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2024年の記録

なんと言っても『名前のあるカルテットの一員』になったのが人生最大の転換。
これからも真面目に楽しく音楽をやろう。

●音楽を演奏する
というわけで、今年の演奏曲は以下の如し。
 ドヴォルザーク Op.105
 ハイドン Op.77-1
 ベートーヴェン Op.131
 ハイドン Op.76-5
 ブラームス Op.51-2
 モーツァルト d-moll K.421 (417b)

人生、こんなにも良い曲をこれだけ演奏できれば相当程度上出来と言えるのではないか。

ほそぼそと続けてきた室内楽活動が少し大きくなった。ある方の言われるように「復活」かも知れぬ(ラザロのように)。

2025年度の予定も記しておこう(自慢)。ベートーヴェン:Op.18-5とOp.132、バッハ:管弦楽組曲第3番、モーツァルトK614、ブラームスの弦楽六重奏Op.18(第1楽章のみ)。弦楽五重奏1曲。これに最低でも四重奏1曲が加わる。素晴らしいではないか。

先般、同学の若い方から、「R氏に次いで達者」の旨言って頂いた(R氏は周知の超絶達者)。その翌々日、チェロ教室のアンサンブルでご一緒した方から「教室内で一番好きな音だった」と言って頂く。こういう事が続くと、「もうすぐ自分は死ぬのかな?(神様が私に地上最後の幸いを与えて下さったのかな?)」と思ったりする。嬉しいことではあるが、気をつけよう。そして、真面目にさらおう。

●音楽を聴く
La Musica Collana(LMC)の追っかけをしている。この人たちの音楽は活き活きとして自然で、可憐で勇気があって素敵だ。
私も相応の年寄りなのだから、若くて良い人々を応援したいという部分もある。
でも、自分も演奏者としてこの人たちの持つ知識・技術を盗み取ろうという大変サモシイ気持ちもある。
まあ、そんなに簡単に盗み取れるものでもなく、盗んだところで彼らが失うものはないのだから一生懸命盗もうではないか(盗めるものであるならば)。

この流れで行った合唱団サリクス・カンマーコアのバッハのカンタータ全集第1回もたいへん良かった。
管弦楽は安定と信頼のLMC。うたの人々は合唱としても良かったが、ソロも様々な声質のカードを切ってきて、非常に面白かった。 特に最後のがーまるちょば風の方の繊細な歌い振りには魅入られた。2025年にヴォーン・ウィリアムス「旅の歌」を歌われるようなので、ぜひ行きたい。

8月に本番前とて行けなかったデュポールを読み聴く会(京都・12月)にも行かれた。
あんな風には弾けはしないが、自分の出来るところで頑張ろう。

オーケストラはほとんど行かず。
でも、マーラーの交響曲第九番は2度聴いたのね。カーチュンウォンと鎌倉交響楽団。そういう年もある。
他には横浜シティーフィルハーモニックのベートーヴェンの交響曲第七番。名曲揃いの楽しい演奏会だった。

恒例のこんにゃく座は「神々の国の首都」「リア王」。
どちらも音楽劇として楽しくも、また考えさせられる。自分の「レパートリー」ではないところに音楽と内容があるので、いつも新しい発見がある。また行こう。

●文化的な催し(美術館・博物館・映画館などに行く)
月に1度はと思いつつ、あまり行けていない。音楽活動が忙しく、夏は暑すぎ、まあ仕方ないよねと思うが、もちょっと行かねばだね(自分が詰まらないから、というだけ。)

唯一、来年休館予定のDIC川村記念美術館に行った。
これまで物凄い個人コレクションを見すぎているからか、意外とあっさり見てしまったが、ピカソのシルヴィアに初めて接するなど面白い発見もあった。

そのついでに、佐倉で烏瓜をたくさん見たのが嬉しかった。少々人里離れたところを通り怖くもあったけれど、楽しくもあった。

映画館には行けていないが、自宅で見た下記の映画は思いの他良かった。

Giuseppina (1959)
https://www.youtube.com/watch?v=EIbQSLI6FjE
英国石油が出資した短編映画。映画らしさを楽しめた。
お祭りに行かせてもらえず退屈する少女Gioseppinaがお父さんの職場であり、自宅に隣接するガソリンスタンドで頬杖ついてぼんやりしていると、様々な国の人々がガソリンスタンドを訪れ、様々なかたちでGioseppinaや家族に接していく。
実際の我々の生活でも、様々な人々が様々な形で現れ、それぞれの劇を演じて去っていくように思われる時がある。それを濃縮したようなGioseppinaの一日。

見たいと思った映画を並べておこう。『私にふさわしいホテル』「敵」「ロボットドリームズ」「エストニアの聖なるカンフー・マスター」「怪獣ヤロウ!」。「ホテル」は予告編からものんさんの活発な役者魂を感じる。この方、本当に演じるのが好きなんだろうと思わするものがある。

●読書
(後で書き足すかも)。
ちくま文庫の戦争関連書は良かった。
「南の島に雪が降る」、「虜人日記」、「真珠湾収容所の捕虜たち」、「シベリヤ物語」
そしてまた、『暁の宇品』も。
いずれも「戦闘行為や兵器以外の戦争」についての書である。 斯くも日本と日本人について執着する私こそ右翼(極右)である気がする。

ちくま文庫は「駄目も目である」(木山捷平)、「キャラメル工場から」(佐田稲子)など、昭和の味わい深い書を出版し続けている。

●旅行
6月に訪れた松本平、信濃大町は残念ながら雨だった。雨に濡れそぼる碌山美術館は素敵だったけれど。
安積野を折りたたみ自転車で走り回る計画は丸つぶれ。そもそも自転車を持たずに出発した。翌日、晴れたけれど、暑さであまり行動できず、中途半端ではあった。自分の計画・実行力がヌケサクだったのがいけないのだが。
とはいえ、お風呂屋さんや素敵カフェ、縣の森、松本民芸館など面白い発見がいくつもあったし、久方の身延線も嬉しかった。

松本のように、行きやすく、行けば楽しい場所も大切だが、もっと自分が見たことがないもの・感じたことがないことに触れなければならないようにも思う。さて、どうしたら良いのだろう。私がごとき無計画な人間はオートバイや自転車で全国一周のようなことがしたくなる。だが、暑寒いずれも甚だしい時期しかなく、かつ、運動神経や疲労のことも考えるとオートバイ・自転車というのも避けたくなる。
一方、公共交通機関で行けるところは徐々に減りつつある。などなど。

京都も一泊二日。ぶらぶら歩いて楽しかったから良し。古い民家を見て歩き、古いうどん屋さんでうどんを食べれば満足する。

●鉄道趣味
楽しく軽工作をしたり、買ってきた模型車両を走らせたりしている。
そしてまた、「小林信夫の模型世界」や古い鉄道模型趣味誌を読んで想を練る(妄想を繰り広げる、ともいう)のが楽しい。
そのくらいでちょうど良い。

現在世の中に走っている鉄道車両にあまり魅力を感じない。乗って車窓を楽しむのはたいへんよろしいが。
故に、鉄道車両の写真を撮影するための努力はまったくしていない。乗ったついでに記録としてちょいと撮っておく程度。

長らく読んできた鉄道系ネット記事の筆者、なんとなう生活圏が被るな・・・と気づいた。
種々情報を考え合わせるになんだ時々顔を合わせる昔ながらのご近所さんではないか、ということで、イベントの際ご本人にご挨拶した。
長くそんなことには気づいていなかったので、ちょっと面白かった。
我が家があのまま東京にいたら・・・とも思うが、名古屋転勤のお陰で、「イモムシ」「なまず」「パノラマカー」などに出会えたのだから、良しとしよう。
(名古屋駅は、大幹線、山岳線、交流電化区間、非電化区間に連なっているので、大きな駅の中でも特に様々な鉄道車両が見られて良いという見方を教えてもらったことがある。確かにそうかも。その流れを敷衍すると、自分がもっともよく見た気動車は、名鉄キハ8000系かも知れぬ。毎朝東岡崎の駅で発車を待っている姿を見ていた時期があるので)。

●その他
我が家で烏瓜が実を結んだ。ここまで来るのに十年以上かかっているではないか。
まあ、努力らしい努力をしているわけではないのだが。
実がふたつ実った。2025年はもっと出来るかな?

夏、暑すぎてほとんど行動できない。
旅行にも行けず、歩き回ることもできない。これからより暑くなるというし、恐ろしいね。
それを放置している政治家共もほんとうに信用できない。たいへん悲しい。

長年購読していた朝日新聞を年末で止めた。年間6万円を投じる価値は見いだせない。
特に政治報道はプレスリリースの垂れ流し、意味のない政局報道。
全般に取材とは人の話を聞いて無批判な感想を一行書くことだと思っている節がある。

大学の同級生で優秀な人々は自動車メーカーや電機メーカーに就職した。また、自分はジャーナリズムに憧れて、そういう職業の採用試験を受けたこともある(半分シャレだけど)。でも、これらの業界がたいへんアカンことになっている。そう思うと、私の職業人生は上出来だったのかも知れない。大金をもらうような職業ではないが、仕事にはやりがいを感じ、多少遊びつつ暮らしていけるだけのお金はもらっていたのだから。
昭和三十年前後に就職した伯父は「あの頃の人気業種は『三白』(砂糖、硫安、セメント)だった」と語っていたが、私が就職活動する頃、それらが人気業種として話題に出ることは一切なかった。私が就職した頃の人気業種が、「自動車、電機、メディア」(ついでに、金融証券もか?)だったのだろう。

定年退職まで指折り数えるほどとなった。定年再雇用をどうするか、得られるかも知れない自由な日々をどう送るか考えるのは初めてだ。これまでは「しなければならないこと」が構えられており、その「しなければならない」がどのような社会的要請によるものかはさておき、それなりに抜き差しならぬものであると思って生きてきたし、それはそれで良いのだが、今にして思うとより自由な考えがあっても良かったのかも知れない。等など。

(2023年のまとめが掲載されていなかった。原稿を見つけたので、掲載した。掲載日は2024年の最初にしておいた)。

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読書の記録(2024年12月)

エティオピア物語
ドキドキハラハラの楽しい古代冒険物語。
現代人からすると、美男美女の危難と脱出のご都合主義的御伽話ともとれるが、私はそういうものが読みたいのだ。
(そういえば、以前、ハーレクインの第1巻と第100巻を読んでみようと思っていたのだった。)

