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読書の記録(2026年2月)

四維街一号に暮らす五人 楊双子、三浦裕子
私の中で最近流行している台湾小説のひとつ。思った以上に面白かった。
偶々柏市の「ハックルベリーブックス」に行って、偶々買った本であるけれど、寝ずに読んでしまった。
キャラクターが際立っていて日常生活でありながら話自体が面白い。そしてまた謎解き。全体の流れとして少し無理はあろうけれど、読ませる小説と思う。
台湾人とひとくちに言っても様々な来歴の人々がいるということ。民族的にも台湾原住民も複数あり、中国から来た人々も(広い中国のこととて)様々な文化・言葉を持った人々がある。それらについても言及されていて面白いものであった。
例によって日本が植民地支配していた話は出てくるが、さらりとした扱いではある。
少々不思議な筆名についてもあとがきで説明があった。なるほど。
三浦裕子氏の翻訳は注も含めまったく違和感のないもの。一点だけ要望するならば、人名だけでも漢字と読み仮名の一覧を作っておいて欲しいところか(翻訳の問題ではなく編集の問題であろう)。人名のルビもうるさくない程度に繰り返しつけているのは本当にありがたいが、私の記憶力では不足するのである。本文の内容に触れない一覧も作れるのではないだろうか。
(深夜二時これを記す。年度末の繁忙期に困ったものである。が、そういう読みたい本があって読めることの有り難さには筆舌を尽くし難い)。

ラカテドラルでの対話 バルガス=リョサ
上巻末尾あたりから物語が動き出し、記述の単位が少し長くなって読みやすくなった。
それでもしばしば「画面の話者が誰かわからない」「現実なのか想像なのかわからない」ところがある。映画的と言えば映画的。
私のように明晰を好む者には少々凝り過ぎと思われるが、これはこれでペルーのひとつの世代の断面を総観していて興味深い。
「ラクロニカ」というのもおそらくは「年代記」を想起させる装置なのだろう。
となると「カテドラル」も気になる。堀口大學であれば漢語「大伽藍」を当てそうだ。
政治的権力者、行政内部の影の実力者、その部下たち(実行部隊)、実力者の愛人、その女中、経済的実力者、運転手、息子たちなどなど。多様な人々の織りなす「年代記」。
「緑の家」「ラカテドラルでの対話」と来て、「世界終末戦争」も手元にある。「フリアとシナリオライター」も読んでみたい。南米ものはボルヘス、カルペンティエールあたりを読んできた。最近、台湾・韓国文学に興味があるから、南米はそろそろお休みかな?

黒部の山賊 伊藤正一
先月「少し看板に偽りあり」と書いたけれど、最後まで読んで、書いている伊藤正一氏も含め、登場する人々は「山賊」と言うに(言われるに)ふさわしいのではないか、と思った。
それぞれの記述は比較的淡々としているが、その積み重ねを読んでいくと想像外のことがたくさん起きていることに気づく。何度も読み返したい書である。
そしてまた、松本出身であるとはいえ航空機技術者であった伊藤氏がなぜ山小屋経営にここまで貢献されるようになったか、もう少し理解したいと思った。

はじめてのボローニャ スズキトモコ
国際絵本祭り(?)参加報告だが、お洒落できれいな絵本調なので、楽しく読める。
そういう『出版』とか『売り込み』に無縁な私にとって、この書はSFと同じではあるのだが。

北恵那鉄道・東濃鉄道 清水武
東海地方の廃線。なんとなう買ってしまう。これらの鉄道は見たこともなく乗ったこともない。
小学生だった頃、木祖に行く高速道路を走るバスの中から、鉄道廃線跡を見かけたことがあり、当時そんなことを調べることは出来なかったので、長年気にしつつも忘れかけていた。あれがこれら鉄道のどちらかではなかったか、と思うのだが、それまた確かめる術もない。
北恵那・東濃ともに高速道路と交差する側に向かっていないので、おそらくこれらではないだろう。結構な急曲線だったように思うけれど、軽便鉄道っぽさはなかったように記憶する。あまりにも昔のこととて定かではないけれど。
地域社会が投資してでも鉄道を敷設し、土地の産物を出荷しようとしていた時代があった。その後、流通は自動車に移り、世界的な流通の拡大・競争の激化もあり、地域の高齢化・過疎化が進んでいる…ということか。私は鉄道を通じて近代社会史のイメージを持っている(ような気がしている)。さて、世間の人々はどうなのだろうか。
しかしながら、名鉄を始めとする東海地方の鉄道情報について多く書いている清水氏が名鉄関係者であったことは存じていたけれど、名鉄グループである北恵那鉄道にもご関係されていて、だからこそのご著書なのね。それもまた感慨。

逃亡くそたわけ 絲山 秋子
私は日本の現代小説をあまり読まないが、書店アンダンテで地域別の棚にあったので。また、私は名古屋に縁があったので、名古屋弁風の表題に興味を持って購入。
この書は九州が舞台。「くそたわけ」はおそらく名古屋弁。さて、どちらの棚にあったやら。名古屋(東海地方)であったように思う。
現実世界(らしき舞台)が登場すると、つい「これは正確なのか」を考えてしまう。あまり素敵な読書の仕方ではないね。
軽く読むには悪くなかった。また近年の小説というものが少しわかった気がする。この小説は映画化されたとのことだが、九州各地を舞台とする「ロードムービー」とでも言えよう。
そういえば現代日本小説は柚木麻子氏の「らんたん」以来かも。

僕は、そして僕たちはどう生きるか 梨木香歩
岩波のウェブ漫画から。読んでよかった。いわゆる物語性のある小説としてというよりも、小説の形を借りた文学的エッセイに近いかも知れない。
テーマ、記述双方に非常な誠意を感じる。参考文献を明確に上げている点も。
私も自分の人生について考えざるを得ないことがしばしばあり「小説もどき」に筆を染めることなきにしもあらずだが、梨木氏の誠意があれば、私の半端な愚痴などなくもがなとも思う。
漫画もきちんとした出来であり、読む価値が十分にあると思うが、私自身の一般的方針として「原作があるなら先に読むべし」としているので、原作があると(遅まきながら)気づいた時点で小説を読んだ。
現代日本小説を自分が続けて読むとはなかなかおもしろい。基本的に私の趣味は「遠くに行くこと」にあり、読書においても同様なので。

