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読書の記録(2025年6月)

旅に出るときほほえみを ナターリヤ・ソコローワ
大光社、サンリオ文庫、白水社と出版社を替えつつ出版され続ける書。
面白うてやがて悲しき物語。読んで良かった。主人公が《人間》であるのも非常にSF的。そしてSFの「科学」がいささか「社会科学」でもあり、叙情的でもあるのがむしろ美質と思わずにはいられない。
旧ソ連時代のオデーサ生まれの由。「ルサールカ」の名を見て、ひょっとしてチェコではないかと思ったが、スラブ系に普遍な名前なのだろう。

そう考えると2022年に読んだ「マゼラン雲」は辛かった。結局正誤表(でもないけれど修正提案)を作ってしまうほどだった。
http://folia.txt-nifty.com/musik/2022/06/post-4e0db0.html
とは言え、今見直しても相応に妥当な修正提案のように思われるので、「マゼラン雲」はよほど原文が難しかったのか、編集が手を抜いたのか、と思ってしまう。

密林の語り部 バルガス=リョサ
なかなか良い。冒頭からして意外だった。訳も概ね好調だが、時々修飾関係が分かりにくい・分からない文章がある。原文がそうなのか、訳者の趣味なのか、編集者の手落ちなのか。とは言え最後まで面白く読めた。
南米というとマジック・リアリズムを想起してしまうが、そういう部分(そうかも知れない部分)とそうでない部分があり、そのふたつがどこでつながるか・・・というところが面白い。
読み出してから書店に行く機会があり、せっかくの機会なので、平積みの「緑の家」と「ラ・カテドラルでの対話」を買ってしまった。買い逃すとどうしようもないからね。
いつも悩んで買わないのが、「ティラン・ロ・ブラン」全4巻。調べると、岩波文庫にはバルガス=リョサの序文が付くんだ!いつか古本になる日を待つか、どうするか?

夢見る宝石 シオドア・スタージョン
ハードSFではなくファンタジーよりのSFだろうか。読んで面白かった。喫茶店では他人様の会話が気になって読書が進まない私ではあるが、この時ばかりは集中できた。でも、コーヒー2杯ホットドッグひとつで1時間半も粘ったら少々迷惑だよね。反省。

ラッテとふしぎなたね 庄野ナホコ
素敵な絵本。猫、蛙、鳥、草花などの質感のなんとも言えぬ良さ。物語と質感との一体感。西荻窪ウレシカにて購入。『庄野ナホコ作品集 Circus of Wonders』ももちろん購入。楽しみ。

英本土上陸戦の前夜 海野十三
青空文庫で読む。記憶喪失ものとしては二転三転が面白いけれど、何故日本人将校がダンケルクから英国に向けて飛行機で飛んだか合点が行かない。書かれた時代を考えると、そういうことに文句を言っても仕方がないのではあるけれど。

電脳の歌 スタニスワフ・レム
相変わらず楽しく読んでいる。(マゼラン雲とは違って・・・というところ。マゼラン雲等の作品について、おそらくはレムの書き様が晦渋・難解であって、あまりに明快な日本語にすると原文のイメージが損なわれるのかも知れぬと思ってはいる)。

緑の家 バルガス=リョサ
読み始め。バルガス=リョサは二冊目なので、マジック・リアリズムであろうという先入観に捉われずに読める(であろうと期待する)。

ジャン・クリストフ
なんとか第二巻読了。相当程度厚いこともあるけれど、やはり文章がクドい。これを「重厚」と言うこともできようが、必要な描写というよりも「悪口が止まらん」ように見える。
ジャン・クリストフだけを読み続けるのは多分私には難しく、他の本を挟みつつ、毒気を抜きつつ読むしか無いのだろう。そうなると相当程度薄味な読み方になるけれどそれはそれで仕方がない。
孤独で不器用な若者が周囲と衝突しつつ成長し、仲間を見出していく・・・ということなのだろうが、「衝突」を描きすぎ・・・と感じてしまう。
(読書に快さを求めすぎであるか?)

長崎海軍伝習所の日々 カッテンディーケ著
少し読む。なかなかに面白い。勝海舟の怜悧にしてずるいことも充分見抜いておられる。
それにしても、偉い人は無能だが、現場技術者は熱意もあり有能というのはこの頃からそうだったのだねえ(勝海舟もそんなことを言っているけれど)。先の大戦でもそんなことが言われていたし、こういうことは深く反省する価値があると思うけれど。

俺たちの行進曲 有明夏夫
何度読んだか分からない本。戦後の明るい高校生の話ではあるのだが、そこここに戦争と災害の影がつきまとう。父なく母なく子は育つ。もっと読まれて良い書だと思うし、映像化も是非されて良いと思うのだが。調べると、映像化されたが製作会社の破産でほとんど公開されたことがない模様。たいへん悲しい。
「青春デンデケデケデケ」(芦原すなお)や「青葉繁れる」(井上ひさし)と並ぶ良き青春小説(井上は若干の批判があって然るべきだが)であるので勿体ない。
私には何度読んでも面白い本だと思える。足羽山から見渡せる「福井」のイメージが強く感じられる点も良い。デンデケで見られる観音寺や祖谷の風景とともに、良質な地域性の感じられる文章という点でも貴重だと思うのだが。。。

ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻
何度読んだかわからないけれど、結構似た話が多いので忘れるのだよね。でも読めば面白い。Youtubeで動画化された作品が見られるが、ジーヴズはもう少し歳長けてぶっきらぼうな方が良いように思う。タンタンに出てくるネストールくらいで良い。まあ、ジーヴズは「執事」ではなく、「男性付き召使い」なので、執事ほど年長でない蓋然性が高いのかも知れないが。

ザ・フィールドワーク 京都大学学術出版会
というような書名をジーヴズの次において良いのかいささか戸惑うが、それはそれで面白かろう。
すべてを読んだわけではなく、少々めくり見た程度ではあるけれど、フィールドワークの大変さ・面白さが少しずつ伝わってくる。
私としては、23世紀の人類学者が、今現在・此処にやってきたら・・・と想像せずにはいられない。「なぜ世界のあちこちで戦争をしているのか?」「諸君はそれでも『文明人』なのか?」と問われるのだろうか?
「フィールドワーク」で検索すると、同じ京都大学ながら人類研究ではなく霊長類研究の話が一定数当たる。それはそれで面白いが、不正経理が原因で2022年に「霊長類研究所」がなくなったことを思い出すので、ついその前か後かを見てしまったりする。悲しい。

物語を忘れた外国語 黒田龍之介
私が外国語を読もうと思う大方の理由は物語ないし科学的・歴史的興味にあるので、外国語を学ぶのに物語を忌避するなんて「とんでもない」と思うのだが、そう言えば、若い頃大学部の文学部の外国文学系の学科にいる人が結構日本語の文学書を読んでいないので、恐れ入ったことがあったっけ。
「英会話」もそれなりに学問のある面白い相手とであれば話しても見たいが、「英語」しか出来ない方と長くお話できる気がしない。
せめて「英語発達小史」くらいの話はしてくれよな、くらいの感じ。まあ、英会話を習いに行ったりはしないので無問題ではある。

せきれい 庄野潤三
いつもの庄野節とも言えるもの。そう言えば、「愛撫」など庄野の初期作品を読もうとしたが挫折していることを思い出した。
これら初期作品はクドく愉快でないので、途中放棄したのだった。一方で、庄野の後期作品は面白くはあるものの、ある程度調子が似ており、かつまた、創作というよりも随筆的であるようにも見え、読むのを止めていたのを思い出した。まあ、この一冊を軽く読んで、しばらく止めておく、ということになりそう。まあ、目の色変えて読むような書ではないわな。

引き続き古い鉄道模型趣味
創刊号。「私たちの趣味にもっと知性を注入したい」。この言葉はよくよく考える価値が在ると思うし、鉄道模型趣味誌発展の中で批判されつつも生き延びてきたことばであるようにも思う。趣味のなんたるかを大人として考えることは重要だと、私は思う。
そしてまた「美しい本」「読む人と雑誌の間にほのぼのとした愛情がめばえるような親しめる雑誌」を作りたい、とも。
ううむ。私の素人演奏者としての慨嘆にも大変近いように思うし、我が師三村明や森下氏(豊橋交響楽団)とも通じるように感じる。

創刊号にはモーター(直流電動機)の作り方がふつうに掲載されている。このレベルから自作する人々がいたということに改めて震撼する。
1980年代、伊藤剛氏が瀬戸電を作るにあたって、慣性の大きいモーターがほしいからと言って自作していたのを記憶する。あれにも驚いたが、この人たちはモーターを自作するところからの発想があるのだ。
(最初の職場で「プログラミング言語は最低5つ覚えよ」と言われたが、その先に「必要あれば自分で言語を実装することが考えられるようになるべき」というのがあった。そういう「人間が作ってきたものは自分でも作れる」発想というのはとても強くてとても良い。理学部の教育においても「市販の機械で研究するということは他人と同レベルで研究するということだ。だから、機械を製作できるくらいの力を持つようにせよ」と言われた)。

TMS50号。随筆ミキスト(混合列車)の前身はサンドボックス(別な雑誌に山崎氏が書いていた由)。サンドボックスは鉄道用語としては「(動力車輪の滑り止め用)砂箱」であるけれど、一般語としては「砂場」の意味もある。現在のインターネット上で用いられるWikiシステムでも「試しに書いてみる場所」をSandboxと称していたりする。さて、このサンドボックスはどこまでを含意していたのかどうか?
そしてまた「随筆より製作記事が大切」という意見を紹介している。私は、50年近く鉄道模型趣味誌を読んでいるけれど、ミキストあっての雑誌であったことは間違いないだろう。もちろん、ページ数が増えてそれだけ随筆の割合が下がったから、という面はあるにせよ。
51号「鴨鹿本線余話」。800号が十万部売れ発禁になる話。当然「嘘八百」の800。実際に1000号まで出るとは思っていなかったであろう。感慨深い。
51号及び他の号に模型趣味の地位向上が繰り返し論じられている。その中で「趣味としてのレベル低下は避けたい」という語も見られる。
なにか、昨今の「撮り鉄」を始めとする趣味者の悪評判と合わせて考えさせられるものがある。
加藤金属から「台車製造を一時休止する」謹告。今なお関水金属として盛業中。
52号「義経」。帝国車輌の構内用に無様に改造されていた時代の写真には衝撃を受ける。原型に戻してもらって良かったと思わずにはいられない。でもって、苗穂と鷹取のいずれがニセでいずれがホンモノか・・・当然気になる。
89号「あられを喰べて一編成」。題名のみ知っていて読みたかった記事。
タンク車に「養老駅常備 アルコール専用」と文字を入れるのはなかなか楽しそう。
英国の模型にも、ウィスキー専用タンク車(銘柄名入り)があって欲しかった。
この Kix なるシリアルは今も売られているようだ。また、「一編成」時代には貨車(鉄道模型)が景品だったが、今なお科学教材ないし教育的玩具と接点がありそう。この頃「シリアル」などの言葉が知られていなかったので「あられ」と表現せざるを得なかったのだ、というのも感懐。