「アーロン収容所」(会田雄次)をめくり見る。日常では怠惰だが、危険に際して冷静果敢に行動できる特異的な人間が登場する。 「戦う操縦士」(サン=テグジュペリ)においても、危険に際し、特異的な人間が描かれていた。アーロン収容所とはまったく異なるタイプであったが。危険と人間性について心に残る。
安宅産業破綻の際の社員たちの話も、直接的な生命の危機ではないにせよ、少なくとも生活の危機であって、同じような人間性について印象深いあれこれが伝わっている。

ドイツロマン派怪奇幻想傑作集 遠山明子編訳
残っていた「宝探し」(ザリーツェ=コンテッサ)を読了。ホフマンの小説に対する批判から書かれたとのことで、ホフマンを読んでから・・・と思ったが、いつになるやらわからないので読むことにした。これだけで見ると相応に面白いが、ホフマンのような得体の知れなさには欠ける。ホフマンが多くの人々を魅了し名が残ったのに、ザリーツェ=コンテッサが知られていないのも宜なるかな。
そのことをきちんと知らしめる意味でも遠山明子の編・訳はたいへんに価値あるものと思う。ありがたきかな。

三つの迷宮 パコ・イグナシオ・タイボ2世、佐藤耕士
メキシコのハードボイルド探偵小説。メキシコ(中米らしさ)が感じられて楽しかった。
殺人、汚職、暴力、そして助け合い。埃っぽい町、ストライキ、街角の食堂。
この著者の邦訳は、ゲバラ関係のものと、小説「影のドミノ・ゲーム」のみのようだ。

嫌疑 デュレンマット、前川道介
ベルンを舞台に始まる小説。
デュレンマットは、北村薫氏の小説で「ロムルス大帝」の名を見て気になっていた。「ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む」も面白かったので、見かけると買う。「ロムルス大帝」のイメージがローマ時代なので、デュレンマットも古い方だと思っていたのだが、まったく誤り(ギリシア人を読み出して発見)。そういうのは、知識として知るよりも自分でびつくりしながら発見する方が面白い。
この本はまあまあ面白いが、途中でヲチに気づいたのが難。
「嫌疑」「裁判官と死刑執行人」の二編で二部制になっているような格好。これらは共通のテーマを持ち、思想小説ともミステリとも言えるし、それはそれで面白いが、再読するかと言われると、当面否と答える。

明治断頭台 山田風太郎
期待ほどでなかった。結局巫女が事件を解決しても、読者にとっては面白くない。
そしてまた、最終的には、そうなると思った以上に激しいオチであったけれど、非常に納得できるというものではない。
風太郎先生の『警視庁草紙』や『地の果ての獄』はたいへん面白かったが、それに及ばない。
福沢諭吉が、三田の島原藩邸を五百円ばかりで強引に払い下げさせた逸話を入れているところが、いやらしい(w)。 風太郎先生は、権威をお嫌いになったようだが、諭吉先生もまた風太郎先生のお嫌いになる権威のお一人であったのかと。

はなうたレコード 山川直人
再読。
庄野潤三、木山捷平、山川直人らは、大人向け読書であるように思う。年齢的に大人である必要はないけれど、静謐安寧の良さを知り、憧れる者でなれば読んでいられないだろう。
私が如き者は、もはや静謐安寧への憧れがいや増すばかり。よって、山川直人を愛読する。

女の園の星 和山やま
再読。この方の絵は基本的に上手いのだが、なにか不均衡な不気味さを忍ばせる。それは例えば、楳図かずお、つげ義春、しげの秀一、さいとうたかおプロ、などの画風として垣間見させているような気がする。

ある店員の一日 ダイ小林
飄々としているようで苦労が滲む書。誰しも心に苦しみを封じて生きているのだなあ、と改めて思いいる。
「あの店員苦手」などとつぶやく人にもなにかの苦しみがあるのだろうなあ、と思うたり。

J Train DD54特集
特集に惹かれてふだん買わない雑誌を買う。DD54は「推進軸折損」で有名だが、どこにどのように推進軸があったのか、これまで資料を見たことがなかったので、それだけでも見たくて(図面が掲載されていることを立ち読みで確認して)購入した。
トラック(自動車)でもそうだが、長い推進軸(シャフト)が車体の下でグルグル回っているのだよね。
で、「梃子の応用」で言うごとく、細い軸に非常に強い力かかるのだから、どこかで滑らせないかぎり、軸が折損してしまうのだろう。
そもそも、なんで国産化を前提に他のディーゼル機関車の開発を進めていたのに、中途半端な海外ライセンスのこの機関車を導入したのだろう(本書でも謎として扱われている)。昨今の我が国の指導層は、技術に疎いように感じるが、そういう人らが誤つのだろう、と思ったりする。
という真面目な技術論・技術政策論の一方で、我が国では凸型車体のディーゼル機関車が多い中で、こういう箱型車体のディーゼル機関車は格好いいよね!という稚い心情が私の大半である。

往年の客車列車編成表
物語のある「本」というよりも「資料」。で、これを眺めているのが楽しい。
準急「アルプス」、準急「穂高」など、KATOから製品化されてもおかしくないのにな・・・などと無責任に考えたりするのが楽しい。
KATOはEF13、DF50、D51(中央線)など製品化しているのだし、オロハネ10/ナロハネ10を入れたセットならば、多くのファンに歓迎され、これらの機関車類も飛ぶように売れる・・・というものではないのだろうなあ、きっと。
と、一方で、品薄のオロハネ10を安からぬ(と言って、高からぬ)値で買ってしまったのであるが、そうは言ってもやはりそういうセットは欲しいと思うのであった。

レイアウト全書他古い鉄道模型趣味誌
これら古い雑誌を読み返すと、若い頃の「ゆめ」を思い出す心地がする。こんな記事を見て、自分もこういう作品を作りたいと思ったっけ、などと。
その時は無影響と思った記事も、遠い最近の日になって、そういえばこの記事で○○を最初に知ったのか、と思うことも多い。
若い頃これら雑誌のお陰でいい夢を見させてもらった。30年間鉄道・鉄道模型の趣味から離れていたので、ものの見方だけ冷静になって、でも、工作力も美学も昔のままなので、少々悲しいが、まあ人生なんてそんなものだろう。

ネット通信販売大手の amazon.co.jp のおすすめがネトウヨっぽい。残念だ。

昔(万葉時代)の色の話などを読んだのは「古語雑談」らしい。
ブログを書いていて良かった、というべきか。あるいは、ブログに記してすら探し出せないのだから無意味なのか。
http://folia.txt-nifty.com/musik/2013/10/index.html

●雑感
カレー屋さんで見かけた3人家族(素敵!)
赤子を連れた若いパパさんママさん。ママさんが赤さんを抱き、パパさんはさっさと食事。パパさん食べ終わると、赤さんを抱いて悠々と店外へ。
ママさんはゆっくり(でもないけれど、死にものぐるいで急いだりはせず)お食事。ママさんお食事終了後合流。
素晴らしい連携プレー。
(ちなみに、食券を最初に購入するので、支払いをママさんに押し付けたりとかではないですぜ)。

電車内でみかけた母子(素敵!)
お子さんも訥々とお話され、お母さんもゆっくりと丁寧にお話される。
なんとなう良かった。(スマホ眺めて上の空のお母さんだと傍で見ていて少し悲しくなる。必要あってスマホ見なけらアカン時もあるだろうけれど)。

今月の誤読:誤読ファンの皆様お待たせしました。
 『おきざりにした悲しみは』
 『おにぎりにした悲しみは』

 キアヌ(リーブス)を
 キヌア(穀物)と誤読するのはもはや定番だね。

これに限らず、私の目は見たいものを見るらしい。
たとえば、先日はネット上にあるカマノレイコさんの絵画作品の猫さんが瞬きしているのを見た。静止画なんだけど。
幸せな目よ。汝が見たいものを見るが良い。

「げっ歯類」を「げっぱるい」と読む場面に遭遇してしまう。
この事実を本人に告げるべきか、いつ・どのように告げるのが良いかしばし考えてしまう。
どうやらこの文章には二度とこの言葉は出てこないだろうと安堵しつつあった気持ちを裏切って、もういちど「げっぱるい」と読むのを聞いてしまった。
早くお知らせすればよかったのだろうかといささか煩悶。
同席した者にこの煩悶を告白したが、「そんな読み方していましたっけ?」。真面目に人の話を聞け、と言いたい。

昔の分類学では「げっ歯目」であり、学生時代同級生たちと動物園に行った折「『げっぱめ』って何?」という方が居られたのを懐かしく覚えている。 三十年ぶりに遭遇する誤読。誤読趣味?の者にとっては感慨深い。
なお、漢字で書けば「齧歯目」。齧るために前歯が長い栗鼠のなかまを言う語だったと記憶する。

こちらは誤字:
 デパート初売り「3日」主流
 デパート初売り「3日」狩猟
読売新聞

オオイタビ(蔓性のクワ科イチジク属)の実。
 巨砲より大きい、とあるが、
 巨峰より大きい、だろうね。

女優オリビア・ハッセーさん没。
映画「復活の日」の共演者は草刈正雄氏。結婚していたのは布施明氏。
長く共演者と結婚されたと思い込んでいた。適当理解の私。
いつもながら、この混同を話題にしたことがないし、生活上の支障をきたすようなことではないので無問題である。

ゴジラに壊されて文句を言ったのは関西国際空港だけ、と聞いたことがある。

工事が遅れていた上に、映画で壊されたので文句を言ったら、「工事が遅れているのはゴジラのせいではなく、自分らが悪いんだろ。」と世間からツッコまれたとも。知らんけど。
(おそらく https://godzilla.store/shop/secure/moviedetail01-02.aspx の話が曲がって伝わったのだろう。知らんけど。)

ファゴットを吹く夢(吹かない夢)
急遽ファゴット吹きが必要だからお前が吹け、と言われれてバラバラに分解されたファゴットを前にうろたえるの図。
学生時代、「木管五重奏をやりたいが、ファゴットがおらんから代わりに来い」と言われたことはあるが。それも何十年前。
ファゴットとチェロは大体音域が同じなのだが、チェロは下のBが出ない。木管五重奏ではB調はそれなりにあるようで、その時もそれで困った。

SPOTIFYを無料で使うと爆音で不快なCMが入る。
で、CMが入るとSPOTIFYを使うのを止める。
まあ、そうやって有料に誘導しているのだろう。

「井上園子」なる女性。うた上手い。

明治生まれの祖母は、1941年12月7日、近所の奥さんから「あす、ラジオで重大発表があるから聞き逃さないように」と言われたという。
高級軍人の奥さんだったと聞く。
(たぶん、毎年同じことを書いている)。