侍女の物語 マーガレット・アトウッド
トランプ政権への抗議でこの小説の「赤い衣装」を着る人々がいるということで読んで見る。
冷え冷えと乾いた文体がそれらしい。SFというよりはディストピア小説。私がお楽しみで読む種類の本ではなく、義務感で読む本でもない。少々不思議な感覚であるが、読めることは読めるので読み進めている(詰まらない、とは感じない)。
私は「遠くへ行く」を小説に求めており、不可思議と解明は大切である。一方、不快を小説のテーマにするのは好まない。不快は日常生活で十分味わってきたし味わっているのだから。そういう個人的嗜好はもちろん作品の本質には関係しない。
そしてアトウッド自身はカナダ人なのね。だからといって舞台がカナダであるということではないにせよ。
ところで、なんとなう主人公の造形をジャクリーヌ・デュプレで考えてしまう私。私の「白人女性」像はほとんどジャクリーヌとバイオニック・ジェミー(地上最強の美女)くらい。(「地上最強の美女たち!」と複数形かつエクスクラメーション・マークが付くのは「チャーリーズ・エンジェル」。強い女性が人気だったのかしら)。
終わり方が続編を強く意識させてすごい!これで「逃げた」で終わっても続編は書けないし、「処刑されました」でも成り立たない。相当色々あるので、そうに違いない!ということだろう。
この書を読んでいて最も感じるのは「視界の狭さ」「情報の少なさ」。読者に与えられる情報は限定されているが、それは話者=主人公の持っている情報の少なさによる。そして、この世界において、主人公たち「侍女」が持っている情報が非常に少ないのは、意図的に行われている。
我々の自由・民主主義において「情報=知る権利」がいかばかり大切であるか(個人の意思決定・社会の意思決定の両面で)を思い知らされる。だからこそ、トランプ政権への批判に「赤い侍女の衣装」が使われているのだ、と思う。さて、我が国では?
続編「誓願」を読むかどうかは考え中。
偶々柏市に行く機会があり、後半は往復の車中で読んだ。それがため、私の脳内ではこの物語の後半部の風景が柏市になっているかも知れぬ。

私のものではない国で 温又柔
この方の本として2冊め。1冊めは、私自身に無関係な外国籍の方の「お話」として共感はありつつも「他人事」としての軽さで読んだ。
こちらは、私にも大いに関係のある「国」の話として悲しみつつ・驚きつつ・共感しつつ読んでいる。
2023年刊行とのこと。私は2026年現在の排外主義の猛威に驚いていることから、この書の指摘にもうなずくことが多いが、2023年時点でこれを読んでいたら意外だと思ったかも知れない。あの頃はまだ排外言説を「言論の自由の一部」「大人がわかってやっている言葉遊び」くらいに甘く見ていた。

数理のめがね 坪井忠二
昔昔の物理の教科書・読み物を眺めたことがある人間には懐かしい坪井忠二の書。彼の専門は地震学であって、どちらかというと物理のような普遍学よりも個別的知識に寄りそうな気もするが、情報が少なかった時代でもあって、非常に抽象的推論に基づく物理っぽい感触がある。
全ての話題に追随できるわけではないので、自分に関心のあるところのみ拾い読み。まあ、「こういう格好良い本を読んでいる自分」でありたいので、難しすぎない叙述がありがたい。「平均速度」の話など、統計流行りの世の中(もっと進んでAI流行りか?)にあって啓示に富んでいるように思う。
世の中の統計・AIは「中身の難しいのをすっ飛ばして相関関係だけで済ませる」風情がある。そういうので行くとどこかで必ず行き詰まりますよ、と言っておくのが正しいだろう。どこでどう行き詰まるかはわからないけれど。

日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実 吉田裕
前書きからして興味深い。そしてまた、こうした書を見る都度思う大日本帝国(陸海軍)の粗雑さ。国力の認識に著しく欠けた状態であり、「これで戦争に勝てるつもりだったのだろうか」と思わざるを得ない。
最初の20ページほどがアジア・太平洋戦争の略史になっており、たいへんありがたい。そしてこの部分だけ読んでも、アジアの死者1900万人という数に慄然とする。この人数を見ただけでアジアの各国が忘れようはずもないと感じる。

イグアノドンの唄、球皮事件 中谷 宇吉郎
青空文庫にあるもの。いつもながら中谷の随筆は読まざるべからず。面白いものであった。
中谷宇吉郎が北海道大学低温研究所を退職して作った中谷研究室プロダクションが岩波映画製作所の前身と知る(1951年設立らしい)。
私が好んで見る科学映画「雪にいどむ」(1961年)は、日映科学作品ということで、まるで中谷とは無関係であるな(一瞬、関係があるかと思って確認してみた)。
球皮事件は師匠寺田寅彦の飄々としつつも信念と能力を感じさせるスケッチ。イグアノドンの唄は敗戦日本の一情景。私が最近提唱している「敗戦文学」の入門向け短編として重要。

めんそーれ!化学 盛口満
軽い題名だが、沖縄の夜間中学について書かれた冒頭から度肝を抜かれる。
以前から読みたいと思いつつ、なんとなう買わずにいたが、某書店で長居して何も買わずに出るのはアカンと思い購入した。
が購入して良かった。古い生活の知恵・戦争をくぐり抜けた先人たちの苦労が端々に溢れ、感動した。
文章はこなれていて読みやすいものの、も少し編集がツッコんだ方が良い所もあると思った。
 p-vii:カギカッコの中の動詞を修飾する語がカギカッコの外にあると、カギカッコ外の動詞を修飾しているように見える。
 p132:デンプンの「分解」。後段で説明されるが、人体内で行われる分解と人体外で微生物により行われる分解があまり説明なく併記されるので、読んでいて戸惑う。
 p167:TNTとトリニトロトルエンの関係(この2つの単語が同じものを意味していること)が明記されていない。
ともあれ、こうした「サバイバル科学」のような授業を意図的に構築する必要があるのではないか。学校教員が学校教育のみの再生産(劣化コピー)をし続けている状況になってはいないか?などとこの書からはみ出して世間一般のことを考えてしまう。
同日、BookOffで見つけた「免疫学の巨人イェルネ」買わなんだ。ううん。少し後悔。でもねえ、己の専門性で読める気がしないので。こういう専門っぽいけれど専門の中心的でない書物はつい読めそうな気がするし読みたくなるよね。

世界の食卓から社会がみえる 岡根谷実里
以前からTwitterで見かける方。世界の様々な人々の「食」を軽やかに書いており、軽く読める。のではあるが、堅いデータをさらりと挟み、宗教にも言及し、非常に考えさせられる。書き振りこそ「軽く」書いているように見せつつも、誠意あるものと感じる。良い本ではあるが問題点があるよと軽く書いて繰り返していくのがだんだん苦痛になる。
「僕は、そして僕たちは何を食べて生きるか」と書きたくもなる。今この瞬間は、「昨日と同じ食事」で良いかも知れないが、円の価値の低下、温暖化、国内農業の衰退、漁業資源の枯渇等様々な社会事情を考えると、「昨日と同じ食事」が今後も食べられる保証はない。
関連情報:私がジャイナ教について初めて触れたのは、妹尾河童氏の「河童の覗いたインド」。この本で、インドの列車中で提供される食事は、チキンとベジタブルの2種選択だと読んだ気がする。
野菜だけなんて・・・と思うところだが、以前、日本国内のカレー屋さん(インドの天才料理人(と私が思う方)が経営)で野菜カレーを食べて以来、全面賛成に鞍替えした。じゃがいも、人参などもそうだが、季節により冬瓜、苦瓜、オクラ、蓮根等が入ったカレー・・・(書いているだに食べたくなってきたぞ)。
また、トルコ料理の「メゼ」は、多くが野菜(加えてチーズとヨーグルト)だと思う。と言って、単調な食べ物ではなく、多彩で濃厚な味わいが楽しめ、初めて食べた時に感動した(その後何度食べても感心する)。禅寺の料理が胡麻を多用して油のコクを補うのとも通じるかも知れない。これらを「将来の食事」の出発点として考えていく必要があるだろう、と思っている。
ちなみに、私は、「ふだん食べている食材がとてつもなく美味しく料理されている」ことに非常な驚きと尊敬を感じる人間だ。
特別な食材から特別な味がするのは当たり前である。ふつうの食材から思いもよらぬ超越的な味がすることこそが驚きであり、そこに料理人(あるいは民族)への尊敬が沸き起こる!(とこういう話を書いているとコーフンしてくる。)
アフリカのパン食について書かれているが、以前、アフリカでパスタ依存になった国が新聞で紹介されていた記憶がある。やはり外貨不足になっていた。どこだっけ?

