読書の記録(2024年10月)
ドイツロマン派怪奇幻想傑作集 ホフマン、ティーク他 遠山 明子
E.T.A.ホフマンの著作読まざるべからず。思えば、角川の「牡猫ムル」が復刊された時からもう三十年位読んでいるのか。
こうした書物を翻訳出版して頂けるのは本当にありがたい。訳も行き届いたものである。
処世詩集 ケストナー
諧謔詩みたいなのがなかなかおもしろい。
長良川 豊田譲
戦争捕虜の戦後を描いたおそらくは自伝的小説。
東海地方・東京近辺など私が知っている地名が頻出するのに驚く。単なる偶然にしか過ぎないが。それが証拠に捕虜時代の地名はほとんどわからぬ。
およそ1年に1編ずつ書かれた10本の小説集でもあるために、各編の構成が似ている。現在・戦時/捕虜時代の回想・現在となる。これが繰り返されるため、全体としての頂点があるというよりは各編で小さな頂点を持つことになる。
ともあれ、私自身が最近興味を持っている「戦闘行為以外の戦争」「戦時以外の戦争(の影響を受けた生活・人生)」に関する読書と言える。
小説のかたちをとっているので、どこまでが事実であるか明確ではないが、この書で著者が描こうとしたのは「戦争に影響を受けた人々の戦後の人生」であろうと感じる。著者自身が重きをなすのは当然だが、様々なかたちで登場する女性たちもまた「戦争」に大きな影響を受けている。
私にとっては「虜人日記」、「真珠湾収容所の捕虜たち」、「極光のかげに」、「望みなきにあらず」(これのみ小説)に連なる書である。
また、「海上護衛戦」や「機雷」(小説)も「戦闘行為以外の戦争」という興味では本書とも繋がる。
シベリヤ物語 長谷川四郎
詩のような淡い水彩画のようなシベリア抑留譚。
高杉一郎「極光のかげに」と両面を読むことができたのが良かった。
長谷川は兵士として労働こそ課されているものの、「吊し上げ」からは距離がある。
一方、高杉は軍国主義者では全くないし、軍隊において利得があったとも思われないが、戦前の知識階級として吊し上げられる側の立場である。
同じ日本人同士憎み合わんでも良いのに、と(80年後の無責任な立場からは)思う。まあ、同じ地球人として憎み合わんでも・・・と日々思っておるのであるが。
長谷川四郎は、「デルスウ・ウザーラ」の翻訳者でもあった。デルスウ翻訳の影にシベリア抑留生活があったかと思うと感慨深い。
これも捕虜譚であって「戦闘行為以外の戦争」をテーマとした書である。
写本で楽しむ奇妙な中世ヨーロッパ: 写本が教えてくれる
少しめくり見る。まあまあ、面白い。が、話者が筆者なのか登場人物なのか、歴史的解釈なのか現代人の思いつきなのか、少々戸惑って読みづらい。
また、様々な出典が最後にまとめられているけれど、どの絵がどの出典なのかは判らない。まあ、気軽に読んで、気軽に眺めて、それで終わるべき本なのだろう。金沢百枝先生の如く、楽しくも学びがあるてふものでもない。
クイックオバケの動かない漫画 クイックオバケ
たいへん素敵だ。思った以上にじっくり読めたし、何度も読むであろう本。
ごはんが楽しみ 井田千秋
これまたたいへん素敵だ。筆者の自画像と、イメージ上の「女性」の関係がよくわからなくなって少し戸惑うけれど。
まあ、深くそこを考えるべきではないのだろう。中華料理について考えていると、「中華娘」が脳内で生成される、と考えておこう。
女ひとり、インドのヒマラヤでバイクに乗る。 里中はるか
人間なぜ旅に出るかを考えさせられる。まあ、私は私の無茶旅行があるし、里中氏には氏の無茶旅行がある。
それも人間の本質なのだろう。
1946年 文学的考察
古く読みにくい本(私の学浅きがため)。
これもまた、上述のように「戦闘行為以外の戦争」を見るために読んでいるとも言えよう。
よみがえる貨物列車 吉岡心平
戦時の項にさらりと、「裏日本縦貫線での石炭輸送を強化するため、除雪車(多数)を製造」の旨書かれている。
「海上護衛戦」(大井篤)や「暁の宇品」(堀川惠子)を読んだ目で見ると、重要な指摘。
とは言え、米軍は、機雷と潜水艦等によって海上輸送を封じたものの、鉄道施設に対する集中的な攻撃は避けていたようにも思う。