藤山一郎の「丘を越えて」を聴いてみた。Max Raabe の声質とも似ているように感じる。
軽やかで柔らかなバネのような声。当時の狭い帯域の録音・放送機材に合わせている部分もあると想像するが、東西で似たような声質があったのね。まあ、明治以降の日本人もずっと西洋のものを学んでいたので、そーゆーものかも知れないが。

有松にあった小林模型店の話をネットで見かけない。
まあ、プラモデルと鉄道模型(完成品とキット)程度の小さな店であり、有名モデラーが通うような店でもなかったからか。
とはいえ、私が行ける範囲では割とGMなどのキットや部品を多く置いており、行くのが楽しい店だった。
トミーのCタンクを女性店主が試走させながら、メンテしないと走らない・・・ようなことを呟いていた記憶が残っている。どこでもよく見かける製品だったので、なんとなう買わずにしまったが、あの機関車を見たのはあれが最後だった。買って置けばよかったと後々思った。
小林模型店以外には鳴海のトイズタウン(プラモデル、ゲーム、鉄道模型などを扱っていた)、フクシマ屋(文具、教材、プラモデル、鉄道模型などを扱っていた)が身近であった。フクシマ屋のショーウィンドウにアメリカ型HOゲージの車両が長く飾られており、見慣れない連結器を付けていたのが印象に残っている。あれはX2Fカプラーと言うらしい。日本の鉄道車両で一般的な「自動連結器」と微妙に似ているようで似ていない不思議な連結器だったが、調べると、Willison 連結器あるいは SA3 coupler などと呼ばれるものを模型化したらしい。色々な情報を簡単に調べられる時代でありがたい。

30年前の未来都市・幕張新都心
https://dailyportalz.jp/kiji/mirai-toshi-makuhari-shin-toshin
20世紀の末頃、このあたりと少々関わりがあったけれど、あまりいい思い出がない。
ちなみに、この町は、当初、税収の面から「企業だけ誘致すれば良い。お楽しみ不要」として『激しく失敗』したらしい。 私が見始めたのは、この『極度の失敗』の時期。企業も来なければ、人もいないし、食事をするところにも乏しい。空き地の上を雲雀が舞っているような閑散とした土地だった。
その後、考えを改めて、少しずつ商業施設・遊興施設などを増やし「人間のための土地」になってなんとか町らしい町になったように思う。
みなとみらいの開発者は「海浜幕張みたいになっちゃイカン」と最初から商業・遊興・文化施設に意を用いたように聞いたことがある(知らんけど)。
この町の最大の景物は、幕張駅周辺の古い幕張の町から海浜幕張の近代的ビル群を見上げるところだろう。
ディストピア映画の新旧あるいは上下関係を示すかの如き断絶があり、近代ビル群が空気遠近法で霞んでいる様は、まさにウルトラマンなどの特撮そのもの(実際、ウルトラマンを見ている時、海浜幕張でロケをしたと思しき場面を見たことがある)。
一説によれば、幕張駅から海浜幕張までバスを通じさせる計画があったのだが、幕張住民が計画に賛成せず、それがため、バスアプローチのため、幕張本郷に新駅を作ったとか。
また、ソニー本社が海浜幕張に移転する、という話もあったようだが、先遣部隊だけがやってきて、結局彼らも撤退した、とウワサとして聞いたことがある(知らんけど)。

ネットラジオで耳にした良い曲。スェーデンのSR.SEだけに北欧風のすっきりした曲・すっきりした演奏が多い気がする。
Claude Debussy - Den helige Sebastians martyrium, symfonisk svit (I)
Ensemble/Orkester: Philharmonia Orchestra, London
Dirigent: Pablo Heras-Casado
Etikett: Harmonia mundi

Maurice Ravel - Till Couperins minne: Forlane
Etikett: Hyperion

Arturo Márquez
Harpkonsert (I)

北海道の網走市と浜中村に知人がいることがわかった。
どちらも道東で近いのでは?と思いGoogleMapで調べると、自動車で2時間・140km、公共交通機関で5時間(以上)。
思ったより遠いとみるか、北海道内としては近い方とみるか・・・。
道内でも飛行機移動があることを考えると、自動車2時間は「近い」扱いだろう。

子供の時から欲しかったクロマチック・ハーモニカを買った。バルブ式。
実は二段式クロマチックは親父のがあり、子供の頃少し吹いていたが、滑らかに吹けないので、少々好きになれず。同じく親父の半音がない二段式(同じ音程のリードが二枚)を好んで吹いていた。
今回購入のは、正直安物通販だ。でも、意外と良かった。
音色もいいし、口当たりも弁装置も滑らか。
中国 East Top 製。なんとなう中国の人々ハーモニカ好きそう(偏見)。だから物も悪くないのかも。
一応、D-durのロンドンデリー・エアを吹くことが出来た(滑らかではない)。もっと練習しよう。
とはいえ、♯になるようなバルブ操作なので、フラット系の曲だと、B=Aisはもともと吸う音なので良いとして、Es=Disが吸う音になるのが、苦しい。D-E-Fなら、吸う・吹く・吸うなのに、D-Es(Dis)-Fだと、吸う・吸う・吸うになる。これは苦しい。
そういう意味でもやはりC-durを中心に「臨時に臨時記号」が良い。
2013年に「クロマティックハーモニカが欲しい」なんて書いてますね。10年越し。
http://folia.txt-nifty.com/musik/2013/09/post-1ad1.html

香川県の高松高校では、ベートーヴェンの交響曲第九番を毎年演奏しているとのこと。
おそらくは合唱関連の抜粋だろう、と思うのだが、そうであってもとても羨ましいよね。
我々の育った粗雑な時代、劣悪なる教育を思うにつけ羨ましい。
すんごく上手いとかそういうのではないだろうけれど、高校生の年齢で学校の仲間とこういうことができる、したというのは稀有の体験だと思う。

一方、アジア人が白人男性音楽家の曲を繰り返し演奏することを「グロテスク」という意見も見かけた。
素直に考えると、まあそうだろうね、とは思う。
一方で「繰り返し」は分野に関わらず音楽演奏の本質であろうこと、漫画・アニメの世界的な受容などを見るにつけ、白人男性音楽家の曲をアジア人が受容することをそんなに嫌悪せんでも良い、と思ったりもする。
私としては「グロテスク(醜悪を含意)」ではなく「奇異」くらいの感覚では賛同する。
まあ、このことを考えるのは非常に面白いので、続けて考えよう。

私としては、南米原産であるトマトやジャガイモが、中華料理、インド料理にふつうに鎮座しつつ、それぞれの地域料理のアイデンティティが揺らいでいないことと思い合わせたりする。

アニメ「LUPIN ZERO」無料公開でみた。まあまあ面白いけれど、まあテキトーな話ではあるわな。
文句としては、ルパンI世をもちょっとリスペクトしろよ。単なる怪人・変人に描くのはアカンだろうよ。というところ。
もともとルパンIII世とオリジナル・ルパンの繋がりには微妙なものがあるのだから、I世の持つ騎士道的な優しさ・雅び・悲劇性・歴史的奥行きを捨て去るのは、III世の正統性を放棄することになると思う。
(このあたり、宮崎駿氏の配慮のなんと行き届いていることよ。と思ったら、カリオストロの城はルパンIII世の中でも例外的な作品らしい。I世ファンである私としてははなはだしく残念だね。)

虚偽情報は直接民主主義に対する大きな脅威だと思いますか?
swissinfo.ch を眺めていたら、こんな題で議論をしていた。このことは日本においても大きな問題だと私は感じているが、世界のどの国でも同様のことが起こっているのであろう。低コストに情報発信ができるようになった時、人類は賢さでなく愚かさを噴出させるようになってしまった。
変速機のオートマチック化により自動車の運転が簡単になり、より安全に集中できるようになったはずであるのに、アクセルの踏み間違いが如き単純な操作ミスによる暴走事故が続くのと似ている。(さて、LUUPの事故はいつどのようにして噴出するのだろう。)

『シリア獄中獄外』なる書名を望見。「洛中洛外」と比して何たる悲惨。

中部国際空港(セントレア)に一度だけ行ったことがある。葬祭に係る送迎のためだった。二度と行くことはないように思う。
あの時、大きな悲劇を示すような夕景を見たのだった。だが、それも忘れつつある。

バッハのクリスマスオラトリオ。心温まる演奏
https://www.youtube.com/watch?v=Wi0ekhf6_J0
Ensemble "ad hoc" 行き当たりばったり
Chor "prima vista" 初見
という「名前」も素晴らしい。何よりも楽しそうなのが良い。バッハ先生もお喜びではないかな?
大学オーケストラの合宿等でいきなり始まる合奏みたいだ。途中ビールをひっかけながら独奏を聴いているのもそれらしい。
音楽に『美しい』や『正しい』等を求めるのもよろしいが、「活き活きとしている」「楽しい」は欠かせない。

昔々、学生時代、弦楽器を初めて1年という若い人たちが「室内楽をやってみたい」と言ってきた時、偶々手元にあって弾けそうだったのが、 ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲(鈴木ヴァイオリンの教本に載っている曲。室内楽ではないけれど)、および、ピンクレディーの「UFO」弦楽四重奏版(手書き譜面が練習場に落ちていた)だった。
彼らはこれらの譜面を持って行き、楽しそうに練習し、年末の「アンサンブル大会」で披露していた。 ヴァイヴァルディは「いかにもヘタクソの演奏」だったが、「UFO」はものすごく「活き活きと楽しそう」だった。この時の乖離は衝撃的だった。
ヴィヴァルディ等の西洋古典音楽はたいへん立派で、私に限らず多くの東洋人が大いに憧れるのだけれど、やはり本当に身に入る音楽ではないのかも知れないと感じた。さて、そうした疑問を感じつつ、素人として弦楽四重奏などに入り込んでいる私。今も時々、自分にとって、また、一緒に弾いている人間にとって、今やっている音楽が「ヴィヴァルディ」なのか「UFO」なのか考えてしまうことがある。
だが、私も含め、全ての人間は「自分が分かっていないことを分かっていない」のである。さらに言えば「わかる」ということがどういうことなのかは「わかる」のか。それもまた問題である。
これは「西洋白人男性の・・・グロテスク」論とも繋がっているはずだ。

(東洋人を登用ジンと変換するのは止めてほしい。この場合のジンがアルコール飲料なのか、千夜一夜物語に登場する魔神なのか、要らぬ思考をしてしまう。先程、ホガースの「Beer Street and Gin Lane」について調べたから仕方がないのだが。)