山崎喜陽氏のミキストで、戦争中に謳われた「科学する心」への嫌悪が語られていたように記憶する。
「私たちの趣味にもっと知性を注入したい」にはそうした戦争に日本を引きずり込んだ反知性主義への反感が大きくあったのかも知れない。

神田神保町3書店の「ベストセラー」がネット記事になっていた。一冊も買わず・読まず・そもそも知らずで、安堵した。
そういう人間であると自覚してきたので、そこが崩れると自我が崩壊・・・しないけど。
基本的に「平積みは買わない」と言いつつ、岩波文庫・ちくま文庫あたりは平積みを普通に買っているなあ。
その時買わないと買えなくなる(が、大変読みたくなる)本が相応にあるからね。これら2文庫は。
ランペドゥーサ「山猫」とかね。

俳優として知られる米倉斉加年氏。絵師でもあると知る。夢野久作の奇書「ドグラマグラ」の表紙絵が米倉だったとは!
善人役の多い米倉をしてかくも奇怪なる絵を描いていたのか。知らん事が多い。

「名古屋、アジアに出会う」(図書出版みぎわ)。面白そう。
昔、名古屋にいて、台湾や中国南方と縁があることを感じることがあった。
まあ、「台湾ラーメン」を食べたから、とか上海・南京あたりからの留学生が身近にいたから、というだけの理由だけれど、調べると汪兆銘が亡命して来たり、なんとなう暑い南同士の連携があったようにも感じる。
でもって、名古屋だけでなく愛知県の主要産業である「自動車」産業の発展によって、多くの人間が巻き込まれていくのだが、そうした現象の社会学的研究ってされていないのだろうか?
あの悪名高き「管理教育」もまた、産業発展⇒人口急増から生み出された悪しき判断の結果だったのではないか。
あらゆる観察は外部からなされるのだが、外部過ぎると問題意識がなく(中を知らないから)、内部過ぎるとこれまた問題意識がない(ほかを知らないから)ということで、非常に調べるのが難しいのだろうなあ、と非専門家として思う。
愛知県における管理教育については「愛知の教育 愛知の教師」(風媒社)がよく書けていたように思う。借りて読んだのがすでに40年前なので、書名には自信がない。(出版社は記憶している)。

●雑感
小泉莉穂×上村誠一 PERGOLESI! に行った!とても素晴らしかった!(5/31だけど)
「私のために・私に向けて歌って頂いている」幻想を濃厚に味わい、二重唱でしか摂取できない栄養を沢山頂いた。
ペルゴレージさんにはもっと長い曲を書いて欲しかった。

「うたの人」は一つの音符を多次元に見ているようだ。
たとえば、私は音高・音長・音量・音質と四つ見ている(ということにしておこう。それすら見ていない、という批判は甘んじて受ける)。
だが、小泉・上村を聴くと、うたの人は、音の方向性(時間的方向性と空間的方向性など多次元の方向性)を考え、長いフレージングの中での音の立ち居振る舞い(言い換えると、曲線の張りの強さや質感・重量感・手触り)を考え、そしてまた、重ねて歌っている相互の関係性を考えて歌っているように感じる。
しかも、このように「考えて歌っている」と見ても高度だが、「考えながら歌っている」のではなく、野の花が風に揺れるようにごく自然に「唯そこに美しく在る」ように歌っている点でも甚だしく高度だ。
素人の楽器弾きとしては泣くしかない。

さて、先日、モーツァルトの弦楽五重奏を演奏した際、「ヴィオラ二重唱のために書かれた曲」と感じた。
ヴァイオリンの二声は比較的似ているが、ヴィオラは楽器の個性が大きく似ているようで似ない。
この「似ているようで違う二声が離合する」快感が二重唱の根幹にあると私は考えているが、ここでもたくさん味わった。
次も期待したい。

ちなみにペルゴレージは1990年頃アバドのCDを買って以来ぽつぽつ聴いている。
なんでアバドのような有名指揮者が突然当時の売れ筋と異なるこの曲を演奏・録音したのか、と思うのだが、同じことを思う方は居るものだ。
http://tillne.life.coocan.jp/ne%20classics/ne%20abbado%20comp/ca%20pergolesi.htm
『ほんとに「演奏者がこの曲を好きだから」録音したかったのだな、と、素直に思えた。』というのに私も賛成。
もちろんアバドの演奏も良いけれど、そうは言っても「私のために・私に向けて歌って頂いている」演奏は何物にも代え難いよね。
ついでと言ってはなんだが、Salicus Kammerchor のCDも買った。昨年カンタータ全集第1回を聴きに行ってたいへん感銘を受けたもの。あのソリスト陣の声をもう一度確かめられるだけでも耳福。

