今週の戯れ歌
そのかみに暮らせる土地を眺めけむ二度と戻らぬ日々を思ひつ
(昭和懐旧)
昔昔新幹線から電話あり家が見えると父の声が弾む
目を凝らし遠く見るとも見へざらむ昔の家はもうそこになし
世にあらぬらしくありける我なれば人を動かす言辞あらざる
世の中を誤魔化しながら生きたならば隠退するのあらまほしけれ
我無くも街の有様変はらざり勝手にせよと嗤ひながら言ふ
昔歩く学内の道また踏めど様変わりせば懐かしからざり
変はらざる部室を覗き見るなれど変はれる我には懐かしくもなし
そのかみに暮らせる土地を眺めけむ二度と戻らぬ日々を思ひつ
(昭和懐旧)
昔昔新幹線から電話あり家が見えると父の声が弾む
目を凝らし遠く見るとも見へざらむ昔の家はもうそこになし
世にあらぬらしくありける我なれば人を動かす言辞あらざる
世の中を誤魔化しながら生きたならば隠退するのあらまほしけれ
我無くも街の有様変はらざり勝手にせよと嗤ひながら言ふ
昔歩く学内の道また踏めど様変わりせば懐かしからざり
変はらざる部室を覗き見るなれど変はれる我には懐かしくもなし
スマホ見て歩む乙女の莞爾と真顔に戻り通り過ぎ行く
この人に二度と遭はぬと思ひをれどさういふ人の数多過ぐなる
昔昔おみなに好かれたく思ひ不器用をなせる日々もありけり
暮方の夕日の様は変はらねど我の姿も心も変はれる
人たちの演奏を聴きて思へるは「我、何を望めるか」とくと考へよ
佳き曲を善くも弾きたる人たちの我を動かす「次はおまへだ」
世にありて人を謗らで生くるべし人には人の事情ありけれ
やし酒飲み エイモス・チュツオーラ 土屋 哲
南米文学の続きのつもりだったが、アフリカ文学だった。まあそういうこともある。
不思議につぐ不思議の連続で私が常々望んでいる「遠くに行く」を満喫できた。
賢者ナータン レッシング
ユダヤ系の名前とて、なんとなう旧約聖書時代かあるいは欧州近代かというイメージを持っていたが、サラディン統治下のエルサレムであった。
(トルコ制作のサラディンドラマシリーズ、十字軍側からのサラディンなど最近サラディンものが続いている。好きで見ているからそうなるだけなのだが、これはちょっと驚いた)。
楽しい寓話と思うべきものだろう。少々まどろっこしくもあり、そこに作為も感じるけれど、公明正大で名を馳せたサラディン伝説のひとつと思うべきか。
先月から読んでいる「増補聖典クルアーンの思想」(大川玲子)には、啓典の民に対するイスラム側の共感と苛立ちの二律背反があり、それを思うと、賢者ナータンは少々楽天的過ぎるようにも思ってしまう。「寓話」にケチをつけても仕方がないのは重々承知しているつもりだが。
増補 聖典クルアーンの思想 イスラームの世界観 大川玲子
引き続き読んでいる。日本におけるコーラン(クルアーン)翻訳史など、非常に蒙を啓かれる。
「善隣協会」の名を見る。木村肥佐生のチベット潜入調査旅行においても、内蒙古善隣協会、そしてモンゴルにおける回教軍などの話があったことを思い出す。
木村の旅行の国家的目的がアジア侵略であったように、コーラン翻訳もまた「八紘一宇」という美名の下に進められたアジア侵略の一環であった。
以前見た「木村肥佐生論」を読み直したが、たいへん勉強になる。
https://dabohazj.web.fc2.com/kibo/note/kimura/kimurahisao.htm
この方のご興味はこうした歴史だけでなく、自然科学にもあるようで、素晴らしい(私も雑文をダラダラ書くのではなくもう少し研究した上で文章を書くべきだろうか?)
たくさんのふしぎ 津津浦浦
地名と地形(地理因子)の関係は常に興味深いが、こちらは「水」と関係する地名のお話。なかなかおもしろかった。
蒸気機関車のイラストはまあまあ悪くないが、もちょっと知識のある方に見てもらったほうがよかったかも。2分割スノープローはあまり日本では見かけないと思う。私は、昔々、妹尾河童氏の「河童の覗いたヨーロッパ」のイラスト(雑誌「旅」連載)で見て驚いた記憶があるけれど。
河川→居住と道→街道化→鉄道というロジックは自然だと思うが、この本の構成上、道路が後から注として出てくるので、その点何か異なる表現が出来なかったかちょっと考えてしまう。
たくさんのふしぎ ヘリコプター
色々な情報が書き込まれており面白いけれど、テーマやストーリーは若干希薄かな?
ドローンの動作原理の図が(ドローンそのものを知っていれば問題ないが)少しわかりにくい。前ページの飛翔イメージと同じドローンにした方が理解が良いように思われる。
また、イラストレーターさんはヘリコプターが好きでこの道に入ったらしく、ヘリコプターの美しさに比べて人物像は興味ないのがよくわかる。まあ仕方ないことではある。
たくさんのふしぎ 超深海
こちらはストーリー優先で情報は少なめ。同じたくさんのふしぎでもバランスを変えるのは、編集者が違うのか、筆者の考えか、何によるのだろう?
昔、よくあった「学習まんが」で、子どもたちが「宇宙に行きたい」というと、物知り大学生が「宇宙に行くのは難しいぞ」と言いつつ、ページをめくると「まんがだから連れて行って上げよう!」といって子どもたちが喜ぶという秀逸な流れがあった。
それをちょっと思い出す。
超深海に降りてゆく雰囲気を味わえて楽しかった。現実には宇宙と同様、退屈な長い時間を過ごして後、やっと海底たどり着くのだろうと思うが、「まんがだから/絵本だから」その分は端折っていただいてもちろんよろしい。
たくさんのふしぎ 忍者からみた世界
飯野 和好の表紙絵が印象的で、中のイラストもずっと飯野なのが良い。
忍者の実相が研究者の実体験も含めて「地に足のついた」内容でよく描かれており面白い。
海外でも人気の「忍者」をテーマとしており、さらにこの絵・この内容ならば各国語版があっても売れるのではないか、と想像する(もちろん根拠はない)。
ロシア中世物語集 中村喜和編訳
ロシアについてはウクライナ侵攻など思うところは多々あるが、買っておかねばと思い購入。
原初物語:キーウ周辺のお話。キーウこそルーシの祖だもんね。ものすごく古い「古代」だと思って読み始めたのだが、ビザンチン帝国とのやりとりがあり、「そういえば中世だった」と気づく。Youtubeのトルコドラマシリーズでもビザンチン帝国は「敵」として登場しているし、「ビザンツ皇妃列伝」を愛読している私には、視点が変わって面白い!
