ある演奏会のための3つの雑文
先日の演奏会のパンフレットに空きページが出来たので、雑文を書くことにした。
思えば中学生だった頃、生徒会新聞の埋め草担当だった。「30分以内に120字。内容不問」といった命令を受けて実装していたことを思い出した。
当時と変わらぬ無内容でっち上げ作文。再度使うかもだが、備忘のためにもここに置こう。
(勝手な駄弁)
クラシック音楽は素晴らしい。でも、クラシック音楽だけが素晴らしいわけでもない。他にもたくさん素晴らしい音楽はたくさんある。
コロナ禍の外出自粛だった時、インターネット上にある様々な音楽を聴いてみた。せっかくだから、できるだけクラシックでないのを。
で、自分が好む音楽が少しわかってきた。
1. 自然音が好き。電子音はあまり好きでない。
2. 『立体的』な音楽が好き。
旋律+伴奏の音楽でもいい音楽はたくさんあるが、
何度も聴いたり何度も弾いたりする気にはなれない。
『立体的』であるからこそ、「もう一回聴いてみて、違う面を見つけよう」と思う。
これら「私にとって面白い音楽」を少しばかり紹介しよう。
いずれも、米国のラジオ番組制作会社(であるらしい)NPRの「Tiny Desk Concert」。著作権上も問題ないので、安心して聴いてほしい。
まずは、ラヒム・アルハジ氏のウード。これはリュートや琵琶の仲間だが、「音程が楽しい」。そしてまた、2曲目から打楽器氏が登場するが、この打楽器がまた「歌う打楽器」で素晴らしい。
• Rahim AlHaj: https://www.youtube.com/watch?v=osf1gckzf70
次はコロンビアの楽団。調べるとラテンとヨーロッパ風味がどうこうと書かれているが、それは知らず、いろいろな楽器が錯綜しかかるのがなかなか良い。打楽器もうるさすぎない。
• Monsieur Perine: https://www.youtube.com/watch?v=JGL-eQAAxGs
これもまた四重奏。調子っぱずれのヴァイオリンやラッパがとっても素敵。
• Mariachi Flor De Toloache: https://www.youtube.com/watch?v=-rl26QKPHtE&t=78s
今日演奏する二曲も、何が一番おもしろいかと言えば、『音楽が立体的』で四人の存在が常に輝き続けるところだ。ベートーヴェンもハイドンも、「お前、伴奏だからまあノンビリ弾いておってええぞ」という曲ではない。
こんな曲を弾かせて頂くのは奏者冥利に尽きるというものだ。小学生だった私は、モーツァルトやハイドンを通じて室内楽の一端を覗き、いつかこうした「立体的な音楽」に参加したいと思った。以来、幾星霜。今回「名前のある四人」の一翼を担う機会を頂いた。勿体なくも忝なくも、石に齧りついてでもこの機会は逃すべからず。そしてまた、あわよくばこの機会を二度にし、三度にしたいものである。
本日のお客様諸氏諸姉におかれましても、旗揚げに付き合った因果と諦めて、今後ともご支援・ご鞭撻をば御よろしくお願い申し上げ候。(あなかしこ)
(埋め草)
以前、中央線沿線を徘徊した折、阿佐ヶ谷駅の近くで素晴らしい彫刻作品を見つけた。
黄金の林檎を背中に隠し持った少年と、少年に声をかけられて振り返ったであろう少女のお二人。嬉しそうに少女を見つめてすらりと立つ少年、少年に声をかけられて、驚き喜びつつ振り返り、まだスカートが遠心力に翻っている少女。
誰の心にもある(いい年齢である私の心にもわづかに残る)青春の憧れと輝きを思い起こさせるような素晴らしい作品。津田裕子氏の『お誕生日おめでとう』だそうだ。
今どきの徘徊者はこうした景物を見るにつけスマートフォンで撮影して備忘とする。私もまた例の如く撮影を試みるものの、どのような画角を試してもこのお二人をうまく画面に収めることができなかった。お二人が私のことを気にされないのを良いことに、お二人の身近で立ったり座ったり、周りをぐるぐる廻ったり、遠ざかったり近づいたり。でも、どうやったところで満足のいく画面は得られなかった。
