読書の記録(2025年5月)
秘話陸軍登戸研究所の青春 新多 昭二
以前、ネット上で読んだ話であるが、まとまって読めるので、購入・再読。
ある日ある駅前で太平洋戦争を防衛戦争であるかの如き演説をしている者がいた。あれはまぎれもなく侵略戦争であって防衛に転じた後も無責任に戦闘を持続していたのではないか。「そうでありたい」と「そうである」の意図的・非意図的な混同が最も組織を危うくする。それがあの戦争の少なくとも目先の反省ではないのだろうか。
ジャン・クリストフ ロマン・ロラン
岩波版第2巻。ドイツ人の悪口はなかなか終わらなかったが、急な出国でこんどはフランス人の悪口に。
も少し理性的な読みをするならば、悪口ではなく都市や国家さらにはあらゆる人間集団に対する猜疑・批判であると見るべきなのだろう。
ロマン・ロランについて調べる(Wikipediaを読む)⇒高田博厚⇒下高井戸共産村⇒芸術家のヤギ飼育=取手アートプロジェクトみたい!(レゴビルダー三井淳平氏も参加).
入院してもなかなか進まない。良く言えば緻密な文章。悪く言えば無駄でくどい文章。今のところフランス芸術界の悪口が続いているが、これを21世紀の私が精緻に読む価値が見いだせない。そもそも仏人の筆者(小説家)が、独人の主人公の目を通して語らせるフランス芸術界(音楽、文学、演劇など)の悪口ってば、読むに値するのかね、と思い始める。ジャン・クリストフの性格設定もまた、「ドイツ人は無骨な野人だろ」という紋切りが出発点になっているようにも取れる。うーん。あと2巻読めるかな。それともこうした「悪口パート」を飛ばしつつ「抄訳」として読んでいくしかないのか。
ビザンツ皇妃列伝 (憧れの都に咲いた花) 井上 浩一
再読。中身を細かに覚えていなかったこともあり、入院中楽しく読めた。ちょうど完読。
この数年、オスマン・トルコ側の時代劇ドラマを見続けており、ビザンチンについてはどちらかというと「悪者」設定(弱体化しつつある帝国にあって皇帝は善良だが弱々しく、悪代官がはびこっている的表現ではある)。また、癩王ボドウィンやアンナ・コムネナの話題をネットで見たりすることもあり、ちょっとビザンチン帝国を味わいたくなっていたところだった。
この書は、ビザンチンの通史ではないけれど、8人の皇妃を通じて、滅亡に至る様々な局面の雰囲気を味わうことができ、大変楽しく読める良書である。
癩王ボドウィンやアンナ・コムネナについても少しだけ出てくる(前者は名前言及程度、後者はもう少し)。
井上先生の本をも少し読んでみるか、あるいは、漫画アンナ・コムネナを読むか?
Google Art&Cultureでビザンチンのモザイク画を眺めようとしたが探し出せなかった。無念。
そうそう、「フィラデルフィア」はギリシア語であり、東ローマ帝国内などにいくつかあり、ひとつは現在のトルコとのこと。米国のそれしか知らないからびつくりしたね。
フェルナンド・ペソア詩集 澤田直(編訳)
まあ、私は詩に憧れつつも詩を読む能力にかけるので、何度読んでもわかりはしないのだが、それがためこの詩集も入院中でも良いと思って持参。正解だった。わからないままにあちこちを読み飛ばし同じ場所を何度も読む。呼び出し待ちの無聊を慰め、読んでいる途中で呼び出されてもあまり気にならない。詩人には失礼だが、私の今回の入院には適切な書であった。
帰宅後「アナーキストの銀行家」を見始めた。これもまたペソアの一面であろうけれど、これまで見てきた「不穏の書」「詩集」とも異なる散文で少し驚く。こういう方面からペソアに入る方もあるだろうし、その場合の「ペソア観」は私とは同じではないだろう。だが、そうした多様なペソアの見方こそ、ペソアが異名者を通じて表現したものであったかも知れない。
アナーキストの銀行家 フェルナンド・ペソア
不穏の書や詩集のような高度な幻想性を期待していたので、少々拍子抜け。
まあまあ面白い幻想文学?と言ったところ。異名者のなかにはこういう素直な方も居たのね、と理解しておこう。
短編集のうち、「アナーキストの銀行家」が最も面白かったか。若干くどいし、つい真面目に論理を追いかけたくなるが、まあそういうものではないだろう。私は直線的な「論理」だけでなく「数理性」「ばらつき」を重視しているので、こうした論理っぽいものを見ると、「そういう展開も間違っては居ないが他の展開もあるだろ」思考に入る。そしてそれをなんどもしていると大変疲れて読書に集中できないので、ちょっとこういう作品は苦手。
(とは言え、こういうことを実際に自分で読んで感じることが大切であって、他人の評価を気にするなど以ての外である。)
翻訳は少々微温いのではないか。私にとっては澤田直氏あってのペソアなのかも知れない。「アルセーヌ・ルパン」に堀口大學を必要とするように。
王の没落 イェンセン
「王はいつになったら出てくるのだろう」と思いつつ読むが、なかなか出てこないし、出て来るのも一瞬(全三章中すくなくとも第二章までは)・・・と思っていたらそういう風になるタイプのお話なのね。種々象徴的というか意味不明的材料を簡潔に投げ出して来るので、落ち着いて最後まで読むべきお話。