チェロ弦ダダリオのカプラン。相変わらずアカン。うるさい。乱振動している感じ。
引っかかりも安定しない、いつどのように音が出るか不確定性が大きい、ウルフも出やすい。というか、全音程ウルフみたいになる。
ビャービャーと大きな音がするので、「ナイロンは音量が小さい」という不満から「音量の大きいナイロン」として開発されたのかも知れないが、あまりイケている気がしない。
良く言えば「元気が良い」ので、鳴らない楽器に張るのは良いかも。ともあれ、なんとかせねば。
というので、時々やる回復方法を試みた。一応効果はあったようだ。
その方法とは、消音器をつけてしばらく弾くというもの。右手で楽器を鳴らす性能が下がっているのを上げる効果があるのか、なんとなう楽器の鳴りが整う(ように感じる)。本当に整ったかは分からないが、しばらくこれを繰り返してみよう。
ともあれ、楽器の鳴らし方を知るために消音器や弱音器をつけたり外したりして弾くのは、少なくとも人間側には意味が在ると思う。

ドミナント(ナイロン)はおとなしく派手さがないが、なかなか良い。お値段も悪くない。ただし、3ヶ月で賞味期限。15000円だと非常にお買い得感があるが、3万円と言われると1ヶ月1万円だと思って腰が引ける。全音程が滑らかにつながる音色なのは良い。
ドミナントプロ(スチール)はナイロンよりしっかりしていて、悪くはないが、特段の個性もない。こちらもお値段は魅力的。3ヶ月ってことはないが、さほど長くもないか。もしかすると、自分にとって最も合っているかも知れない。それは、大人しくてさして特徴がないようなところだったりするのが、全音程での安定感は非常によろしい。それが個性がないと言えば個性がないのだが。
よくあるヤーガー&ピラストロはおとなしい。特にヤーガー。楽音が鳴っている気がしない。弦の値上がりが激しい中で比較的安価だったので買い、張ってはみたものの、なかなか辛い。
今のところ私の安定的信頼感からはドミナントプロだろうか。

弦を交換する際、D→G→C→Aと替える。D線は他の3弦のペグを乗り越えて一番上のペグに巻き付けねばならない。特に、A線・G線のペグやそこに巻き付けた弦と干渉することがある。そのため、最初にD線を通して、そこに干渉しないようにG線を通す。G線の方がA線より若干難しいので、先にする。また、A線だけ新しくするのがなんとなく怖い(断線はA線が最も多い)ので、他を替えてから最後にしたい。
で、今回、カプラン4弦だったうち、DGをヤーガー・ピラストロに変えてみたが、おとなしい弦とうるさい弦が混ざっていると、非常に弾きにくい。無理に音を出そうとして、体を壊しそうなので、やはり4弦の正確が揃っていることが重要と思う。
また、ヤーガーはピラストロと較べてもおとなしい。ラーセン・ピラストロの組が成立するのはそういうことだ。
で、カプランA、ヤーガーD、ピラストロG、カプランCというのを少し試したが、結局カプラン4本張りに戻した。
張り直しでバランスが変わったからか、前よりはうるさくない。ついでに言うと、A=415Hzを試しているので、できれば生ガットを張りたく、とは言え日常生活に問題が出る(笑)ので、まあカプランくらいのナイロンで良いかと考えたからでもある。
弦のことはなかなか文章にしにくいね。直線的な論理思考というよりも同時多発的・直感的に考えている感じだからね。

楽器演奏とは無関係でない「視力」
現在、楽譜を見る際、右目は裸眼の方がよく見え、左目は眼鏡を使ったほうがよく見える。
もともと大学一年の夏頃に近眼で眼鏡を作って以来近眼であったが、四十歳あたりから老眼が加わり、もしかすると右目は(読書と読譜に関しては)眼鏡不要なのかも知れぬ。今度眼鏡屋さんで測定してもらおう。

イアン・ボストリッジの歌う「冬の旅」
https://www.youtube.com/watch?v=tnuvs2w7ges
英人らしく感傷的ではないが劇的と見る。ピアノもコンパクトにまとめてメリハリがある。
もともと辛い歌なので、あまり感傷的に歌われると辛さが増す。それ故、こういう若干カリカチュアにし、若気の怒りに任せたように歌う方が聴き良いかも知れぬ。まあ毀誉ありそうには思うし、自分も常に全曲を通してこの歌い方が愛好できるとは言いかねるけれど。

指揮者オットー・クレンペラーの息子さん。小沢征爾の「グレの歌」で語りをやっているのね。 聞いたことがあるが知らなかった。そしてまた、俳優としての当たり役のひとつが「(間抜けな)ナチ将校」というのも。ユダヤ系の人間として、「間抜けな」を重要視されていたようだ。他に、「0011ナポレオン・ソロ」の悪役などなど。