ロシア軍のキリロフ中将が暗殺されたとのこと。
禁止されている化学兵器をウクライナで使ったとも言われている。
ドストエフスキーの小説「悪霊」に出てくるキリーロフはあんなにも気高いのに。

小松崎茂展行きたい。私にとっての21世紀は小松崎茂画風だ。
リアル21世紀になった時、「道も線路もぐにゃぐにゃでビルは凸凹。こんなの21世紀ではない!」と思ったのは、小松崎茂画風にやられていたから。
「21世紀は小松崎茂が描くように、道も線路もすっきり真っ直ぐでなければならんのだ!」と思っていた自分を発見して驚いた。

京都に行ってブラブラする。

扇子屋さんに入ってみる。
私はフリーマーケットで買った将棋指しの扇子を愛用している。実用品としてしっかりしており、大きいので涼しいから。ふつうに売っている扇子はちょいと小さい。また、折りたたんだ時、竹の幅が広く、紙がはみ出さないので、紙の痛みが少ない点も良い。
で、扇子屋さんの通販で見てもそういうのはない。将棋協会(?)では売っているが、フリマ価格からすると高い(ドケチ)。 で、この機会に聞いてみたことを(推測も混ぜて)メモする。
扇子屋さんからすると、あれは「白扇子」といって、いわば「業務用」であり「半製品」になるみたいだ。
だから、頼めばサンプルを数種類出してくれるし、個人用にひとつでも売ってくれるけれど、店頭には出していない。   で、形の上でこれに近いのは「柿渋」を塗った扇子があるそうだ。私如き者は本来これを使うべきであろう。が、白扇子よりさらに高価だ。
というわけで白扇子を買って参りました。紙が大きくはみ出すタイプもあったが、畳んだ紙と竹が同寸になるやつを。
スプレー塗料を使うとき、このヒダヒダで部品を支えれば、良いのでは・・・と思ったがさすがにそんなことはしない。
(いや、100円ショップで試しに買った安物(すでにボロボロ)の使いみちとしては良いかも・・)。

書店・茶店を兼ねる店に行ってみる。まあ、文化の装いでいるけれど、「びじねす」の香りが溢れ出ているように感じた。
「物書き講座」を実況中継しており、それもまた「びじねす」の趣。まあ、私のごとき阿呆のように文章を垂れ流す人間とびじねすは相反する。
まあ、文化を装っているだけまともなのかも知れない。人から褒められたい、楽をしてたくさんのお金を得たい、そういう雰囲気が濃厚にする。その事自体は社会性動物の根源として、私は否定しないが、そのことを自覚せず・明示せず、暗黙の前提とすることには賛成できない。
などと考えられ、いい勉強になった。
茶店に若いお嬢さんの下着写真がたくさん貼られているのが、嬉しくもあり恥ずかしくもあり。また、没義道でもあるなあ、と感じた。

島根朋史氏の Martin Berteau の F-dur を実演で聴く。京都行きの目的はこちら。デュポールを読み聴く会。東京で行かれなかったので。
CDでも「いいな」と思っていたが、実演を聴いてちょいと弾いてみたくなった。
で、imslp でベルトーの譜面を探し、これを見ながらCDを聴く。
と、よくある「聴いたら天国、弾いたら地獄」。
ちょっと弾ける気がしない。そもそも譜面が簡素過ぎる。これをそのまま弾くのであれば、練習すれば手が届くかも知れない。しかし、これに多彩なインプリメンテーションを施していることに(遅まきながら)気づく。
はーい、残念でした(で、終わるのは悲しいが)。
お洒落で気の利いたインプリができるとは思い兼ねる思い兼ねる思い兼ねる。

参加者が五弦チェロについて会話されている。京都の方は皆五弦を持っているのか!と恐れ入る瞬間。

京都では思いの外洋食屋さんが目立つ。京都人は新しいもの好きとも聞く。
昔、祖母とテレビを見ていた折、京都の洋食屋さんが映った。祖母はコックさんを見て「この人、知っている」と。
祖母の父(私の曽祖父)はゴルフ場でレストランを営んでいた。コックさんはその調理場で働いていた方だった。
近所の地主の娘さんが給仕として働いているうちに、コックさんと良い仲になった。だが、ふたりが一緒になるのを娘さんの親が許さない。当時の考えで言えば「うちの娘はコック風情と一緒にはさせない」ということらしい。で、祖母たちが「ふたりの駆け落ちを助けた」「今でも京都に行くとご馳走してくれる」と。
テレビを見たのも昭和の昔。その頃でも珍しいコークスの炎で調理している店だった。それもまた今は昔。京都の洋食屋さんというと思い出す。

仲間内で「この二十年で弦楽器奏者(職業音楽家)のレベルが格段に上がった」の話題。
「皆海外留学しているからじゃね?」というのが見も蓋もない第一声。
そんな気がしないでもないが、それだけで説明できるのか。
あるいは、日本の音楽教育(文化)が生み出せない最後のひと押しが、海外にはあるのか?
あるとすればそれは何なのか?なんとなう、家元制度、文化的広がり、学究性や哲学性の有無などと考えてしまうが。まあ、日本の音楽教育との接点が薄い私に理由が知れることはないだろう。

ネットで成田七海なるチェロ奏者を見かける。「オルタネイティブ」を標榜しておられる。
弾いている音にちょっと興味がある。チェロをクラシック以外に使う場合でも、演奏方法がまるっきり「くらしっく」だと面白くない。こういう、音質・歌い口から考える演奏は好き。成田氏への興味は、「自分が弾けない楽器への興味」に近い。(このところ追いかけている島根氏もまた私が同じ楽器を弾いていると思えぬことが多々あり、実質的にはこちらも「自分が弾けない楽器への興味」であることよ)。

以前、近所にキリスト教徒のご老人が住んでおられた。
クリスマスの夜、教会の人々がその家の前で静かにクリスマスのうたを歌う。
時は流れ、ご老人も、雨戸を閉めずにうたを待っていた母も亡き人となった。

ベートーヴェンの交響曲第九番を聴く。年末だからね。小川典子氏のピアノ版。
Op.125。バリバリ後期だね。
後期の弦楽四重奏を弾いた立場で(エラソーに)言うならば、最後までベートーヴェンは新しい工夫を止めなかったし、どんな形式であれ、その形式に新たなアイデアを盛り込むのをむしろ拡大していったように感じる。
そういう意味では、第九はまったくふつうではない「変な交響曲」である。ベートーヴェンの九曲の交響曲もそれぞれに奇妙なところがあるが、最後にして最も奇妙な交響曲。だが、弦楽四重奏や(おそらくは)ピアノ・ソナタの方が、より過激でより奇矯なように思う。
大人数で演奏する交響曲としての歯止めをよく見切っているとも言えるのだろう。

来年五重奏を演奏するとて曲目選定。「Quintet」というと、Bernstein のこれを思い出す。
https://www.youtube.com/watch?v=MyUV3hIL-G0&sttick=0
天才的な対位法とは言いかねるが、悲劇を予感させつつ終局に向かって怒涛の展開・・・という有様をよく描いている。
他の人々が対立ないし恋愛という紋切りに対し、アニタの存在が特異的だと感じる。
後のオペラ版では、タチアナ・トロヤヌスが歌っており、圧倒的な実力を感じさせた。
Wikipedia を見ると映画版アニタのアリアナ・デボーズは、この演技で助演賞を二度もらっているとのこと。うんうん。デボーズもパンチが効いて芯のある素晴らしい演技なんだ。これに対置するにトロヤヌスくらい持ってきて、トロヤヌスくらい歌ってもらわないと困る(誰が?)。
ところで、オペラ版で、キリテ・カナワが凄い巻舌で「ふぉる・えばー」と歌っているのは、オーストラリアの訛りだと思っていたが、原作映画でもそう歌っている。移民としての訛りを表現しているのだろうか(気がつくまでに五十年)。

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今週の戯れ歌

我が名には何のヴァリュウもあらざりき市井の隅の無名なる我

忘却にのみ我依拠す常に常に我が慰めのそこにありせば

夢に見し麗しきうた朝露のごとく日差しに消へ失せにける

夢の中で友と酌む酒懐かしく嬉さの余り空に浮きけり

空を飛ぶ夢久方に見たれども三尺ばかりの低さぞ悲しき

意味のなき言葉を発する輩あり理解の振りも面倒至極

客同士言うことが異なることの在りその調整はそちらでお願いします

またうたを無駄に詠むなる時来るやうた詠まざるがむしろ良からむ

商店街楽士の弾けるアコーディオン夢のやうなる「花のワルツ」

職場にて助け求むる声あれど「あの人ならば」と助けなかりき

捨てようか捨てまいか悩みしパンツ歳も新たにまだ家にある

子らに語る我が家の歴史四十六億年常に地球とともにありけり

世の中で短歌人気を耳にする我が為す事の無為を重ねて

何時果てるとも知られぬ戦場に居らるる人ぞ尊かりける

泣ける程身のないうたを並べつつ今日までなんとか我は生きたり

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楽器用鞄を買おうと考えて楽しむ

楽器とともにお出かけするための鞄。プラスチックフレームのビジネス鞄を長年愛用してきた。
おそらく3代目で、どの鞄も各々10年以上使ってきた。だいたい新橋駅の地下で買ったと思う。
あそこはオジサンのための鞄を夜店風に売っており、価格と性能のバランスがすこぶる良い。

今使っているのも20年近く使っているように思う。次の鞄を買いたいが、もうプラフレームの鞄を見かけない。
検討のため形式や収納物を考え直す。

●形式は肩掛けに限る。
 楽器を背負っているので、リュックは不可。
 手が空いていないと危険なので、手提げは不可。
 傘を左手・鞄を右手となると財布も出せない。
 肩掛けとは言いながら、場合によっては「首掛け」(前垂らし・斜めがけ)もする。
 同じ理由で、下記の物品が全部入る。
 これらを「他の入れ物に入れて持つ」のは不可。

