前半には同意しますが、後半はあまり賛同できません。アマチュア奏者といっても、演奏能力に大きな幅があるので、「非常に腕の立つアマチュア奏者なら」と限定するのであれば、渋々賛同いたします(莞爾)。
ボッケリーニとライネッケは初めて聞くので面白かった。普段親しんでいるベートヴェンなどと違って、も少しラフに書かれているので、なんとなう(演奏能力の高い)高校生が午後の音楽室で一生懸命弾いていると面白いな、と思った。
モーツァルトを聴いていると、自分がアルバン・ベルクSQの演奏を基盤にしていることに気づいた。若い頃、最初に買ったCDがABQで、以来(大変失礼ながら)さほど好みとも思わず聴き続けているので、まあそういうものなのだが。古楽方面のモーツァルトのCDを聴き直そう、と強く思った。
以前、モザイクSQのCDを探したが、随分と値が高かったので、諦めた記憶がある。
で、知人の演奏会で、ハイドン Op.20-4、ベートーヴェン Op.18-3、メンデルスゾーンの弦楽四重奏を聴く。
3団体による3曲の演奏(奏者の一部は2曲乗り)。それぞれの団体の個性があって面白かった。「私がそうするか」というのとは隔たりがあるが、他人がそれをしてくれるのは大変よろしい。そうしたことも含めて楽しめた。
さらに知人の演奏会。キュイ、ピアソラ(ブエノスアイレスの四季)、ヴィヴァルディの冬・春。
変わった変奏の曲。どうしてもフルート、ヴァイオリン、ピアノ(鍵盤楽器)がいるのを見ると、チェロを入れてトリオ・ソナタができるやん、と思ってしまう。トリオ・ソナタは通奏低音が1人でも2人でも3人でも「1声部」扱いなので、3声部で「トリオ」。
こんにゃく座「神々の首都」
こんにゃく座のいわば「日本シリーズ」(私がそう言っているだけだが)。「遠野物語」もそうだったけれど、日本精神史とでも言うべきもの(日本製紳士と変化しては欲しくなかった)。
今回は、ラフカディオ・ハーンの個人史に寄っていたように思う。しかし、個人個人を掘り下げることで却って大きな枠組みを見通せるのかも知れない。ともあれ、このシリーズの展開は楽しみだ。
オペラを演奏するのに、外来曲を取り上げるのも、それはそれで楽しいことであるし、それを(短兵急ではなく)日本人として解釈し作り上げていくこともした方が良いと思っているが、一方で日本の国民歌劇もぜひ有って欲しいものである。こんにゃく座の「日本シリーズ」は海外でこそ取り上げて頂きたい。
(そういう意味では、こんにゃく座の「魔笛」や「虫の生活」は海外からのオペラ受容シリーズとも言え、これら選曲の妙を味わうのも楽しい)。
しんよんひさんの絵を見る。
不思議な夢のような色使い。
私がその名を知らない色がこんなにもたくさんあるなんて。
北海道を舞台とする(と称する)アニメーションを少し見る。
家の建てようをちらりと見たが、さほど北海道風とも思われない。地域漫画には期待するところがあるのだが。
私が知っている時代より雪が減ったので、家の建てようが変わった、というのもあるやも知れず。
一方で、春も近いのにふんわりした雪があるというのも違和感。ひと冬積もって密な雪、溶けかけた雪があるべきではないかな。
まあ、そんなことはどうでもよろしいのであろう。
己の練習録音を聴く。
もうちっとカルテット向きの風通しの良い音質を作ろう。私は強硬に音を通す方が得意らしい(音程にもよるが)。
一日三回これを唱えないと治らないね、きっと。
で、練習で少し試す。まあ、悪い方向ではなさそう。でも、ボロボロ落ちている(音づくりとは別な要因で)。これはアカン。
統計とグラフィックスのためのプログラム言語Rを使っている。特にdplyrライブラリは強力。あまりに強力で脳味噌が溶ける。
SQLとほぼ同じ構文で、Unixコマンドと同様パイプで繋げられて快適この上ない。さらに、joinは、inner, left, right だけでなく、outer も使えるし、さらにさらに anti_join まである(MS-Accessのjoinが最初の3つしか使えないことを考えるとまさに天国)。
プログラミング言語の中でSQL(っぽい)フィルターを重ねて使える楽しさよ。
SQLは強力なのだが、どうしても手続き型プログラム言語と組み合わせて使いたい場合から逃れられない。故に、Rでdplyrが最も「手に馴染む」。