長岡鉄男氏のレコード評(外盤A級セレクション)を今になって見直すと、「非常にまっとう」と感じる。
長岡氏はオーディオ観点で「録音」に着目してレコードを紹介しているが、そもそも、レコードの品質として、曲がヘボくて、演奏がヘボくて、録音だけが良い、というものはなかなか存在しない(すくなくともLPレコード時代は存在しにくかった)。一方、曲・演奏は高品質だが、録音は低品質などというのは、フルトヴェングラーやメンゲルベルクでもよくあった。
ということもあり、長岡氏が紹介しているレコードは、優秀録音であるとともに、曲・演奏も高品質であり、さらに海外盤に限っていることもあって、国内盤では聴くことができない貴重な曲目が多かった。そういう意味で、録音品質にあまり興味がない私がごとき者が見ても、「いい曲をいい人が演奏している盤に巡り会える貴重な情報」を長岡氏から得ることができたのだ。あの頃(1980年前後)のレコードは高価だった。1枚3,000円。それより高いものもあった。今なら1万円であろうか。だから、「ハズレ」を引かないための情報が必要だったし、そういう意味でも長岡氏を始めとする評論は重要だった。
あの頃もちょいちょいあったし、今もあるのだよね。「ハズレ」。ちょっと珍しい曲を無名演奏家に演奏させて、ヘボ録音で入れたの。必死に聴いてもその曲の良さがまったく伝わってこない。他所で聞いたところによると、間違った演奏をそのまま流布させた録音があるとかないとか。
長岡氏は録音に重点をおき曲目・演奏についてはさらりと述べるに止めていたが、それは彼の「職業意識」でもあり「誠意」であったようにも思う。見た目がちょっと怖く、奇矯な雰囲気を帯びて(演出して)いたけれど、こういう方だったからこそ根強い人気を博したのだろう。

Youtubeに「名曲聴き比べ」みたいなのがたくさん出ている。概ね交響曲などの末尾を数分程度つなぎ合わせたもののようだ。
まあこれはこれで面白い面もあるけれど、クラシック音楽というのは、デカい曲のデカい構造が前提になって部分が存在するのだから演奏の一部だけを取り出すのは、本来ルール違反であることよ、と思う。私的にこっそり楽しむのは否定しないけれど、これこそが「聴き比べだ」みたいになるのは賛成できないね。
それと「演奏様式」というのも大前提になっている。これも大事。たとえば浪漫派・即物主義などなど。そういう知的な面を置き去りにして、表面的な比較をもってよしとして良いとは思わない。

クラシック音楽に親しんでいるのは「小金持ち」ということになるらしく、SNSでの宣伝がそんな感じになったりする。
でもねえ、私はお金はあまり持っていないし、自分で体験することにこだわりすぎていて、広告宣伝費をたくさん使っているような商品にはあまり興味はないのだよ。
言うならば、クラシック音楽に浸りすぎていて「名演奏家」とか「名演」みたいな看板にはまったく惹かれない(そういう演奏家に実質的な理由で興味を持つことはある)。

昭和の頃人気だったバンド・ゴダイゴのボーカル タケカワユキヒデ氏。鈴木ヴァイオンリンの鈴木一族と縁があるのね。また、学校は外語大学とのこと。英語を歌うのに相応しい気がする。

Johann Ludwig Bach J.S.バッハとベートーヴェンの名前をふざけてつないだわけでなく、J.S.バッハの子でもない。
J.S.の遠縁とのこと。曲はおとなしいが割と良い。

カルロヴィ・バリ国際映画音楽祭のための短編集
https://kviff.tv/show/festival-trailers
とても皮肉。それこそがチェコ風ということだろうか?

今月の誤字・誤読・誤聴
「西武線練馬方面」が「西武線ゲリラ方面」に聞こえた。
「ランペドゥーサ」を「ラペンドゥーサ」と誤って覚えていた。が、そういう人が一定数世の中にいる。
「ペルソナ・ノン・グラタン」というのを思いついた。グラタンを食べさせない刑罰。恐ろしい。
もちろん「ペルソナ・ノン・グラータ」外交的に喜ばれない人物(海外追放)から思いついた。
Wikipedia「ブラック・レイン」の記事にある
「ニックとチャーリーは松本の静止を無視し」は
「ニックとチャーリーは松本の制止を無視し」の間違いだろうなあ。直して良いのかな?
「意味深に呟く」てふ口語表現も気になる。「意味深長に呟く」というのが正書法だろうなあ。あるいは「意味深長に呟いてみせる」か。
日本語で「アウトロー」は中国語で「法外之徒」わかりやすい。Wikipediaグレティルのサガ(英語版)からたどる。
Wikipedia「売茶翁」に
「禅の窮地に立った擬人化」とあるのは、きっと
「禅の境地に立った擬人化」ではないか。窮地とは「追い詰められて身動きが出来ない場所」であろう。
「禅の境地」という言葉は見たことがあるが「禅の窮地」の用例は思いつかないな。

ウクライナ諜報機関がロシアの戦略爆撃機等40機超をドローン攻撃で撃破
私は判官贔屓なので、当然ウクライナ応援団である(そうでない日本人がいることには驚きを感じたりもする)。
が、国際法的にマズい部分でもあり、これで各国のウクライナ支援が鈍ることを懸念する。ロシアが民間人攻撃をしまくっているのでそちらの国際法違反が大であるというのはそのとおりなのだが。
私は、ロシア文学・ロシア音楽の愛好家であったが、他国を侵略する国の文化を素直な気持ちで愛好することは難しい。
一方、イスラエル・パレスチナ・イランで言えば、反イスラエル・パレスチナ贔屓となり、イランに与したくなる(口火を切ったのはイスラエルであり)。が、ロシア・ウクライナとの対照で言えば、ロシア・イランと西側・イスラエル・ウクライナが組でもあり、「捩じれ」ている。