石垣りん ユーモアの鎖国
読了。読んで良かった。四日市ぜんそくに関わる詩があると初めて知った。私が子供の頃、四日市の対岸に住んでおり、丁度判決が出るなどの時期だったので、テレビでも判決や実情がしばしば報道されていたように記憶している。遠く、御在所岳が霞む手前に何本かの煙突が見えており、「あの煙突の下に苦しんでいる人々がいるのか」と思って眺めていた。
とある日、現実の女性銀行員とお話する機会があった。ふと石垣りんのことを思い出したが、多くの銀行員は(銀行員でなくとも)そういうことに興味がないであろうと思い、お話しなかった。まあそれで良いだろう。私が興味あることの多くは他人様には無興味であるので。
大日本帝国最後の四か月 迫水久常
読み始めた。
読み始めて数ページで「なぜ?」という疑問(批判)が数多く出てくる。
たとえば、国力を確認する・・・と言って人を集め作業を始めているが、そんなことは開戦前から継続的に行うべきことではないのか?総力戦を甘く見ているのか?(甘く見ていたのだ)と思う。こうしたことがいくつもある。もちろん、後世の素人の論評に深い意味があるとは思わないが、こうしたことで正しい疑問を持つ訓練をしておくことが、日々役に立つようには感じている。
日本各地が空襲にさらされ、一般市民の生活さえ成り立たなくなっているのに、のんびりと「役所仕事」の担当をしているようにすら見える。
(迫水氏らの必死の努力で反乱なく敗戦処理が行われたと知ってはいるのだが、程なく行われる広島・長崎の原爆投下やソ連参戦を知っている私としては、この書で様々な「調整」を見ているとついついそう思ってしまうのである。というか、そもそも切迫感がないというか、陸海軍の担当官ですら、自分の担当箇所だけしか見ない役人根性に侵されているように見える。)
また、この書で戦艦大和による沖縄特攻は一ページ未満の話でしかなく、戦略的な意味がほとんどないことが読み取れる。
この時、大和とともに沖縄に向かい沈没を免れた幸運艦雪風の映画がこの度公開されるらしい。もちろんそこで生死を分けた切実な物語があったのはそのとおりだが、単艦の「幸運」を顕微鏡で拡大して見るのではなく、戦争の「不幸」を全体観を持ってみるべきでは?と思う。
迫水の記述を読んでいると、迫水はじめとする戦争終結派であっても、戦争で不幸に遭っている国民への同情が存在しなくはないし、薄いとも言えないものの、再優先事項になっているのか疑問に感じられる。まして、決戦派においておや。戦前回帰を望むならば、自分の人権は全てない(現在は相応によく保護されている)ことに気づいた方が良い、と昨今の情勢を見て感じる。
読了。読んでよかった。大日本帝国政府としての「終戦」は「終戦の詔勅」が官報として出された昭和20年8月14日11時らしい。
玉音放送を翌8月15日にしたのは、反乱軍が(夜間に?)行動するのを防ぐためだったようだ。
詔勅にも目を通したが、物凄い(きちんとした)漢語表現であり、執筆にあたって漢学者お二方にも相談しているとのこと。日本が中国に学んできた歴史を踏まえ歴史に残ることを意識したものとも言えるが、国内での理解や議論を阻むためにそうしていたのではないか、という疑いを免れない。こんなわかりにくい公文書を作っている国も、平和的であるなら言うことないが、総力戦を戦うにはそうした非合理・非科学はアカンよねと感じる。
なお、この書は基本的に事実として信じて良さそうだが、「昭和天皇がずっと平和主義者だった」ことについては、どうだろうか。
最近、「雪風」の映画が公開されているというが、見た方の感想は「時代劇」(時代考証がユルいという意味だろう)。
自分は、小説「機雷」を原作として海防艦大東(1945年11月触雷により沈没)や掃海艇の話を映像として見てみたい。
大井篤「海上護衛戦」は全体を俯瞰しているが、そこで描かれている物流・兵站の現場を描いたのが「機雷」と思う。
大東時代は南方からの輸送船団の護衛で海外からの物流、掃海艇時代になると機雷により内航船すら動けない状況。
南方からの輸送は戦争継続のための物資、内航船が動けなくなると、中国・朝鮮からの食料輸入ができなくなり、国内生産されていた石炭も動かせず、電力が不足してくる。そうした、「機雷」と「海上護衛戦」を重ねたような映画は非常に意義深いのではないか?
https://www.war-memoire-db.org/ijn_de_daito1944.html
日の名残り カズオ・イシグロ
執事については何冊か読んでいるので、なんとなうその延長で読む。
(ジーヴズ、エマ・ヴィクトリアンガイド、「おだまりローズ」など)
日系英人が描くところの米人の雇われた英人執事・・・を読んでいる私。その構図に若干の眩暈を感じるが、気にしないでよかろう。
イシグロの小説に特に共通するテーマを見いだせていない。まあそれで良いのだが、ご本人としては、何か方向性を持っているのか、どうなのだろう。
翻訳の語りが丁寧すぎて少々読むのが辛い。召使いらしさを出すために丁寧体にしているのだろうが、この文章は「誰か」に向けて書かれたものなのだろうか。私語・自省なのだろうか。なかなか。
最後の追い込みでモロモロ分かってきた。そういう落とし所ならば、こういう前ふりで良かったのだろう。
面白い物語ではあるし、美しい情景もしばしばあって映画化したくなるのは分かるけれど、その美しさが主人公の内面とあまり関わらない点からすると、「付けたり」に感じなくはない。
「ダーリントン」と言われると、鉄道発祥ストックトン・ダーリントン鉄道を思い、トランジスタを多段階に用いる「ダーリントン接続」を思う。今どきは、すでにダーリントン接続をしてパッケージを一体化した「ダーリントントランジスタ」を売っているのね。知らなんだ。
「品格」は原文では「dignity」であるらしい。翻訳当時「●●の品格」が流行ったりしていないかな?ちょと興味がある。
私自身は生き方に品格を求めていない(品格の破棄も求めていない)。私自身は、庶民の意地、天然素朴な義理人情、生まれ育ちに由来する趣味・好みに身を任せて生きている。ともあれ、それが「品格」とある程度似たようなものと思うところもある。私自身は、虚栄・虚勢・見栄も私の趣味のうちに含まれていると思っているが、「品格」についてはどう考えるべきだろう。そうした外的なものが含まれていると思うべきか、あるいは、自然とそうした外的なものも導かれると思うべきなのか。
せきれい 庄野潤三
少しづつ読む。どれも同じような話が巡っているとも言えるが、この暖かな生活が、いつ・どのようにして終わるのかを感じるようになってきた。
そうした文章には直接描かれない部分も含めた作品なのだろうと思う。少しずつ読もう。
ドストエフスキー前期短編集 米川正夫
長い間放置していた「弱い心」をやっと読みおえた。どうもこういうのは手が止まる。
あまりにも冗漫で話が進まないから。とは言え、その冗漫な道化的言辞にこそ人生の、人間の真実が現れる、そのようにドストエフスキーが考えていたのかも知れない。運命と行動の主体は・・・だが、感情と記述の主体はアルカージイ、感情を向けられる・・・は主体としての動き・描写はほとんどない。ある意味、これがドストエフスキーの小説の基本的枠組みであるかも知れない。
そうしたことを感じるにつけ、代表作に目を通した後に前期短編を読んで良かったと思う。
さて、残りは「鰐」。別なところで読んだ記憶があるが、もいちど読もう。
アジアの孤児 呉濁流
ものすごく読んだことがある感じがするのだが、自分の読書記録を見る限り出てこないようだ。それ自体が気になる。どういうことだ。
記録を忘れた、ということだろうか。
私が台湾小説で読んだことがあるのは、歩道橋の魔術師、自転車泥棒(いずれも呉明益)だけのはずだが。
ギリシア哲学者列伝
少しだけ読む。まあそんな感じ。自分の生活実感でもそうだが、「言葉」は通じるものなのか?同じ単語でも同じ理解ではないこともしばしばある。ギリシア時代もおそらく一緒であったろうと思う。(と、先月と同じ感想を書くのは記憶力が低下してヤバイのか、一貫性があって立派なのか?)