主人公にも周囲の人物にも道義はないし、古い時代を題材にとったお話なのでそれで良いのだろうが、そういうのも含めた人生と歴史を描いたものと理解すべきなのだろう。
翻訳者による解説には「象徴主義」の語がみられ、「グレの歌」などに馴染んでいる者には、「やはりそうだったのか」の感懐があるけれど、岩波の紹介文にこの語はない。入れておいた方が良いと思うのだが。
後、稀に日本語が雑。「大人の子供」は変でしょ。ふつう「成人した子供たち」って言わない?他にもあった。
外国語の水曜日(黒田龍之助)をめくり見る。
教科書的なものより「文学」を読みたいという学生の声。私もそうだった。
次を読みたいという切実な思いが生じないようなダレた文章は、日本語であれ外国語であれ読みたいとは思わないよね(循環語法?)。
その意味で記憶に残るのは、英語の教科書にあった「スコット探検隊(全滅)」や授業で読んだ米国の白人貧困層のお話などだ。
これらは数十年経っても覚えている。
黒田氏は本当に言語マニアでもあり、ある種「理系」っぽい(私も多少自覚があるが、アスペルガー傾向とかそういうのかも)。でも、自分はそういう人の話を聞くの好きなんだよね(自分がそうだから)。
中谷宇吉郎の随筆を青空文庫で読む。
十二花の雪、「先生を囲る話」について、娘の結婚、「もく星」号の謎 ――白鳩号遭難事件を回顧して――、雪男、湯川秀樹さんのこと、リチャードソン、私の履歴書
どれも読むに足るもの。また、「随筆」は気儘に何を書いても良いものではあるけれど、相応の批判精神を持って書かれており、「試論エセー」に近いのではないか。単なる「感想文」の如きものではない。結局、もく星号の謎は解けていないことを別途Wikipediaで知る。米側からの情報開示が少なかったことが大きな原因だとは思うが、中谷が言及しているような、本気で原因解明に取り組む人が居なかったのかも知れない。
青空文庫もいい文章を収録していて素晴らしい。
ジャック・カロを知っていますか? 谷口江里也
「バロックの時代に銅版画のあらゆる可能性を展開したジャック・カロとその作品をめぐる随想」の副題がある。
随想なのだから、何をどのように書こうが筆者の自由であろう。けれど、どうにも読みにくい。文章が舌足らずというか、飛躍するというか。また、事実・推察的事実・意見を混ぜ書きにしているのも辛い。歴史的事実についてはどの程度専門的確認がされているか怪しく感じられる。テーマも面白いし、カロはもちろん面白いのだがもっと書き様はあったのではないだろうか。
「悪文の教科書」に入れたくなるような「一見良さそうだが、読んでいるとイライラする文章」と感じる。(酷評多謝)
文章は飛ばし読みして、絵を眺め、古書店に早めに持っていく・・・と考えているところ。
ドストエフスキー前期短編集
今はなき福武文庫。前2編を読む。いつものドストエフスキー節。若い頃からこうだったのだ、と感じる。この後、ペトラシェフスキー事件をつ通じて、思想を深化させてゆくが、それでも若き日があったからこその深化だと感じる。
電脳の歌 スタニスワフ・レム
ご存知トルルルとクラパウツィウスの冒険。彼らの肩書を「建造師」としている。深見弾だと「宙道士」だったような。他の訳書の存在を前提として、己の立ち位置を「原典に忠実な訳」としたのかな?深見訳は「初めての訳としてわかりやすさ・面白さを追求した訳」?どちらも面白く、両方読んでさらに面白いのでこれで良い。
読み始めたところだが、訳はこなれており、怪しい日本語がないのが有り難い。以前の
古い鉄道模型趣味誌を読む。旧1号から100号までがPDFで供給されているもの。
面白い。烏口使用について、1955年6月号ミキストに「今から17年前」が初出であるらしい記述がある。私は1980年頃、グリーンマックスのカタログで見たのが初めてだが、1938年以来の伝統ある技法であるか。なお、カタログの筆者はまず間違いなく小林信夫氏であろう。
我々が「古い」と思っている実物車輌が新車として続々と登場する時期なのも面白い。戦後、電化が進展する一方で、旅客用蒸気機関車は新製していたわけで、なんとなう蒸気機関車時代と電化時代は別なものと思うけれど、並行していた時期が長く長くあるのだ。
模型の動力伝達にベルトドライブが流行した時期がある、と。私も小学生時代にそういうことを考えたことがあるが、実用化しなかった。まあ、小学生のような愚か者の考えることは休むに似たりなのだが、今になって振り返ると、なぜ実装できなかったなどの難所がわかり面白い。一度でも考えておいたことは無駄にならない(まあ人生のすべてが無駄だと言えばそうなのだが)。
第63号ミキスト「私の名前を縮めたような店名で恐れ入るが」と「崎陽軒」に言及。「山崎喜陽」氏のお名前になんとなく通じると思っていたが、ご自身でもそう思われていたか。
TMS64号ミキストを読むと、DD50のデザインがよろしくないこと、当時も話題になったようだ。私も長年「妙なものだ」と思いつつ、そういう話をする相手もないので、ここに至って我が意を得たりと思う。「インダストリアル・デザイナア」による鉄道車両設計(への関与)についてこの時代すでに考えられていたのだなあ。と感慨。