●楽譜(パート譜・総譜。最大B4版)
 譜面が折れないようにしたい。
 書類入れの場所があると便利
●スマートフォン、文庫本
 こいつらも書類入れの仲間だ。
 もしかすると、これにチューナー、メトロノーム、録音機が加わる可能性もある。
 だいたいにおいてスマートフォンのアプリケーションで事足りているけれど
●折りたたみ傘、水筒・ペットボトル、譜面台
 こいつらは結構デカい。重い。
 譜面台は毎回ではないが、入れる時もある。
 譜面台だけ別な入れ物というのは不可。
●小物袋(松脂、エンドピンストッパー、鉛筆などを入れている)
 どうせ小袋に入れるので、さほど区分されている必要はない。
●小物(腕時計、財布、エコバッグ、ティッシュペーパー、予備弦)
 腕時計と財布は練習中外して入れたりする。
 他はオトナの嗜みでござる。
●お八つ・お昼ご飯など(手に持つものが増えると面倒だ)
●衣服(寒暖調整のため。手袋、マフラー、チョッキなど)

以上のように相応の収容力が必要なのだから、結局ビジネス手提げ・肩紐付きになるのかなあ。

信三郎帆布で言えば、H-26が今のプラフレームと同じ大きさ(ほぼぴったり)。
H-27は今よりも少しマチが大きい。いずれの場合も肩紐が必要。
肩紐は現在3cmなので、A-03 +30cm でよいか? それとも4cm幅にして、A-04 +30cmか?
個人のオトナとしての見栄を考えると、これに限らず鞄の大半を信三郎帆布にしちまおうかな、とも思っている。
すでに信三郎帆布の鞄を4つ持っている。リュック1、肩掛け3(大中小だが、中はボロボロだ)。
この肩掛け大で練習に行ったこともあるが、上記のごとくモロモロ入れるにはちょっと不足だった。

Amazonでも見てみたが、昔風の「プラフレーム」は見かけない。 似たようなのはみなリュックに移行している。さもなければソフトっぽいの。
PC鞄が近いが緩衝のためモコモコしているのが気に入らない。

とかなんとか言って、新しい帆布鞄がほしい人だね、これは。今買うと、おそらく死ぬまで使うので、気に入ったものを買うのが良いのではないか、とは思っている。
(お金を使うのは万能感があって楽しいね)。

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ブラームス弦楽四重奏曲第二番の難所

ブラームス弦楽四重奏曲第二番の難所、第3楽章メヌエットの中間部。ヴァイオリンとヴィオラの16部音符の「1拍目」がわからなくなる。
「わかるように弾いてくれ」と言うのも可能だが、言ったからそう弾けるのか、あるいは、そのように弾くのが正しいかは別な話。
こういうのはさらっと流すべきで「わかるように弾く」のは不正解と私は思う。

で、「覚える」。そのためにヴァイオリン・ヴィオラ奏者を酷使するわけにも行かないが、私の記憶力は乏しい。

だから、MuseScoreで最小の骨子を楽譜化し、音にして、ごくごくゆっくりからはやめまで繰り返し聴く。そしてこれに合わせて体を動かす。などなどした。本番はまあまあ通ったので良しとしよう。

クラリネット五重奏でもへんな「ズレ」の箇所があるので、同様の手立てをするつもりである。

はやめのテンポ

ダウンロード - brahmssq2.mp3

ゆっくりのテンポ

ダウンロード - brahmssq2slow.mp3

いちおうMuseScoreファイルも置いておこう。これを落として、MuseScore(たぶん4.0以降)で開けば自由なテンポでループ再生ができる。

ダウンロード - brahmssq2.mscz

Brahmssq21

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今週の戯れ歌

それはそれあれはあれとて悪からずなにがなにやらもはや分からず

体調の良からぬ時に酒呑めば調子良きやうな幻想を見る

時によりて幻想を我は必要とす有能な我モテまくる我

幻想の幻想なると知る裡は幻想と游ぶ我を許せよ

流れ流れ流れ流れて今のありまたこれからも流れ流るる

若者の我より出世すると聞き祝いは述べつ溜息をつく

なべてものの価上がりしつる今なれば何を買うにも心暗かる

知りもせぬメニュー頼みて平然と酒飲み待つは父の技かな

思はざるメニューを作る姿見れば何できるかと心騒がむ

何かかにか自己の定義を思ほへど結局のところただあるばかりなる

「いか好み」何か分からぬものなれど食べて毒ではまさかあらまし

気に入らぬ事のありける宵なれば千金をもて一酔を買ひ

誰彼の悪口言ひて飲むならばたた黙したつつ杯を明けなむ

歌詠みの我のうた見て褒めもする嗚呼人として尊からまし

酒も佳し肴も良かれ今日の日の悪しき事ども流れ果てなむ

酒飲んでうたの如くの言葉並べさうして老ひていつか旅立つ

おいしいと言って食べる人あらばそのおいしさのいや勝るべし

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今週の戯れ歌

その昔毎日通りしこの道も家建ち替わり烏瓜もなし

終はらざる楽曲の無きが如く我が人生も終曲に向かふ

あれこれと音楽以外を考える愚かしさには自ら悲しむ

何故に誤る道を選びをるか自ら問うて明らかにしたき

様々の愚かを我は積み重ね人生のやうに音楽を過つ

昔昔つぶれるまでも酒飲みし我も静かに帰る年頃

若き日には年寄りの演奏ばかり聴いていた老いたる今若者の演奏をこそ聴くなる

生きるとは暑さ和らぐ秋の日に公園に行きサイダー飲むこと

生きるとは遠くに鳴ける蝉を聞き今年(こぞ)の夏なる終はり知ること

生きるとは年若くある人々の昇進を聞き時代知ること

健診の数値の悪しくなるを見てこころ悲しも独りし思はば

期日前投票に行くせつかちで投票日まで我慢できない

病なく薬も飲まず医者も見ずこの人生の何時まで続くか

老ひてなほ元気で働く人もあり尊敬するけど真似はできない

家族四人卓を囲める日々のありこれも恐らくは一場の夢

切実な思ひを抱きしこともあり我が来し方を思ひ返せば

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チェロを選ぶ

2020年頃チェロを買った経験を整理し、さらにチェロを選ぶ方法について論じてみました。
チェロを弾いて何十年のアマチュア。チェロのレッスンに就いていないので、先生に見てもらうわけにもいかない、転居などによりふだん付き合いのある楽器屋さんがいない、というのが前提でしょうか。異論歓迎。

●結論
複数の楽器屋さんを訪れ、たくさんの楽器を弾かせてもらい、気に入った楽器を選んだ。

楽器を買おうと思う以前から(数十年前の学生時代から)それなりの数の楽器に触れており、自分が気に入る楽器など滅多にないと感じていた。
だから、楽器を買おうと思った際も、とにかく数を稼ぎ、自分が気に入りそうな楽器の相場を知ろうと考えていたら、偶然、気に入って、かつ、納得できる価格の楽器があったので、購入した。

より正確に言うならば、自分が気に入り、かつ、納得できる価格の楽器がなければ、「縁がない」と楽器購入を諦める(あるいは、長期的に考える)つもりだった。

※なお、今まで様々な機会に触れた楽器の多くは素晴らしい楽器だった。だが、自分が気に入るかどうかはまた別な問題である。
 ここで言う「気に入る」は、いわば人生を共にするレベルであるので、相当程度特殊な感情である。

●種々の情報を合わせた結論
今回の経験、および、ネット上の情報などからチェロを選ぶ際の目安は、以下の通りと考える。

(1)100万円以下なら新作・量産品から選ぶ。
 数量があるので、探すのは比較的楽。
 身近な奏者にメーカーを訊いて回るのも良いかも。

(2)300万円以上なら新作・ハンドメイドから選ぶ。
 ハンドメイドの新作チェロは200万円以下では作れない。
  チェロはヴァイオリンの2から2.5倍のコストがかかるらしい。
  ヴァイオリンほど売れないので、職人としても作り甲斐がない。商売でも旨味がない。
  それにより、出数が小さくなり、選択肢が少なくなる。探すのは少々大変。
  大人の嗜みとしての「システム開発などの見積もり作成」感覚から言って、ヴァイオリンの値段は適正。チェロは若干利益が薄いと想像する。
(誰かが弾いている新作の作者に作ってもらう、という選択肢もありうる)。

(3)100〜300万円の間のレンジがある意味もっとも面倒。
 オールドを探す。完全に一期一会の世界。探すのはかなり大変。運次第。
 量産品でもハンドメイドでも気に入れば無問題(と思うしかない)。

(4)とてもたくさんお金があるなら、高級オールドでもなんでも選び放題。
 この世界は知らない。楽器屋さんが門前に列をなすことと思います。
 まあ、騙されないように気をつけて、としか言えないでしょう。

自分が楽器を買ってから、今更、楽器職人さんのページを読んでいる。職人さんならではの単刀直入な文章である。
https://ameblo.jp/idealtone/entry-12726514019.html
自分が楽器を買う際に考えたことが概ね間違っていなかった、と感じる。

●前の楽器
自分がこれまで使ってきた楽器は、1987年大学入学時に買った楽器です。
1986年 Erich Werner, Bubenreuth(ドイツ)。1987年当時 49.5万円。

当時の名古屋では、各大学オーケストラに1〜2人この楽器を弾く人がいました。楽器屋さんが大量輸入したのでしょう。
製作者は個人名になっていますが、まあ「工房製」くらいの意味の半量産品でしょう。

●それから
毛替えなどで楽器屋に行くたびに、楽器に触らせてもらってきました。ずっと、何十年も。

一度はフレンチのオールドを知人から借りて弾いていました。約半年。
値段は訊きませんでしたが、おそらく200万円くらいでしょう。
先方も売れたら良いなと思っていたと思いまし、私もたいへん勉強させてもらったと思っていますが、そこまで惚れる楽器ではありませんでした。
おとなしくハイドンやモーツァルトを弾くには楽しいけれど、ベートヴェンでギラギラしようと思うと不足。そんな楽器でした。

楽器屋で弾き馴らした感覚からすると、一般的に10万円から300万円位までは価格と音が正比例と自分は感じる。
それ以上の価格の楽器は音が良いのか悪いのか判らなくなる。だから300万円位あれば自分が納得できる楽器が買えるだろうと思っていた。
もちろん、好みは別。

私が、楽器を選んだ時も、暗黙のうちに結局このフローに乗っていたと感じます。
まあ、楽器屋で楽器を弾かせてもらう時も、「50万円スタートで値段を上げていく」と言うと、そういう順番で楽器を持ってきてくれるようです。

結局、私は(3)。もっとも面倒な一期一会のレンジ。
修理痕があるため多少安価になっていたと想像される楽器。
修理が音質に悪影響を与えていないと思われた。
すごく大した楽器ではないだろうが、相応に枯れていて、かと言って音量もあってちょうど良かった。