現代の例としては「ポジティブ・フィードバック」。人材育成の文脈では「褒めて育てる」=良いこと。信号理論・制御理論では悪手。最近では、会議室から複数人でネット会議に参加する際、複数マイク・スピーカーによって生じるハウリング。あれは「ポジティブ・フィードバック」の好例。
量子力学の百年
筆者の時事的な記述はもっと減らしても良かったのではないか。
宮﨑駿イメージボード全集 4 ナウシカ前史
少しめくり見たところ。ともあれ、我々が知るナウシカ(漫画7巻本および映画)に至るまでに、全く異なる印象を与える「ナウシカ」があったとは。
創作の面白さでもあり、創作の過酷さをも思わせる。また、おそらく初期のエスキスであろうもののうち、廃墟を行く旅人を俯瞰するイメージは、ユパ様となって残っているのもまた面白い。
あり得たであろう様々なナウシカを思い、あり得なかった理由を思って楽しむ。
ジュラ電からSL終焉まで(正、続、完、そして続々)
芸術的でもなく車両だけの記録でもなく、(失礼な言い方になるが)中途半端ともとれるスナップ風写真集。
だが、逆にそれが、当時の「空気」を伝えるものになっており貴重でもあり面白くもある。
「廃車体の写真」などは他ではほとんど見られず、それら古い車両の情報としても、鉄道車両の行き着く先としても、貴重で興味深い。
これ以外にも「続続」があるようなので、通信販売で古書を注文。楽しみ。
で、「続続」到着。完全な私鉄特集。
しかもこれまでの巻で代表的車両を紹介しているからか、落ち穂拾い的な地味車両の連続。私のような者にはそれが面白いのだが。
人間の大地 サン=テグジュペリ
岩波による新訳。私が堀口大學に心酔している(し過ぎている)のもあって、ちょっとつらい。
冒頭一行で既にひっかかる。
形式名詞「こと」はできるだけ使わないのが「良い日本語」だよね。
まあ、詩人にして外国語の達人(アポリネールとお友達、とか)の堀口大學の文章と比べるのは申し訳ないのだろうし、さすがの堀口でも情報不足・誤訳はあったはずなので、新訳にももちろん意味があるはずなのだが。
どうしても、こちらを読んでは堀口を・・・となってしまう。
堀口の新潮文庫も紙が酸性化で急速に劣化してきたので、本来買い直すべきだが、新潮社の「差別問題」もあるから、あまりここにお金を出したくはない。また、宮崎駿の表紙になってから活字が変わっており、私はこれをあまり好まない。さらに、新潮は「戦う操縦士」をずっと版切れにしているし。
困ったものだ。
人間の大地(人間の土地)の訳文を並べてみる。
「お前たちは野蛮人だ、やっと巣穴から出たばかりだ。人類に追いつかねばならん!」野崎歓訳
「きみたちは野人だ、きみたちは原始人の洞窟からわずかに一歩出ただけだ。人間性に追いつかなけりゃいけない!」堀口大學訳
これだけでもなかなか興味深い。仏語原文を並べられると恰好良いがそんな学識はない。せめて以前買った英語版を押し入れから探し出さねば。。。
先日、書店で『関西大衆食堂の社会史―「餅系食堂」からみた都市移動と立身出世』(奥井 亜紗子)なる書物を見つけた。
昨年、京都をうろついた際、「力餅」「三高餅」などの看板を続けて見つけて、少々不思議に思っていたところだったので、その連関に驚く。
やはり買うべきだったろう(が、買っていない!)。
という訳で近くを通りがかった折に買ってしまいました。嬉しいね。平積みの最後の一冊。こういう本を売る店も偉いが、見つけて買う人も偉い(me, too)。
自分は「現在」がどうして・どのように生じたのかを知りたい欲求があり、また「遠くに行きたい」「遠くの風景を見たい」欲求がある。
「餅系食堂」は、自分が見た関西の「現在」への来歴を期している点で前者であり、自分が知らぬ関西という意味で後者であり、二重の欲求に応えるものである。
古い鉄道模型趣味
28号(1951年)。土肥陶氏によるスプリングウォームの記事がある。小林信夫氏の回想にもちらりと顔を出し、その後、Tomixが製品に使うもの。昔触れた技術要素があちこちに根っこ・枝葉を伸ばしているのを知るのは楽しい。
また、この時代、プーリーとゴムベルトorスプリングベルトも流行。子供の頃、私も輪ゴムを使ったゴムベルトを構想(妄想)していたが、きちんとやれば使えることが分かり嬉しい。まあ、当時の私の技術レベルで出来たとも思わないし、Nゲージで実用性があるとも思いにくいけれど。でも、原理原則として想像が当たっていたというので嬉しい。
29号。「安楽マニア」とは今の私のことだ。何一つ作らないで、本だけ読んで楽しんでいる。「東西電車自慢」もユーモアがあって楽しいが、書き手(複数)のバランスや読み手にも種々前提が必要であり、今の世の中では難しいかな?
これら古い雑誌に記載された図面が暖かくも興味深い。「作りたくなる」(作れるとも、作るとも言っていない)。そう思うと、「TMSスタイルブック」を見たくなる。「USB」5,000円也を買えば読めるのだが。
孔版による「旧1〜3号」は縦書き、「新1号」以降は横書きだ。旧2号座談会で安井氏が「横書き」賛成を述べているのに対し、山崎氏が「縦書き」好みを述べている。が、結局新1号では横書きに。その後、多くの文書が徐々に横書きになって行ったし、特に技術系は横書きが早かったこともあるが、どのような判断だったのだろう?