TMS65号「レイアウトには山がある」に動力車のスリップ防止に「松脂」のアイデア。今はゴムで巻いた車輪があるからこんなことは考えないが、ちょっとおもしろくはある。この時代は、動力伝達用ゴムベルトに松脂様のものを塗っていたりしたのだ、というのは知らなかった。
TMS79号。オルゴール搭載車輌。「明色アストリンゼンのCM」とあるが判らぬので調べる。と、昭和7年からある化粧品。CMも長く「乙女の祈り」を使っているらしい(少なくとも昭和末頃まで)。驚くね。
TMS80号。塩水を使った可変抵抗、ジャガイモを使った電池。今どき科学実験(実習)のネタではあるが、これらを実用品としているのは、物不足時代を感じさせる。今日出海の小説「珍満亭」読んでみたいがネット検索では出てこない。
鉄道模型趣味誌は「機芸出版社」ということで「機械・機構の芸術」を目指していたらしくあり、そもそも、山崎氏・中尾氏・赤井氏の『同人』であったようだ。ただ目の前にある鉄道や模型を気儘に楽しむばかりでなく、高い志をもって『趣味』として生きる。そういうことが、やっと自分もわかってきたように思う。
こうした生き方は、豊橋交響楽団の主宰者であった森下元康氏にも(プロアマの違いはあっても)通じるところが強いように感じる。「魂の餓え」とでも言おうか。私自身森下氏と直接の接点はなかったが、同じ愛知県内で三村明先生も森下氏と交流があったと聞くし、杉浦薫師を通じて私は森下氏の孫弟子でもあるわけだ。そういうことを最近考えることが多くなった。パスカル・キニヤールの小説にもあった。「音楽が王の踊りに役立つとて、それがどうしたというのだろう」云々。自分自身目先の楽しさで音楽をやっている自覚はあるが、一方で、正確な音程によって作曲家が構想した和声感を実現(ないし理解)することや、構築と破壊による官能性の現出などを考えている部分もあり、「趣味の趣味たる由縁」に居るとも言える。
「お米のいろいろ」って「たくさんのふしぎ」のテーマにならないかな?
もち米、うるち米(ジャポニカ米とインディカ米)の違い。性状、生物、文化の違い。知りたい。
なぜ「お餅」はお正月に食べ、他の時期にあまり食べないのか。なぜ糯米は蒸すが、うるち米は炊くのか(外国ではどのように調理しているのか?)。糯米は餅にするが、うるち米は例外を除いて餅にしないのか。また、餅にしない場合、なぜ糯米は具を入れることが多いのか。などなど、素朴にして答えを見たことがない質問がいくつもあるように思う。
(とは言え、この内容は「パンが来た道」の二番煎じっぽいかも。でも良いのだ)。
そこから思いついて、そういえば、芋類はそれぞれ事典が出版されていたことを思い出した。調べると「サツマイモ事典」がWeb公開されていた。
https://imoshin.or.jp/publications/encyclopedia-of-sweetpotato/
芋そのものだけでなく、人物・団体・祭りなどについても記載されていて感心する。
米もありそうな気がしてきた。でも、それはそれ、「たくさんのふしぎ」に圧縮して欲しい。
というか、圧縮の思考実験をするだけで脳が爆発しそう(楽しい)。
●雑感
先月のクリストフ・コワンの演奏会
ヴィヴラートがかかっていない音を「美しい」と思う。弓の技術が卓越しているから、ということもあろう。
一方、ヴィヴラートがかかっている音は「ふつう」であるように感じた。
そういう生活を送っている習慣的な感覚なのだろうか。
この数年、自分は遅い弓をうまく使えるようになりたいと思ってそれはそれで重要だが、ふわっと早い弓を使うことも忘れないようにすべきかも。両方をきちんと使い分けられることが表現の楽しさにつながるのではないか。などと思っている。
ところで、昔昔、カラヤン関係の映像化作品で、ベートーヴェンの交響曲第三番を、ひな壇に一人ずつ乗ったチェロ奏者が弾いている動画があった。
変にゆっくりとウネウネしたヴィヴラートで本当に気持ち悪かった。正直に言うと、あれを見たせいでカラヤンから距離を置くようになった。
映像も気持ち悪かったが、音楽のテンポと関係のないヴィヴラートがとりわけ不気味だった。なんだったのだろう、あれは?流石にカラヤン風の作り込んだ映像は最近流行らない。まあなんと言っても不自然だもんね。
モーツァルトの弦楽五重奏 K.614 の演奏会が終わった。
反省は色々。硬い、なんか集中力を欠いてヘンなところで落ちる。なんかコロナの後遺症なんかな、と悲しい(悪いことはコロナのせい)。
音程もちょっと良いと思ったが悪い。基本的な和音がアカンくて、旋律を弾いても調性外になっているように聞こえる。音程が悪い前提でさらわないとどうしようもないな。難しいところで外すのは仕方がないが、四分音符一発の根音で外すようでは『音程悪悪大臣』であるぞよ。
自分のパートと旋律と、関係するパートのすべてを一度声に出して(相応に正確に)歌うくらいの訓練が必要そうだ。まあ、それをソルフェージュとなむ言ひけるのだらう。