私が聞いたことがある日本側の想定としては、浜名湖河口鉄橋への艦砲射撃を危惧して二俣線を迂回のために作ったことであるが、浜名湖鉄橋への艦砲射撃は結局実施されていない。工業都市として浜松市やいわき市への艦砲射撃は聞いたことがあるけれど。
まあ、『敵』が何をしてくるか判らないのが、戦争であるし、多くの策が無駄になるのが、敵でも味方でも多くなるに決まっている。
ミヒャエル・アイヴァスの「もうひとつの街」文庫化。
あれれ。単行本を買って読んでいないよ。他にもこういうのがあった気がする。まあ仕方がないね。
ボワロー=ナルスジャックのルパンが読みたい。榊原訳3冊は非常に面白かった。後2作がなぜ翻訳出版されれぬのか。。。
(榊原先生30年前にお亡くなりなのね)。
ルパン最後の恋も出たのに。。。
南洋一郎先生は、二次創作をやらかしがちなので、創作でないのを読ませて頂きたい。
Wikipediaの「モンテ・クリスト伯」の解説。詳しすぎる。
ほぼネタバレとも言えるが、これだけを読んで頭に入るような物語ではないので、結局原文を読む必要があるに違いない(などと戯言を)。
ともあれ、モデルとなった実話があるとは驚き。連続毒殺事件も全体の中で座りがいささか悪い部分があると思っていたが、これまた実話だったとは。
以前、「ダルタニャンの回想録」という、デュマのネタになった書(これ自体は偽書らしいが)を読んだことがあるが、やはりデュマあってのダルタニャン物語であると強く感じたものだった。当然、モンテ・クリスト伯もデュマあっての卓越性であろうと思う。
これから買おうの本:
木山捷平小説集「駄目も目である」ちくま文庫(買いました。)
迷宮歴史倶楽部 戦時下日本の事物画報 モリナガ・ヨウ
誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論 松本俊彦
読書子たるもの一度はレクラム文庫を読みたいものだ(断言)
吾輩が万人にお薦めするレクラム文庫はこれだ!ドイツ語の習熟度は問わないぞ。
https://www.reclam.de/detail/978-3-15-011295-3/plauen__e__o_/Vater_und_Sohn
(前にも書いたかも)。
●雑感
職場で「コーチング」の研修を受けた。
自立した社員を育てるべき、というお話だった。
そう言えば、そういうことを昔から考えていたと思う。
「自立したプレーヤー」(http://folia.txt-nifty.com/musik/2014/04/post-87a6.html)
まあ、自分自身がパートリーダーであった時、後輩たちが「脱走」することが頻々と起こっていた。そこから反省するところが多かったから、とも言えよう。それにつけても、百人規模の人間が演奏会という大プロジェクトに向かって動くオーケストラから学ぶものの多さよ。もちろん、学ばない人もいるだろうけれど、私の場合は、仲間に恵まれすぎたのだろう。彼・彼女らのその後の活躍を見るにつけても、そこから学ばぬも愚かなり。そういうことだろう。
近所のチェロ教室のおさらい会を聴きに行った。とても勉強になった。やる気出る!。
この教室は、初心者・レイトスターターが多くて、いわゆる「うまい」人たちではない。
でね。彼らの苦手なことは、結局のところ、私だってツラいところなわけですよ。それを長年の蓄積である種「ゴマカシている」のですよ。
例えば、移弦して、ポジション移動して、音が途切れないわけないんです。音切れるんです。でも、前の音の消え残りと後の音の出現を曲線的に包絡できれば、聴者は繋がっている意味を聴いてくれるんです。物理は切れていても、意味は繋がる。そなな感じでござる。
というようなことをずっと考えていました。
でもね、自分が相変わらず苦手なのは、自分なりの音量・自分なりのテンポで弾くことかも。これができないから、独奏ができない。もっと修行せねばなあ。
ともあれ、自分は独学時代の長い野良奏者なので、こういう場に行っても、何かヒントがないかといちいち意地汚い。