この楽器はベルリンのErnst Kessler 1877年。どうやら独立前の21歳で作った楽器らしい。
https://www.bayfinestrings.com/product-page/ernst-kessler-cello-berlin-germany-1883
https://info.shimamura.co.jp/violin/catalog/past/369
偽ラベルを貼るほどの有名作家ではないと思うし、真作であろう、と判断している。

以上2020年ごろの情報と思って読んで頂きたい。
その後、円安・各国の価格上昇があるので、最大1.5倍程度掛け算して読むのが良いかも知れない。
さらに、円が弱いので、良い楽器が外国からは入ってきにくい(買い負ける)という話もあります。
ほんとは弓も買いたかったのだがなあ。

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読書の記録(2024年11月)

佐多稲子短編集
読了。初期作品は独特の語法・省略が読みづらいが、だんだんに読みやすくなってくる。
なんとなう、小林秀雄や川端康成も読みづらいのを誇っているようなところがあったような気がする。あれは、読者を試していたのだろうか。
そういう「味」も大切なのかも知れないが、私は特定の言語に依存しない抽象的かつ普遍的な物語により惹かれる。
しかして、これもまた「戦闘行為以外の戦争」の書という部分もある。戦争の影の重きこと幾許。

百年と一日 柴崎友香
こちらも読了。本短編集は、抽象的な物語を志向しているようにも思ったのだが、必ずそう決めているわけでもなさそうで、読んでいて少々戸惑う。
なんとなう、女性読者が好む作品という気がするが、確信はない。

とは言え、私自身、女性のクリエーターが好きなようでいて、物書きに関しては例外かも。シュペルヴィエル「海に住む少女」永田千奈訳は、私には馴れなかった。
私が堀口大學病の末期重症患者であるから仕方がないのだが。

駄目も目である ――木山捷平小説集 木山捷平
とても有名とは言えぬ作家であるけれど、読んでみてとても良かった。
「苦いお茶」、「軽石」などが良いというのは、編者 岡崎武志氏とおおむね意見を同じうするものである。
また、「太宰治」なども、行方も定まらぬ書き出しながら、徐々に調子が出てくるとさすがの木山節。読者もつい引き込まれてしまう語り口だ。
木山の名を知ったのはおそらく蟲文庫氏が倉敷・岡山つながりで紹介していたから・・・だったように思う。
こういうので潜在的に刷り込まれたものは後々思い出すと面白いことが起こるね!
しかして、これもまた「戦闘行為以外の戦争」の書という部分もある。この時代を生きた人々の人生を通して見るに、戦争が無関係であるはずもない。

エティオピア物語
楽しい古代活劇。。。ではあるのだが、主人公たちの自我は薄いし、運命に弄ばれているだけで、自ら解決するために考え/行動しているとも言い難い。まあ、自我の獲得は歴史的なものであって、ホメロスの登場人物たちに自我がある様子はない、という説もあるくらいだから。
楽しいんだけどね。

迷宮歴史倶楽部 戦時下日本の事物画報 モリナガ・ヨウ
ある程度昔のことを知っている者には面白いけれど、無知な人々に勧められるか、つい考えてしまう。真に無知な者には何を与えても同じとも言えるだろうし。

●雑感
最近、雑感が長すぎる。さりとて何かを変えようという気もしない。

ジャニベコフ効果。物理現象の名。剛体の回転ごときありふれた物理現象が、20世紀にもなって発表されるなんて、と驚く。

鎌倉交響楽団。マーラーの交響曲第九番。
自分が大いなる思い入れを以て弾いたことがある曲だけに冷静には聴けない。
指揮者安平氏は安定的な音楽運びを進めていた。そもそもこの曲の第一楽章は andante 指定なのだが、そういう交響曲を私は他に知らない。速からず遅からず不思議なテンポなんだよね。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番第一楽章を「オーケストラはアンダンテ、ピアノはプレスト」と言うのを聞いたことがあるが、もしかすると、ひとつのテンポの中でこのようは複合テンポをしてみたかったのかも知れない。

さて、お子さん数人が1階前方でグダグダしていた。この曲に限らず「交響曲」を子供に聴かせるのはムリがある。
誰も幸せにならないので止めるべきだと思う。
ご自分の子供が世間に迷惑をかけ、白眼視されているのを平らかな心で見ていられる親御さんは、器が大きいというか肝が太いというか。。。

合唱曲「海はなかった」を聴いてみる。
合唱曲の中でもコンクール課題曲はシンプルに書かれているからか、それとも私が日本語話者だからか、どんな演奏を聴いても必ず「なにかもっとこうして欲しい」と感じる。オペラ風ビブラートの良し悪し、声質、言い回し、発音、音量バランスなどなど。
自分が合唱をしていたら(続けていたら)相当に「嫌な奴」なのは間違いない。まあ、カルテットマンとしては自分のやることで忙しいからそこまで考えられていないだけでやはり「嫌な奴」であるかもなあ。

野球の話にまったくついていけない。ルールくらいは知っているし、日本国内のプロ野球チームはひととおり言える(ような気がする)。オータニさんが大人気なのも知っている。でも、そこまで。それで困らないから良いや。会社で「昔の人みたい」と言われたことがあるが、私の理念は縄文にあるので、それくらい言われても気にならない。
一方、先日NHKのクラシック音楽番組で、ゲスト出演者からシベリウスの「フィンランディア」を知らないような発言を聞いた時には少々耳を疑った。
私もまあまあ酷い趣味者の洞穴で暮らしているのね。

とある喫茶店で、虎ノ門の喫茶店「草枕」が良い、という話を聞いた。 だが、私はあちこちの喫茶店に行く趣味はない。この「とある喫茶店」以外に二度行っている喫茶店は西荻窪の「どんぐり舎」くらいではないか。
「『草枕』を忘れ、勘違いして『三四郎』を探すかも」と言うと、「『こころ』という店名は辛そう」などきちんと会話が成立して嬉しかった。お店の方は文学フリマに出没するらしいので、ある程度当然かも。
草枕と対になるべき作品として三四郎が適当とも思わないが、さりとて他は思いつかず、『鉱夫』などと言っても通じるとは思えず。

マケラ指揮のリュリ
https://www.youtube.com/watch?v=Wy2yNJkOxj0
リュリ同様、丸太棒式指揮棒?を使用。ご安全に。

ドボラック法(Dvorak method)で知られる気象学者Dvorak氏はアイオワ州Cedar Rapidsご出身。チェコ系でもあり、ここにあるCzech Villageに縁がありそう。
一方、キーボードのDvorak配列で知られるDvorak氏はミネソタ州Glencoe生まれ。こちらもチェコ系とのこと。
Wichita Grand Opera のメンバーでDvorak姓の方が居られたと思ったが調べると出てこない。あれ?

「自閉」の語の提案者。たいへん啓示に富んだ文章。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shinshumedj/66/5/66_305/_pdf/-char/ja

トランプ氏大統領再任。
うーん。非理性的・差別主義的な人間をトップに据えるか。米国は。
米国の最大の輸出品は、自由と民主主義だと思っていたが、ひょっとすると「理性」こそが最大の輸出品目であったかも知れぬ。
そこからすると、米国の国際的価値の低下があるのか、あるいは、理性はもう世界では必要とされていない物品、売れない物品に成り下がってしまったのかも知れず、そうなると、米国の価値云々は別なところで決まるのだろうか。

トランプ氏、安倍氏(以降の日本の政治家諸氏)は「分断」で成功を得てきた。日本に関して言えば、石原慎太郎氏がその嚆矢と思っている。 私のような旧弊な人間には、こうした「他人の悪口を言う者」は、ぜったいに誰か他人を重んじるという気持ちはなく、信用すべきでないと感じられるのだが、多くの人々がこうした人間を「正直者だ」と素直に信じるらしいのは悲しい。私が過度に道徳的だとは思わないのだが。
私は多くの場所・多くの時において「よそ者」であったので、『最初に分断されるのは自分である』という意識が強いのかも知れぬ。そういう意識を持たずに生きる人の実感は私にはわからない。

クララ・シューマンのピアノ協奏曲
https://www.youtube.com/watch?v=z8RNtCK5XsA
長く、チェロとピアノの二重奏が繰り広げられる。となると、ブラームスのピアノ協奏曲第二番との関係が気になる。
この曲とブラームスのピアノ協奏曲第二番を並べて見れば、クララの協奏曲は1835年完成。ブラームスの協奏曲は1878年着手。ちょいと隔たりが大きく、あまり直接的な連関を考えることはできないだろう。音楽的なテーマとしても類似性を見出しにくい。

自分はほとんど見たこともない鉄道車両ナハ10系を好む。小学校に上がるかどうかという頃、家族で北陸小浜に行った際に撮影した写真に、ナハフ11とともに自分が写ったものがあり、これのためだと思っていた。
だがもうひとつ理由がありそうだ。科学教材社の「Nゲージ」なる書には、様々な自作模型の図面や製作記事が掲載されていたが、この中にナハ10があり、小学生だった自分はそれらのうち、もっともお金がかからず簡単そうなナハ10の製作に取り組んだのだった。
ボール紙に窓を抜き、バルサ材で屋根を削り、組み立てた後、ラッカーで車体は茶色、屋根は銀に塗った。おそらく透明プラ板で窓ガラスをつけたところで断念したような気がする。あの頃の製品が現代のものほど精密ではなかったとしても、小学生の粗い工作で、製品と同等のものができるわけもなく、完成しても無意味だと感じたからだろう。あのナハ10の車体はしばらく工作箱の片隅で眠っていたと思う。
長い間このことは忘れていた。

机。
昔、家族で住んでいたアパートの1階倉庫にあった大きな木の机をもらってきて、自分の勉強机としていた時期がある。良い机だったと思うのだが、何故か解体・廃棄することになり、鏡板一枚だけを工作台として手元に残していた。 一度、この板で車掌車を作ろうとして、窓だけ抜いたが、スケールを誤っていることに気づき、そこで放棄した。
今でも車掌車というと感じるところがあるのはこの記憶によるのだろうか。

急行「大社」について調べる(ナハフ11つながり。とは言え、客車列車時代の大社についての情報は発見できず、以下は気動車時代のお話)。
名古屋発(出雲)大社行き。ただし、名古屋→(東海道線)→米原→(北陸本線)→敦賀→(小浜線)→東舞鶴→(舞鶴線)→綾部→(宮津線)→豊岡→(山陰本線)→出雲市駅→(大社線)→大社、であったらしい。
約11時間とのこと。全線乗る方がおられたのだろうか。まあ、夜行は早すぎる時間に到着しても困るので、むしろちょうど良かったのかも知れない。と思ったら、昼行だったのが驚き。