現在の手持ち曲:
Mozart Quartet K.428 10/4本番
Dvorak Quintet Op.97 11/9本番
Beethoven Quartet Op.132 時期未定
Mozart Quartet K.421 時期未定
モーツァルトが多いね。もちろん自分が選択しているのだし、まったくそれで良いのだ。
チェロが少し伴奏よりの曲が主なのだが、そういうのをきちんと弾きたい。できるだけ音程(ハーモニー)のことを考えて生活したいので。
Selections by Henry Purcell, performed by Nigel North
https://www.youtube.com/watch?v=OeUzsDrNvyU
パーセルのRondo (Hornpipe) from “Abdelazer” は、聴いたことがある(もしかすると弾いたこともある)ように思うのだが、いつ・どこで・どんな編成で、ということが全く思い出せない。鈴木ヴァイオリンの教則本に入っているのだろうか?
と思ったならば、『ベンジャミン・ブリテンの有名な「青少年のための管弦楽入門-パーセルの主題による変奏曲とフーガ」の主題』になっているとのこと。それならば確かに聴いたことがある。
https://www2f.biglobe.ne.jp/~verde/purcell.htm
「管弦楽入門」も含め、ブリテンの曲にはなかなか馴染めないでいる。
NHK クラシックTV
演奏会の拍手をいつするべきか?の答えとして「辛さから救われに来る人もいる。そうした側への配慮もほしい」。
これは教条的でなく、本当に素晴らしい回答だと思う。私自身この場では適当な演奏評を書いたりするけれど、今一度「配慮」が充分であるかを考えるべきだ。
(それにつけても、シリアスな『ヨハネ受難曲』で主催者側がバシャバシャとシャッターを切る某音楽祭は、ちょっと考え直して欲しい。まあ、行かないから構わんけど)。
ネットで「絶対音感」の広告。要らん。
精緻な相対音感、和声感はまああったら良いと思うが。
「わさびの味が分かっては身代は持てぬ」とも言うし、A=442でも430でもいける人間でありたいし。
なんでこういう不要かつ有害なものを売ろうとするのだろう。売る側が売りたいものを押し売りするの愚。売りやすいものを買ってしまうの愚。ほんまそれ要りますか?売る方も買う方もよく考えるべき。
ガットの専門誌 https://gut.bmj.com/ があると聞く。
と言っても、この場合は人体を中心とする医学としての「腸」。
British Medical Journal 英国医学会誌?のひとつだもんね。
弦楽器のガット弦でもなく、テニスラケットでもなく、焼肉屋のガツでもなく、「お前らはガッツがない」でもない。
他にも、ガットにまつわる雑誌やサイトがいくつかある。ポップス系ではちょいちょい使われる用語なのか、1980年ごろの日本の音楽雑誌でもGutsなるものがあったらしい。
軍艦ピナフォア
https://www.youtube.com/watch?v=2oGV6p5j95A&t=4s
以前、米国のウィチタでの演奏を聞いた。今回はニュージーランド(ダニーデン市、人口13万人)。
この曲は英語圏でプロアマ混成またはアマチュアで演奏するのに好まれているようだ。
なんとなう身の丈にあった「おらがオペラ」の風情があってちょいと面白い。
雑な感想を述べると、アマチュアオーケストラの演奏能力は日本(関東近辺の市民オーケストラ)の方が高いかも。特に管楽器。
ただし、管楽器はそもそもの編成が「薄い」ので、ふつうの二管以上のオケから聞こえる響きはどの楽器もするはずがない。
人口13万人の都市規模からは相応以上にも感じる(周辺・遠隔都市からの応援の有無は知らぬ)。
ダニーデンは歌もアマチュアのようだ、ウィチタは歌はプロっぽかった。
日本で市民オペラがも少し盛り上がっても良いように感じるが、演奏しやすい曲がも少しあると良いのかも。
ある学校の「オペレッタ部」で、J.シュトラウス2世の『ヴェネツィアの一夜』をわりと頻繁に再演していたのも、レパートリーがなかなか広く持てないから、ということだったようだ。
日本語の合唱曲は相応のレパートリーがあるように感じる。コンクールの課題曲として整備・普及されてきた歴史があるからと感じる(あまり詳しくないので、理由がそれしか思いつかない)。一方で、コンクールの課題曲とは言いながら、演奏会用にも配慮されているケースが一定数あるようにも感じる。「蔵王」「筑後川」などは組曲として作られており、紆余曲折のある「大曲」を演奏する困難と楽しみを歌唱者に与えてくれるように思う。
そこで思いつくのは、合唱組曲でもありオペラでもあるような曲を作ること(思いつくのは簡単)。
ピアノ伴奏が基本だが、そこに管楽器数本が入っても良い、場合によってはピアノなしでも演奏可能といった作りならなお楽しいようにも思う。