ふだん散歩していて、地面に木の実が落ちていると、どこから落ちたのかと頭上を見上げ、実が生っている木を見ると、実が落ちていないかと地面を見る。そういう人間なんだと最近気づきました。
Ubuntu 22.04 LTS から Ubuntu 24.04 LTS へのアップグレード。
当面見送ろう。ヘタレなので。おそらく、22系が使えなくなる頃、新しいHDDを買って(PC本体も新しい中古かも知れぬ)、そこに24系をインストールしそうな気がする。
昔、ある地方都市で宿が一杯だった。
(まだ、スマホもない時代)
カプセルホテルに電話をかけ、「最後の2部屋」が空いているとのことだった。
ひとつは照明が点かず、ひとつはテレビが映らないとのこと。
もう夜も遅く、屋根の下で寝られれば良かったので、迷わず後者を選んだ。
また、昔々ある地方都市で宿泊前に(学生としては)身に過ぎた散財をし、宿代が五十円足りなかった。
(まだ、カードを持っていなかった時代)
番台の爺さんは「五十円くらい不足しても構わない」と言うばかりでなく「晩飯を食えなかったのなら、カップヌードルとお湯くらいやるぞ」と仰る。
ビールを飲んだ身には誠に申し訳ないお言葉だった。本当にありがとう。爺さん。
あれからもう三十年。俺も機会があれば若者に親切にしよう。
(と、宿屋の話から譲られる話に繋がり・・・)
学生時代、試験の打ち上げで、大学の近所の焼肉屋に行った。
カウンター10席に小上がり4人くらいの小さな個人店。
小上がりに中年男性が一人いた。
我々が15人ばかりで、椅子の数を数えながら入店を迷っているのを見て、すっと立ち上がり、譲って下さった。
お店の方のやりとりを見るに、どうやら常連さんのようだった。
「また来るよ」というような挨拶をして店を出ていった。もちろん、我々一同感謝の言葉でお見送りした。
も少し歳長けてから大久保の韓国料理屋でも同じようなことがあったっけ。
おそらくはコリアンのおじさんが同じようにたったひとつのテーブル席でよろしくやっていて、我々が十人ほどで押しかけて。
同じように快く譲って下さった。
格好良いてのはこういうことだね。名も知れぬ、顔も覚えていないけれど、自分もあんな風にならねばと思う。
(そもそも常連になるほど通っている店があまりないけれど)。
さらに、大船の鎌倉芸術館で演奏した後、打ち上げまで少し間があるからとチェロ奏者一同で前祝いをすることにした。
駅近くの立ち飲み屋さんを覗いたところ、二三人おられた常連が、やはり同じように、さっと譲って下さった。
楽器を持ってうろつくのは辛いし、楽器を店に持ち込むのもなかなか面倒なので、このように入りやすい店で譲っていただけたのは本当にありがたかった。
もしかすると、いずれの場合でも、我々があまりにもビールを飲みたいような恨めしそうな顔をしていたからかも知れない。
でも、どんな顔をしていても、親切でない人は親切でないからな。親切な方々に改めて感謝するとともに、自分も親切を心がけよう。
以前、「宇宙戦艦ヤマト」の新作を見せてもらった。
軍艦に若い女性がたくさん乗っていて、艦内は明るく小綺麗で、パーティーなどして笑いさざめいている、というところで興ざめしてしまった。
血と鉄の匂いのする昏い昏い艦内には絶望と悲壮にまみれた男性だけ(森雪とアナライザーだけが例外)・・・というのが、私の知る「宇宙戦艦ヤマト」であるので。
新作を見せてくれた人物は、私と同年代だったが、私としては「一体、お前は『戦闘行為』について何を考えてこの何十年かを生きてきたのか」と問いかけたい気持ちであった。
ガンダム映画版を見た時も、「全ての人間が不本意・理不尽・不条理な境遇に陥る戦争、および、そのような戦争をもたらす社会を冷徹に描いた映画で見るのが辛い」と思ったが、多くの愛好者はそこを見ていないように感じる。
レオナルド・ダビンチの母は、カフカス地方出身のチェルケス人奴隷だったとの新説。興味深い。
ニュースで耳にしたのは最近だが、さすがみすず書房は小説「カテリーナの微笑」の刊行を進めているではないか!