たくさんのふしぎ 青函連絡船ものがたり 宮脇俊三、黒岩保美
こんにゃく座「歌え!比羅夫丸」に行ってから我が家にあったのを思い出して読み直す。
青函連絡船終焉期に描かれた本なので、車載前提であったりするけれど、歴史にもきちんと言及していて、比羅夫丸の絵もあるし、米軍による青函連絡船壊滅についても描かれている。
黒岩の絵はもちろん正確無比にして美しく格好良い。あえて好みを述べるならば、戦前の函館発稚内行きの連絡列車を黒岩に描いてほしかった。まあ、「御殿場線ものがたり」でC51、D50、EF10等が描かれているので、それ以上を望むべくもないのだけれど。

たくさんのふしぎ 世界でくらすクルドの人たち 金井真紀
国なき民として知られるクルドの人々。新春ネウロズ。私はオマル・ハイヤームのペルシャ語方面から入っているので、ノールーズの音に親しみがある。が、似たようなもの。そしてまた葡萄の葉で巻いたドルマもちょいちょい食べるもの。親しみがある。
川口市にいるクルド人はおよそ2,000人とのこと。思ったより少ない。これくらいで騒いでいるのはちょっとなんだかな。

ヒゲの画伯ごはん帖 梅村由美・山口晃
同年代の者なれど、自分と大きく生活が異なって驚く。まあ、引きこもりのような私と仕事で全国を飛び回る著名人の生活が同じはずもない。
ある種SFとして読んで面白い。まあ、他人様の生活を覗く趣味が良いとはあまり思えないので、こそこそ読む感じにはなる。
お二人には一度もお会いしたことがないながら、昔から絵を見たりしているので、なんとなう他人という気がしない(失礼)。

話題になっている週刊文春を買ってみた。
短い話題が切れ切れに書かれているのに慣れておらず、読みにくかった(記事の内容はなかなかだが)。
「収監分旬」という変換も面白い。

面白そうな本のメモ
 ゲは言語学のゲ 吉岡 乾
 ある言語学者の事件簿 ジョイ・谷
 「暮し」のファシズム ――戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた 大塚英志
「きちんとお金を払ってまともな本を読む」が私のできる数少ない義勇かも知れぬ。とは言え、先日誤って買ってしまったヘイト出版社のヘイト風味が隠された「日本スゴイ本」をどうすべきか(焚書坑儒が頭をよぎる)。

「吉田初三郎 日本全国鳥瞰図集成」国書刊行会
さすが、「鈍器」を超えて「重機」本だね。重機のように重いとも、重機がないと動かせないとも。
1巻が9万円。あと2冊来るらしい。

古書店の店頭百円棚にて「森亮訳詩集 晩国仙果 Ⅰ イスラム世界」を見つける。ルバイヤートも入っているので、当然購入。素晴らしい。
我が家にはどれだけルバイヤートがあるのか?(そしてどれだけ読んだのか?)フィッツジェラルド英訳があって読めていないのは当然としても。

古い鉄道模型趣味誌
25号。「函館ボーニデパート」の文字がある。懐かしい!30年前函館に行った時、「ボーニモリヤ」という百貨店があった。
「モリヤ」はらく「森屋」。「ボーニ」は、家紋や旗印の類で、縦棒「|」の横に「二」を書いた「|二」を「ボーニ」と読ませるものだった。
「金森森屋洋物店」と「棒二荻野呉服店」の合併で誕生。2019年1月31日閉店とのこと。去る者は日々に疎し。

意識的に本を読むようにしているが、そうすると面白い本がやってきて、つい寝不足になりがちである。まあ、仕方がなくはある。
このメモで記している順序は、読んだ順ではない。かと言って面白い順のようなものでもない。なんとなう「人様に自慢したい順」ではあるかも知れぬ。

●雑感
下持ちしか弾かん
下持ち弓による演奏会。良かった。
私の最大の興味は、バッハ無伴奏チェロ組曲。非常に良かった。これを聴くとバッハが下持ちを(も)想定していた可能性を受け入れたくなる。
無伴奏第3番のクーラントやジーグがどうなるかと思ったけれど、むしろこの方が正解に聴こえる。
上持ちであっても、これからはこうした下持ちの可能性・下持ち風の表現を踏まえて弾いていく新しい時代が来るのではないかと感じた。
上持ちはドライ、下持ちはウェットと感じる。弓が弦と離れやすいかどうかということであろう。
これは上下持ち方の物理的問題もあるが、音を切断する・切断しないの文化的問題でもある。
そしてまた、下持ちだからこの表現というのもあれば、成り行きボウイングだから、島根氏だから、というのが重なっているのも事実。
なぜならば、私が弾いてみて「ここ弾きにくいやん(音が出にくい)」という箇所を島根氏は軽々と響かせているのだが、それなら私が下持ちにして同じ結果が得られるかと言えば(技量の上下は別にしても)「わからない」。
そしてまた、バッハの頭の中のことは直接的な記述が出てくるまで分からないし、当時のバッハ周辺の演奏者の分布が知れても「状況証拠」にしかならない。
トール・ヘイエルダールが「コン・ティキ号」で「古代人はペルーからイースター島に移動できた」可能性を証しているけれど、それは「移動した」ではないし「必ず移動できた」でもない。でもね、そういうの良いよね!
とまあ、私はバッハばかり取り上げてしまうが、キャントンの切ない音色、ガンバの暖かい音色、どれも良かった。島根氏は「色々な楽器を弾ける」のも確かだが、「それぞれの楽器の美質を輝かせる」のも凄いし、レパートリーも極大な気がする。奏者のレパートリー数を比べても意味がないけれど、ここまで多いのは「他人様の情報に依存せず、自らレパートリー開発に邁進しているから」だろう。