ニューヨークで考え中 近藤 聡乃
いわゆるエッセイ漫画というのだろう。
外国で暮らしたこともない私だが、そういう視点で楽しめた。ものすごく確固としたる意思決定ではなく、ふわっと海外居住を決める。きっとそういうものだろうと思うし、そういう人・そういう人もふつうにいるのだろうと思う。自分自身がなぜ「今・此処」にいるかを考えても鞏固な意思決定をしたとは言い難いのだから。
彼氏がチェロ奏者というのが良い。私の仲間だ。ふふふ。
「この湖にボート禁止」(ジェフリー・トリーズ)は非常に良い本で、忘れがたい。
で、続巻があるならば読みたいのは人情である。
以下2巻以降の日本語題名は私の超訳(中身を見ないで想像で訳す)である。
1. Boats on Banner この湖にボート禁止
2. Under Black Banner 黒旗の下に
3. Black Banner Players 黒旗の勇者たち
4. Brack Banner Abroad 海を渡る黒い旗
5. The Gates of Bannerdale 湖の谷
第2巻「黒旗山のなぞ」は学研から出版されていたことがある。が、古書でも見られない。うむむ。
奮起するならば、英語版入手→電子化→電子翻訳・編集などもありうるのだろうか。人の翻訳にケチをつけている身なので、怖くてそんなことできない。
自分に合わなかった小説10選が流行っているらしい。
「戦争と平和」最初4ページで挫折。これが中学生くらい。50歳を越えて「アンナ・カレーニナ」を読んだが、「働かなくても暮らせる貴族の恋愛話を貧乏労働者の自分が読んでもねえ」くらいの感想になっちまった。キチイとリョービンの事を書きたいならそっちを主にした小説にすれば良いのに、とか。トルストイは合わない。
「宇宙の戦士」いちおう読み切ったが、特段SFとも思わない。宇宙に行っても人間がすることは同じだと言いたいのだろうか?と思い、以降読まない。「夏への扉」は悪いと思わないが、ハインラインを始めとする「ミリタリーSF」は自分に合わない。
(娯楽SFは割合嫌いではないが、説教臭かったり恰好つけすぎていると読みたくなくなる。娯楽なら娯楽に徹して欲しい)。
ご存命とて名前を出すのも憚られるが、娯楽小説の類で「読むだけ時間の無駄」と思ったものがいくつかある。小学5年生であったころ、そういうのを読んで、「この作者は一生読むまい」と決めた。今思っても良い決断。複数人そういう方がある。
シェークスピアの訳語検討
https://www.webchikuma.com/n/n4ca08d61ab42?sub_rt=share_sb
「朝が来なければ夜は永遠に続くからな」だけでも大変なことである。
大変興味深い。
小学生だった頃、「戦艦武蔵のさいご」(渡辺清)を読んだ。
幼かった私であるが、「戦争とは絶対的に悲惨なものである」と強い印象を受け、「その悲惨さから絶対に目を背けてはならない」と思った。
戦争について様々な言説があり、あるものは面白おかしく、あるものはいかにも格好良く描くのだが、それらの背後にある悲惨さを絶対に忘れてはならないと考える。それが私自身の人間としての誠実さ、あるいは人間性に他ならない。
宮崎駿氏の「雑想ノート」にも、「面白おかしく・格好良く」の部分と、それを恥じらいつつの「悲惨さ」の提示がある。
ガンダム初期を見ても、誰一人思い通りの人生を生きることなく、誰一人幸せでない。よし一瞬の幸せがあるとしても巨大な悲惨さに踏み潰されるだけであったり、狂気によって瞬間の幸福感を得ているだけであったりする。
水木しげる「総員玉砕せよ」、ちばてつや「紫電改のタカ」、松本零士「戦場漫画シリーズ(ザ・コックピット)」、どれもまた、「戦争とは絶対的に悲惨なものである」と描いており、これを読み取れぬ者は読解力を恥じるべきだと思っている。
もしかすると、私がしている義勇(ボランティア)は「まともな戦争研究・戦争文学を買って・読むこと」だけかもしれぬ。
いわゆる「仮想戦記」は読んだことがない。負けた戦争を簡単に「超兵器があれば勝てたのだ」にするのは無責任だ。(「高い城の男」は読みたい。)
本を書店に予約。
小林信夫「続 小林信夫の模型世界〜貴方も電鉄経営者〜」(機芸出版社)
クリハラタカシ「名前のチカラ(たくさんのふしぎ)」(福音館)
書店での予約に思いの外時間がかかる。書店のシステムがあまり良くないのだろう。また、書店で予約する人間が少ないのであろう。
自分でamazonでポチれば速い・・・のだろうが、それは自分が知っている分野の知っている本だからだね。
でも、よほどのことがないと書店での予約はしない(できない)なあ、というのが感想。本当は書店にとっても良いことではないのだろうけれど。
●雑感
合宿に行く夢を見た。というか、合宿していて、近くの山(芝草だけの生えているたぶんスキー場)に登る夢。
三村先生もおられたような気がする。
おかしな話だが、こんな夢を見られるならば、六月末の原村合宿にも行った甲斐があるというものだ。
あの山は「やぶはら」の記憶とつながっているのだろうか。
私の中には、私が記憶していない記憶が眠っているように思う。
鳴海小学校器楽部・アンサンブルヴェガの記憶。さらに古く、海辺の村を歩いた記憶。コンクリート建ての診療所のような建物の記憶。日向の草の匂いを嗅ぐと思い出せそうな気がするのだが。
合唱団フォンス・フローリスによるシャルパンティエ「聖母被昇天のミサ」
シャルパンティエは映画「合唱ができるまで」で興味を持つようになり、「真夜中のミサ」を聴いたりしていたので、実演を聴けて嬉しかった。
弦楽器+通奏低音(Fg、オルガン)+リコーダー+歌(独唱と合唱)の組み合わせを実演で聴くのも初めて。
リコーダー良い音。弦ともよくあって嬉しい。リコーダーというとどうしても学校で吹いたあれを思い起こさせるし、上手な人もいるけれど、やはりプロフェショナルはすごいね。
弦楽+通奏低音は安定のLMC。さすがの美音で嬉しいが、やはり伴奏という立場なので、大人しめだったか。
やはり丸山氏が歌って踊れる環境でないと私は満足できないようだ。
なお、ここで「美音」といち単語で書いているけれど、これは「音質」だけの話ではない。
時間的・空間的にもあるべき音質・音程・形状・方向性などがあり、それらを全て美しく満たしているのを「美音」と言っている(ような気がしてきた)。
本来、「音」を物理的に表現すると、波形と振幅くらいしか情報がないはず。で、波形は「周波数ごとの振幅の相対的な分布」だったりして。
でも、人間の耳はそこから「音を生じさせている現象」を推測する強い力を持っている。
で、そうなると「音の変化」は多次元の情報を持っていることになる。そして、そうした音の構築物としての交響曲の「意味」などによる次元の拡張もあるだろう。また、子音的なトランジェントの情報も。
なかなかおもしろいね。
他のガンバ奏者やバロックチェロ奏者を聴く機会もあるわけだが、私の好みがごくごく狭いことを思い知るのみ。
屋外が暑く、体温が高いと自分は無思考・無感性になる。だから演奏が始まるまでに、何か「冷ます」工夫をしたいものだ。これは夏の演奏会を開催する側としても工夫されることを希望したい。少なくともロビー入場を早めにするなど。「楽器管理のため温度低め。だから上着を」というのは結構冷まされてよかった。ふつう冷房の演奏会で無思考・無感性のままに聴いた演奏会は残念だった。
ヴィオラ・ダ・ガンバのコンソート「アンダーハンドレット」を聴きにゆく。
ルネッサンス、バロックからベルク、シェエーンベルク、ベリオ、さらに今回初演まで。
非常に透明感が高くハモる音で和声感が気持ち良い。選曲も楽しく、宇宙の彼方から地球の音楽史を眺めているような感じ。
現代オーケストラ(およびその楽器)ってここまで精緻な音程感がないのよね。私の耳が腐っていてそう思う可能性もあるけれど。
そういう訳でハモリ感があるこの楽器のこの編成が好き(現代オーケストラも好き)。
On verra 5e - バスタイユ・カンタータの愉悦 -を聴きにゆく。
不動のLMC繋がり。たいへん面白く愉快な演奏会。何のイメージもなくLMCならハズレはないくらいのつもりで行ったが大正解。
音楽も素敵、ユーモアもある。そもそも音楽が素敵だからそこに乗るユーモアが輝く。LMCの活き活きとした表情豊かな演奏があってのユーモア。
弦は丸山氏・島根氏がいるから間違いない。ファゴットも時にブリブリ、時にお澄ましで楽しい。ブロックフレーテ大山氏もいちど聴いてみたいと思っていたが、明るく伸びやかな音で素敵(もっと聴きたい)。チェンバロ石川氏はいつもながらの安定と輝き。
バスタイユの方も表情あり、ユーモアありでとてもとても良かった。
曲もよくぞこれだけの面白い曲を集めた、と思うもの。それをこのレベルで演奏してしまうのだから驚く。
後からふと思ったのは、マレ「つむじ風」。あの順番に入れるは非常に良かった。後々思うと強い印象が蘇る。
まさに「つむじ風」の表現が、ガンバとチェンバロで繰り広げられる。他の曲の「楽しい」とは異なるけれど、お汁粉の合間に食べる昆布の佃煮(高級)のように、それ自体も「旨い!」と思わするばかりでなく、お汁粉の味をも限りなく引き立てるもの、と思った。
演奏空間もこれくらいが良いのだろうけれど、もっと多くの方に聴いていただきたいなあ、と私は感じる。
今回の企画と直接関係ないけれど、チェンバロの「即興」がどれくらいあるのか、どんなパターンがありうるのか、自分は全然わかっていないので、その点についてのレクチャコンサートはどこかであると嬉しいな(コンサートの一部コーナーが良いかも)。
皆が知っている分かりやすい曲の「譜面に書かれたバス音のみ」「譜面に書かれたバス音に数字で書かれた和音を和音で鳴らす」「アルペジオ」「やりすぎ装飾」「ベスト版」で弾いて頂けると、ちょっと私の頭が良くなるかも。(youtubeにそんな動画がないかな?)