TMAF 台北の音楽祭の教員・学生混成オーケストラらしい。
https://www.youtube.com/watch?v=YN5A1IJnpwg
主席奏者(主に西洋人のようだ。きっと教える側かしら?)も上手だが、後ろの奏者の粒も結構揃っていて、オーケストラとしての味わいが十分生まれている。素晴らしい
ドヴォルザークの7番は結構複雑で弾きにくく、響かせにくい曲だと思うが、スマートな美しさから、音響の塊的な凄みまで十全の演奏と感じる。
ホールも良い。台北あなどれん(侮っていたわけではないが)。以前から上海四重奏団は「推し」だったが、台北も良い。アジア圏に様々な味わいをもったオーケストラがあるのはとても素晴らしい(私も日本国内のオーケストラももっと聴かねば。広島、山形あたりかな?)。
自分のパートが休みのとき、他のパートの音を聞いて「にこ」と笑むのがなかなかに良い。ヴァイオリンの方、オーボエの方など。
ファゴットの後ろに透明アクリル板。難聴防止かな?
もひとつ、ケント・ナガノ指揮の2022年のマーラーも見た。こちらの演奏が少々神経質に聞こえるのは、曲のせいか、指揮者のせいか。あるいは、オーケストラとしてこなれきっていないからか。さらに言えば、そういう表現を行っているのか。
(Flの王芙紀女史がお綺麗でいらっしゃる。この方カーチス出身なのね。皆さん米国留学の方が多いように思える)。

亡父は広島カープのファンだった。
もともと東京住まいの通例で巨人ファンだった。広島出張の折、訪問先からの帰途乗ったタクシーで「巨人勝っているか?」と聞いたところ、運転手さんの機嫌が悪くなり「お客さん、巨人ファンならここで降りてくれ」と。
「分かった。今から広島ファンになる。」と誓って駅まで送り届けてもらった。
うちの親父の良いところは、これが言い逃れでなく、実際に広島ファンになったこと。この話も広島人の郷土愛として、また、その郷土愛に絆された自分自身の話として、懐かしく楽しそうに話していた。
もしかすると、父は「広島カープファン」というより「『広島カープファン』のファン」だったかも知れない。
私の従弟の細君は縁あって広島の学校に奉職し、やはり熱心なカープファンになった。若くして亡くなったが、葬儀の際、ひと部屋真っ赤だった。

アルルの女に「王の行進」から取られた曲があるが、Internatonl Music Score Library Project に書いてあるには、リュリの「Marche du Régiment de Turenne テュレンヌ連隊の行進」なんだそうだ。確かにこの曲を探して聞くと、そう聴こえる。
一方、Wikipediaの方はプロヴァンス民謡『3人の王の行列』としている。私が過去に見た解説は「3人の王の行進」だったように思う。行列と行進はおそらく同じ単語の訳の違いだろう。
もちろん、プロヴァンス民謡をもとにリュリが曲を書いている可能性もあるし、逆の可能性もある。さて、真実は如何?
ChatGPTとのやりとりをつけておくのが現代風だろう。例によって、適当な嘘を言ってくる部分もあるので、気づいた限りツッコむ必要はある。
https://chatgpt.com/share/6731a02d-b320-800b-8466-96911d357691

京都(奥丹後)のお酒「伊根満開」の記事
https://dancyu.jp/read/2022_00006339.html
(私は、Dancyuを始めとするプレジデント社に「成金趣味」っぽいところがあると思いこんでおり、これを好まないのであるけれど、この記事は努力をする人に敬意を払って書かれているように思う)。
このあたりを読んでいると、日本酒とは本来すべて純米酒であるべきものが、戦争と税金のためにアルコール添加が当たり前になってしまったということ。
昔読んだ「吟醸酒への招待: 百年に一つの酒質を求めて」(篠田次郎)にも批判的にこそ書かれていなかったが、「吟醸酒」という特別で効果なお酒がなおアルコール添加が当然であるように述べており、読んだ当時も不思議な気がしていた。
ワインにも腐敗防止等でアルコール添加したものはあるけれど、それはそれで「酒精強化ワイン」と特別扱いしている。そういうところはワインの世界は偉いよね(アルコールと言わず、『酒精』と書いているのはいささか商業的かも知れぬ)。まあ「赤玉ポートワイン」なんてものは「ポートワイン」の名が許されず「赤玉スイートワイン」になったけれど、世界的圧力がなければなかなか改善されないのが、日本の製造業ではある。(その意味でもハム、ベーコンも国際レベルになって欲しいものだ。値段が倍くらいになりそうだけれど・・)。

こういうのを読んでいると日本酒が飲みたくなる。酒屋がもっとも美味なるように日にちを数えて塩梅してもらった樽酒も忘れられないが、一方で、雪の舞い踊る北国の冬、焼鳥屋さんが直火で薬缶を炙り、そこからコップに注いでくれる熱燗もまた忘れがたい。どちらも佳き日本酒だと私は思う。

北国の雪舞い踊る冬の日に直火薬缶の日本酒や好し

ひまわり9号故障。調べると、昔私が使っていたのはひまわり4号。その際に参考にしていたのはひまわり3号の本。

amazon の商品評価がだんだん機能しなくなっている。「ユーティリキー」なんてそのよき実例。
もともとの商品「スイステック」の出来のほどは知らないけれど、コピー商品がたくさん出回り、それらの評価は最低と最高の二極。
おそらくは最低の評価は実際の購入・利用者によるもの。「値段相応」「安物買いの銭失い」。
おそらくは最高の評価は営業的なもの。AIや自動翻訳を用いて安価な人件費で書き込んでいるかも知れない。
昔のインターネットは「賢く・余裕のある人だけが接続できる場所」であり、それらの人々の賢さを無料で利用できた。
だが、近年は、お金さえあれば良く倫理観の低い者が跋扈する世界になってしまった。誠に残念。

この手の携帯用小道具にはたいへん購入意欲をそそられるが、実際の機能や利用頻度を考えると、ほとんど「無駄」である。
昔、東急ハンズで買った50円の栓抜き・缶切り。10年くらい持って歩いていたが、使ったのは一度きり。
そもそも栓抜きは使う機会がなくなったし、稀に栓抜きが必要なときは、栓抜きがあった。
缶切りだけは、出張時の東北新幹線で缶ビールのプルタブのタブをねじ切ってしまった方がおられ、使ってみたが「穴が小さいのでビールを飲むには不適」という結果だった。まあ、飲めないより良かったのかも知れないが、「道具を持っていて良かった」という場面ではなかった(車内販売員は缶切り等持って居られない由)。
というわけで、携帯用小道具。見るのは大好きです。偶には買っています。が、買って満足するために買っていることを肝に銘じています。

ちなみに、飛び出しナイフ式ドライバーセットはぐらぐらするので、ネジ回しで〆たいが、自分自身のネジが〆られないのが悲しかった。
飛び出しナイフ式六角レンチは、悪くはなかった。そもそも六角レンチは輪っかにじゃらじゃらぶら下げていて使いにくかったり収納が面倒だったりするのでこの形式は良いと思った。

蒸気機関車の製造
https://www.youtube.com/watch?v=Zbnxpn-kk5I
再見。なんというか、規模こそ大きいが、工作方法は手工業的だと感じる。ロッドの長さが車軸間隔と合致している必要があるはずだが、「合致させる」ための方法がよくわからない。まあ、最終的に軸受に入れる楔などで微調整するのだろう(私がそれしか思いつかない、ということだが)。
また、この映像では4シリンダー機関車を作っている。
結局日本では3シリンダー機もものにならなかったが、本来多シリンダー機の方が回転が円滑で機関車の振動も少なく、(少なくとも理念的には)優秀であったはず。オートバイでは「単気筒」の愛好者も多く、独特の振動を好む向きもあるけれど当然、4気筒の方が滑らかなのは間違いない。
また、機関車トーマスなどでは内側シリンダー機が多く見られるが、外側シリンダー機より振動が小さいらしい。
こういう映像を見て(無責任に)いろいろ考えるのは面白い。

横浜シティフィルハーモニック
だったん人の踊り、眠りの森の美女、ベートーヴェンの交響曲第七番。勢いのある凄いプログラム。
若者のオーケストラだね。羨ましい。

木心トリオ。知った曲がひとつもない久しぶりの音楽会。
サロン形式で演奏者と近いこともあり、「部活動」っぽい。 「こんな楽譜みつけた」という先輩が腕達者な仲間と試演しているのをわくわくしながら眺める後輩の気分。
「皆もこんな良い曲知ったら嬉しいよね」という気分がビシビシ伝わって、嬉しくなってくる。
※演奏レベルが「部活動の試演」という意味ではないです。

こんなピアノの仲間、ヴァイオリンの仲間がいて、そんな「部室」があったらなあ、という夢のような演奏。
(チェロの達者がいると私の地位が相対的に下がるので、100km圏内は遠慮したい)。

若い頃、献血でもらったネクタイピンのクリップ部が金属疲労で折れた。
もう30年以上になる。母が町内会の保健委員だった。で、赤十字の献血車が来るからと『動員』されてしていた献血。
若かったので苦にならなかった。
一方、母は「あまりに貧血だから」と採血できず、さらに看護師さんに「医者に行った方が良い」と言われて行った医者で筋腫を見つけてもらった。早期発見だったこともあり、万事都合の良い手術日を選ぶこともできた。偶然、上皇后陛下も同じ病気で同じ日に手術をされたことを記憶している。
今となってはネクタイなど年に数回するくらい。最近はむしろ「趣味でネクタイを〆ている」ような状態。
ネクタイピンの土台(クリップ部)は東急ハンズなどで売られているし、修理して使いたいものだ。あまりに長く持っているので、これが使えないことが考えられない。まあ、天賞堂の機関車ネクタイピンなど持っているけれどね。
ついでに言うと、美術大学のフリーマーケットでも種々女性用アクセサリーを作って売っていらっしゃるが、ネクタイピンなど男性向けはほとんど見ない。ちょっと残念ではある。