こんにゃく座「歌え!比羅夫丸」
人間に様々な人生がある如く、船にもまた様々な生涯がある。そしてまた人間が思う様生きられぬように、船にもまた思わぬ日々が待ち受けている。
最初の青函連絡船であった比羅夫丸の生涯を通じて楽しんだり・悲しんだりしているうちに、日本の時代の肌触りを知るオペラ。
船自体が人格を持ち、内省するのは、機関車トーマスと同じく(機関車トーマスはもっと内省した方が良い気がするが)。
こんにゃく座のこの数年のオペラは「日本とは何か」を考えさせるものが多かった。宮沢賢治、ラフカディオ・ハーン、柳田国男/佐々木喜善等など。これもまたその系譜なるもの。今回もまた日本とは何かについて深く考えさせられた。
そう言えば、無動力の「車運丸」。他の船舶はそれなりに目出度い名前がついているのに、これだけ用途が船名。ちょっと可哀想
無動力なのは、おそらく鉄道車両を乗せる機能と動力機能を当時の技術(あるいは資金など)で両立できなかったからだろう、と推測。
他の船とは違った「変な声」で受け答えするのが、なんとなう船の特性を表していて愉快。桜島丸とのやりとりも楽しい。
そして車両搭載式の新鋭船、戦時標準船など個性豊かな面々。
沖まどかさんはスコットランド出身でもなんでもイケる!これまでも、ワニ、茶坊主、ドン・キホーテなどが心に残るが、本当になんでも心を込めてできる方(指揮者沖澤のどかさんとお名前が似ていて混同してしまう)。 見た目がちょっと怖い島田さんが「キラッ」とやるから面白い。
金村さん怖い声を出すとほんと怖い。怖い蛟龍丸だけでなく、穏やかな第五青函丸で役を終えられてほんとよかった。
入江さんいつも危うい役がうまい。本人は良心的な普通の人のつもりだけれどいつのまにか闇落ちする普遍的な危うさ。誰の人生にも潜むこの危うさが傍らにあってこそ沖まどかさん演じる比羅夫丸の一貫性が光る。

してまた「連絡船」を始めとする様々な用語・概念についてもすんなり頭に入ってくるのが凄い。
(私自身は古い鉄道ファンなので、ある程度予備知識はあるんだけれど、改めて教えられることも多い。)
ちなみに、亡父によれば、ご近所の「クマベ」氏は、洞爺丸に乗船予定だったが、予定が変わって乗船せず。沈没の報道があり、家族が諦めていたところ、生還して驚かれたと聞く。これは日本結核病学会会長だった隈部英雄氏のことらしい。
また、植木等の回想録によれば、戦時、東洋大学在学中だった植木は、援農学生として北海道の農家で農作業の手伝いをしており、終戦時「もう本州には帰れないかも」と思ったという。植木のところに青函連絡船全滅の報があったのかどうかはわからないが、当時北海道は本州から簡単に行ける場所ではなかった、ということではある。

「踟蹰」ちちゅう。
青函連絡船について調べるうちに知った語。用例が「みみずのたはこと」。読んだはずなのだが記憶がない。
「余は上ろうか上るまいかと踟蹰した」なら熟語の意味がわからなくとも文意は分かるから良いのか。。。
「鉄軌」と書いて「れえる」と仮名を振るなど、昔の人は学があった。千歳村の名は、千歳船橋、千歳烏山、ふたつの駅になっている。武蔵野の麦畑や今いずこ。

J.S.Bach Trio Sonata BWV1038
https://www.youtube.com/watch?v=jcpQhFVSZ-g なかなかいい曲なのだが、演奏があまりない。そもそも偽作であり、バッハにしては「親しみやすい」というか「緩い」出来なので仕方がないが。
(バスはBWV1021と同一なので、バスだけは「真作」?)
大学1年生の時、偶然オーケストラの練習室でこの楽譜を見つけた。東海学生オーケストラ連盟の室内楽大会に弦楽器の同級生で出よう、ということになり、ヴィオラが初心者で弦楽四重奏が組めなかったので、ヴァイオリンの達者なふたりと、私のチェロと、ピアノ1人の4人で出た覚えがある。
大会当日は、プロ音楽家の講評もあって、「もっと音色を揃える」ことを指摘された記憶がある。今にして思うと、ものすごくたくさんのツッコミどころから、最も我々を傷つけず、しかも長きに渡って考えていくべき最重要な題材をよくぞ選んで下さったことと思う。名フィルの「青ちゃん」がサングラスにインディー・ジョーンズみたいな黒革のジャケットだった記憶がある(誤った記憶かも知れないが)。同級生の木管五重奏も出ていて、こちらは「より多彩な音色を」と言われていたような気がする。
今にして思うと、私もそれまで弦楽四重奏なんて弾いたこともなかったので、四重奏が組めなくて良かったような気がする。もちろん組めれば組めただけの展開はあり得たかも知れないが。一方、バッハは管弦楽組曲に取り組んだことがあったので、その点少し気軽だった(アカン気軽さかも知れないが)。
オーケストラに入る前に、わずかではあったが、バッハ(管弦楽組曲)、ハイドン(皇帝の変奏だけ)、モーツァルト(アイネクライネナハトムジーク)に触れていたのは本当に良かった。そして、オーケストラでも、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーと無理やりではあったが、それなりの段階を積めたのは良かったと言えるだろう。

ゴヤ「砂に埋もれる犬」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E3%81%AB%E5%9F%8B%E3%82%82%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%8A%AC
非常に風変わりな絵。
パニアグワのCD「Folia」のジャケットに使われており印象的だったが、ゴヤの絵であったとは知らなかった。

カザルス指揮マタイ受難曲
そろそろ受難節とて受難曲を聴く。そしてまた、そういえばカザルス指揮があると先日知ったので。
まさかこんな録音が残されているとは思わなかった。
そして、独奏がおそらくカザルスであると言われている。全体の編成とはしては、オリジナルではなく現代楽器で現代風(と言ってもいささか古い二十世紀半ば風の)弦楽合奏+木管楽器のようだ。自分の耳で聴く限り、ヴィオラ・ダ・ガンバは入っておらず特徴的な独奏もチェロで演奏している。カザルスが主催するプエルトリコ音楽祭において、ブランデンブルク協奏曲でソプラノサックスを使っている例があり、この時代、いわゆる古楽器は使えなかったし、「使える楽器は使う」のが普通だったのだろう。私自身も町の合奏団では、バッハの管弦楽組曲第3番をクラリネットで演奏したり、モーツァルトのクラリネット五重奏をB-dur で演奏するのを聴いたりしたものだ。
さてこの演奏の低音部独奏はおそらくカザルスで間違いない(さもなくば指揮者カザルスから強い強い影響を受けた奏者であるか)。
少々変な音響効果がかけられており、チェロ独奏時と人声が出てくるところで音響が異なる。録音テープの品質悪化か、それとも音響圧縮(コンプ)の類なのか。とは言え、本当に聴けるとは思っても見なかった貴重な演奏であって、これを聴けることに感謝したい。
https://www.youtube.com/watch?v=0wwIhnmsqfc
この動画の画像もゴヤである。なぜゴヤなのか。ChatGPT先生に訊くと、先方からはこれを見てどう思うか的質問が来る。妙なやりとりで面白くもあったが、無意味ではある。