まあ作るのも流行らせるのも簡単ではないだろうけれど、まずは「オペラを作ろう」的テレビドラマを作るしかないかな。天才高校生が(ヤナーチェク風の)ものすごいオペラを、同級生の歌い手・演奏者に「あて書き」しているようなの。愛と友情、出会いと別れを描く作品にならないかな(そういう小説をそのうち書いてみよう。主人公にはもちろんレオシュ・ヤナーチェクを擬する)。
メジューエワ様のメトネルを聴く。いい曲のいい演奏だ。ロシアという国がどうしようもない侵略国であるのは事実だがだからと言って。。。とつい考えてしまう。
ドヴォルザークの弦楽四重奏Op.96第四楽章は蒸気機関車の走行を模しているように思う。
大多数の蒸気機関車は2気筒・複動式であり、位相差90度なので、車輪一回転につき4回の排気音(ブラスト)が出る。
この点はバルブギアや弁装置の仕組みに関わらず一定だろう。
では、これ以外の排気音の出方は?と考え始めた。
以下を思いつく:
国鉄C53など3気筒、4気筒の機関車
3気筒の場合3拍子として、4気筒の場合どうなるのか?ずらして細かい拍子になるのか?
4気筒でもヴォークレイン複式などの場合、高圧・低圧気筒を同時に作用させるので、排気音は2気筒と同じはず。
Sey式などエンジン・伝達系の発想が異なる多気筒数の機関車
減速機構があるので、エンジンは高回転であり、排気音は小さくほぼ連続に聞こえるのではないか?
マレーなどの多気筒の機関車
普通の機関車と変わらないが、エンジンセットの位相がずれることはあるだろう。重連も同じ。
厳密には、高圧・低圧エンジンがある場合音が異なるかも。
蒸気タービン式機関車
ほぼ連続音になるはず。
なお、Franco-Crosti boiler のように排気利用をしていても、やはり排気音は同様みたいだ(Youtubeで見た。https://www.youtube.com/watch?v=csMehOTUQ90)。子供の頃読んでいた「学研の図鑑 機関車・電車」はよくできた本だったし、フランコ・クロスティ式の機関車の写真もあったが、解説が十分であったとは言えない。とは言え、こうして何十年も経って、この変わった形の蒸気機関車のことを思い出すことができるのだから、やはり偉大な図鑑だ。
Wikipediaでは、リビオ・ダンテ・ポルタ、5AT先進技術蒸気機関車など、面白い記事も見つけた。
首振りエンジンについても「安全弁」について言及するなど、非常に「工学的」な良い記事だった。こうしたニッチな記事は良い記載者に当たると本当に勉強になる。
奈良電気鉄道が近鉄と合併したのは、昭和38年。知らなかった。どうしても「戦時統合」を鉄道合併の主流(常識)として考える癖がある。まあ、関西方面の知識・経験がないのでそうなっちまうが。
また、奈良電の確保は近鉄と京阪で争ったことも知らなかったし、そもそも京阪に「京都駅」「大阪駅」がないことも知らなかった。なんも知らんな儂。「京阪乗る人おけいはん」でも「淀屋橋から京阪で」と言っていて、「大阪駅から・・・」と言っていないのは知っていたが。関西私鉄は「大阪駅」というより「梅田駅」の言い方を好むから・・・とも思いつつ。
「飛行場の測候所」
https://cwhung.blogspot.com/2016/09/blog-post_27.html
台湾の気動車について日本語ブログからリンクされていた台湾の方のブログ。
そう言えば、コロナで外出自粛だった頃、こういう「自分が少しは読めそうな外国語頁」を読もうとしていたことを思い出した。
ひらがな「の」をこのように入れるのは、中国本土でも見たことがある。お洒落という意識があるように思われた。
ちなみに日本語だと「航空測候所」なる語がありますな。
関西万博でユスリカ大量発生の報に接し「蚊柱の礎となる捨て子かな」の句を思い出す。
テレビで工学研究者への問いかけ「技術・金銭の制限がない場合、どんな世の中にしたいか?」があった。
私は、そこで、オマル・ハイヤーム師の言葉を思い出した。
神のように宇宙が自由に出来たらよかったろうに、
そうしたらこんな宇宙は砕きすてたろうに。
何でも心のままになる自由な宇宙を
別に新しくつくり出したろうに。
(小川亮作訳、青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html)
工学者は「実学」の人であり、物理定数をいじろうなんて思わず、こうした詩的発想にも縁がないだろう。
テレビなどのメディアで扱われると飲食店に行列ができる。
目に就く範囲でも、洋食店、中華料理店などで見かけた。近隣住民にとってはいい迷惑。行列がなくなる頃また行きましょうの体。
今月の誤字・誤読
「全店課長会議」を
「全裸店長会議」と読む。読んでしまう。申し訳ない。ほら、「課」と「裸」って旁が一緒だから。
「古代住居」を
「舌代住居」と読む。なんて意地汚い。
「定義温泉」なる文字列を見かけたが「じょうげおんせん」だった。無念。
精神疾患に効能があるとされていたとか。ふしぎ。
そこから仙台四郎や「私説・日本精神医療風土記」にたどり着く。自分の無知を知る。
以前撮影した写真を見返して「鉄筋コンクリート」を「鐵筋混凝土」と書いてある石碑を見つける。