「宗論はどちら負けても釈迦の恥」なかなか良いことばである。
と思ってネットを巡っていると「賢人ナータン」の話が出てくる。最近気になっていた書だが、ついあらすじを読んでしまった。からには、書も買って読まねばだよね。

在中英国大使館が天安門事件を暗示する動画をTwitter/Xに掲載していた。で、英国大使館のツイートを見てゆくと「りすぼん丸」沈没における英兵捕虜遭難者の慰霊祭についても述べている。Wikipediaで「りすぼん丸」沈没状況を読むと、非常にいたたまれない。捕虜諸氏もそうであるけれど、戦犯となった船長(捕虜のために相当意を用いていると思われる)に同情することしきり。

Kuruluş Osman 194巻でシーズン終了。まあそう大きな話の転換があるような物語ではないけれど。
よくぞこんな長いドラマシリーズを作れるものだと感心する。どうもこの手の歴史ものその他シリーズを作っているみたい。かの国の主要娯楽なのだろうか?

映画「ハイランダー」は30周年だそうだ。そう言われれば、それくらい昔、ドイツ旅行に行った際、テレビで放映していたのを眺めた記憶がある。
ドイツ語翻訳されたセリフはもちろん聞き取ることすらできないが、そこはそれ。「チャンバラ映画」の感覚で「お前を倒してやる」くらいのセリフがほとんどなので、見るのに支障はない。時々しんみりシーンがあるが、きちんと説明的映像がつくのでとか「女性は寿命が尽きつつあるが、男性はどうやらものすごく長寿命でこれからも生きるらしい」ということが推察された。

映画「つばめを動かす人たち」
https://www.youtube.com/watch?v=iX1AmguttRM
昭和30年頃とみられる、特急つばめ運転に関わる人々の映画。
当時の電気機関車がちょいと簡単に動かせるものではなく、複雑な構造をむき出しにしたシステムであることが伝わってくる。
蒸気機関車と同様に、各部をハンマーで叩いて検査している。これによりネジの緩みや金属構造の断裂などが(ある程度)わかるらしいけれど、こんな不確かな検査に頼っていたのか、と感じてしまう。日常点検としての有効性はあろうと思うけれど。。。

鉄道がちょいと出ている古い映画を少しずつ見る。その縁で「東京のえくぼ」。上原謙がホルンを吹くシーンがあるが、Wikipediaを見ると立教大学のオーケストラでトランペットを吹いていたとのこと。音声は吹き替えなのかも知れないが、吹きっぷりはホンモノらしさがある。

し尿のゆくえ
https://www.youtube.com/watch?v=xnG_HpJhuXc
NPO法人科学映像館が歯医者さんの支援を得てデジタル化したもののよう。尊い。
古い科学映画は懐かしさ半分でつい見てしまうのだが、さすがにこの映像は色付きでなくてよかった。
ナレーターも「この映画に匂いがなくて良かった」を仰る。まさにそのとおり。

団地への招待 (1960)
https://www.youtube.com/watch?v=saehM0Fr2tM
17分頃の音楽がリャードフ。自分が歳長けてから知った音楽が、以前から知られていたものであると知ると驚く。まあ、自分のところに流れ込んでくるくらいだから、以前から知られていてもおかしくないのだが。

ダウントンアビーに出演している役者さん。たとえば Amy Nuttall さん。
https://lifeofwylie.com/2011/08/03/downton-abbey-amy-nuttall/
https://downtonabbeyonline.weebly.com/amy-nuttall.html
役柄であるエセル・パークスとしては、不安に怯える使用人そのものだが、Amy Nuttall で見ると、自信に満ちた女優さんっぽい(蓮っ葉な役が多いように見えるけれど、ダウントンアビーでもそういう役だったらしい)。
役者の演技に騙されて良いのは騙されたい時だけ。

教育映画(ごちそう列車)
https://www.youtube.com/watch?v=21vtrkjCpMM
車載船をいうに「蛇が卵を飲むように貨物列車を船腹に飲み込む」という比喩はあんまり分かり良いとも適切とも思わないが、時代を感じさせる。。

「喜劇急行列車」
https://www.youtube.com/watch?v=R5hqTjo2GYg
急行列車と言いながら、特急さくらがもっぱら。特急富士が少し。
渥美清の車掌っぷりもいいし、車内放送も(途中でもちろん大変なことになるけれど)、懐かしい。
これを見ると、特急さくら(佐世保・長崎行き)の模型が欲しくなるね!(渥美清の車掌人形は難しいだろうけれど。また、KATOのカニ22はもう少し後の時代のパンタグラフ撤去後なのね。悲しい)。

プレナ。朝鮮鉄道のタンク機関車の由。むろん海浜幕張にある「プレナ幕張」とは無関係。
こうした少し特殊な用語で検索すると、非常に興味深い情報を集めた個人サイトが当たる。ふつうの単語でふつうに検索すると面白くもない。検索語の使い分けのひとつかも。