レオンハルト指揮マタイ受難曲
優しさを感じるマタイ。オーボエの吹き口も優しく懐かしい。いい演奏だ。リヒター1958年も大好きで Wenn Ich Einmal Soll Schiden (我いつか去りゆく日)の思い深さはリヒターならで忘れがたいが、こういうのも良い。
こんなにも巨大で多面的な音楽と長年付き合うことができる有り難さよ。
思えば人生に行き詰まっていたある日、友人から演奏会があるから来いと言われて行ったあの日から始まる。
ハンス・ヨアヒム・ロッチュ指揮だったと思う。その後、シュライヤー指揮、クイケン指揮Vnを聴いていると思う。
対してヨハネはローザンヌを一度聴いただけだが、演奏中に主宰者がカメラのシャッター音を響かせる極悪な演奏会の記憶しかない。
しかして、マタイの後に登川誠仁「ハウリング・ウルフ」を流してくる Lollypop の恐ろしさよ。
「勝ってぇカマボコ食べたいなぁ」

先月来のオーディオごっこのおかげで楽しくCDを聴けて良い。が、電源コンデンサ一本くらいでこんなにも音質が変わるのであれば、オーディオメーカーとしては、基礎設計はしっかりするとして、こうした「色付け部」を研究してイロイロな製品群(価格帯もイロイロ)を作るのがコスト的にも良いのかも。
とは言え、筐体を開けて中を確認するような数奇者もいるから簡単にそんなことはできないであろうけれど。
個人としては、数百円(あるいは数十円)のコンデンサひとつで楽しく遊べて大変よろしかった。
モーツァルトのクラリネット協奏曲(プリンツ/ベーム/ウィーンPO)は以前平板で聞くに値しない音質だと思っていたが、なかなか悪くないようになった気がする(TU870使用時)。とは言え、このCDの音質は「ヴァイオリン以外遠くにいる」のに近い気がする。
一方、せっかく「いい音」で聞けるよう種々工夫した機材で聞くのが、「己が演奏している変な音」だったりするのは悲しいね。

友人が出演するオーケストラの演奏会を聞きに行く。
自分はオーケストラに合わないことを改めて思うけれど、他者の演奏を見・聴くのは楽しい。

Schumann「詩人の恋」を久しぶりに聴く。どの曲も多彩で短くて飽きない。
ふと思いついて、Schubertの「冬の旅」を聴く。どの曲も暗くて長いが飽きはしない。
Schubertに比べるとSchumannのなんと楽天的なことか。もちろんそうでないSchumannもありはするのだけれど。基本的に闇の中に座っているようなSchubertとは一段異なる。

映画「眼下の敵」を見る。
自動翻訳字幕「次の時計は誰だ?」「当直=ワッチ」だろう。単語をそのまま置き換えており、文脈を読めていない。

「特殊清掃員モーガンの事件簿」を見る。
その音楽をそういう事に使うのか。後、若干ご都合主義シナリオと思った。

最高裁判官の国民審査のため、NHKが行ったアンケートを見る。
質問に
「現状の国民審査は事実上審査を受ける機会は各判事一度だけで、
 就任間もない場合には国民は十分な材料のないまま判断を求められるなど、
 国民審査が形骸化しているとの指摘について」
があるのは、良いな、と思う。
まあ、ご両名ともこの点については実質回答されていないけれど。それはそれで良識の範囲内と思うが、できれば回答しない理由をもう少し詳しく説明いただけた方が良いように感じる。
そしてまた、今回のご両名は最高裁での判決に一度も関わっていないようでその情報がない。「関わっていないよ」という情報をきちんと書くことも(報道機関として)重要だと思うが、そういう書き方がないのはちょっとアカン気がする。まあ、上記の質問でそれに代えているのかも知れんが。
ともあれ、ざっと見た限り反対すべき方には見えなんだ。投票券は来ていないが、これで選挙に行ける。
そしてまた、国民審査は一度だけでなくやはり複数回にした方が良いと思う。

「牛痘」は牛痘にあらず。
https://igakushitosyakai.jp/article/post-269/
紅茶キノコも株分けするうち実体となる菌が変化していたという。が、こちらはそもそも牛痘ではななかった、と。
私は医学・生物の知識が乏しいので、読むのに苦労するが、この「医学史と社会の対話」なるページは良質で興味深い。

千秋庵「宇宙菓 月の石」を食べる。
包装の表に描かれた地球。月から見た「地球の出」(そのものあるいは、それを模した画像)が洒落ている。
当然、「上が北」というわけではない。陸地はよく見えないが、雲の感じからすると、上下がほぼ東西。詳しくは渦の方向など見なければである。なかなかおもしろい。

「ミスター・ワッフル」と言おうとしつつ「ミスター・マックス」を思い出し、出てきた言葉は「ミスター・ワックス」。
ネット上の誤字「改良が続けた結果」。正しいのは「改良を続けた結果」または「改良が続けられた結果」。面白くない誤字である。
コンデンサマイクについて調べている時に見つけた。秋月電子でコンデンサマイク(裸)を買うと、50円からある。
audiotechnicaで回路・外装が付いていると数万円。ノイマンなどの高級品だと中古でも数十万円らしい。もちろんそれぞれの適価だろうと思っているが、値段差・比をみるとびっくらこくのは仕方あるまい。

カチューシャとガネーシャは似ている。そう思ったのは「カチューシャ」の文字列を見た時。
女性が頭につけるカチューシャではなく、旧ソビエト連邦の連装ロケット砲装備トラック。

トルコ語「Hatun ハトゥン」は、モンゴル語の「カトゥン」由来だと知る。
現代語としては「女性」特に「自分の配偶者としての女性」、古い言葉としては「貴婦人」。オスマンドラマではオスマン夫人などが「バラ・ハトゥン」「マルハン・ハトゥン」などと呼ばれており、「バラ奥様」「マルハン奥様」と言ったところか。
「カトゥン」の方は、天幕のジャドゥーガルで見ているのに共通単語であることに気づかなかった!
トルコ語男性尊称は「ベイ」みたい。「オスマン・ベイ」とか「チェルクタイ・ベイ」。カユ族の長であるオスマンは基本的にチュルクからは常に「オスマン・ベイ」と呼ばれ、部下である「チェルクタイ」は常ではない。そういうところも、我々の尊称の使い方と似ている。
「ハトゥン」について質問している英語?掲示板では、自分の奥さん以外に使うとナンパみたい、とのこと。言葉は難しい。気をつけよう。

動画のお薦めに「オスマン帝国外伝」が出た。随分長くトルコドラマを見ているが、それにしては出てくるのが遅い。
スレイマン1世の王妃ロクセラーヌについてWikipediaを読む。面白い(なんとなくオスマン帝国の画像が脳内に出てくるからね)。
そこから派生して、ハイドンの交響曲第63番「ロクサーヌ」。成立過程も面白い。急造のため、作曲家本人が旧作を利用した模造品とか。
Wikipediaを見ていると本当に時間が過ぎてゆく(楽しい)。
我が家にはハイドンの交響曲CD全集などというものはないのだが、昔々、アダム・フィッシャーによるCD全集にミスがあったとかで、CD屋で「無料で持っていけ」箱に2種類(18枚目と27枚目)が大量に入れられていた。
お店の人によればフィッシャー全集を買っていなくても持っていって構わない(それくらい大量にある)とのことで頂いた。その「18枚目」が61−53番、「27枚目」が88−90番。お陰でロクサーヌを聴くことができる。聴いていたのだろうけれどたくさんあって印象に残りにくかった。
第1楽章はオペラ「月の世界」序曲の転用。楽しいいい曲。オペラの筋も楽しそう。
第2楽章がロクサーヌ。ハイドンらしいのんびりしたいい曲。若い頃だったらタルいと感じたであろう曲。