「凝り」はぎりぎり「くり」ではないけれど相当良い線をいっている。
ネットで見ると戦前は学術的にもこの用語を用いていたようである。
「ビーナス」を「美之主」「美之須」と書くのも雅だが、こちらも雅であるぞよ。
「ヌル2」という単語を耳にする。万博の展示物のひとつらしい。
「ヌルハチ」なら、清帝国の「実質的な初代皇帝」ですな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%81
「バチカン」と見るたびに「バカチン」を思い出す不届き者。
「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」も、アンポンタンが混乱している感じがする。
中国語では規模の大小に関わらず「医院」を用い、「病院」は「〇〇病」の専門病院についてのみ使うとか。
https://kotobank.jp/jazhword/%E7%97%85%E9%99%A2
「病院」の語は明代の中国語から来ているみたい。
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900030433/KJ00004218877.pdf
西嶋佑太郎氏(精神科医、日本漢字学会、日本医史学会)にこうした用字の違いについてご解説頂きたいところ。
https://www.m3.com/news/open/iryoishin/1057952
女性のお名前で「早由里」をお見かけする。
すべての文字が似ていて目がクラクラする。どんな名字が良いかつい考えてしまった。
「古田早由里」では物足りないか。「吉田早由里」ならまあまあ。晶や昌の字と組み合わせると最高かも。
「皛納(きょうのう)」という名字の方にお会いしたことがある。しかも2名。驚いてお尋ねしたところご親戚なのがわかったけれど。
鉄道模型趣味の記事データベースで遊び続けている。
2013年11月号に「私鉄の小型機関車4形式 東野鉄道DC20・栗原電鉄ED20・東急電鉄デキ3021・が苦難鉄道ED40」なる記事がある。
「岳南鉄道」なんだろうか。こうした遊び心のある模型鉄道名はしばしば見られるけれど、他の3つが実在のようなので、これは誤字(このDBとしては相当珍しい)ではないだろうか。当の岳南鉄道の方々のことを思うと、この誤字で楽しむのも申し訳なくなる。
鉄道会社が「金を失う」と書くのを嫌がって旧漢字「鐵」を使ったり「金に矢」と書いたりしている例もある。
PCに取り込んだ音楽を「Ravel」で検索。作曲家モーリス・ラヴェルの曲が出てくるのは当然だが、ヴォーン=ウィリアムズも。
ああ「旅の歌 song of tRAVEL」だからか。
Yes, Prime Minister
https://www.youtube.com/watch?v=ZVYqB0uTKlE
相変わらず絶好調。「英国の500年に渡る外交方針」「なんのために欧州連合に入ったか」。この論法はBrexitをも説明しうるように感じる。もちろん冗談ではあるのだろうが、「物事全般を説明しうる美しい仮説」の信用ならなさを示しているとも言える。
私は「美しい仮説」愛好家なので気をつけよう。
WebブラウザChromiumはタブごとにメモリ使用量を表示することが出来る。
タブを新しく出すだけで(メニューが出てくるけれど)64.5MBですって。昔のMacintoshは8MBとか16MBで、もちろんOSこみで動かしていたのだから、気が遠くなるほどたくさんメモリを使っているように感じる。
イェニチェリ
https://www.youtube.com/watch?v=EB5Ad0I__SU
このメフメトを主人公としたドラマでイェニチェリの隊長は反乱を起こした末、逮捕・処罰されるが・・・というところ。「鍋」はイェニチェリの象徴であり「鍋が覆される」は「(イェニチェリが)反乱を起こす」に相当する言葉であるとか。それらしい場面がしばしばある。
隊長の名がクルチュ・ドアンらしいが、ガンダムにもそんな名前の登場人物がいるようだ。
しかし、大宰相の様子が常に不穏だ。なかなか尻尾を出さないずる賢い狐のように。
で、私が最も見たかった金角湾に向けた艦隊の山越えは38話後半から39話前半。まあ不可欠なテーマだが主要なテーマでもなく、ちょいとそれらしい場面がある程度。個人的には実地形を見たかったのだが。その辺りを再現するためのドラマではないので仕方がない。
サラディン映画におけるエルサレム側。
https://www.youtube.com/watch?v=bFPD029aYCM
エルサレム王ボードゥアン4世(癩王)。チェロの音楽が悲痛
姉シビーユの描かれ方が映画作品によって違うのもちょと興味深い。
ドラマ「女王と枢機卿」を見る。
https://www.youtube.com/watch?v=mbOxQgjyiF4
多くの登場人物はダルタニャン物語で履修しているのであまり困らない。一方、リシュリューの死に比べて、ルイ13世の死が明示的に描かれなかったので、最初ルイ13世であるかの確信が持てなかった。