これをよくよく考えるに、そもそも二次元平面に収まるような作品ならば、苦労して「彫刻」など作る必要はないのであろう。空間上の様々な位置から熱意を以て見た者の脳内にだけ立ち上がる立体作品。その立体作品を作り上げるための媒介物としての「彫刻」。
そんなことを考えてみた。
私達は今日の演奏会に向けてベートーヴェンの弦楽四重奏曲を一年以上も練習してきた。もしこれが単純な旋律と伴奏だけの音楽であったならば、そんなにも長い間弾き続けることはできなかっただろう。おそらくは『お誕生日おめでとう』以上にこれは立体作品である。しかも、彫刻は時間的に動かぬ三次元作品だが、弦楽四重奏曲は時間の流れの中で動き続ける四次元作品である。我々四人は各々の脳内に完全に一致する四次元作品のモデルを作り上げ、それを時間軸に沿って躍動させなければならない。
という理念はさておき、幅広い音程・甘いリズム・揺れ動く豊かな解釈、奮闘努力の甲斐もなく阿鼻叫喚と右往左往の素人弦楽四重奏の世界へ、皆様はよくぞお出で下さいました。思い通りにならぬは世の常。まして我ら相当程度に真面目なる勤め人であるならば、平日は会社に行って勤労に励んでおるのであります(勤労の程度は人それぞれな気がしますが、それもまた世の常でござる)。
さて、このような事情はありつつも「常設の弦楽四重奏団」の一翼を担うことは、私の子供の頃からの漠とした希望であって、私としては折角の演奏会を唯この一回で終わらせることは到底容認できないのであります。本日起こし下さったお客様諸氏諸姉におかれましても、本日の後悔や反省はあるにせよこれまた何かの因果と諦めて、今後とも演奏会にお出で頂きたく御よろしくお願い申し上げ候(あなかしこ)。
(おまけの駄弁)
最近、どんな曲でもインターネット上に転がっている。だから、ある曲を弾くというと、我が家のCD棚を探すより先に、ネットで検索する。 すると、様々な演奏に行き当たり、中には演奏とともに譜面が進んでゆく動画がある。若い頃、中古レコード屋さんでLPレコードを漁り、楽譜屋で譜面を少しずつ買い揃えていた自分にとっては、まことに隔世の感しかない。
さて、このようにして行き遭う動画の中には、単に演奏風景が流れるものだけでなく、映画の一場面があったりする。
ベートーヴェンの弦楽四重奏第14番について調べると、テレビシリーズ「Band of Brothers」の一場面が出てくる。
黒い画面に浮かぶ白字「1945年4月11日 ドイツ ターレ」が消えると、ヴァイオリンが大写しになっている。このヴァイオリンを初老の男性奏者が構えると、演奏が始まる。曲とも音楽とも言えないような長くたなびくため息のような音。
徐々に周囲が写りこむと、そこは、見渡す限りの廃墟の中である。
廃墟を片付ける人々は着のみ着のままで疲れ切って無表情だ。そして「MP」の腕章を付けた軍警察が素っ気なく行き交う。
こうした異常な風景の中で、静かに演奏する弦楽器の四人。椅子に座っている者もいれば、崩れた煉瓦に腰掛けている者もいる。
少し離れた廃墟の二階から米兵たちが煙草を吸いつつ、演奏を眺めながら投げやりに話す。
「ドイツ人は真面目に働く」
「モーツァルトの効き目だろ」
そこで後ろからやって来た米兵が口を挟む。
「ベートーヴェン」「モーツァルトではない。ベートーヴェンだ」
「Band of Brothers」はノルマンディーからドイツに至る戦闘を続ける米兵の物語であり、この動画は全10話のうちの第9話「なぜ戦うのか Why We Fight」の一場面であるという。
登場人物には明確なモデルがいることから、おそらく、廃墟でベートーヴェンを演奏したのも現実なのだろう。だが、なぜ彼らはここでベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番を演奏したのか。そしてまた、なぜ怒涛と慟哭の終楽章に入る直前で演奏を止めてしまったのか。
それに対し、おそらく単純な答えはなく、あるべきでもないと思う。そしてまた、我々が生きるのは様々な演奏に気軽に接することが可能な時代ではあるけれど、ベートーヴェンの後期作品を演奏するにあたって、個々の技術的な難しさを超えた精神性の前に、粛然たらざるを得ないと私は感じる。