https://www.msz.co.jp/book/detail/09728/
安くはないが。安くはないが(円安・物価高を考えると妥当なのだろうとは思いつつ)。
東海道新幹線開通60周年。
義父は開通1番列車の切符がとれなかったので、2番列車の切符で、名古屋・東京を往復したという。
まぎれもなく鉄道ファンだ。だが、結婚した頃の私は鉄道趣味の休眠期でもあり、義父の鉄道趣味は娘(嫁)も知らなかったので、話題にならなかった。
あの頃知っていたのなら話題にも困らなかったものを。
どうやら義父は鉄道雑誌を毎月買ってはいたものの、職場で読んで、職場で回していて、自宅に持って帰らなかったため、家族の知るところにならなかったらしい。
「第二言語の習得」。たしか、この題名の本が、書店のプログラミング言語の棚に誤って並んでいたのを覚えている。
職場の先輩に「プログラム言語は最低5つ覚えよ」と言われたこともあったので、「まずは第二言語か」と思った。
久しぶりにブルーノ・ワルターのマーラーを聴いた。交響曲第一番の第四楽章。オーケストラは、コロンビア交響楽団。アメリカのスタジオ音楽家の寄せ集めとも言われているが、相当に優秀だと感じる(稀に乱れるというか甘っちょろいけれど)。
ドイツロマン派の文学潮流を踏まえたマーラーが聴きたい、と思った。
シェルヘンの交響曲第一番などは、「カロ風」に思えるカリカチュア的場面があり、個性的だが納得できる演奏と感じる。
(とはいえ、シェルヘン風だけが唯一解だとは思っていない)。
カラヤン指揮の「未完成」を聴いてみた。
カラヤンは、避けてこそいないが積極的には聴かない指揮者。私が若かった頃非常に人気があったので、そんなレコードはいつでもどこでも聴けるからという理由で自分では購入しなかった。
凄く豪華で力強い大音量がする。それって、私が思うシューベルトではないなあ、と思う。
構成感も歌い口も相応にシューベルトなんだがなあ。そんなにきっつく押さんでも。寂しさや儚さのないシューベルトは私には不要。(ザ・グレートをどう考えるかはまた別な問題)。
ハンガン女史ノーベル文学賞。最近、現代アジア文学に目覚めつつある私だが、韓国文学に触れたことがない。
吝嗇な私は、しばらく待てば古書店で安く入手できるに違いないと果報は寝て待つ。
狭い経験で述べると、ヤンソギルの小説「タクシードライバー日誌」の硬質な文体、パクサラのルポルタージュ「家(チベ)の歴史を書く」の素直な文章。それぞれに面白かった。今ある積読を多少なりとも片付けて、ハンガン女史を読もう。
日本被団協のノーベル平和賞。めでたい。
長崎がイスラエルを呼ばず、英米がイスラエル側に立ったことへのカウンターとも感じられる。
そしてまた、核廃絶に向けて消極的な「唯一の被爆国」へのカウンターでもあろうか。
犬のシャーロック・ホームズ(アニメ)を少し見た。
宮崎駿が一部の制作に参加していると聞く。また、宮崎は「なぜ犬なのか?」などこの作品を評価していないとも。
確かに「ユルい」。テキトーに作った昔の作品の趣。
鉄道ファンとしては、英国(犬であってもホームズと言うからには英国は英国だろう)の鉄道が米国と混同されているのが辛い。
ストランド誌の挿絵すら見ていないのか、と呆れる。英国の客車はコンパートメント、米国は開放式でオープンデッキ。これが基本なのだが。。。
ネット記事を見ていて「ミックスルーツ」が「ミックスフルーツ」に見えた。
「ライフログ」が「ラフロイグ」(ウィスキー名)に見えたこともある。
また、『カーストとは何か』が『スカートとは何か』に見えた。
真面目な話題なのに、ふざけた読み方をして申し訳ない。
それに比べれば、栄養ドリンクの広告にある「今日も勝抜け」が「今日も腰抜け」に見えたのは罪が軽い。
加えて、「フライング・バットレス」。教会などで外壁を外から支える「飛梁」。パリのノートルダム大聖堂再建記事で初めて見て、「フライング・フォートレス」しか思い出せない。学問薄きものは禍である。
ともあれ、大聖堂再建は大変嬉しい。大聖堂周辺を飛び回るドローンから撮影した動画を見ると、三次元構造がよく理解でき楽しい。
『フランス風』と思しき優美さが構造にも装飾にも溢れているように感じる。
美大の学祭で「火器持ち込み禁止」。