同じようなのは、「即興的な装飾の入れ方」。その場で感知するほど鋭くないので。譜面を見ながらCDを聴けば「おお」と感心するところが多いのだが。これも「こんな即興」「あんな即興」を聴き比べさせて頂けると幸せ(私が)。
川口成彦氏の CD 「ゴヤの時代」を聴く。
古いフォルテピアノ独特の甘渋い音。
「純露」という飴が昔からある。琥珀色に透き通ったのは鼈甲飴。これは甘い。琥珀が濃くなった色は紅茶飴。こちらは甘くて渋い。
「純露」は甘いものと思って袋から適当に引っ張り出して紅茶飴を引き当てると甘渋さに驚く。ちょっとそんな感じ。
舐めているうちに驚きと美味しさが入れ替わる。時々驚きが蘇るが、また美味しさがたちまさる。ちょっとそんな感じ。
チェロ弦。ダダーリオのカプラン。
鳴らなくなってきた。
鳴る時はうるさく、鳴らないとキツい。自分の奏法に問題がある気もする。悲しい。
奏法改善のためにガットにする、というのも良いかも。以前、ガットを張って右手が良くなったこと(自他ともに認める)がある。
スメタナ「わが祖国」全曲のお誘いを受ける。悩みつつ検討する。
基本的に弦は弦らしく・管は管らしくそれぞれまとまって音を出す使い方。各パートが入り組んで凄い独立した声部で戦うてふことはない(まあふだんベートーヴェンの弦楽四重奏を弾いておるからの)。おそらくはスメタナ時代のチェコの演奏レベルにそれなりに依拠している(たぶん、チェコ国民歌劇場ができる前の「仮劇場」時代)。
チェロを二分しているのもおそらく演奏レベルに合わせて半分をコントラバスにつける判断をしているように思われる。(モルダウのみ若干例外だが、二分しているのは変わらない)。ここがちょいと面倒そう。モルダウ以外も本当に半々で分かれるべきなのだろうか?上声を強めたほうが良いように思うが、あまり歪配置もできまいというところ。まあ、基本的には「弦楽器群」の音が出れば良いので、分けたところで大きな問題はないのかな?
作曲時期としては、梅毒による天才性を発揮しつつ、そろそろ難聴になる頃(さらに進行すると天才を超えて発狂する)なので、楽想は多様で単純ではない。そういうところが名曲なんであるし、ドヴォルザークにもつながる「チェコらしさ」ではあるのだけれど。
で、全体として当時の歌劇・序曲レベルの作曲なのだろうけれど、「盛り上がったところの分散和音・音階・その他の音型」がウザい。特に移調しながら進行する部分が非常に面倒。各楽章に一箇所くらいずつある感じ。
それ以外に「弾けない」「弾きにくい」というところは見られないようだ。
(高価だったかが総譜を買ってよかった。ネットの総譜動画付き演奏も便利で良いが、長い曲であり、両方が必要だ)。
さて、どうするか。自分が練習三回で弾ける人間ではないことはよく分かっている。
好きな曲ではあり、なかなか弾く機会がなく勿体ないが、一方で、他の本番もあり、仕事もせねば、練習も思ったより参加できなさそう、暗譜が超苦手になってきたの四重苦(暑さや体力問題も入れると更に・・・)。こうやって勉強させてもらっただけでも大変ありがたいが。さて。
いわゆる楽器あるある。
フルートの人は、木管唯一リードがない。だから、木管同士リードの会話になると疎外感があるらしい。
そーですよね。チェロも弦楽器で唯一(でもないが)顎当てがないので、ヴァイオリン・ヴィオラが顎当ての話になると疎外感がある。
仲良くしましょう!(と、フルート=可愛らしい女性という偏見にもフルートの方は怒りを感じておられる模様)。
そう言えば、音大に行くようなフルートの知人は、田舎町とてフルートを持って歩いていると「そろばん」とか「ピアニカ」と言われる、と嘆いていた。
昔のナイロンカバーのチェロを持っていて「ゴルフ」と言われた方もあるようなので。
嶋崎雄斗氏のYoutube
https://www.youtube.com/watch?v=SfrLbot_IQA
「音楽高校・普通高校」と言う限定された話題にも見えるが、人生の様々な段階での様々な選択に通じるありがたいお話だった。
ボタンアコーディオンの人にしか伝わらないあるある
https://www.youtube.com/watch?v=q1uQlK-lcjQ
なんかすごい人だと思ったら、アコーディオンを531売ったり、たしかにすごい。
そしてまたTinyDeskConcertにも。
https://www.youtube.com/watch?v=VZwyVbJYoUU
ちょっと大正ロマンっぽい。小川直人氏の漫画に出てくる曲馬団の音楽隊とか。
こういう発声が大正っぽいと感じさせるのだろうか。山田参助氏の歌唱もこちら方面だった気がする。
私もアコーディオンを弾いていたことがある。それもあって、アコーディオンの音色が好きだ。特に低音のボーっとかます音。
鳴海小学校器楽部では、アコーディオンを経て、弦楽器に進むことになっていた。もともとリードオーケストラだったのを徐々に弦楽器を入れていったからだろう。豊橋の羽田中学校では一気に弦楽器に転換したように理解しているが、いずれもリードオーケストラ発祥であることは時代性でもあろう。
そしてまた、どちらも学校音楽コンクールの類から距離を置いていたのも、ちょっと似ている。そういう理想主義というか哲学性のようなものは最近流行らないのかもしれぬ。
私の着手物件
モーツァルト K.428 2025年10月
ドヴォルザーク Op.97 2025年11月
ベートーヴェン Op.132 2026年7月に決定
モーツァルト K.421 同じく
相変わらずオーケストラは予定なし(と思っていたらスメタナが来たね)。
自分で今後可能性がある(なんとなう弾いておかねば感がある)のは、基本的には弦楽四重奏のみで、スメタナの2曲、ショスタコービチ(友人の遺品CDが手元にある)あたりか。一度はボロディンも弾くか(ロシアものは避けたい気分だが。ショスタコービチは反体制の仲間ということで譲歩)。
むろん、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンは弾き続ける前提。
ブラームス、メンデルスゾーン、シューマン、シューベルトを弾かないとニッチもサッチも行かなくなるか?