手に馴染む、という感覚は、プログラム言語としての良さを表す指標として非常に重要だと思う。主観的なものに過ぎず、万人共通ではないけれど。
銀河英雄伝説(アニメ)を見る。
どうやら、この物語の主題は人間の愚かさである、と思った。
日本のような敗戦国で描かれる戦争・軍事はすべからくそうであるべきかも知れぬ。
福沢諭吉がお札から抜けるけれど、北里柴三郎が入る。
なんとなう、「慶應人脈」を思う。
この末流に属する人々の評判は最近よろしくないようだ。
この学校の立派な人達を見ていると「実学」志向で、世の中に立とうとしていて尊敬に値すると思うが、また別な人達を見ると、世の中から自分が利益を得ることばかり考えているように思われる。
渋沢栄一が一橋大学を作り、津田梅子が津田塾を作ったとすると、両者が並び立つ国立市の皆さんはなかなかお喜びであろうか。
バフチサライ(バフチェサライ)は黒海近くクリミア半島にあったのを初めて知った。
https://note.com/pencdiraht/n/n18c6ad225bff
バレエ「バフチサライの泉」でこの地名を知ったが、なんとなう、もっとモンゴルに近い土地のことと思っていた。
バレエを知ったのは、楽器の師匠から「こういうバレエの伴奏をするからチケットを上げる」という奴で、バレエはあまり見ず、楽器の演奏ばかり見て聴いていた。なかなか目立つチェロの独奏があったことを覚えている。
同窓会で19人集合。45人のクラスだったので、約半分。なかなか優秀ではないか。それだけ時間にもお金にも余裕がある世代になったということだろう。
それかあらぬか、旧知の人々と出かけようという夢を見た。何故かボロボロの軽トラック。
タイヤ交換が必要とて、タイヤを外すが、後先考えずにタイヤを外したがために、どうやって取り付けるべきか分からない。取り付け用のアルミ板を見て考える、というところで目が覚めた。乗用車のタイヤ交換ならしたことがあるが、どう考えても夢で見た構造はおかしい。
そして、なぜに軽トラックだったのか。愛読する漫画「クッキング・パパ」に軽バンで福岡・鹿児島を(楽しく)往復する話があり、そこからの類推だったのだろうか。漫画では様々な「事件」の後、「田中ちん」と「夢子さん」の幸福な将来を予感させつつ終わる。どんな私の潜在意識が関わるのだろう。
サブマリン707を見た。
淡水域に入ると浮力が不足して沈降してしまう、という描写はあり得るように思うが、密度が小さくて浮力が不足するということは、圧力も小さいのだから、圧力計が割れる描写はおかしいのではないか。あくまでも沈降はしているが、淡水域にいる限り圧力は小さく、淡水域から出て海水域に入ったところで、圧力上昇となりそうに思う。ともあれ、淡水が海底から上昇している以外には深海に淡水域は生成しているとは考えにくい。
銀座を訪れる機会があったので、中原亜梨沙氏の個展があるはずだ、と思いきや。3/30開始だった。でも、きくちちきさんの個展を見られたので、私の個展欲はとりあえず満たされた。今の私が銀座で用事があるのは、教文館・泰明庵・熊本物産館くらいだろうか。もとより寄るべき場所は乏しかったけれど。
札幌ひょうたん横丁がなくなるとのこと。出張時に偶々訪れた「倶知安」は、大変味わい深い店だった。日曜夜「明日休みだから今あるものを出す。それでおしまい」。親切で気風の良いおカミさんがお魚や煮物を出して下さって、ビールも飲んで4人で数千円みたいな。もちろんお腹いっぱいにならないが、近くに多くの店があり、これはまた非常に楽しかった。
名古屋市杁中(いりなか)にあったイタリア料理店マンジャーレ閉店
https://sho-wan.com/20231106-mangiare-irinaka-close/
なんでも終わりがあるものだ。40年営業とのこと。私が行きだしたのは開店すぐだったのだな。たしかペスカトーレが580円だったように思う。
土曜の昼などは、近所の女子校の生徒が多く、私がごとき男性には肩身が狭いこともあった。
フンギ、プロシュート、アラビアータ、ベスビオなど、ここで初めて知ったメニューもたくさんある。フライパンを滑らかに操るマスターの姿ももう見られないのか。時代は変わり、私は取り残されているが、いつか私も時とともに流れ去るのであろう。
さらば、マンジャーレ。ありがとう、マンジャーレ。
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