まあ、そりゃそうだが、火器(firearms)を持って一般道歩くだけで警察が飛んでくる・・・。
と言う火器ではないのだろうなあ。「火気厳禁」ということだろう。
韓国の「優雅なインドの人々」。演技が楽しい。こういうの韓国の人は得意そう。韓国コメディーの見すぎによる偏見なのだろうけれど。
https://www.youtube.com/watch?v=TAbAH9y6-Ek
韓国の演奏者のレベルも全般に高い。以前はほんのわづかなトップ奏者だけしか見たことがなかったが、近年は様々な奏者の高いレベルの(ごく自然な)演奏を耳にすることも多い。こうした演奏を楽しむためにハングルを(Google翻訳を通してでも)読めるようにする、という時代になりつつある。
金沢文庫から鎌倉に向かって歩く。この後、さらに鎌倉駅まで歩いた。
途中、眺めの良い公園でお弁当(崎陽軒の赤飯弁当とポケットシウマイ)を食べて、合わせて2時間50分。
https://maps.app.goo.gl/pKvzEehkpLENeD7t8
山道のうち、特に横浜側はメインラインではない道から入ってしまったらしく、しばらくは無人。かつ、草の茂り方が激しい。「草莽」とでも言おうか。横文字では Overgrown だろう。ヤナーチェクの Overgrown Path を思い出そう。
今週の誤字。デリダの解説で「日本語仕様」。正しいのは「日本語使用」。天下の岩波ともあろうものが。。。
ネットオークションで見た古文書。「海軍航空技術廰電気部」。これは「技術廠」だね。古文書(でもないけれど)を売るには相応の知識があったほうが良いが、知識ない人からでも価値を見極めて買う人がいればそれはそれで良い。
明治村(愛知県にある博物館)は、とても素晴らしい場所なのだが、行きにくい。
愛知県内の自動車所有者ならさほどの困難はないのだろうが。
名鉄犬山線から支線を分岐して、蒸気機関車で往復して欲しい(大変身勝手な願望)。
松本俊彦氏の「身近な薬物のはなし」
https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/7714
非常に面白い。
人類が登場する以前からアルコールとはお付き合いがあり、欧州の近代化の影にカフェインがあった。
最初は「昔の人類は薬にヤラれててアホや」と楽しく読んでいたが、現在もなお薬物問題はあると知る。
物理の面白さのひとつはミクロの理論が宇宙全体を総ているところにある。
同じように薬物も個人の行動・嗜好が人類社会と結びついているところがたいへん興味深い。
私自身は路上喫煙・ポイ捨ての問題から煙草に対して否定的ではあるのだが、社会が堅牢性を保つためにも、酒・煙草ていどの薬物とは社会が管理しつつ付き合っていく意義があるとも思っている。水清くして魚住まずとも言い、米国の禁酒法の蹉跌などを顧みてもそう思う。で、今までそうした「薬物」の仲間と思っていなかったカフェインもやはり「薬物」であるし、意図的に摂取している茶・コーヒー・飲料水もあれば、微量に使っている種々薬品もある・・・ということで、社会が真面目に管理する必要がある、と改めて思った。
松本俊彦氏の「誰がために医師はいる・続」
https://magazine.msz.co.jp/series/tagatameniishiwairu-zoku/2/
『トラウマを抱える患者の多くはこの自己裁量権に執着し、それを手放すことを怖れている。』
私がオーケストラで演奏することができず、室内楽を活動の場としているのも、『自己裁量権に執着し、それを手放すことを怖れている』からかも知れない。さて、その原因となる『トラウマ』にも心当たりがないではない。否、心当たりがあるようなものはトラウマではないのかも知れぬ。思い出せる以前の事ども。引越し先の家具の少ない部屋の片隅で壁に触れていたことなど・・・。
映画『私にふさわしいホテル』年末公開とのこと。面白そう。
主演ののんさんも良さそう。この方、表現者・創造者として並々ならぬものをもっているようだ。女優魂というか。そしてまた、喜劇役者でもある。喜劇というのは簡単そうで嫌味なく演じる距離感の難しさがあるように思う。そうしたところもさらりと演じられる凄さがあるのではないかな?