銀梅花ミルト。ちょっと気になっていた花。覚えておこう。
ニオイバンマツリ、テイカカズラなど、最近少しずつ気になる花の名を覚えたので嬉しい。

Ubuntu の BlueTooth がちょいちょい使えなくなる。BlueToothのアダプタが凶悪という説も。

ルノーB1重戦車。砲・装甲とも非常に強力。運動性能も悪くないようで、ドイツのIII号戦車など蹴散らすくらいの実力がある。
にも関わらず、ナチス・ドイツによるフランス侵攻を防ぎ得なかったのも事実。
サン=テグジュペリ「戦う操縦士」でも戦車名こそ出てこないが、独仏の戦車戦術の違いとその結果への言及があった。
https://www.youtube.com/watch?v=XbZiFgLgaeU

第二次大戦で「最後に降伏したドイツ軍」ハウデーゲン作戦の写真が公開されている。
https://leibniz-ifl.de/forschung/forschungsinfrastrukturen/digitale-sammlungen/wettertrupp-haudegen
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E4%BD%9C%E6%88%A6
ノルウェーの北極圏の離島であり、戦闘目的ではなく、気象観測目的。それもあって、ドイツ本国降伏後も放置されていたとのこと。
「戦わずして降伏することを拒んだ精鋭部隊」なる噂にも関わらず救出されて良かった。
私も気象系技術者として他人事ではない気がしてしまう。
そこから派生して「非戦闘軍事作戦」なるページを知る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E9%9D%9E%E6%88%A6%E9%97%98%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E4%BD%9C%E6%88%A6
ゴールデンアイ作戦、ピッグ・ブリストル(豚毛)作戦など知らないことがたくさん。

俳優チャールズ・ブロンソンはリトアニアの「リプカ・タタール人」出自のアメリカ人とのこと。
タタール人すなわち東洋人ということで、細目黒髪という親近感のある外貌はそういうことだったのか!と改めて驚き入る。
ご先祖がモンゴルを出て以来、地球を3/4周したわけだ。

英語 all right の訛化「オーライ」は仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」が初出らしい。
洒落ておる。

三重県。北勢・中勢・南勢。そして伊賀。と思いきや、さらに東紀州。
確かに、尾鷲、熊野は紀州っぽいかも。逆に新宮もまた「どっちだっけ?」と思うことがある。
東紀州だから、紀宝町・紀南町があったりするわけだ。
紀勢本線全通は1959年でもあり、道路事情も良くなかったこととて、これら紀伊半島は「島」同様海路で行く場所だったのかも知れない。(伊豆半島に「島流し」という事例もあるし)。
全通以前、紀勢本線の一部は新宮鉄道として開通し、国に買収されて「紀勢中線」となっていた。大阪にも名古屋にもつながっていない線路は、おそらくは、新宮からの海路と接続していたのだろう。(紀勢中線にいたC11型蒸気機関車がすでに国鉄では使われなくなっていたねじ式連結器を使用した写真を見て驚いたことがある)。
穿った見方をすると、地方の人口減少に伴って、ふたたび紀勢本線が半島先端部を放棄・廃止となる時代が来るかも知れない。和歌山県のホームページ「きのくに線で訪ねてみてください」にその予兆を感じる。

amazonでテレビ録画用HDDを買おうとする。「3000円くらいで30TB」のHDDを売りつけてくる。どう考えてもインチキ商品。これを天下のアマゾンで売っているのだなあ、と感心。初期アマゾンは書籍のような「日本中どこで買っても同じ品質」のものを売っていたし、安心してものを買える場所だったけれど、最近はまったくそうでもない。古書店などは比較的に良心的なのか、私はハズレを引いたことがないけれど、それとて長年の「古書とはこういうもの」という常識に則って行動しているからという部分が大きいように思う。中には版元をたどれば正価で買えるのに、何倍もの値段をつけている例を見たことがあるしなあ。
SNSでの暴言なども含め、最近のネット界は恐ろしいね。

天気。6月にして最高気温30℃。
テレビに出ている気象予報士は「熱中症に注意」などとのんびり言っているが、もっと気候変動対策(緩和と適応)について日々強く訴えるべきではないのか。とは言え、我が国では職業倫理よりもお上(雇用主、所管官庁)が気になるし、自分自身はタクシー送迎で涼しいスタジオで背広ネクタイを着ているから気にならないのだろう。
予報解説者がスタジオに籠もりきりで実際の気象現象を肌感覚では知らないことは、30年くらい前にすでに話題にしていた記憶がある。その時はどちらかというと「峠の雪」のような北国での文脈だったけれど。

健康診断で胃カメラを鼻から入れた。
反射的に吐き気が出るので苦しいのだが、今回の医師は、細かに状況を伝えてくれるのが良かった。
そちらに気が向いて吐き気を少しは忘れることができるし、自分の苦しみに意味があることや進捗がわかったような気がする点がたいへんよろしい。 この医師独自の工夫なのか、消化器学会(?)の標準的な方法なのか知らないが、たいへん良いと感じた。