自動字幕の「レッツ」は「レス枢機官(レ枢機官)」だね。
で、銃士の皆さんは歴史書どおりの活動しかしない。ほとんどの場面では「立っているだけ」。一部で、戦闘・警察行動をとるが、己の意志といったものは感じられない。フロンドの乱におけるパリ脱出など、ダルタニャン物語では面白おかしく描かれているが、そんなことはない(描かれない)。
Troopers (Full Web Series)
https://www.youtube.com/watch?v=rvoJXBqLILM
スターウォーズと関係なくもない兵士の物語。わざと安出来にしたのであろう。お話も安出来(褒め言葉)。
オーストリア・ハンガリー帝国末期を描いた反戦小説・映画(らしい)
C.K. Dezerterzy
読んでみたい・見てみたい。youtubeのお勧めが、中欧の中世から近代あたりの戦争・戦闘場面をたくさん出してくる。まあそれはそれで正しい私の趣味かも知れないが、知れない地名・時代が目白押しなので、調べながらついつい見てしまう。戦闘自体の描かれ方は大きく変わらないので、適当に見ているけれど。
オーストリア人(ドイツ語話者)である将校こそ大真面目に帝国への愛国心を説いているが、ポーランド人・ハンガリー人・チェコ人・ソロバキア人などなどからなる兵士には全く無関係。帝国の解体ということはこういうことか。
第一次大戦のイタリア戦線 Uomini contro (総攻撃)では、無意味な「対機関銃装甲」が出てくる。唾棄すべきほど無意味。
Facebookの「知り合いかも」に、薄着の女性が出てくる。こーゆー知り合いはいないな、自分。こういう女性嫌いではない(大好き)だが、見たい時とそうでない時(見ないことを強く求める時)があるのだから、きちんと区分して欲しい。他のネット宣伝もすべて。
文学の活動をされている人々。「100冊マラソン」みたいなの、自分には合わない。まったく合わない。
また、読書の傾向も私と異なる。
まあ、当然のことではある。人間はすべて異なるのだから。
ちょっと興味があったけれど、(おそらくはお互いに)距離を置くべきなのだろうと思った。
私はこの場所で勝手にほざいているのが良い。
ある街道筋の脇道にある古書店。例に寄って書を覗いていたところ、学生という方が「この辺りの古いことを知っている方を探している」と店主に尋ねている。
そういうことに興味があってよく調べている方が近所におられたけれど・・・という話につい耳を傾けてしまう。
また、建設会社が入って大規模開発をしようとしたが、皆が賛成しなかったことなど。
連休中さほどの散財もせざりければ、浜田山サンブックスなる書店に行きて、未知谷・青土社の本をば贖ひけり。
量子力学、ジャック・カロ、いずれも己が能力を省みず眺めてみんとて買うなり。
構えは小さかりけれど志いと高う書店とぞ見ゆ。
通りがかった地元のご婦人と店番との会話も面白かった。
ラ・フォル・ジュルネなる音楽祭り。
何年か前に行ったけれど、真面目な音楽もお祭り騒ぎの中に紛れさしてしまうのが苦痛であった。
自分のような者は人が集まる場所に行かない方が良いのだと思った。故に今年も行かない。望見もしない。
私のような者も多数ではないにせよ一定数いるだろう。まあ、声高に言う必要もないけれど。勝手にさらせ。
以前から気にしていた半蔓性の花「テイカカズラ 定家葛」とのこと。
「ニオイバンマツリ 匂蕃茉莉」とともに名前を調べなければと思っていたもの。
家の近所で見かける人々に適当なあだ名をつけている。が、それを発話することはない。
冬でもコンビニエンスストアでアイスコーヒーを買って歩いている人物は「アイスマン」。
小柄で優しそうな女性は「吉永さん」。強そうに見える女性は「ヨハンソンさん」。どちらも女優さんのイメージ。吉田茂の反戦グループ「ヨハンセン」とは関係ないよ。
兵器の内部構造解説シリーズ。
https://www.youtube.com/watch?v=DN4TJpPRhSQ&t=874s
回天、桜花のように日本人にとって様々な意味で痛切な兵器についても、冷静かつ技術的な説明をされている。
ドイツのキングタイガーも「戦闘には勝てるが兵站が重すぎて戦争には勝てない」「1時間使うために10時間の整備」といった評価。
戦争は常に科学たらざるを得ないことを思う。我が国が本当に戦争をしたいのなら、本当に戦争に備えるならば、科学を重視せよと言いたい。
そういえば、先月Ubuntuを22から24に上げた。
コマンドラインを叩いて再起動するだけだったが、22に入っていたGimpは24には何故か入らなかった(抜けていた)。一瞬驚いたがインストールはふつうにできた。
他にも入らないプログラムがあったかも知れないが、今のところ気づいたのはこれだけ。他は22でも24でも同じように利用できている。
また、BlueToothドライバが良くなったということはないらしい。キーボードは使えているので良いが、トラックボールはやはりアカン。
きょう日BlueToothは相当に重要なインターフェイスだと思うのだが、これで良いのだろうか?