庄野潤三展
http://m-kusunoki.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-e9c8b0.html
行かなかった、行けなかった、知らなかった。
ふだんは、文学者の生活にあまり興味はなく、作品さえ読めればそれで良い、と考えている。
だが、この庄野展では、「かきまぜ」を食べることができたという。このためだけにでも行きたかったと今さら思う。まあ、仕方がないやね。
やしお氏の分析。まことにさなりと思う。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20240613/1718276400
この分析力・文章力はすごいな、と思いきや、文章も職業とされている方であった。
「足がたくさんある黒い犬の絵」は「鎖に繋がれた犬のダイナミズム」。
イタリアの未来派の画家ジャコモ・バッラによって描かれた。
絵には見覚えがあったが、画家の名に覚えがない。
また、ChatGPTに「足がたくさんある黒い犬の絵を描いたのは誰か?」と尋ねても、何度も嘘をつかれる。
「それは嘘です」というと、言い訳しつつ別解を返す。
もしかすると、このやり取りのお陰で「正しい情報」がChatGPT内部に蓄積されたかも知れぬ。
DIC(元大日本インキ)川村記念美術館に行く。来年休館とのことから、駆け込み。
そういう方も多いようで、なかなかの混み具合とも思ったが、施設には余裕があるので、中に入るとさほど混雑しているとは感じなかった。
ピカソ「シルヴェット」、マイヨール「ヴィーナス」が印象的だった。
企業家に縁のある美術館として、大原、静嘉堂(行ったことない)、五島、出光、ホキ、石橋(行ったことない。行こうと思っていた時期に本社で自殺者があり足が向かなかった)、安宅(大阪市立東洋陶磁美術館、行ったことない。立原正秋の小説で読んだ記憶がある)などと思い合わせてみる。
企業は個人の持ち物ではないし、景気などの外因に左右されるから、どうしても不安定にはなってしまうよね。一方で、コレクションの質は「個人の考え方や審美観」に依存するから、現代では企業家が主になるのも理の当然ではある。そんなことはおそらく繰り返し論じられていそうだが、さて。
川村美術館には、四街道駅から折りたたみ自転車で往復した。これはこれで面白かった。
ちょっと暑かったのと、GoogleMapに行き止まりの道を指示されたり、自動車交通量の多い道を通らざるを得なかったりが少々辛かったが、他は楽しかった。
さてさて、千葉のこのあたりは、台地と平地が交互にあって、平地は「谷津田」になっているのがふつう。
駅近くの台地は、「きれいな住宅街」。そこから森の中の坂を下ると、急に谷津田の広がる「昔の田舎」。で台地と平地を交互に上り下りすると、重機置き場・畑・金属リサイクル工場・森・谷津田などが交互に出てくる。まあ、どこにでもある田舎だが、地形と絡んでいるのがちょっとおもしろい。
とは言え、谷津田や畑は相当程度耕作がされずセイタカアワダチソウの天下になりつつありました。そうした場所を通るGoogleMapのお勧めの道は、団栗だらけだったり、竹やぶ化しつつあったり、相当程度荒れていて、ちょっと怖かった。
最終的には、何やら工事のため行き止まり。かなりの時間をかけてもと来た道を戻り国道を経てなんとか美術館にたどり着きました。
好きなカラスウリもたくさん見られ、ホタルノロウソクなる派手茸も見られて大変良かった。
long long holiday
フランスのアニメーション。第二次大戦時のノルマンディーの子供たち。
これもまた私が興味を持っている「戦闘行為以外の戦争」であろう。
THE GLASSWORKER
パキスタンのアニメーション。ファンタジー作品。高浜寛さんの絵に少し似ている。
(高浜ファンとしてはちょっと嬉しい)。
ジャンダルム。フランスの国家憲兵(まあ、だいたい警察)を言うのだが、山岳用語としては、「稜線にあって登山者が縦走するのを邪魔する岩」を言うとか。
なかなか面白い。ルイ・ド・フュネスの「ジャンダルム」も結構お楽しみの人々を妨害している。もちろんこれは戯画化・誇張したものだが、「ジャンダルムはこういうことをするよね」という共通認識があっての戯画だと思う。
ハロウィン。
それらしい装束の幼い皆さんが歩いているのを見かけた。楽しい。
まだ日本にこの祭りが伝わらぬ頃、米国でハロウィンに参加し、誤って射殺されてしまった日本人留学生がおられる。悲しい。
東京都交響楽団のクラリネット奏者お二人、「ヘッドレスト」のようなものをお使い。
金管・打楽器の大音量から耳を守るものらしい。世の中色々進んでいく。
さて、あのヘッドレストは市販品だろうか、また、個人持ちなのか団持ちなのか。大人は要らないことを考える。
ネットで見る限り、耳栓型製品はあるが、ヘッドレスト型はなさそう。ちょっと美容室の頭を乾かすヤツみたいだね。
ネットで古いチェロの知人が何人か出ているオーケストラの写真を見た。
顔などはぼかしてあるのだが、構え方や指使いを見ると、大体個体識別ができる。
まあ、それなりに長い時間を過ごし、同じ舞台に何度か乗ったことがあるのだから。そしてまた、私が人の構え方からも何かを得ようとする意地汚い人間であるから。
ロンドンデリーの歌
https://www.worldfolksong.com/songbook/ireland/londonderry-air.html
たいへん詳しい情報で助かる。私はこの曲を弦楽合奏で弾き、非常な感銘を受けた。小学校を出るか出ないかの頃。
中学校で英語を学んで歌詞を和訳しようと思ったが、仮定法の倒置でIfなしなんて、中学生がふつうに解析できる英語ではない。
ともあれ、当時の譜面もなく、かと言ってどんな演奏も気に入らず、というものだが、ここで紹介されている編曲は比較的素直で簡素で美しい。
以前、散歩の途次、どこからかこの歌がかそけく聴こえてきたことがある。どうやらキリスト教系の学校で賛美歌として歌われたものらしい。私は、その奇跡の甘美さをしばし味わった。
シューベルトのザ・グレート(グロッセ?)
