モーツァルト 弦楽五重奏曲第6番変ホ長調K.614
以下は、先日モーツァルトの弦楽五重奏曲第6番変ホ長調K.614を演奏した際の駄文である。
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同声の二重唱には独特の魅力がある。サイモン&ガーファンクルも、あみんも。 これら同声の二重唱は、三重唱以上の多声とも異なり、大人数の合唱とも全く異なる。どうやら三人以上の人間の歌を聴くと、人間ひとりひとりの見えない「社会」や「組織」を遠望しているように感じる。二人の歌っているのを聴くと、人間と人間の原初的な関係性を拡大鏡で微細に眺めているように思われる。二つの似ているようでわづかに異なる声がひとつになったり別れたり遠ざかったり近づいたりする時に、親密さや疎外感をないまぜにした独特の風合いや肌理の細かさまでを感じさせるように思われる。
さて、モーツァルトの弦楽五重奏第6番(K.614)は、ヴァイオリン奏者でもあり、実業家としても成功したトストの依頼により書かれたという。しかしながら、モーツァルトほどの天才がただ言われたように弦楽五重奏を書いたとも思えぬ。弦楽五重奏がよくある弦楽四重奏とどのように異なるのか深く見抜いた上で書いているのではないか。
ふつうの弦楽四重奏で同声と言えるのはヴァイオリン2本であって、あまりにも当たり前の組み合わせである。弦楽五重奏は、ここにヴィオラが一本加わった「だけ」の編成である。ヴァイオリン二重唱にヴィオラ二重唱が加わった「だけ」である。 ところがところが、ヴィオラにはそれぞれの楽器個体の音はあるけれど、共通した一定の「ヴィオラの音」が存在しない。二本のヴィオラが鳴る時、サイモンとガーファンクルの声音の違い、岡村孝子と加藤晴子の歌い回しの違いを私は想起する。それに比べると、ヴァイオリン二重唱は、ザ・ピーナッツやマナカナのような双子の二重唱っぽい整った同質性があるように感じる。弦楽四重奏ではヴァイオリンだけが二重奏をするけれど、弦楽四重奏では見られなかった異質性による陶酔感がヴィオラ二重唱に現れるのではないか。また、その同質性と異質性による陶酔の実現をモーツァルトは考えたのではないか。この弦楽五重奏曲を弾いていると、ついそんなことを考えてしまう。
モーツァルト最晩年三十五歳に作られたのは、この弦楽五重奏曲、ピアノ協奏曲第二十七番、歌劇「魔笛」、歌劇「皇帝ティトスの慈悲」、クラリネット協奏曲、そして未完のレクイエム。 これら様々な曲の中にあってもひときわ天空海闊、なんら屈託することのない筆でさらりと書かれた五重奏曲であるけれど、弾いてみると上述のような二重唱っぽさを含め様々な工夫があらゆる箇所にされており、弾けば弾くほど楽しくなるてふ音楽である。お聴きいただく皆さんにも少しなりともこうした楽しさを感じて頂ければ幸いである。
第1楽章 Allegro di molto 冒頭いきなりヴィオラ二重唱。ヴァイオリン二重奏とヴィオラ二重唱の違いがあるのかないのか、まずは興味を持って聴いて頂ければ。
第2楽章 Andante アイネ・クライネ・ナハトムジークの第2楽章に似た主題が繰り返される。ヴァイオリンのお洒落な装飾!
第3楽章 Menuetto: Allegretto 簡素だが明朗なメヌエット。ちょっと穏やかなトリオとの対比が素敵。
第4楽章 Allegro 可愛らしいお嬢さんの歩みについて行くと、振り返りざまアッカンベーをされるような、意外感あふれるロンド。何度見ても可愛らしいんだけどな。
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蛇足:私の中学に教えに来ていた音楽の非常勤講師はおっかないオバちゃんだったが、「藤山一郎の弟子筋で岡村孝子の師匠」であったらしい。 私が中学生だった当時、「あみん」の「待つわ」が流行しており、同級生女子がきれいな二重唱でカバーしていた。だがしかし、当時の私そしてまた同級生男子には、あの歌は、年上女性の若干意味不明の恋愛感情に思われたのだった。今、改めて聞き直すと女性二重唱としての良さとわづかに舌足らずな初々しい歌い回しが魅力的なのだと感じる。
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