ドヴォルザークをもっといろいろ弾くか?ピアノトリオなどもしてみるか???
家族から「来る老後を考えると、行く先もない親が家でゴロゴロしているならば大変心配になるだろうから、親が毎週音楽活動で出かけるのは、大変喜ばしい」と言われる。そういう視点で考えたことはなかったが確かにそれはあるね。
社会人になってからも、また最近も、音楽系の知人友人が少しずつであるとしても増えている(ありがたいことである)。また、子育てや介護が終わった順にふたたび時間が出来て、「また遊ぼう」という話もある。ありがたいことである。音楽活動以外で同じようなことをしたこともないし、どうやってするのかも私には分からない。
マーラー「美しいラッパの鳴り響くところ」(バリトン 植田雅朗氏)
不覚にも涙が止まらなかった。この音楽この詩この歌で泣かないなら音楽は要らないと思った。
私には、フィッシャー=ディースカウ、シュヴァルツコップ、セル、ロンドンSOのLPレコードを聴いて以来越し方四十年の思いがあり、「ふつうの聴衆」ではないのだろうけれど。(女声・男声で歌い分けるところもお一人で歌っているので、初めて聴く人には「対話」がわかりにくかったかも。)
私は、マーラーをもっと奇怪に・いびつに・ねじ曲げて演奏して欲しいと思うけれど、その一方で素朴に・素直にあっても欲しいと思っている。
前者については、中世の様々な理不尽・戦争、たとえばブレヒト「肝っ玉おっ母とその子どもたち」や「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」などで描かれているものなどが相当するかも。こうした書からイメージを吸収していない人がどのようにマーラーを解釈できるのか私にはわからん。(他人様の会話でも、えーそんな変な解釈せんでよ、と思うのがあった)。
ドヴォルザークの交響曲第九番も、弦楽五重奏や弦楽四重奏との比較で面白かった。
この交響曲と「魔法の角笛」はおおむね作曲年代が同じなのね。なかなか良い選曲。個人的には健全なドヴォルザークに対して、もっとグロテスクを濃くしたマーラーを希望するけれど。
やっとかめ室内管弦楽団は好演。交響曲はも少し弦楽器の人数がいたほうがいい感じかも。また、若干安全運転だったかも。管は多少の不安なしとせず(アマチュアは各人様々な事情があるので仕方がないが、結果だけ見ると)。トライアングルはも少し変なレロレロの方がグロテスクで嬉しい。指揮者吉崎氏は見やすく明快な棒つかいで、演奏もそれに倣う。「安全運転」なのか「綺麗め」を狙ったのか。まあ変に煽る演奏も気持ちが悪いことがあるので、良識として見るのが良いだろう。指揮棒の打点が高く見えるけれど、低身長を補うための策であろうか。
まあこういう諸々を考えてしまう私にはオーケストラ活動は難しい。
ナチスのテレジエンシュタット(テレジン)収容所におけるオペラ公演
https://www.youtube.com/watch?v=d7jBQ6WlifU
こんな画像が残っているのだ!と驚くけれど、ナチスの対外的宣伝「収容所は人道的なものである」のための公演であり撮影であったようだ。
ナチスによるユダヤ人迫害の記録を保存する団体 Yad Vashem による公開。
とは言え、イスラエル国家がパレスチナ人を虐殺している今、これを見ることの複雑な気持ちよ。
イスラエルによるパレスチナ人迫害の記録を保存する博物館が将来できるだろうことを、この人々はどう思っているのだろうか。
昔、楽譜屋さんの「楽しい弦楽四重奏」という棚を見ていった時、鉄条網の描かれた表紙の譜面が出てきた。
テレジン収容所に収容され・殺されたユダヤ人作曲家数人の弦楽四重奏曲の楽譜集だった。
まあ、「楽しい弦楽四重奏」は「ここから」という札が棚に刺さっていただけので、あるところから以降は「楽しいとは言いにくい弦楽四重奏」になっていたのだろうけれど、「楽しい」が「絶滅収容所」に飛ぶ瞬間を見た私の驚くまいことか(非常に驚いた)。
1950年ごろ、NHKが海外の名歌手と指揮者を招聘し、合唱と管弦楽を日本人が担って有名歌劇のいくつかを放送する、という企画があったはず。
その何十周年記念放送を昔(1980年ごろ)見た記憶がある。
分けてもアイーダは印象的だった。カルーソーのようなデカいイタリア人歌手が勝利の歌を歌う傍ら、半裸の兵士たちが合唱しながら行進する。
この兵士たち(おそらく学生も含めた若い歌手たち)は、戦時の食料難から幾ばくも立っていないらしく、貧相このうえない。
勝利の行進ではなく、まるで飢餓のために降伏した捕虜が歩かされているような痩せっぷりだった。
それから幾星霜。日本も豊かになった(今後については不安が残るけれど)。
アニメーション映画「サマーウォーズ」をテレビで見た。
まあ、女性主人公の特に前半は無責任かつ愚かの限りだが、愛する人の死を通じて人としての感情を得てからは愚かなりにも善意と自制を持って行動するようになるところ、まこと成長譚と言えよう。男性主人公もまた愚かさから成長する。
我々があの転換の場面に納得するのは、「人の死という取り返しのつかない重大な事実があることを、多くの人間は厳粛に受け止める」からだろう(最近そうでもない輩の噂を耳にした気もするが)。
昔「サマーウォーズ」を見た時は、ネットワークの描写が絵画的過ぎると思っていたが、それはC/S的にたくさんのサーバーが独立して動いていると解釈していたからかも知れぬ。今様の「クラウド」を想定すると、セキュリティ破壊は連鎖的に起こりうるし、それを非常によく可視化しているし、教育的でもあるように感じる。もちろん、現実の実装と同じはずもないけれど、外側から見た見かけ上のネットワーク・クラウド、あるいはセキュリティ(アカウントの乗っ取りなど)はこのように描くことで理解が進むように感じる。
消失点の無い無限の空間に浮かぶ現実感のないオブジェクト。現実感のないアバターも。
「鍵」に象徴されるセキュリティ。「飲み込む」という形でのアカウント乗っ取りも
またネットワークを始めとするコンピューター世界の抽象性に対し、消防士・救急士・警察官・医師等の「現実と向き合う職業」場面が描かれるのも良い。
その他、親戚がたくさんいて誰が誰だかわからないなどの「親戚あるある」も楽しいが、「人の死」を相当程度まともに取り上げた青少年向け作品も多くはないのではないか。
若手ボサノバ歌手
https://www.youtube.com/watch?v=YE1CgxLYWmA
ストラングラーズ(The Stranglers)
https://www.youtube.com/watch?v=z-GUjA67mdc&list=RD2Qs1J612nZs
こういうバンドもあるのね。高学歴バンド?
