良い楽器に触らせてもらう日
昔、楽器屋で高価なチェロ・高価な弓に触らせてもらったことがある。
当時学生だった私は、50万円くらいの量産品のチェロを使っていた。良く鳴る良い楽器だったから、各大学で同じメーカーの楽器を1台ずつは使っていたと記憶する。
それ以外の学生も概ね同程度の楽器を使っていたと思う。おそらくは30〜80万円程度。
そして、わづかに楽器に理解のある親族があるなど特別な事情があると、100〜200万円あるいはそれ以上の楽器を使っていたのではないだろうか。
そして、大学に長くいた私は、下級生の楽器選びを手伝うことが多かった。
実は当時楽器選びをする際、特定の楽器屋とのみ付き合わないようにしていた。
まあ、その地域のアマチュア奏者の多くは、学生か学生OBだったから、学生に変な楽器を売りつければ、その楽器屋は商売が立ち行かなくなるだろう、とも思ったが、そうであっても、「この楽器屋で買わねばならない」という状況を作らないようにしていた。
もちろん、無限に多くの選択肢があったわけではないけれど、数軒は付き合うようにしていた。
で、どの店も学生に親切だったけれど、ある楽器屋は、経営者が大学オーケストラのチェロ出身だったらしく、割合にチェロ学生を構ってくれることがあった。
ある時は、背板が斜めに継いである楽器を見せて、「こういう楽器を買うのは慎重にした方が良い」などと言い、またある時は、「ドイツ、イギリス、日本の楽器は、同じメーカーで同価格なら同じ性能の楽器と考えて良いが、フランスやイタリアは個体差が激しい」といったことを教えて下さった。
さて、とある平日の昼間たまたまその楽器屋に行った際、待ち時間を過ごしていると、その経営者が「良い楽器と良い弓があるから弾いてみるか」と言って、古い楽器を出して下さった。楽器屋の値付けがどれくらい正当か?という話はあるにしても、きちんとした健康かつ古い楽器で、音もしっかり出るのだから、一定以上高価なのは当然、という楽器だったと記憶する。
私の弓でこの良い楽器を弾くと、非常に良い音がする。己はこんなにも上手かったのか、と思う。
また、言われて見て、良い弓で私の楽器を弾くと、これまた非常に良い音がする。良い弓は短く使えば短くなり、長く使えば長くなるようで、まるで孫悟空が使う「如意棒」のようだった。
こうして感心していると、「良い弓で良い楽器を弾いてご覧」とおっしゃる。
で、折角の良い弓と良い楽器であるのに、これが意外といい音がしない。
不思議に思っていると、「それがあなたの持っている音だ」と。
「良い弓も良い楽器も、『あなたがやっている事』を反映する。だから、良い弓・良い楽器を使うと、『良い弾き方』をせざるを得ない。だから、良い弓・良い楽器を使うと上達するのだ」と。
この言葉にはすこぶる感心し今なお記憶している。
その後も機会があれば楽器屋で様々な楽器に触らせてもらうようにしているが、自分としては数十万円から三百万円くらいまでの楽器は、評価できるような気がしてきた。これらの楽器はおおむね、価格と性能が比例するように感じることが出来る(好みはまた別だが)。
だが、ここから上の楽器は皆同じように感じる。雲の中に入ってしまったようでもあり、価格に対する感度が対数的に下がっているようにも感じる。
まあ、魯山人先生が「わさびの味がわかっては身代は持てぬ」ので、身代は持っていないけれど、わさびの味がわからない方が幸せであると思っておこう。
そうそう、「良い弓・良い楽器」はとても買える値段ではなかろうと思ったけれど、一応値段を訪ねてみた。
「値段はつけられない。若くていい人がいたら貸したい」とのことであった。
すなわち、眼の前に居る私は「若くていい人」には該当しないということであった(残念)。
私に良い弓・良い楽器を触らせて下さったのは、長期的には「営業」に他ならないのだろうけれど、そこで何か要らないものやダメなものを売りつけられたわけではなく、私としてはあれを若くものを知らない人間に対する親切の一つだったと解釈している。そしてまた、あれから何十年も経って楽器を買うかもという際、この楽器屋にも行って楽器を複数触らせてもらっており、ご縁がなかったのは残念だと思っている。
注:ここでの楽器の価格は二十世紀のものも二十一世紀のものも、また、地域についても特段区別せず適当に書いているので、あまり参考にならないでしょう。お気をつけください。