サンシティアンサンブル
弦楽器、木管楽器、キーボード、ピアノなどのアンサンブル。もともと大規模マンションの住人のその時の楽器構成で発足したアンサンブルとのこと。
私にとっては、弦楽器・アコーディオン等混成の小学校器楽部が懐かしい。しかもアコーディオンとは異なり、キーボードは様々な楽器の音が出せる。時々、「あれ、この音はどこからするのだろ」と目で楽器を探してしまう(楽器奏者の習性)。
曲目もまた、器楽部と通じるものがある。皆が知っているクラシック小編、映画音楽などの編曲もの。
こういう音楽の楽しみ方がもっと広く行われて良いと思うのだが、編曲も含めて考えると大変だよね。
私自身、チェロ四重奏用に譜面を作ろうとしているが、移調・写譜程度でもなかなか面倒である。

兵庫県知事に斎藤氏再選。
庶民の「底意地の悪さ」を感じる。「公務員さんは旨いことやってらっしゃる」という前提があって、「そんな公務員さんをやっつけてくれる」のが痛快と思うよう心根。それは愚かさでもある。
保守政治家にも同じような「底意地の悪さ」を感じることが多い。「国民は税金払わないように誤魔化すんでしょ」、「日本にやって来る外国人は全部ワルモノでしょ」「先進国と言っても羊の皮をかぶった帝国主義なんでしょ」等など。
それをリアリスムと言ってしまえばそれまでなのだが。
インテリ的理想主義が敗北しつつある、と見るべきだろうか。
加藤陽子氏の「不幸の均霑」ということばを同時並行で知った。この理屈は私の体験・実感として日本人社会のと特質として首肯できる。(海外の社会について私は何も知らない)。さて。

昔、機関車トーマスを磁石のついた棒で撫でると、運転/停止できるおもちゃがあった。 で、息子がこの磁石でMacintoshの画面を撫でたせいで画面が斑に。昔のブラウン管式テレビは、電子銃からの電子放射を電圧で曲げていたが、磁力でも電子が曲がるため、画面(金属製のマスク)が磁化してしまうとさらに意図せぬ曲がり方をしてしまう・・・ということだったと思う。

テレビで映画「沈黙の戦艦」を見た。わかりやすい。
砲撃は一発で命中するなどたいへん効率がよろしい。スピルバーグ映画では、わざと気を持たせる展開があったりするが、そういう思わせぶりなところは全くない。たいへん「男らしい」映画。
戦艦を制圧する犯罪者集団のひとりをトミー・リー・ジョーンズ氏が演じていた。この方、サントリーの宣伝で頻用されているが、こういうB級映画の方なんだよね。MIB(Men In Black)だって所詮B級だろうし。ともあれ、どんな映画でも悲哀と可笑しみを感じさせるところが美点で息の長い役者になったのだろう。

第一次大戦後のプラハの有様。
<引用>
チェコ人は国民劇場だけを、ドイツ人はドイツ人劇場だけを訪れていたが、ツェムリンスキーは 1919 年にチェコ人によって組織されたオーケストラに指揮者として招かれて以来(これが、そもそもチェコ人のオーケストラをドイツ人が指揮した最初の例だった)、しばしばチェコ・フィルや国民劇場のオーケストラに招かれて指揮をした。
</引用>
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/23101/0201200401.pdf
井上 征剛氏の博士論文「アレクサンダー・ツェムリンスキーの《夢見るゲルゲ》  ---現実ともうひとつの世界をめぐる歌劇」

ドイツ人社会とチェコ人社会が相応に分離していたのね。ドヴォルザークがドイツ語を学んだり、スメタナがチェコ語を学ぶ、という文脈からもある程度知れることではあろうけれど。そしてまた、プラハのユダヤ人街のカフカ、辺境ブルノにはヤナーチェク。我々が思う以上にチェコ一国でも広かったのだ(特に時間的・文化的に)。

今月の誤読(シリーズ化しそうだ)
 ヒストリカル・ヴァイオリン弾き
 ヒステリカル・ヴァイオリン弾き

 ワレカラ(海の生き物。海老や蝦蛄みたいなの)
 カレワラ(フィンランドの神話。シベリウスがこれを題材に色々作曲している)
なんか末期的だな

また、今月の誤字
 Wikipedia「夕日のガンマン」の登場人物の説明で「他社を圧倒する威圧感」
 もちろん「他者」だろうね。

昔、インターネットは接続が難しいものの有用な/面白い情報が無料で入手出来る場所だった。
今、ごく簡単に接続できるようになり、有害な/不愉快な情報が大量にあふれかえる場所になってしまった。
あれは gated community だったから成立したのだろうか(同じ感想が繰り返される)。

ネットでコンソメの作り方を見る。たいへん面倒。
以前、漫画「おいしんぼう」で蕎麦つゆの作り方を題材にした回があった。明らかに有名老舗の主をモデルにしたと思われる初老男性が、つゆの作り方を解説する。これも結構面倒なのだが、よくこの作り方が公開されたなと思っていたら、柴田書店の「そばの基本技術」により詳しい作り方が写真とともに掲載されていた。正直に言って、滅茶苦茶に面倒。解説をぜんぶ読むことすら苦痛。半地下の保存場所を始めとして施設・道具を揃えるだけだけでも相当の投資と知識が必要というもの。
これを公開しているということは、真似できるものなら真似してみよ、と言う心意気を感じた。
おそらくは「おいしんぼう」はこの教科書等をもとに書かれたのであろう(それでもこのネタを拾い上げ、話として展開するのは非常な腕である)。
そしてまた、もちろん多くのお蕎麦屋さんはも少し簡易な方法を使っているだろう。(昔読んだ、辻調理師学校の創立者辻静雄を題にとった小説でも、フランス料理のコック養成課程では、出汁のとり方は、本式・ふつう・簡易法の3つを教えるとあった。そうでなければ、様々な就業先に対応できない、と)。
以来、蕎麦屋さん、そしてまた世の中の調理店のやっていることに文句を言う気がなくなった。私が払っている程度の小さな金額でどこまでを要求できるだろうか、と思うのだ。
まあ、私は気に入らない料理店には行かなければ良い、という気軽な立場でもあるので。

トヨタ自動車が「ルーミー」なる車を販売している。
凄いな、イスラム神秘詩人の名を冠している(んなわけない)。
某社のとある自動車は、ある地方の言葉で、ちょっとここでは書けないような意味であるそうだ。恐ろしいね。

オブローモフ(北大人文学カフェ)
https://www.let.hokudai.ac.jp/cafe/15577

そういえば、サン=テグジュペリ「夜間飛行」のオペラがあったと思って調べると、まとまった情報があった(感謝)。 https://opera.tosei-showa-music.ac.jp/search/Record/WORK-00325
ファビアン(夫)は登場しないんだ。まあ、作劇上そうなるか。
1966年にすでに日本で演奏されているんだ!
仏題「Vol de nuit」も書いておいて欲しいところだが。

ある資料をみていたら「両軌鉄道」という語があった。見慣れぬ言葉だと思いネットで調べたが出てこなかった。 英語版を見ると、two-railとある。モノレールと並べて書かれているので、私が訳すならば「一般鉄道」くらいかな? ちなみにある資料とは、ICD-10(国際疾病分類)。こういう語が出てくるのは外因死の理由のコードのところ。
chatGptに尋ねると、中国語の「双軌鉄路」等から作られた語ではないか、とのこと。言われてみればそうかも。
レトロニムってやつだね。

ネットで「肘折」なる語を見てあれ?と思う。
そう言えば、ここのアメダスのデータを見たことがあったっけ。ついでに、GoogleMapで周辺を見回したことがあったっけ。
あれは何年前?

サリクス カンマーコア バッハ教会カンタータ
これから100年かけて全曲を演奏するというシリーズ。第1回なれば逃すべからず。
100年云々はさておいても、行って良かった、聴いて良かった。
演奏会終了後、隣席の(見知らぬ方と)「よかった」「よかった」「昨日も来ればよかった」「(公開)リハーサルも来たかった」とやりとりするほどだった。
聴いている時・そのあと考えても良かった。

まず、バッハの曲が良い(相当当たり前)。
歌手・奏者みんな旨い(すごく旨い)。
曲の並べが良い。 最初の出だしがイタリアっぽくてびつくりしたが、やはりバッハ。

3曲目でオーボエが入り、4曲目でオーボエ・ダ・モーレ(?)に変わるのも凄く良い。 独唱歌手のパレット=音色感をうまく出してくる。渋み・温かみ、爽やかさ・若々しさ、輝き、悲痛さ。
そして、最後にこの歌い手を出すのかよ(大喜び)。パントマイム芸の「が~まるちょば」っぽく見える方が大トリ。
どんな声でどんな歌をうたうのか、と一瞬でも思った私が大間違い(懺悔)。
ものすごく繊細で、ものすごく心を捉える歌唱。激ギャップ萌え。
今回、この人のこの歌を最後にした人は天才(プロデューサー的才覚として)。
そうそう、弦楽器陣は安全・安心の La Musica Corrana の方々。LMCのメンツが出ているということは、他の方々もそれだけの品質と見識があると見て良い、と私は考えつつある。

私は、マタイ受難曲とロ短調ミサだけそこそこ聴いているが、そもそも、バッハの教会カンタータをきちんと聴いたことがない。これからもっと聴きたいが、サリクスを聴きたい気持ちが強い。他もよかろうが、ちょっと怖くて聴けない。

私はカール・リヒターのバッハも好きだし、クレンペラーのバッハも好きだ。でも、これら「グランドオーケストラ」のバッハの持つ圧倒的構造感も良いけれど、サリクスの繊細で活き活きとした構造感が今は聴きたい。聴きたいよお。(はよCD出して下さい。それから2年に1回と言わず・・・とは思うのです)。

今まで、バッハの宗教曲を「楽しく」聴いてはいけないように思っていたのかも知れない。
もちろん、宗教的に真面目に聴くのが本道かも知れないが、美しさを喜び、生き生きとした表情に惹かれ、そういう聴き方も許されるのではないかと、今回の演奏を聴いて思った。

知人から楽器を買うかも、とお知らせを頂く。ルーマニア製のチェロ。
昔、東欧製(チェコだった気がする)のチェロを気に入ったことがあるので、気になる。
昔、楽器を作った方から、「自分の楽器の音が知りたいから演奏せよ」と言われて何人か集まったことがある。あれは面白かった。それぞれの「持ち音」があり、それが楽器とどう響き合うか。そんな課題だった。

今年の演奏会はすべて終わった。現在の持ち曲は以下のとおり:
 ブラームス 弦楽六重奏第一番第一楽章:練習が始まった。
 ベートーヴェン 弦楽四重奏 Op.18-5:練習が始まった。
 ベートーベン 弦楽四重奏 Op.132:年明けから練習
 選曲中:2コマ
 調整中:弦楽五重奏(Va2本)
なかなかいいではないか。

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