https://www.youtube.com/watch?v=vB3-FmupLUA
楽しい講座らしいが、ドイツ語が分からん、字幕は出ん。残念。
指揮者がヘッドセットを付けているのは、お話するためだった。一部ポップス系では、ドラム奏者がメトロノームを聞く方法があるらしいので、それかと思った。どなたか音楽家が「絶対音感は要らんが、絶対テンポ感は便利だよな」と。
チェロ伴奏の歌。
https://www.youtube.com/watch?v=issStxOM5kw
これがチェロ的であるかどうか。チェロの可能性の一部ではあるものの。
キース・ジャレット
星野源の「おんがくこうろん」を見た。見てしまった。ジャズについて音以外の情報に接しないようにしていたのに。
然れども面白かったからヨシ!彼のモーツァルトを聴くと、走り出しそうで踏みとどまっている。なんとなうオーケストラの1000倍の精度で時間管理をしているようにも思える。この疾走感を聴いていると、「フルトヴェングラーとキース・ジャレットが組んだらどんな(恐ろしい)音楽になるのだろうか」と考える。
あまり多くの音楽家を知らぬ者の浅はかな考え。
ともあれ、全ての打鍵の音色を深く感じ、考えているような演奏。
私達にとって「1台の楽器」に見えているピアノが、キースにとっては「88の楽器」に見えているように感じる。
あるいは、そこに弦の数、ペダルの踏み方、前の音との関係でさらなる多成分系と見ているのかも。
こうした「奏者が考えていること」は、聴者に伝わると私は思っている。
ブラームスの弦楽四重奏第2番の第2楽章中間部(Vivavce)の「嵌め込み」が大変難しかった。
練習で集まった時に何度も弾いてもらうのは申し訳ないので、MuseScoreで1tVnとVcのみ譜面を打ち込み(Vaもツナギで一拍分Vnとして入力)、あらゆるテンポで繰り返し再生、それを聴きながら練習した。本番はいちおううまく行ったようだ。若干、周囲の情報に関わらず自動操縦で走り抜けたようなところがある。
なんと言うか、聴きすぎない、自走する、というのも大事であろうと思う。
などとしているうちに、今年の演奏活動が終わった。
ドヴォルザークのOp.105、ハイドンのOp.76-5、ベートーヴェンのOp.131、モーツァルトの K.421、ブラームスのOp.51-2。
稚い頃、室内楽にあこがれて以来の宿願が果たされたような曲目。
しかもありがたいことには、次なる曲が待っている。ベートーヴェンのOp.132とOp.18-5。そしてブラームスのOp.18(一楽章のみの予定だが、たぶん全楽章やりたくなる展開しか見えない)。
カザルスのスピーチが聴ける。
https://www.youtube.com/watch?v=Z20GwENK1-w
一生懸命聴こう。自分が最初に買った(買ってもらった)LPレコードは、CBSソニーの『ホワイト・ハウス コンサート』であるが、おまけにスピーチのLPレコードがついていた。冒頭くらいは聴いたけれど、英語も判らぬ頃であればお座なりなままになってしまった。今なお英語が得意とはいい難いが、自動翻訳があり字幕も出せるのだから、真面目に見たいものだ。