3日間の合宿に行った。感想は長くなるから別途書こう。でも行ってよかった。主宰者・講師陣・受講生・現地スタッフの皆さんに大感謝。

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今週の戯れ歌

ちよいと行く麻酔の旅も味なものさてお帰りは何時になるやら

軽口を叩いてみても謎なるは我が「意識」とは何であるぞや

十秒で意識なくすと医師の言ひ意識なき我我にあらずや

(術後述懐)
麻酔には記憶なければ語り得ず気がつけば我世に戻りたり

手術室の冷たき様も一瞬に気づけば病棟の天井を見る

朦朧と己が鼾の因を探り探りその半分は妄想ならむや

看護師の多く接すは病重し後回しなる我の良きかな

眠れるは病気ならむと母の言ひ今の自分はまさにさうなる

痛みあれば動きひとつが挑戦なる棚からタオル一枚出すのも

昨日は苦痛であった動きさへけふは滑らかなるを喜ぶ

常にありし健康を再び発見すこの有り難みを忘れまいぞ我

無気力の我を襲へる時のあり隙を作らぬやうに生くべし

何時来るか分からぬ事務を待ちながら天井を眺め旅の心地す

退院しグラタン食べて帰宅する意地汚きは我の本性

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モーツァルト 弦楽五重奏曲第6番変ホ長調K.614

以下は、先日モーツァルトの弦楽五重奏曲第6番変ホ長調K.614を演奏した際の駄文である。

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同声の二重唱には独特の魅力がある。サイモン&ガーファンクルも、あみんも。 これら同声の二重唱は、三重唱以上の多声とも異なり、大人数の合唱とも全く異なる。どうやら三人以上の人間の歌を聴くと、人間ひとりひとりの見えない「社会」や「組織」を遠望しているように感じる。二人の歌っているのを聴くと、人間と人間の原初的な関係性を拡大鏡で微細に眺めているように思われる。二つの似ているようでわづかに異なる声がひとつになったり別れたり遠ざかったり近づいたりする時に、親密さや疎外感をないまぜにした独特の風合いや肌理の細かさまでを感じさせるように思われる。

さて、モーツァルトの弦楽五重奏第6番(K.614)は、ヴァイオリン奏者でもあり、実業家としても成功したトストの依頼により書かれたという。しかしながら、モーツァルトほどの天才がただ言われたように弦楽五重奏を書いたとも思えぬ。弦楽五重奏がよくある弦楽四重奏とどのように異なるのか深く見抜いた上で書いているのではないか。

ふつうの弦楽四重奏で同声と言えるのはヴァイオリン2本であって、あまりにも当たり前の組み合わせである。弦楽五重奏は、ここにヴィオラが一本加わった「だけ」の編成である。ヴァイオリン二重唱にヴィオラ二重唱が加わった「だけ」である。 ところがところが、ヴィオラにはそれぞれの楽器個体の音はあるけれど、共通した一定の「ヴィオラの音」が存在しない。二本のヴィオラが鳴る時、サイモンとガーファンクルの声音の違い、岡村孝子と加藤晴子の歌い回しの違いを私は想起する。それに比べると、ヴァイオリン二重唱は、ザ・ピーナッツやマナカナのような双子の二重唱っぽい整った同質性があるように感じる。弦楽四重奏ではヴァイオリンだけが二重奏をするけれど、弦楽四重奏では見られなかった異質性による陶酔感がヴィオラ二重唱に現れるのではないか。また、その同質性と異質性による陶酔の実現をモーツァルトは考えたのではないか。この弦楽五重奏曲を弾いていると、ついそんなことを考えてしまう。

モーツァルト最晩年三十五歳に作られたのは、この弦楽五重奏曲、ピアノ協奏曲第二十七番、歌劇「魔笛」、歌劇「皇帝ティトスの慈悲」、クラリネット協奏曲、そして未完のレクイエム。 これら様々な曲の中にあってもひときわ天空海闊、なんら屈託することのない筆でさらりと書かれた五重奏曲であるけれど、弾いてみると上述のような二重唱っぽさを含め様々な工夫があらゆる箇所にされており、弾けば弾くほど楽しくなるてふ音楽である。お聴きいただく皆さんにも少しなりともこうした楽しさを感じて頂ければ幸いである。

第1楽章 Allegro di molto 冒頭いきなりヴィオラ二重唱。ヴァイオリン二重奏とヴィオラ二重唱の違いがあるのかないのか、まずは興味を持って聴いて頂ければ。

第2楽章 Andante アイネ・クライネ・ナハトムジークの第2楽章に似た主題が繰り返される。ヴァイオリンのお洒落な装飾!

第3楽章 Menuetto: Allegretto 簡素だが明朗なメヌエット。ちょっと穏やかなトリオとの対比が素敵。

第4楽章 Allegro 可愛らしいお嬢さんの歩みについて行くと、振り返りざまアッカンベーをされるような、意外感あふれるロンド。何度見ても可愛らしいんだけどな。

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蛇足:私の中学に教えに来ていた音楽の非常勤講師はおっかないオバちゃんだったが、「藤山一郎の弟子筋で岡村孝子の師匠」であったらしい。 私が中学生だった当時、「あみん」の「待つわ」が流行しており、同級生女子がきれいな二重唱でカバーしていた。だがしかし、当時の私そしてまた同級生男子には、あの歌は、年上女性の若干意味不明の恋愛感情に思われたのだった。今、改めて聞き直すと女性二重唱としての良さとわづかに舌足らずな初々しい歌い回しが魅力的なのだと感じる。

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