The Great Century が英題。「オスマン帝国外伝」までは良いとして、その後につなげている副題は下世話だね。
俳優紹介でもトルコ国籍ではない人々(トルコ系ドイツ人などが多い)の紹介があったりする。
https://www.youtube.com/watch?v=_enONQc2Gjs

車両革命の旗手たち 昭和35年制作
https://www.youtube.com/watch?v=OpXN_yEIkGE
鉄道車両が面白いけれど、乗客もまた面白い。中年以上の女性は和服が多い。男性はロイド眼鏡?に茶系のスーツ。そして喫煙。大多数の男性が喫煙者であり、どこでも喫煙が出来た時代。
オレンジ色の中央線と並走しているのが、茶色の山手線・京浜東北線。当然ながら両方が存在している時期があったのだ。どうしても、「ぜんぶ茶色」「ぜんぶ色付き」と思いがちではあるし、急速に置き換えが進んだのではあるが。

THE PRIMEVAL FATHER
https://www.youtube.com/watch?v=9ZVwuinTSR4&list=PLFSIhARySgjOXRgAf9HqgXRWvUfXgIjjQ
原始人オヤジとでも訳そうか。言語非依存系アニメ。

Mortice は「ほぞ穴」。Mortice Kern Systems (MKS) の Toolkit を使っていたのは30年前。
バロック弓のフログをはめ込む穴の用語として初めて知った。

唐辛子を言う沖縄のことば「コーレーグス」は「高麗胡椒」らしい。
九州の柚子・唐辛子も「柚子胡椒」。唐辛子伝来が16世紀頃。胡椒は8世紀!で正倉院にも胡椒があったとか。
(庶民が食べていたかどうかはもちろん別。そういう物があったか、そういう物にどんな語を与えていたか、という観点)。
南米原産の唐辛子が、地球を一周して、インド・中国・日本・朝鮮で愛好されている!
(馬鈴薯や瓢箪も!)

エプスティーン問題。「写真」の効能について考える。
以前、中国で見た歴史ドラマでも「写真」が使われていた。
中華民国統治下で、共産党は地下活動している。共産党の地域の指導者(正義の味方、カッコよく叡智を湛えた男性)の下に、警察署長(小悪党)が拳銃で脅されつつ連れてこられる。穏やかに微笑む指導者は、警察署長に酒食を振舞う。にこやかに話しつつ食事が終わると、「それでは記念に」と写真師を呼び入れて、指導者と警察署長で記念写真。警察署長はさすがに顔を歪めて拒否しようとするが、冷徹に微笑む指導者に抗しきれず、握手しているところにフラッシュ。写真は「時の政権に歯向かう我々共産党員と警察署長の仲が良くしている証拠」であり、警察署長への脅しの材料ですよと言外に語るところに面白さがあった。
現在の共産党下で作られた映画であり、もちろん共産党員は「正義の味方」として格好良く描かれているのだが、その正義の味方が、中国古来からの「大人(たいじん、たーれん)」風の落ち着いた中年男性に描かれているところに興を覚えた。私にもそうした大人へのあこがれが確かにある(東アジアはひとつ!説)。
で、写真に話を戻すと、カルトと一緒に写真を撮られている政治家も少なくともまあそういうことだよね。

LED照明のフリッカー。
駅の照明のうち、特に工事などで仮設照明は「瞬き」が激しくあるように思う。
歩いている人の全身像はともかくも、早く動く手の先など見ていると、昔の映画のようにパタパタしている。
少々気持ち悪いのだが、皆さんそうお思いにならないのだろうか。
まあ、全ての柱・全ての壁が同じ動画広告で覆い尽くされているのは「でぃすとぴあ」感が強く、照明のフリッカーなんて大したことがないとも言えよう。

ある鉄道模型メーカーに牛久保さんという方がおられるらしい。
我々老鉄道ファンにとっては、飯田線の流線型電車が留置されていた牛久保駅を思い出さざるを得ない。
ご本名なのか、あるいは、牛久保駅から取られたビジネスネームなのか。後者を期待してしまう。

腹話術師 Nina Conti ちょっとおもしろい。もっと英語がわかったならばと思う。
腹話術は、腹話術とわかった上での遊びが面白い。以前読んだ「太郎がオレを憎む」も、取材の約束を忘れた記者に対し、腹話術師は優しく「記者さんも大変だから」と言っているのに「太郎(腹話術人形)」は「こいつはオレたちのことなんかどうでも良いと思っているんだ」のように毒を吐き、腹話術師が「そんなこと言ったらダメよ」などと反論するのが面白いのであった。
Nina Conti のは、例えば、お猿(腹話術人形)が、Ninaに催眠術をかけ、Ninaが眠るとお猿も動けはするものの、声が出なくなって困る、というもの。非常に洒落が効いていて良い!。
落語でも、話中の人物が落語家のようにふた役を演じる噺がある(餅つき、番台の2つを記憶する)。それと同じではないものの、そうした自己言及性の面白さでは共通かも。

驚きの選挙結果。「不幸の均霑」を思う。
私自身は逃げ切れる世代ではあるので、若い人たちが自主的に己の不幸を選択することにあまり口を差し挟むまいとも思うたりする。
口を挟んでも挟まなくても「上から目線」に変わりはないかも知れぬ。年長けて騙される人間を多く見過ぎて来たのだろう。
同年齢・年長者でもそんなトンデモ知識に飛びついてしまうのだと驚かされることもある。自分が騙されていない(あるいは、少々マシな方に騙されることを選択しているかも知れない)と思い込むことができる幸運を感謝しよう。
しかし、安倍氏もカルト教団との付き合いを甘く見ていて、それがため暴力的に殺害されてしまった。高市氏(初めとする自民党の人々)は自分が安全に不安はないのだろうか。権力が自分を守ってくれるという思いがあるのだろうか。何か「この程度は良いだろう」の線が随分大胆だなと思ってしまう。

雑誌が日本のウィスキー特集をしているらしい広告を見る。
ニッカウィスキー創業者をモデルにしたドラマの人気でウィスキーも人気になったと聞く。それがそろそろ翳って来たのだろうか。
ウィスキー人気以前に飲み屋で聞いた話では、ウィスキー不人気で原酒が余り、安いウィスキーにも相応に良質な原酒を入れている・・・と。
言われてみればそうかも(!)と思った私。割合に日本製ウィスキーを喜んで飲んでいた(!)。
ウィスキー人気になり、価格上昇。ウィスキーを買うのを控えたりして。でもまた不人気ならばと思ったり。でも良い原酒が出来るまで時間がかかるのがウィスキーの辛いところ。だから、ウィスキーメーカーはウィスキー人気の時、ジンを売ろうとしていた。「くらふとじん」なんて言って。
私はジンは割合好き(メーカーにもよるけれど)なのだが、ウィスキーのように長期熟成する酒でない以上、ウィスキーほどの値付けは少々信じられない思いがする。よってして以前から好きな(安価な)ジンしか飲まないまま。
蒸留酒としては、ピスコも飲みたいが、日本ではあまり安価でないようだ。そしてまたラム。これも好きなのもあれば、さほどでないのがある。
バルガス=リョサの小説にはピスコを飲む人々が出てくる。上流階級・富裕層が飲んでいるようだ。