ヴィクター・ボーグ(Victor Borge)の様々な演奏
https://note.com/nailsweet/n/nba1a7d88daba
このオッサン、ピアノうまい。音楽的知性も卓越したものがあると思う。
なんとなうポルトガル風に「ぼるへ」と読みたくなるが、「ぼーぐ」なのね。なかなか覚わらない。
オーストラリアのスカ楽団 Melbourne Ska Orchestra のWikipediaは英語の他にポーランド語がある。なぜポーランド語?。
仙台 昭和12年夏
https://www.youtube.com/watch?v=PoMAqO7Pv4M
鉄道ネタとして回ってきたもの。なかなかおもしろい。
この時代の鉄道の美しさはえも言われぬものがあり、「戦争さえなければ」の思いを強くする。
「御殿場線ものがたり」(宮脇俊三、黒岩保美)もまた同じ。
メフメト2世のコンスタンチノープル攻略における「トルコ艦隊の山越え」
https://www.youtube.com/watch?v=mAHnjd-e6VY
まあ、ドラマの一場面にしか過ぎず、歴史的信憑性は期待すべきではないけれど「トルコ人ならこう描く」の類例として興味深い。
「ウルバン砲」らしきものも見られてほんとうに嬉しい。
コロナによるIQ低下
自分もあったような気がしているが、家人によれば「コロナ罹患前と何も変わらない」と。
低下した気がするのだが。
楽譜を解釈し、覚え、演奏する能力が低下している気もする。
数千人規模の演奏家に協力してもらい、年に1回演奏を録音、途中のコロナ罹患状況を報告してもらう。数年後に演奏精度の経年変化でIQ低下(っぽいもの)を評価する。うーん素晴らしい研究デザイン(なわけない)。
そもそも演奏精度なるものをどのように評価するのか?カラオケの「点数」?
それはそれで面白いかも、だが。
NHK魔改造の夜。少しだけ見る。冒頭からしてツマラナイ。
お涙頂戴の過剰な演出、技術軽視というより技術無視。
昔、森先生が作り上げた玄妙なる「ロボットコンテスト」をツマラナいものにしたNHKだけあって、何もわかっていない。
冒頭数秒でそれが分かるような番組構成。
こんな番組しか作れない「報道機関」が国を危うくする、と思うのは私が極右愛国者であるからか?
物事に理非があり、理屈があり、歴史的積み上げとしての技術があるなどを無視するのは阿呆の所業だと感じる。
Googleのニュース(リンク集)
気候変動懐疑派っぽいタイトルが目に入ったので、リンクを踏んだら、いつもの「杉山大志」
この人はこの商売をいつまで続けるつもりなのだろう。キヤノンはいつまでこの男に給料を払い続けるのだろう。
「キヤノングローバル戦略研究所」の名を変えて「キヤノン反グローバル妄言所」とでも名を変えた方が良いかも。
というわけで、リンク先の「アゴラ」なるサイトを非表示に設定した。読むだけ無駄だから。
蕎麦「よし田」の名の由来は地名「本所吉田町」と。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/soba-yoshida1.htm
非常に詳しくも面白い記事。紅団の方よくぞ調べていらっしゃる。
名古屋栄に「よし田」があり、名古屋では珍しく東京風の蕎麦が食べられるとて母が愛好していた。
私も栄の楽器店(大山さん)に訪れる際などしばしば寄ったものだ。
ある時、もり蕎麦を食べた後、つゆに蕎麦湯を注し、七味を振り入れて飲んでいたところ、相席の女性が「蕎麦湯に七味を入れるんですね」と驚いたような様子でおっしゃった覚えがある。この方法が正しいのか誤っているのか分からないが、私は蕎麦つゆに山葵を溶かないので、山葵と七味が重なることはなく、「温かいつゆには七味」という常識にも則っているので間違ってはいないかなと思う。また、この女性はもしかすると東京風の蕎麦を食べ慣れないので、特段の考えもなしに七味を振り入れる若者(当時の私)に訊いて見たかったのかもしれぬ。
同じ方の記事で、内山書店は本来上海が本店、東京が支店とのこと。魯迅を匿うなど非常な実力者だったのだろう。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/tanizaki_shanghai_2.htm
特別操縦見習士官についてWikipediaを見る。
高等教育機関卒業・在学中に志願・選抜、操縦士訓練を受けるという。
複数の先生方(学校教員)から、操縦士訓練を受けた話を聞いたことが、これなのだろうか?
「自分は飛行機の離陸方法は習ったが着陸方法は習わなかった」と聞くが、この意味を「特攻に参加して(させられて)生きては帰らぬ予定であった」と読むのが当時の文脈であったが、若い人には通じないのだろう。
誤読
「サンバジャズ大名盤!」は「大 名盤」なのだろうが、「大名 盤」と読むよね。なんなら「サンバ ジャズ大名 盤」だ。
「なかやまきんに君が代表」も「なかやまきんに 君が代 表」とか。
「この先生きのこる」が「この先 生きのこる」でなく「この 先生 きのこる」になるように。
映画「教皇選挙」の小説版の翻訳が少々モメているらしい。
そのモロモロはさておき、翻訳者は「英語の先生」らしい。きっとアカン気がする。
カトリック史に通じていないと十分に翻訳できないと想像するから。まあそういうのを気にしない時代であろうから無問題かも。
なお、私は読む気がないのでどうでも良い。
安倍元総理の「国葬」に会津若松市長・福島市長が招待されていない説を見かけた。「朝敵」だから?謎。
ガントレット製作キット
https://handlaidtrack.com/product/af-n-g-8-me55/?v=55add3d845bf
疑似単線とでも言える「ガントレット」を制作するキット。格好いい。欲しい。
お盆の「道路渋滞」について読む。
自動車を運転しなくなって久しいので、昔の思い出語りだが。
渋滞が予想される地点・時間を避ける。たとえば首都高速を通る場合、早朝または深夜になるようにした。
また、できるだけ都心を避け、「内環」を通らないようにしていた。
さらに、有給休暇を使って、できれば連休前日・後日に移動するようにしていた。
そんなものか。以外とつまらなかった。とは言え、早朝の都内を駆け抜け、静岡あたりで朝日を見ながら朝食などというのも良い思い出ではある。子どもたちが幼かった頃。
電子チケットはまあまあ便利なのだが、システムごとに登録せなアカンのが面倒である。
teket, e+, PassMarket, さらに館独自システムに登録せよと言われると泣く。また、QRコード発券ならまだしも、コンビニで発券して持って来いといい、システム利用料、発券料も払えと言われるとゲンナリする。
世の中の種々のポイントアプリも同様。わけが分からない。
某楽器店のポイントは、点数をある程度まとめた形でしか使えない。9000点あるので、1万円以上するお高い松脂を買おうと思ったが、「1,000円または5,000円を1回のみ使用可」になっている。こんな使いにくい設計よく出来たな!と驚くもの。
これを説明しなければならない店員さんに同情するのであった。
Chrome版LINE廃止