デフォルトのテキストエディターは変わらずMousepad。行数も表示されるし過重すぎない良いエディタ。この雑文もMousepadで書いている。
いつの間にか表示はXubuntuLightに変わったようだが、悪くない。
Ubuntuは2009年に8.10を使っていたのね。これが最初であるかはわからないが、おそらくこの時以降ほぼUbuntuなはず。本当に長い間お世話になっております。きっと、Linuxのディストリビューションの中でも最長(私史上)だろう。Vine、Debian、Knoppix、Ubuntuと来ており、RedHat系はほぼ触っていない。
http://folia.txt-nifty.com/musik/2009/04/ubuntu-810-6753.html
鼠径ヘルニア(脱腸)治療のため手術・入院
昨年来遠歩きしていないのはこの症状のため。本番・練習に穴を開けないよう(仕事も繁忙期を避け)連休明けに実施。
今は、無事退院して、好き勝手にものを食べたり、ゴロゴロしているところ。
1日目 朝入院、午後手術、全身麻酔以降夕刻病床で目覚めるまでの記憶は全くなし。動くと手術部位が痛い。
2日目 微熱で一日ゴロゴロ。昼から普通食(完食)。手術部位は少し痛いので、姿勢を変えるのに気を使う。夕刻点滴終了。
3日目 痛みほぼなし。鎮痛剤をもらって動きまわる。病院の地下階から5階まで断続3往復。シャワーも浴びる。
4日目 退院。バスと電車を使いひとりで帰宅。途中で昼食(グラタン)を食べるの余裕。
予想より入院は一日延びたが、想定の範囲内で仕事にも差し支えなさそう。しばらくおとなしくするが、そのうち遠歩きをしよう。
病院には様々な病気の方がおられる。自分などは本当に軽い症状で、そこに医療資源をつぎ込むのを申し訳ないとも思った。これからも社会保険を納めて貢献しよう。できれば献血もしよう(自分が輸血を受けたわけではないが、できることをしようのココロ)。
また、病院とその周辺には様々な医療・バックヤードの方がおられる。医師・看護師・検査技師・薬剤師・清掃員・事務員・救急隊員などなど。多くの治療行為を滞りなく進めておられ、大変尊敬・感謝している。
ちなみに、隣の病床の方も見舞い客に医療関係者への尊敬・感謝の念を語っておられ、看護師さんらとのやりとりでもきちんとそういう応対をしていた。「良い奴だ」と思ったね。「食欲がないがアイスクリームは食べたい」と看護師に言い、看護師も「医師と相談する」と言い、その後医師が「栄養士と相談した。昼飯にアイスクリームをつける。だが、『持ち込み』は止めてくれ」と言いに来ていた。きちんと断る男もなかなか偉いと思うが、それにきちんと応える医療関係者も(とても多忙なのに)偉いなと思った。私にもなにか出来ないかと思ったが、思いつくのはアイスクリームの密輸だけだった。もちろんそんな悪いことはしないよ。
一方、悪気はなさそうだが、看護師に叱られがち爺さんというのもおり、これはこれで(危険なほどではないからだが)面白かった。
早朝から流し台で洗髪して「流し台周辺も着衣も濡れてビシャビシャじゃないの・・・早朝は従事者が対応できないから洗髪しないで」と言われて、「え、昨日も一昨日もしたけど・・・」という「より怒られる」応対をしてしまうなど、すこぶる正直者だった。どうやら組織人ではなく個人営業の職人さん(清潔好きなので、飲食関係か?)であり、ずっと自分の采配・才覚で生きてきたのだろう。それに比べると私自身なんだかんだ言っておとなしい組織人なのよね。
「鼠径ヘルニア」「鼡径ヘルニア」両用されているけれど、意味があるみたいね。専門的すぎてその差異がよくわからないけれど(ICD-10なるコード表を見るとおそらく前者が広義、後者が狭義っぽいが、病院で使われているコードがICD-10か否か確信がない)。
某日の朝、家の周囲を掃除していると、なにか変わった音がした。表現しづらいし事後的な感じとしては「滑走音などなど」。音がする方を見ると、白い煙が上がっているので、急いで見にゆく。
すると、駐車場でコンクリ破片を鼻先に載せて後退するジープ。そして、駐車場外壁(というか隣家のコンクリート塀)がちょうど一枚分崩れている。
まあ、人身事故ではなくて良かった。事故後警察をすぐには呼んでいないのがちょとアカンと思うがどうなることやら。
その前には火事でもなさそうだが、消防車が来てアパートの2階の窓を開けようと奮闘していたり、我が家周辺の治安は低下しつつあるのかも知れぬ。
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