Linux 7.0
技術的にはバージョン番号は無意味。とは言え、2.0あたりから使っている身には感慨深い
最初に触ったのは、Linusが毛布を咥えている「Linus本」(1995年,ISBN4-7952-9652-9)。と言うことは、断続的ながら30年お世話になっているのね。Windows3.1、MS−DOS5.0、漢字Talk7、HP-UXあたりとともにこの頃が私の「OS事始め」であるなあ。少しだけFreeBSDやBeOSを試みたこともあるけれど。
Linuxのパッケージとしては、VINE、RedHat、Debian、産総研、Ubuntuと渡り歩き、Ubuntuが一番長いかも。
Debianまではカーネルの再構築をしていた記憶がある。マシンは遅く、メモリは少なく、(あやふやな記憶によれば)カーネルモジュールが静的にロードされていたので、カーネルを小さくする意義は当時大きかったのだ
昔のLinuxのことをネットで調べると藤原博文氏の名が出てくる。そう言えば、若い頃この方の著書・ウェブページには大変お世話になった。私がC言語を(辛うじて)使えるようになったのもこの方のお陰。プログラム書きで「Cを使えるか(メモリ操作を理解しているか)」は一線があると思うが、辛うじてここを超えられて良かった。一方、再帰初めとする関数型にまた一線があり、ここは超えられていない自覚がある。悲しい。

最近、昆虫の分類方法が大きく変わったらしい。
子供の頃、図鑑に書いてあった「節足動物昆虫綱鱗翅目蝶亜目アゲハチョウ科パピリオ属アゲハチョウ」を覚えたのもムダであるか。
と言って、この一行だけを覚えて他は見たこともないので、ほとんど「寿限無」と変わらない。

私が好きな Monty Python のスケッチ「スパルタ病院」。
包帯だらけの怪我人たちにマラソンを強いる恐ろしい病院。医師・看護師はものすごく威張っている。
「こいつを見ろ、全身骨折でも文句ひとつ言わん。それはこいつが『男』だからだ!」と医師がやると、全身包帯で性別もわからぬ人物は首を横に振る。
「いや、『女』だからだ!」と平然と言い直す。
まあ「男らしい」とか「女らしい」なんてこういう適当なセリフにしか過ぎないよね、と言う意味で面白いと思っている。
なお、「スパルタ病院」と命名したのは私なので、それで調べても出てこないと思う。

オリンピック。
いつもそうだが、特段の興味なく始まり特段の興味なく終わる。
スノーボード競技の放送を少し見る。中国・韓国の選手が相当数出場している。
まちがいなく彼らの経済力が上がってきた証左であろう。欧米のオーケストラの弦楽器奏者も同様の傾向が見られる。
そのうち、中韓のオーケストラが実力をつけて来そうにも思うが、個人より集団力の向上には時間を要するし、一方でクラシック音楽全体の退潮もあろうから結果的にはどうなるか。
ハリウッド映画なども明らかに中国市場を意識して作品を作っていると思う(スターウォーズにアジア系を出演させるまではポリコレかも知れないが、そこで中国系を選ぶのは市場での売れ筋を考えてのことだろう)。
日本国はインド市場を目指すとのことだが、折角近隣の大市場があるのは見なかったことにするのか。経済界もそんな舵取りで良いと思っているのだろうか(勝海舟もそう言っているぞ)。
そうそう。オリンピック。ロシアもそうだがイスラエルが普通に参加しているような「平和の祭典」にはむしろ忌避の気持ちが沸き起こる。潔癖に過ぎるのかも知れないが、そもそもスポーツを国威発揚に利用するのは好まないので、まあそうなるだろうというだけのこと。
自分が見るスポーツはサッカーのワールドカップの、欧州や南米戦くらいだろう。それも特定の国を愛好しているわけでもない(アイルランド、メキシコ、ウルグアイなんかは割と好きだが毎回出てくるとも限らず)。
そう言えばと思いウルグアイのレコバについて調べると、父ラウルは「息子や孫に、地に足の着いた生き方をしていることを示すために」タクシー運転手の仕事を続けている、と。ううん。私にはそういう生き方は難しそうだな。日本で組織に属していると組織から求められる忠誠が随分高いように思う。
メキシコは「カニばさみ」のクアウテモク・ブランコ。

昔々、ワールドカップ時に、近所から歓声が聞こえてきたことがあり、また試合後に焼肉の香りが漂って来たこともある。「この国の人々が近所に住んでいたのか」と意外な思いでもあった。もう少し年長けて世慣れていたならば、ビールの差し入れくらいしたものを。
それはそれで楽しくも懐かしい思い出。家人によれば、階下の住人が叫んでいた、とも。こちらは日本戦のシュートが決まった際なので、さほどの意外もなけれども。

そうそう、オリンピックでは「国別メダル数」を数えてはいけないのだそうだ。知らなかった。

八田與一。台湾開発に貢献した水利技術者(植民地時代とて功罪あるとしても)。
同姓同名の警察庁指定重要指名手配被疑者がいる。死者は文句を言わないとしてもなかなかなかなかだ。
被疑者は相変わらず逃走中?自分がホテルなどに宿泊する際、宿帳など安直に書いている。事実を書いているので、安直でよいが、そうした不特定多数が行き来する場所では、「こいつ被疑者じゃないよね」視点で見ているのだろうと思う。

パントマイム TOM THE MIME (Tom Munson氏)
米国のどこかの水族館の海獣ショーのパントマイムの方らしい。
愛嬌あり皮肉も少しありとても素敵。

石榑峠、もう三重県側からは近づけない。石榑トンネル開通したからか。
青崩峠もトンネル貫通。もうすぐ開通するのだろう。一度行ってみたかった。
大和八木ー新宮も相当道が良くなってきていたから行っておいて良かっただろう。

大場栄氏(フォックスと呼ばれた男)は、小説家平野啓一郎氏の大叔父。平野氏も蒲郡市生まれ。知らなかった。

暖かい休みの日に散歩した。どこも人出が多い。
街角から葬式らしき黒衣の人々が表れ出たと思った所、それに混ざるようにして、眩い黄色いワンピースを着たチアガール三人組が歩いて来るので、たいへん驚いた。
たまたま、葬式帰りの人々と、近所の学校(あるいは公園)に行くチアガールが重なったのであろうけれど。
まるで、マーラーやカフカが好みそうな対比ではある。
そう言えば、マーラーはドストエフスキーの聖俗対比を好んだように聞くけれど、長編作品の「俗」はマーラーのような突拍子もない浮かれた感じはなくて、そういうのは初期短編にあるような気がする(「鰐」とか)。マーラーが読んだドストエフスキーはどのあたりなのだろうか?