困る。がどうしようもない。と思ったが、Ubuntu上でAndroidアプリが動くらしい。
https://engrmemo.jp/linux/ubuntu-android-apk/
やってみよう。
「ロボコンの父・森政弘のことば」
https://official-robocon.com/2018/06/18/%e3%83%ad%e3%83%9c%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%81%ae%e7%88%b6%e3%83%bb%e6%a3%ae%e6%94%bf%e5%bc%98%e3%81%ae%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%b0/
私は、現在NHKで開催している「ロボコン」を楽しめていない。昔、森先生がおられる頃のロボコンは良かったな、と懐かしむものであるけれど。
森政弘氏の言葉を読むと、あの時代のロボコンの精神が理解できるように思う。
価値、直感、「言葉を使わずに物を見る」、「簡秀技術」、感激、「陰・陽」など、工学以前の人の生き方に関わるものが多いように見られる。NHK(その他)のロボコンが初心に立ち返られることを望む。
「村落手話」なる語を初めて見る。
Youtubeのお勧めでShirazの弦楽合奏団が現れる→Shirazはどこだ?→Wikipediaでイラン南部と知る。「エラム語」粘土板を発見。→エラム語→孤立した言語→村落手話→奄美大島手話→→アル=サイード・ベドウィン手話。なかなか楽しいWikipedia。
「Wi-Fiルーターの電源を切らない期間が長すぎると、膨大になったログデータがWi-Fiルーターへの負荷となり、熱暴走を引き起こします。」というのを見たが、嘘くさいな。
ふつう、不揮発性メモリに書き込んだ分が「膨大」になるとしてもローテーションしていて負荷は一定なはず。また、基本的には遅延なく不揮発性メモリに書き込むので、ワーキングメモリに溜め込むこともないはず。それとも、不揮発性メモリはなく、普通のメモリ上に全てのログを持っているということなのか?多くの人が見る場所ならば、正しい知識で(その理由も)書いて欲しい。
https://koneta.nifty.com/koneta_detail/1141008020197_1.htm?utm_source=nifty&utm_medium=pc_hensyu&utm_campaign=20250813
SNS。無知なるものの悪口雑言が溢れている。
岩波新書・中公新書・講談社ブルーバックスをすら読んでいないという批評があったがおそらくは正しい(部分がある)。
昔の2chだと「正史はこう書かれているが」という前提で「こんな面白ばなしもあるよ」「こんな逆説的な見方も面白いぜ(本気じゃないけど)」等という書かれ方が流行っていた風があるように記憶する。
その前提を知らずに「これこそが正しい」となってしまった経緯があるように思われる。
まあ、そちらに誘導したい悪賢い奴らがいるのも厳然たる事実で、石原慎太郎以降の右翼政治家などその最たる者であろう。
そしてまた、現在はスマートフォン普及もあって、どんな無知・悪者であっても広めることが可能なので、困ったものである。
特に政治系メディアは自らSNSの「面白逆説」に近づいて没落してしまったように思う。
どなたかが言っていた、「中立と言っても間違いは間違い」「平面地球と球体地球の中立は半球ではなく、平面が間違いで球体が正しい」という点を放棄しているのは、自らの価値を最大限毀損しているように私は感じる。
(昔々、あるメディア企業の入社試験を受けたことがある。もし、小論文のテーマを「中立」に論じれば合格だったのかも知れぬ、と今になると思う。あの時は「Aは誤り、Bに決まっている」作文をしたからね。とは言え、あそこで本心を偽って、万一合格・入社したとしても、私の性格であれば三日で辞めていたに違いない)。
さて、SNSの悪口雑言を如何せん。
「やまとことばだけで書かれた歌詞」と聞いて、北原白秋を思ったが、なかなか難しい。
からたちの花:金
この道:時計台、馬車、山査子
待ちぼうけ:(畑)仕事
砂山:茱萸(グミ)
ペチカ:ペチカ、客
あわて床屋:石鹸(しやぼん)、自慢、邪魔、爲方なく
あめふり:蛇(の目)、ぼく
揺籃のうた:カナリヤ、枇杷、
・・・ということを調べる過程で「待ちぼうけ」が「満州唱歌」であることを知った。「満州唱歌」知らなかった。
そんなものまで作って、満州侵略をサポートしていたのね。
ロック音楽のジャンルとして「ビジュアル系」の先駆けに「名古屋系」があるとのこと。
管理教育の抑圧から暗い音楽が多かった・・・とか。さもありなん。
オヤイデ電気のRCAケーブル自作キットを試みる。
ケーブルを剥いたりハンダ付けをしたかったのと、しっかりしたRCAケーブルが1本くらいあっても良いかな、と思い買ってきたもの。
ケーブルは mogami 2549 (242円/m)の1mを2本。RCAプラグはアンフェノール ACPR-SWH, ACPR-BLC(¥638) が2つずつ入って、さらに説明書付きのもの。
半田コテは相応にデカいのを買ってあり、小手先も少し平たいのに交換しているので楽勝。ケーブル剥きは小学生の時に鍛えた(鍛えてもらった)ので、カッターナイフ一本であればおおむねOK。ということにしておこう。
工作自体が楽しかったのと、音質も前とちょっと変わったのでたいへんよろしい遊びであった。
(オーディオに関して「究極の高音質」があるとは思っておらず、でも一方で「何か音質が変わると楽しい」と思う人間なので)。
2024年末で購読中止した朝日新聞から再度購読お願いの手紙。
朝日新聞の見るべきところは「タブーなき相談」と「わかりやすいお金相談」ですって。
どっちも要らん。特に前者は相談者を罵倒し貶めるような回答をするところ。「タブーなき相談」ではなく「タブーなき回答」なんだろう。勝手にせよ。
今、メディアがすべきなのは、反差別・反排外主義・反反知性主義だと私は考える。それらについて行動する気がないことに気付かされたので朝日新聞購読を止めた。よってしてこれら行動をなさない限り再購読はない。愚かなるかな朝日新聞。「朝日新聞が堕落するのを止めなかったのは読者である私にも責任の一端はある」と考えないでもないが、10のマイナス10乗オーダーくらいだろう。もっと責任ある人々は経営者であり幹部社員である(まあふつうの民間企業は皆そうだよね)。
自分にもなんらかの形でメディアを支える責任あろうと思うものの、少なくとも朝日新聞に自分の稼ぎの一部を投入する気にはまったくなれない。
残念至極とも言えるし呆れ果てたとも言える。
そうそう。朝日新聞を再購読すると肉をもらえるらしい。お肉が食べたいなら新聞購読などせず、そのお金で肉を買ったほうが合理的である。愚かな朝日新聞。このキャンペーンで再購読する人がいるのか・どれくらいいるのかはちょっと興味がある。
我が家も購読を止めるのに何度もゴネられたし、時間もかかった(購読料は払うから配達は止めよとすら言った。だって、無責任で無思考な文章が書かれた紙が我が家にあるのがイヤなんだもの)。