「Why We Fight」。第二次大戦時米国のプロパガンダ映画の題名。
映画 Band of Brothers のある回の題名でもある。ベートーヴェンの弦楽四重奏第14番を使っていることで見つけたが、プロパガンダ映画にその根があったとは。

中国の春節を祝うロボットの動画を見る。
ロボカップは2050年に人間チームに勝てる(が人間を傷つけない・ルールを守る)サッカーロボットの実装が目標。
1990年代にこの目標を聞いた時、「いくらなんでも野心的すぎないか」と思った。その頃は、フリーキックをしようとして転ぶ程度の機械や、小学生並の団子サッカーになるソフトウェアチームだったりした。
とは言え、わかりやすい競技の形で目標設定することで、研究は進んだように感じる(おそらくは予算も取りやすくなったのではないだろうか)。
春節ロボットを見ると、ロボカップ目標も夢ではないように感じる。

お薦めに現れたダンスの動画。
https://www.youtube.com/watch?v=O1K8UeNVn60
どこの誰とも知れぬが無限に続く音楽・無限に続く踊り。素晴らしい。
完全に定まった定型があるのではなく、いくつかのダンスパターンがあって、それを二人の踊り手が刺激しあって作り上げる踊りらしい。
音楽はサルタレロらしい。ケルトの踊りのようなところもあるし、時々の掛け声が沖縄舞踊に通じるようにも思う。

日本の国際的地位。
ウィーン・フィルハーモニーの新年演奏会で諸国語で新年に祝が述べられる。日本語が最初に述べられたのは、1990年頃でもあったろうか。嬉しかったものだ。
バブルの頃、ゴッホ「ひまわり」を買うのは少々成金臭いと思ったけれど、以降様々な良い絵(高価な絵)が日本にやってきた。
そんなのももう終わりだろうか。経済的没落。貧すれば鈍す。貧乏してても高楊枝でいられたら良かったのだが。

様々なハムレット
https://www.youtube.com/watch?v=iQULEW2JwHE

ジョージ・チャキリス氏
ウェストサイド・ストーリーでの舞踊が印象に残る同氏だが、山田太一脚本「日本の面影」でラフカディオ・ハーンを演じているのね。

岡山の両備グループが「西大寺鐡道記念館」を開館したとのこと。
GoogleMapで見てみたが、「西大寺バスセンター(両備 西大寺バスターミナル)」ということになるらしい。
この土地にある「范曽美術館」は年に3日しか開かない!2026年はこれを書いている本日2/20〜2/22。
これを見て急に岡山に行ったりしない(行けたりはしない)けれど。
GoogleStreetViewで見るバスセンターは、ほぼバス車庫に待合室付き停留所があるだけにも見える。まあそんなものと言えばそんなもの。
子供の頃、母の実家近くに、バス車庫があった。広い空地にバスが並んでいるだけだったように思う。当時はまだ洗車機もなく、人力で洗っていたのだろう。ボンネットバスも数台混じっていたような遠い記憶。京成バスの大和田車庫とでも言うのだろう。車庫はなくなり、転回場だけ残っていたように思うが、それもどうなったのやら。そもそもあのバスはどこに行くバスだったのだろう。相当程度の台数があったけれど、京成大和田駅の側にはさほどの大道はなかったし。八千代台や海浜方面にまで出張っていくバスだったのだろうか。

お世話になっているトルコ料理店が閉店とのこと。
マスター夫妻の高齢化「疲れちゃった」が理由ではあるけれど、この時期に店を畳むのは、おそらくは住みづらさが増してきたのではないか、と憶測している。また、近所の専門学校にあふれていた中国人学生の姿をめっきり見なくなったのも関係あるだろう。
お国に帰って楽しい老後を過ごせるのは、余所ながら嬉しいけれど、寂しくもある。
あれだけの腕のあるトルコ料理店を新たに探さねば。後にはウズベキスタン料理店が入るらしい。それはそれで楽しみである。

左足の裏。何かがひっついているような気がするが特にそんなことはない。数日続く。運動不足の肉離れでもあろうか。

柏市。知人の個展に行ってみる。
ハックルベリーブックス。児童書店は昔から好む所であるので、たいへんよろしい。色々買いたいと思いつつ、結局のところ、「四維街一号に暮らす五人」と「お話迷路」1枚のみ。遠い出先であるならばこんなものであろう。
結構飲食店が多いのは、工場がある(あった)からでもあろうか。人が集まる地方都市ではよくあることだが。昔馴染んだ岡崎市とも少し似ているように思われる。まあ、そんなことを思ってみても仕方がないけれど。「制服屋さん」があったりするのが「昭和の地方都市」っぽいのだろうか。

「なんとなう」。いつからか愛用しているが、ネットで検索すると用例は平家物語だったりするのね。
そんなに平家に傾倒していたつもりもないのであるけれど。
「木曾の最後」における木曾義仲の最後は落魄の気味があるけれど、木曾の乳母兄弟である今井四郎の最後は「日本一の剛の者」というにふさわしいように思われ印象的である。

「今日は木曜日 明日は金曜日」なる唄が口を衝く。
どこで聞き知ったのか、あるいは本当に唄なのかもわからない。だが、同様の唄を「学校の先生が口ずさんでいた」と言う証言もあり、もしかすると本当に存在するのかも知れない。
似たような「今日は空にはアドバルーン」は父がふざけて歌っていた。しかもインチキ英語版「Today in the Sky Adbaroon」をも。こちらは「あゝそれなのに」ということがわかっている。
他には「驚き桃の木山椒の木あらまちょいちょい茹で小豆南京お豆の綱渡り」なんてのも。昔子供相手する人が教えてくれたものには古いコミックソングのようなのがあったりして来歴が不明である。「MMK=モテてモテて困る」は海軍用語らしいし、「ちぎっては投げちぎっては投げ」は講談・落語由来らしいし。「米よ安くなれ、鼻よ高くなれ」は不明。「ミンガラドン飛行場」は我が一族固有の用語らしい。

今月の誤字脱字
誤「年収300円を得るためにどれくらい売れば?」
正「年収300万円を得るためにどれくらい売れば?」
年収300円なんて昭和初期のサラリーマン?貫一お宮のダイヤモンドは100円だったっけ?
と他人を論っている割に己も間違っていた。こっそり修正。

自分は音楽等趣味の世界で「公的な立場」がまったくない。
恐ろしいほど自由にものを感じ、行動することができる。もちろん、自分自身の感性・知識・技術の限界はすぐ近くにあるので、真に自由であるはずもないが。ふと、古い音楽学校の創設に関わった財界人の話を読むにつけ、「この人は勝手な好みをおおっぴらに主張することはしなかっただろうな」と思った。
まあ、「もしも10億円あったなら」と考えた時、「若い四重奏団を支援する」と思いついた。その時は「己の阿呆な知識・欲望で彼らを制限してはならないよね」とも思った。そもそも10億円があるわけないので、この思考は時間つぶし以上のものではないのだけれど。

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